帝王院高等学校
終焉を招く招待状
「そのゲートを潜れば、宙の果てだ」

決して振り向かない背中へ、笑いながら呟いた。
何の面白みもない見慣れた景色が、初めて見る色鮮やかなテーマパークの様に思える。

「…驚いたか?似ているだろう、あれは俺が作り替えたんだ」
「…」
「まだお前は俺が見えないか」
「…」
「それとも、見たくもないだけか」

親愛なる神へ。
光の届かない奈落より愛を込めて。

「だが、時間は幾らでもある」

洪水の様に星が流れた空は、晴れ渡っているのだろうか。
(例えば神が世界を洗ったいつかの様に)













Red script for the final chapter.











幸せでしたか。
幸せでしたか。

「…何でそこにいるの、君」
「にゃあん」
「ああ、まだ仔猫だから格子からすり抜けたんだねぇ」

いつかの私の様に、今までの貴方は。
くるくる、くるくる、幸福と不幸を綱渡り。

「ほら、壁をカリカリしても外には出してあげられないよ。おいで」
「にゃーん」
「…あれ、痛くない?何だ。お前、失敗作だ」
「みゃうん」
「触っても危険信号が出ないもん。…だったら、外に出しても良いかなぁ」

暗い暗い何処かから、また、暗い暗い何処かへやって来た。
いつも真っ白な白衣を着ている男は、此処の所、何の音沙汰もない。

「ん。オリオンに見つかる前に、外へお行きよ」
「にゃー」
「だけど絶対戻ってきちゃ駄目だよ。君以外の子はもう失敗出来ないから、きっと出してあげられない」
「にゃーん。ゴロゴロゴロ」

当てつけの様に、真っ白な猫を育ててみた。
星条旗を掲げる夜の国では黒が尊ばれたけれど、黒い獣は既に悍ましい鼠が存在している。触れる有機物を溶かしてしまう鼠は、裏切り者の処理にも使われた。

「猫は鼠を獲るのが上手なんだって」

重苦しいドアを開ける権限はない。
けれど、定期的に運ばれてくる物資を外から中へ届ける為の小さな穴の蓋は、開ける事が出来る。

「僕は肩と心臓を撃たれて一度失血死したけど、おじいちゃんが助けてくれたんだ。でもおじいちゃんはね、助けてくれただけ」
「ゴロゴロ」
「ほんの気紛れなんだ。だってね、月は満ち欠けするものなんだよ」

本当は、ドアに鍵なんて掛かってないのだ。
本当は、目覚めたその日に何処へなりと出て行けと。慈悲深い無慈悲な神の医者は、その不器用な優しさと傲慢さを共に提示していた。

「だから今度は僕が、君を助けてあげる」

出ていかなかったのも、悲劇に酔っているのも自分。
(愛している大切な弟を)(恨みたくなかった、から)

「君も僕みたいに、優しい人に拾って貰えると良いねぇ」

幸せでしたか。
幸せでしたか。
(僕は僕よりずっと寂しい人を知っている)
(僕はこの場所よりずっと黒いものを知っている)
(愛は憎悪に塗り変わるのだ)
(簡単に壊れてしまうのだ)
(ほんの少し血が回らなくなっただけで腐ってしまった、右腕の様に)

「ナイトは優しいけど、駄目だよ。猫はね、目が光るから」
「にゃーん」
「本当の闇の中でしか、それは見えないんだ」

大好きな優しい『お兄ちゃん』は、とても悲しんだそうだ。
大好きだったお兄ちゃんは、大好きな優しいお兄ちゃん達に『出て行け』と命じられて、とうとう墓場さえ奪われた。その場に自分が居たならきっと、そんな事になりはしなかったのに。

「…さぁ、お別れだよ無能な猫ちゃん」

何も出来なかった。
助けたつもりで助けられて、助けたつもりで何一つ助けてはいない。それが自分の人生の全て。死んでいたなら知らずに済んだけれど、見てみろ。無様に生きている。
今の私には、心臓に最も近い左腕だけが



「誰かが名前をつけてくれたら、決して手放したらいけないよ」


幸せでしたか。
今、幸せですか。



『Good morning、僕の可愛い天使ちゃん』

お父さん。

『おはよう、明の宮。アンタはほんまに、朝が弱い子やねぇ』

お母さん。

『健康な子に育ちますように』
『殿子の様な女子に育てれば、雲隠の姉様の様に強い子になってくれはりますえ』

もう二度と会えない、大好きな人達。

『駄目だよ姫様、勉強するって言ったでしょう?』
『やだ。遊んでくれなきゃ、僕、お兄ちゃんの事嫌いになるんだからね』
『酷い我儘だ。受験が終わったら遊んであげるって、約束したでしょう』
『文ちゃんが言ってたよ、受験ってずっと先なんだよね?だったら勉強は後でやれば良いじゃない』
『僕は月の宮と違って公立校に通っているから、努力しないと結果が…』
『僕やだ、もう待てない!』
『困ったなぁ。…ほら、月の宮は姫様と遊びたいみたいだよ?』
『文ちゃんはつまんないから、やーだ!』
『そんな意地悪を言わないの。君に会いたくて、こうして帰って来てくれてるんだよ』

幸せでしたか。
せめてあの日、あの瞬間は。

『受験終わったら東京に行っちゃうんでしょ。嘘つき。勉強終わったら、僕と遊んでくれなくなるんでしょ』

さようなら。
二度と戻れない、時の墓場に埋もれた記憶。


































人間は簡単に壊れるものだと、本当の意味で知ったのは遥か昔の事だ。

「ぼ、僕が助けてやってたんだ…!何度も何度も…っ」
「…」
「アイツは僕のお陰で進級したんだろ?!それなのにどうして僕が降格しなきゃならないんだよ、可笑しいじゃないかっ。これは不当評価だ!採点ミスだ!僕は悪くない、大人が間違いを隠すからいけないんだ…!」

ゆらゆらと。
ゆらゆらと。
アスファルトから上る陽炎の様に、この世の全てが須く不確かなものだと。初めから本当の意味で理解している人間は、果たして何人存在するのだろうか。

「この僕が!ずっと級長を任されてきた僕が、落ちる訳ないっ!この僕がAクラスで、アイツが落とされないなんて不当だ!理事会は賄賂を貰って、アイツを贔屓したんだろ?!」
「…」
「ほら、言葉がないみたいだな!僕は間違ってない!間違ってるのはお前らの方だろ?!離せよ!清廉潔白な風紀が聞いて呆れ、」
「ったく、良く喋る口ですねぇ」

他人の9割は逆らわない。残りの少数も初めこそ反抗的な態度を見せるが、撫でる様に痛めつけると間もなく逆らわなくなった。今までの話だ。

「余程自分に自信があるのか、単に自己顕示欲に富んでいるナルシストなのか知りませんが、君はご自分の成績をご存知でしょう?」

喚いて、怯えて、媚びへつらい、それでも許されないと知ると再び喚き始めた男は後ろ手に手首を縛られたまま、まるで虫けらの如く床に這っている。理由は単に、その煩い口を塞ぐ為に顔を踏みつけたからだ。

「私から言わせて頂くなら、君の方が余程底辺ですよ。初等部時代は学年順位の発表がないので知らないでしょうが、君の成績はそれほど優れたものではありません。クラス単位で見れば十位以内には入ってますがねぇ、まぁ、去年は奇跡的に選定されただけですよ」
「っ、そんな筈…!」
「初等部卒業前に受験した、最後の考査の結果は18位。君が逆恨みした前ルームメイトの彼は、21位。前期の席次はこれで確定されましたが、後期の君は20位でした」

焦ったでしょう?と、耐え切れず嘲笑を聞かせてやれば、悔しげに唇を噛み締めたネイビーブルーが足元で声もなく泣き出す。

「格下だと思っている様ですが、実際、君と彼の間に差はほぼないに等しい。教室内では内心焦りながらも、寮に戻れば君の目に映るのは、自分より後ろの席のルームメイトだけ」

日中の焦燥感は、夜の優越感で麻痺したのか。
総合得点ではほんの2点しか変わらないルームメイトを見下し、だから何の努力もせずに、Sクラスの優越感による過剰な自信が自尊心を満たすのをやめられずに。下らない虚栄心は、2年へ進級する際の選定考査で崩壊してしまった。

「馬鹿にしていたルームメイトが進級したからと言って、逆恨みとはねぇ。単に君が、それ以上に馬鹿だっただけでしょう?」
「ち、違…っ」
「ああ、もう、耳障りですねぇ、本当に。そろそろ素直に謝れませんか?一度は進学科へ選定された身でありながら、Fクラスのダニに金と体を明け渡すとは…郷里のご両親が聞いたら、どう思われますかねぇ」
「ひっ」
「なーんて」

踏みつけていた足を持ち上げる。
簡単に汚さない様に、敢えて身に纏うものを黒から白へ変えてから、3年が経とうとしている。以前は誰かに言われるまで髪が伸びていても気にしなかったけれど、今はスケジュールに組み込んだ。

「まぁ、君に帰る所なんてないんですがねぇ」
「…ぇ?」
「ふふ。消しちゃったんですよ、君のお父上の会社も、お母上が管理してらした土地の価値も、豊かな生活を送る上での悉く、一つ残らず…ね?」

美しくあれ。
美しくあれ。
けれど女々しいのは駄目だ。いつかの二の舞にならない様に、己の性を誇示しなければならない。例えどんなに中世的に思えても、男性である事を知らしめるのだ。

「何でそんな真似が出来るのか、知りたくて堪らない様な顔をしてますねぇ。出来るんですよ私には。言ったでしょう、私には君の方が底辺に見えると。最早虫けら以下ですよ。何せこの私こそ、大地の下、マントルの上を這うミミズなので」
「ミ、ミズ…?」
「そうです。…だからお前は俺以下、つーか俺より劣る全人類がミジンコだ。例えば俺が土から這い出た羽化前の蝉だとしたら、俺より上に存在する事が許される人間はこの世に一人しか居ねぇ」

無抵抗な人間を殺すのはとても簡単だ。
どんなに抵抗しても、人は簡単に死んでいく。例えば写真でしか見た事がない姉も、母も、父も、無抵抗で死んだ訳ではない筈だ。それなのにもう、世界の何処にも存在していないらしい。だから『天』に見放された龍神は墓守のまま、『月』以外が欠けた屋敷の中央に座しているのだろう。


「空」

血が覚えているのかも知れない。
だってそう、灰皇院は例外なく空に憧れるのだと、殆ど会話した覚えのない兄から、錆びつくほど昔に一度だけ聞いたのだ。

「この学園から見上げる空は、いつも澄み渡ってる」

天神を守護する狗は『空蝉』を名乗り、『明』『陽』『月』『宵』の屋敷を与えられる以外は、名前も持たない。

「明神、雲隠、冬月、榛原、空に憧れる蝉は飛べなくなると落ちていくしかない」
「…はぁ?」
「Sクラスが選ばれた生徒の称号なら、四天は蝉になれなかった出来損ないの憧れだっただろうな。それでも俺はお前とは違う、逆恨みなんかしない。不愉快だよ、惨めな餓鬼の言い訳は」
「あ…貴方は中央委員会役員だからそんな事が言えるんだ…!僕はっ」
「ノアの犬が空に憧れるなんざ、アメリカじゃ笑い話だ」

誰かを羨望したりしない。
簡単に壊れる世界の規律に喚いたりもしない。だから抗いもしない。自ら手を伸ばしたりもしない。海の向こうから空を渡ってきたノアの皇帝が、天神を名乗ってもそう、哀れとは思っても羨んだりしない。

「でも、ギャラクシーを支配するノアの癖にこんな狭い島国で天に縛りつけられた可哀想な男に比べれば、俺はきっとマシだ。2歳まで閉じ込められてた餓鬼と、2歳から閉じ込められてた餓鬼に大した違いがないとしても、飼われるより野良の方がずっと良い」

ああ、可哀想に。
目の前の虫けらは、自分に良く似ている。決して手を伸ばしてはいけない、この広い宇宙を支配する核の塊に触れてしまったから、何一つ残らず燃え尽きるしかないのだ。

「可哀想に。俺が戻ってなきゃ、お前はもう少し後悔を知らなかった」

でももう遅い。
オフホワイトのブレザーを脱いでしまえば、3年前までの自分に戻る。肌と左眼以外の悉くが真っ黒な、ノアの忠実な飼い猫だった惨めな虫けらに戻る事が許される。

「殺しはしない。少なくとも日本じゃ、俺は英雄だ。他の誰も知らなくても、産まれた時から人殺しだった俺はあの時、助けたんだ」
「っ、あ!」
「せめてみっともない悲鳴は出してくれるなよ。信じられねぇぐらい痛めつけるかも知れねぇが、殺さない事だけは約束しますからねぇ」

真っ暗だ。
蝉が泣き止んだあの嵐の日から一時も絶えず、



「さぁ。君がやった事以上に恐ろしいショーを始めましょうか、林原君」

今も尚。














さようなら、いつか絶望の底だと信じていた僕達。

幸せでしたか。
幸せでしたね。
あの頃は息苦しい毎日で、生き苦しいと信じていましたね。



でも今はどうでしょう。(かごめ)(かごめ)
何からも縛られず、一人で生きていく力を手に入れてもそう、まだ何かに囚われている様で。(籠の中の鳥は)(いついつ出やる)



(夜明けを知らないノアの犬は)
(夜を知らない陽の蝉は)





(鶴と亀の様に出会ったりは、しないのかと)






「………」

その恵まれた容姿を引き締め、吊り上がった奥二重の双眸を細めた男は暫く沈黙すると、初対面の人間を前に毛を逆立てて警戒しつつ逃げる隙を窺っている野良猫の様な体勢で、じりじりと後退った。

「Do you remember me?(私を忘れてしまったのか?)」

その一部始終を無言で眺めていた高坂日向は、整った形の良い眉を片方だけ跳ねたが、幼子が父親の影に隠れる様な仕草で、何故か日向の背後に隠れようとしている男を見守っている。
傍から見れば喜劇の様な状況だが、嵯峨崎佑壱の表情は真剣と書いてマジだった。何をしている、などと口にするのは何故だか憚られる。

「嵯峨崎、知り合いか?」
「…」
「おい、何か喋れ」

然し、彼を兄の様にも母の様にも慕いまくる金髪と青髪は、面白くない様だ。誰が見ても日向は悪くない筈なのに、どうしてだか神崎隼人と錦織要の殺意を帯びた睨みが日向に突き刺さっている。痛くも痒くもないが、気分の良いものではない。

「I heard from Midnight sun that you missing before I knew it. Why are you here?!(私はミッドナイトサンから君は行方不明だと聞いていたが、何でこんな所に居るんだ?!)」

普段、日向に接触してくる英語圏の人間と言えば大半がイギリス人で、時々ヨーロッパ出身者も混ざっているが、彼らが使う英語は世界基準に等しい本来の英語だった。

「…あ?ミッドナイトサンだと?」

わざとらしく喧嘩を売ってくる佑壱が、時折使う小汚いアメリカスラングはともかく、耳馴染みのないニューヨーク訛りに無意識で眉を寄せた日向は、そのつもりはなくとも軽く睨んでいた様だ。佑壱が返事を返さない事に業を煮やしたのか、一歩踏み出した男は、日向と目が合うなりさっと顔を伏せた。

「二葉の通り名じゃねぇか。嵯峨崎、黙ってねぇで出てこい」

罪悪感がない訳ではないが、想定外の部外者の登場で日向も混乱しているのだ。どう見ても30代半ばか、多く見積っても日向の父親よりは若いだろう男は、全く面識がない。日向に敵意はないが、不信感はある。どう見てもステルシリー関係ではない異国人が、日向とは目も合わせないのに佑壱を気にしてチラチラ見ている理由、今はそれが知りたいだけだ。無様な嫉妬を自覚する前に、すぐにでも。

「高坂」
「何だよ」
「…誰だアイツ」
「は?」
「壮絶に金髪じゃねぇか。何かこっち見てんぞ、お前の知り合いだろ」

やっと口を開いたかと思えば、赤毛の台詞は想像を遥かに超えていた。何をほざいているんだと真顔で思った日向は然し、ぷるぷる震えている図体のデカい後輩がこっそり日向のブレザーを掴んでいる事に気づいて、それ以上のツッコミは控える。可愛いなどとは絶対に言わない。いや、そう思っていないと言っている訳ではないが。

「What did you say? I don't understand Japanese, could you speak English?(今何て言ったんだ?日本語は判らないんだ、英語で話してくれないか)」

どう見ても驚いた表情で佑壱を見つめている外国人は、見た目で明らかな年の差に構わず、自棄に腰の低い物言いで佑壱へ語り掛けている。
先程、彼はケルベロスと言う単語を、本来の発音で叫んだ筈だ。この場でその意味を知る人間が何人存在するのかは甚だ疑問だが、少なくとも叶二葉の弟子同然である小生意気な後輩は理解していない筈がない。

「嵯峨崎、変な目で見られてるぞ。出てこい」
「俺じゃねぇ。俺はあんなオッサン知らねぇ」
「向こうは知ってんじゃねぇか」
「でも俺は知らん!」

怯えているのか威嚇しているのか判らない佑壱の不可解な行動を、哀れ隼人と要は悟りを開き世俗から解脱した表情で見つめている。
ぷるぷるしているカルマ副総長とぷるぷるしている外国人が見つめ合う中、異様な雰囲気に背を正した神崎岳士は、苛立たしげに足を組み替えた隣の恋人へ目を向けた。

「ちょっと、そこの子。嵯峨崎佑壱君?」
「…は?あ、俺?」
「私が人の名前忘れる訳ないでしょ、錦織君じゃないんだから」

皮肉混じりで微笑む女の目は佑壱に向かったまま、当の要ではなく隼人が垂れ下がり気味の目を吊り上げる。黙れババア、などと言う女性蔑視な発言は、佑壱の前では控えるべきだろう、カルマの教えに背くからだ。

「ギャラクシーエンドの右元帥が、高校生の真似事してるなんてねえ。噂話じゃ、今の左右両元帥は、日本じゃ小学校入学前の年齢でハーバード卒業したって」

要は驚かなかったが、傍らの隼人は限界まで目を見開いた。
しゅばっと佑壱を見やるが、日向の背後に張りついて腰を屈めている佑壱は、元帝君の隼人の目で見ても、大分残念な気配が漂う。2年帝君だと言われても信じられない程には、情けない光景だ。

「それがどうした。テメーが隼人の母親だろう?今更隼人を返せっつったってなぁ、そんじょそこらのエビフライやお稲荷さんで釣れると思うなや。諦めろ、アイツの胃袋は俺が支配した!」
「待って、何なのアンタ。何言ってるか判んないんだけど、まさかその図体で隼人の母親振るつもりじゃないでしょうね?」
「ちょ、ちょっと待ったっ、当の隼人君を置き去りにして親権争いすんのやめてくんない?!」
「は、何か抜かしたかクソ女。ぽっと出の脇役がしゃしゃってんじゃねぇ、シリウスの娘だか女優だか知らねぇがな、俺の母親だって女優だ。マリア=クリスティー、聞いた事ぐらいあんだろハゲ」
「やだもお、ババアもユウさんも無視しないでよねえ!」

何とした事だ。
異性に対する紳士さが欠如しているカルマの母犬は、シンクの三角コーナーに生えたカビを見る様な冷め切った眼差しで、隼人の母親を見下している。傍らで置物と化している彼女の恋人は、優しげな容姿と言う名の平凡顔に冷汗を掻いているが、彼の人生では関わった事もないだろう極悪不良を前に言葉がない様だ。

「あ、あのハリウッドアクトレスのマリアが、キング=ノヴァの妹…?!」
「はん。その程度も知らねぇ情弱が、ぬけぬけと出しゃばんな」
「アンタこそ、他人の分際で出しゃばるんじゃないっての!今こそ神崎なんて名乗ってるけどっ、この子は冬月の跡取りなのよ!」
「はっ、冬月だか春月だか知った事か。失せろ雑魚女、隼人はこの俺が立派な料理人にさせる」
「はあ?!料理人?!ちょ、いつからそんな進路が定められてんのお?!」

最早ツッコミ芸人と化した隼人は一通り叫ぶものの、産みの母親も自称育ての母親もチラリとも振り向かないので、ソファの上をジタバタと転がった。体中を掻き毟りたい気分だが、縦長い隼人が暴れると隣に座っている要の迷惑になるので、暴れる動きはエコモードだ。

「何なの?!何なの?!カナメちゃんはマネージャー気取りだし、知らない外人はユウさんをナンパしてるし、隼人君よりモテる癖にユウさんのハニートラップなんかに引っ掛かりつつあるオージはホストみたいな真似するし!」
「誰がホストだ。大体、俺様がいつ嵯峨崎に引っ掛かった」
「はあ?ユウさんのお色気作戦に引っ掛かって掘られたんでしょ?」
「あ?」
「だから顔を合わせる度に喧嘩してた癖に、今日は何かベタベタしてんじゃん!やだやだ、毎日二人以上の親衛隊と決まった時間にズコバコやってるヤリチンが、ママの下でアンアン言わされてるなんて本当にやだ、やだあああ!!!!!」

半泣きで叫んだ隼人は然し、何処か笑いを我慢している様に思える。
甲高い声で捲し立てられ反応が遅れた日向は硬直し、ぱちぱちと瞬いた佑壱から頬を平手打ちされて我に返った様だ。軽い張り手が凄まじい音を立てた為、気の強い女優も突っ立ったままだった外国人も、様子を窺っていた斎藤千明も目を見開いたまま動きを止めた。

「お前、隼人に遊ばれてんぞ高坂」
「あ、ああ、迂闊だった。どうなってる、何がどうなったら神崎みてぇにパラレル大回転な勘違いを巻き起こす」
「いや、山田が叶を押し倒すよか、俺がお前を押し倒す方が楽勝だろ?」
「舐めてんのかゴルァ!」
「おう、舐めてやっから舌出せ、舌」

佑壱の胸ぐらを掴んだ日向は、然しベロっと舌を出した佑壱から光の速さで離れると、ポカンとしている外国人の背後に回り込む。日向より幾らか背が低い男は、なすがままに日向を背後に庇った。

「ナ、何デスか?ユー、ケルベロスのフレンド?」
「No, I am not his friend. Freeze don't move, don't say a rubbish to me.(んな訳あるか。動くな、下らねぇ事を二度とほざくな)」
「Oh my god, I see.(オーマイガー、判りました)」

低い声で一気に呟いた日向に怯えた金髪は、背後に恐ろしい金髪を隠したままペロンペロンしている佑壱を眺める。餌を前に待てを命じられた犬の様だと無言で考えたものの、あの恐ろしいケルベロスにそんな事を宣えば、無事では済まない。

「出てこい高坂、優しくしてやっから」
「ユウさん」
「あん?何だ要、変な目で見んな」
「小学生じみた嫌がらせは、俺が居ない時にお願いします。言っときますが俺は、そんなヤクザ崩れの英国貴族に、ユウさんをやるつもりはありません」

キリッと宣った錦織要に全ての視線が集まり、ポカンとした表情の榊雅孝が無意識で手を叩くと、ボスワンコは何とも言えない表情で舌を仕舞った。

「今は、ユウさんと光王子の犬も食わない幼稚な喧嘩を眺めている場合ではないんです。ハヤトが過去を清算し未来を向く為の、言わば試練の最中なんですよ」
「は?あ、そ、そうか、そうだな、すまん」
「ユウさんが心配して下さっているのは判っています。結果はどうあれ、俺達の為に来てくれたんですよね」

邪魔しにやって来た割りに、格好が悪過ぎる状況だが、佑壱の心意気を汲んだ要は説教じみてはいない。いつもは一円でも無駄遣いをすると、烈火の如く佑壱を馬鹿にすると言うのに。
普段の錦織要は叶二葉に良く似た丁寧な口調だが、怒った要は『この馬鹿が』だの『計算機を触らせれば静電気で壊す、算盤を弾かせれば怪力で壊す、だったら他に何が出来るんだタコが』だの、『いや、タコ以下か。脚が8本あるタコの方が仕事が出来るでしょう』だの、佑壱が再起不能に陥る魔法の呪文を延々と繰り返す。

「でも今回は、俺達に任せて下さい。いつまでも頼ってばかりじゃないって所を、ユウさんにも見せたいので」

だから今回も実は要に叱られるのではないだろうかと、少し思ったのだ。自己紹介も満足に出来なかった瞬間、佑壱は軽く死を覚悟していた。
それがどうだ、今の要は何だか大人に見える。何処で何が起きたのか、母(犬)としては心配過ぎて母乳が吹き出しそうだが、分厚い佑壱の胸板に装備されている乳首は、豊かな筋肉に反してかなり慎ましい。

「…お前、一皮どころか4・5枚剥けた様な面してねぇか?玉葱じゃあるまいに、何があったんだ?」
「ふっ。子供は日々成長するんですよ、いつまでも子供扱いしないで下さい」

男らしい笑顔を浮かべた要の前で、ほぼ全ての人間が胸をときめかせる。
某モデルだけはソファの上で大股を広げたまま、『男前が過ぎる』と呟いた。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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