帝王院高等学校
時計の針が止まったら困りますか?
定期的に精密検査を受けている母親が、その日は一人で入院する事になった。
恐らくは大人の事情なのだろうが、その時は単純な子供だったから、別れ際に頭を撫でられて『お父様をお願いしますね』と頼まれたら、否などあろう筈もないではないか。

「ひーくん」
「パ………父上、ひーくんではありません。僕はもう立派な3歳です。母上のお願いだって完璧にこなします。赤ちゃんみたいに呼ばないで下さい」
「そ、それは悪かった、お父さんは赤ちゃん扱いしたつもりではないんだ、許してくれるか。お前は私の大事な息子で、自慢の息子だぞ」
「僕はもっともっと父上の自慢の息子になります」
「待て待て待て。だからと言って、何も急に親離れしなくても良いだろう。まだ一人で寝るのは早いのではないか?」
「…」

慌しくベッドを急拵えしている使用人を横目に、さっきまで玩具と絵本で溢れ返っていた子供部屋の戸口。枕を抱えた息子とぬいぐるみを抱えた父親が見つめ合う光景は、幾らか贔屓目で見ても奇妙だった。

「おお、ほっぺをそう膨らませるもんじゃない、割れてしまうぞ。ひーく…秀皇、明日の昼にはお母さんも帰ってくる事だ。今夜は二人っきりなんだぞ?」

そう、今夜は男二人だ。帝王院駿河は縋る様に呟く。
盆を控えた夏の盛り、スケジュールの都合で定期検診が遅れており、このままでは盆明けになってしまうと無理矢理組み込んだ検査入院は、幾つか目の台風が去って間もなくの事だった。
急に日程を組み込んだ為に、遠野総合病院には迷惑を掛ける事になったが、ただでさえスケジュールが窮している帝王院財閥会長夫人だ。毎年グループ幹部総出で行われている盆参りを欠席する訳にも行かず、だからと言って凄まじい台風の中で入院させるのは、わざわざ幹部会議を開く必要なく、株主の一人である東雲栄子の反対が出たに違いない。無論、妻である隆子を心から愛している駿河が職権乱用を厭わないので、賛成多数だとしても捩じ伏せただろう。

「どうして急に一人部屋が欲しいなんて言い出したんだ」
「…だって」
「だって?」

過保護な駿河は定期的に隆子の検査入院を予定していたが、今年は例年以上に忙しく台風の数も多かった。なんだかんだで予定より幾らか遅れた入院日には、例年であれば駿河も一人息子の秀皇も同行し、特別室にて家族で泊まり込んでいるのだが、今年は初めて隆子一人で宿泊する事になっている。
駿河がグループの最終決算で追われている事もあるが、3歳の誕生日を迎えて間もない秀皇が今年の盆行事では、初めて幹部陣の前に立ち、挨拶をする予定になっている事もあった。息子の晴れ舞台の準備に心を配っている隆子は、自分の事よりも秀皇の挨拶の方が心配な様だ。

『私に万一の事があろうと、帝王院の跡取りたる者、しかと皆様の前に立たねばなりません。ですから貴方、あんまり甘やかさないで下さいませ』

何と立派な妻だろう、何処に出しても恥ずかしくない。
然し駿河は病院へ向かう妻との別れ際、今生の別れでもないのに鼻水を垂れ流すほど号泣しつつも、隆子を送り届ける運転手を『しっかり頼むぞ』と睨み、

『嫌だい嫌だい!隆子ちゃん、俺がひーくんに嫌われたらどうするんだ?!ひーくんは俺達の大事な大事な宝物なんだよ?!』

それはもう、盛大に地団駄を踏み散らした。
壮絶な出産を果たしてからと言うもの、病弱な体である事は変わらないが精神的に強くなった隆子の方が困り果てるほどに、駿河の号泣は止まらなかったのだ。

『まぁ、仕方ない方ね。明日には戻りますから、秀皇のご挨拶の練習を見てあげて下さい』
『嫌だー!やっぱり俺も隆子ちゃんについてくー!』
『阿摩音さん、お願いします』

だが然し、帝王院財閥当主が妻の前でデレまくるのは先代からの年中行事でもある。能面じみた表情がトレードマークになりつつある小林家の当主は、女だてらに駿河を冷めた目で見つめると、大事を取って隆子を乗せた車椅子を無言で押して行ったのだ。

「言い難い事なら聞かないから、考え直してくれないか」
「…」
「ひ、秀皇?今夜もいつもの様にお父さんと親子水入らずで一緒に寝よう、な?」
「でも…」
「何があったと言うんだ、聞かないと言ったがそこまで頑ななお前を見ていると、やはり気になるぞ?守義に何か言われたか?いや、今日は阿摩音だけだったな」

顔色が悪い父親は三十路前とは思えないほど老け込んでおり、反して幼い息子の方は何故か正義感に満ちた凛々しい表情だ。走り回る使用人など見えていないとばかりに、まるで永遠の別れを告げる様な眼差しで、子は父を仰ぎ見る。

「秀皇、誰にも言わないから教えてくれないか」
「…本当に誰にも言わない?」
「この帝王院駿河が嘘をつく様に見えるのか?」
「栄子おばさんが、3歳になってお母さんと寝てるのは可笑しいって…」
「…あのアマゾネス、人様の息子に要らん事を吹き込みおって!」
「父上?」

ああ、ああ。
栄子にしても、小林阿摩音にしても、どうして空蝉の女はこうもアマゾネスなのか。男を絶滅させ、死体の上で高笑いしたいのだろうか。

「良いか秀皇、東雲栄子は人格と腕力に著しい障害を持っている」
「父上、栄子おばさんから叩かれちゃうよ」
「大丈夫だ。高森は年功序列を尊ぶ。奇跡的にお父さんは栄子より年上だから、サンドバッグ役は幸村に任せておけば良い」
「幸村おじさんが死んじゃう…」
「あれで東雲直系の嫡男だから、死にはせんだろう。…多分な」

小林刹那の末孫に至っては、唯一結婚後も実家を離れず、瞬く間に離婚した事もあって現在では小林の家を継いでいる。息子の守義が、叶不忠の息子である守矢との間に出来た子である事から想像に難くないが、4歳とは思えないほどしっかりした息子だった。将来的に秀皇の右腕として帝王院財閥を引っ張っていくだろうと、今から幹部らは期待している。

「コホン。良いか秀皇、帝王院の嫡男たる者、何を置いても第一に家族の幸せを慮る義務がある」
「うん。…じゃなかった、はい」
「今朝まで親子3人で仲睦まじく寝ていただろう?」
「はい」
「パパは一人で寝るのは寂しい」

キリッと宣った帝王院駿河の台詞で使用人らがピタッと動きを止めたが、数秒後に再起動していた。働き者の彼らは、当主が年甲斐もなく子供じみた事をほざこうが、表情には一切出さないその筋の使用人達だ。つまり、プロがそこはかとなくフェッショナルしている筋の御方達である。

「父上、男にはやらねばならない時があります」
「ちょっと待ってひーくん、そう言う男心を擽っちゃう台詞は父も昔、覚えた端から言ってみたくなったものだ。気持ちは痛いほど判る。然しいざ自分がパパになってみると、子供には一生天使でいて欲しいと思うもんなんだ。パパは今、心から亡き父上にもっと優しくしてあげれば良かったと後悔しているんだぞ」
「父上、子供はいずれ巣立ちます」
「何でそんなに情操教育を鍛え抜いてしまったんだ、なんて賢い3歳だろうか。もう誇らしいやら不甲斐ないやら、パパは涙で前が見えない」
「僕は大人になったら父上の跡を継ぐお役目があります。なのでこれからはどんな事でも一人でやらなきゃいけないんです」
「お待ちなさい秀皇、お前は独り立ちなんてしなくて良いんだ。パパがさらっと稼いでおくから、継ぎたくなった頃に継いでくれたら良いのだし、優秀な部下を揃えておくから心配しなくても多分大丈夫だから、お前はわんばくにパパに抱っこをせがんだり仮面ダレダーのグッズをおねだりしてたら良いんだ、判ってくれるか秀皇」
「仮面ダレダーは観てません」
「お前は週末の朝から家庭教師がついてたな!誰の所為だそうか俺かァ!」

壁で頭をゴンゴン打ちつけながら咽び泣いているパジャマ姿の駿河から目を離した秀皇は、パリッと真新しいパジャマ姿で準備が出来たと報告に来た使用人を見やった。お気に入りのふかふかな枕を抱き締め、いやにギクシャクした動きで子供部屋へ入っていく。
大きいベッドが置かれた部屋には、ぬいぐるみなどはない。秀皇の玩具と言えば、英語の絵本かドイツ語の絵本かフランス語の絵本か…何にせよ、帝王院の嫡男の為になるものばかりだ。

「うっうっ、ひーくん、ひーくん、パパ寂しいよぉ…」
「もう、パパは男の子だから泣いたら駄目でしょ」
「パパ夜のおトイレに一人で行けないんだよぉ、おトイレの窓から御神木が見えるの知ってるだろう?」
「神聖な御神木は学園を見守って下さるんだよ?」

帝王院の屋敷は山の中、帝王院学園の敷地の西側に位置している。
北側の山の中に一際背が高い御神木が祀られており、帝王院俊秀の遺骨の一部と帝王院鳳凰の遺骨の一部が埋葬されていた。例年の盆には、御神木の前で催事を行うのが帝王院のしきたりだ。逆に言えば、盆以外に御神木付近へ立ち寄る者はほぼない。

「見守って下さるのはそうだろうが、パパは見守っていると言うよりじっと見つめられてる様な気分になるんだよ。ああ、新婚生活くらい新たな気分で迎えたいと思って屋敷を作らせたけど、間取りをもっと精査するべきだった…」
「パパはスコーピオに住んでたんでしょ?そっちにお引越ししたら、怖くない?」
「スコーピオの真裏が御神木だから、あっちは今よりもっと怖い。パパ、お外に出られなくなる」
「はぁ。仕方ないなぁ、俺のお布団で一緒にネンネしても良いよ。あっ、間違えた。僕のお布団」
「うんうん、寝る。パパひーくんのお布団でネンネするぅ」

ぎゅむっと抱きついてきた駿河を張りつけたまま、秀皇は初めての自分のベッドに飛び込む。

「何だかドキドキして眠れないかも」
「くんくん、ふんふん。新しいシーツの柔軟剤が気になるのか?」
「判んない」
「良し、それじゃ眠れるまで挨拶の練習をすると良い。当日パパは応援しか出来ないからな。今なら沢山間違えても大丈夫だぞ」
「…」
「ひーくん?うん?ひーくん?何とした事だ、何と言う寝つきの良さ!パパはもっとお喋りしたいのにぃ、もうちょっと起きてようよひーくん、ひーくぅん…」

だが然し、枕が変わって落ち着かない駿河を残し、秀皇は1分で夢の中へ旅立っていった。











(通りゃんせ)
 (通りゃんせ)
  (此処は何処の細道じゃ)








「おはよう、鍵を握るキャスト達」

目覚めた様な気分だった。
生きながら死んでいるかの様な生活は何の起伏もなく、川が流れ風車が回るかの様に繰り返される一定に定められた時の流れは正に永遠の様だったから、いつもと違う来訪者はまるで、神様の様にも思えただろうか。

「待っただろう、花子。そろそろ『俺』に空が戻ってくるよ」
「…あ、ああ」
「お前が命を懸けて守った大切な弟が、夜から朝へと攫われていく。お前はどうしたい?」

囁く声音は唆す。
けれど恐らくは何も求めてはいないのだろう。彼は初めから一時の狂いもなく正確に、まるで全てに等しく無関心な神の様だったから。

「僕の、二葉だよ」
「そうだな。整然と並ぶ鍵盤がCから始まる様に、お前の半分をあの子は受け取った。名と共に、その瞳も」
「二葉の目、は、見えてるの…?」
「丸一月早い出産が何らかの影響を与えていたのであれば、幼い頃から近視であっても可笑しくない」
「っ、あの子が取ったんでしょう?!あんな子を庇ったりしなければ、怪我なんかしなかったんだ!僕は守ったのに!お母さんが守ったのに!僕は…!絶対に、許さない…っ」

可愛い、可愛い、見た事もない弟。
目覚めた時から永遠に続く地獄の様なリハビリに耐えたのは、いつか好きだった男の事を考えていたからではなかった。ただひたすら、見た事もない弟の成長を想像していたからだ。

「…うう。やだ、違うんだよ、僕がその時、傍にいたら良かっただけなんだ。っ、どうして僕はすぐに誰かを恨んじゃうの…?」

あの日、膨らんだ母の腹越しに何度も何度も呼んだ名を、例え死んでも忘れる事などなかっただろう。

「う、うっ、うぇ、お父さん、お母さん、ひっく、お兄ちゃん…」
「過ぎる感情は毒だ。その憎しみを奪おう」
「僕は汚れてるから、こんな事を考えてしまうんだよね」
「違う。愛には常に、憎しみが寄り添っているんだ。だから俺はそれを知ったその日に、考える事を放棄した」

真っ暗な部屋の外は真っ暗で、久し振りに見た空も真っ暗だった。月も星もない、余りにも静かな世界は現実味がない。

「もう一人、お前を作ろうか。お前の感情を代わりに負ってくれる、双子の様なお前を」
「それは、クローン?」
「いや。生きとし生ける者には魂が宿る。業を負った者は輪廻に囚われ、」

くるくると、くるくると、廻っていたのだ。
オルゴールの様に、ピエロはその場から離れられない運命を選択した。決して通ってはならない道を越えて、いつか探したのは神か仏か。



「悲しみを繰り返しては、後悔の衣から離脱出来ずに泣くんだ。…蝉の様に」













(天神様の細道じゃ)
















「…成程。お前は迷い込んでしまったか」
「………は?」

ぼんやりと、そこだけが青白く光っている。
先程まで明るくて暖かい所にいた筈なのに、目の前の状況をどうして受け入れているのか不思議だった。

「ここ、どこ?」
「夢と現の境。去りし日と在りし日が交わる、空蝉の轍」
「父上がいない」
「…駿河より鈍い様だと思っていたが、やはり我が名を分けた子だと言う事なのだろう。いずれにせよ、時はまだ些か早い…」

見上げるほど高い幹の上、茂る葉が音もなく揺れているのが見えた。真っ暗な世界では月も星もなく、何処か空で大地であるのかもはっきりしない。

「おじさんは誰?」
「お前でありお前ではなく、お前を良く知る様でお前を全く知らない」
「え?」
「私は私であり私以外の誰でもなくけれど、私から2羽の小鳥が生まれたのだ」

静かな声だ。聞いた事のない声だった。
音もなくそよいでいる大木をよくよく窺えば、太い幹の根元から一部だけ人の形で黒抜かれている事に気づく。更に良く窺えば、それは黒いスーツを纏う男の様だった。

「誰?どっかで見た事ある、かも」
「お前は私の息子に良く似ている」
「俺、似てるの?誰に?」
「息子の名は、紅蓮の業火に灼かれている。死して尚、犯した罪深き業のままに」
「?」
「閉ざされし緋の系譜よ。いつから我らは、赤く染められた?」

なぞなぞだろうか。
判る様で判らない問い掛けの意味を暫く考えたが、この場所では猫を被っても意味はないらしい。見透かされている様な気持ちになると、秀皇はわざとらしく丸めていた目を細めた。

「帝王院の家紋は星、学園紋は暁。俺達は黎明に恵まれた緋の系譜だ」
「時代は容易く移り変わる。虚飾された真実を信じるのであれば、それは既に虚ろとは言えまい」
「アンタ、誰だ」
「そなたの名は」
「秀皇。帝王院秀皇」
「ああ、知っている。我が名は俊秀だ。帝王院俊秀」
「としひでって、お祖父様の父上だよ?」
「私は駿河を知っている。あの子は私でも鳳凰でもなく、我が父君であらせられた寿明に良く似ていた」

ああ、そうか。声だ。
声が少しだけ駿河に似ている様な気がしたけれど、喋り方が全く違う。似ているのに違うと言うのは、奇妙な感じがする。見た事のない祖父の遺影と、ホームビデオに残された祖父の声を聞いた時の様な気分だ。

「俺の名前は祖父様がつけたんだ」
「…そうか。お前がそう信じるのであれば、それが真実だと言う事だ」
「父上が俺に嘘をつく訳ない」
「我が名は既に分かたれた。お前に委ねられた片腹の番は、いずれお前の子に委ねられるだろう」
「俺の子供?はは、まだ結婚もしてないのに」
「お前の宣う黎明に、夜が訪れるだろう」
「…予言みたいだ」
「我ら帝王院の十二芒星は朝と夜に分かれ、両の瞳に六芒星を抱く時の番人を迎える宿命」

ざわざわと、聞こえない筈の音が聞こえる気がする。
天まで伸びる様な御神木はそこにあるばかり。

「全ては神とも仏ともつかぬ、虚無から生まれた天網の描くまま。戯れに等しい慈悲を以て、我ら家名が背負う業を灰燼に帰す事が適うか。…より深い罪を負うか」

耳鳴りがした。
キンキン戦慄くそれは、まるで蝉の鳴き声の如く。


「戻れない事を知る時の流れは無情なる脚本に絶望し、軈ては狂うだろう。
 冒された時の侵食は去りし日と在りし日を混沌の底へと落とし、人に擬態した空蝉は己が空っぽである事を思い知る。

 真なる時の番人は佇んだまま。



 その深紅の監査の果てに、何を描くのか。」










導かれし者の通過点
-Restart-

Bloody script from true hero.







「贖う事が出来るのは、罪を負う系譜だけであると神は定めた」



























「…う」

何か重いと思った瞬間、ザラザラと何かが壊れる様な音がした。

「へぁ?えっ、何…?」

パチッと瞼を開いた加賀城獅楼は、夥しい数の目が視界を埋め尽くしている事に思考停止し、ややあって悲鳴をあげそうになった口元を、手で覆ったのだ。

「あ、隊長起きた」
「兄貴、獅楼隊長起きたっすよ」
「とっとと残りも退かさねぇと、生き埋めになっちまう」
「おい、圏外じゃなくなったのにヨーズィの携帯繋がんねぇぞ。まさか女連れ込んでんじゃねぇよな…」
「だったら、たいっちゃんに連絡しろよ」
「やだよ、ヤってる最中だったら俺が怒られるだろ」
「レジストはヤリチンだらけかよ」

むさ苦しい男共が視界を埋め尽くしているのは、残念ながらいつもの事だった。定まらない思考回路のフリーズを何とか溶かしながら、加賀城獅楼は動かない体を何とか動かそうと試みたが、わらわらと集まってくる生徒らの殆どが紅蓮の君親衛隊だと気づいて、無意識で眉を寄せる。記憶が曖昧だ。

「そこ窓閉めろって、砂埃入って来んだろ」
「誰だよ重機動かしてる奴は。無駄にガタガタ言わせやがって、下手糞が」
「梅森じゃねぇのは間違いねーわ、三年じゃアイツが一番操縦技術上手いだろ」

目を配ると、何処か見覚えのある部屋だった。
部活棟から差程遠くない、第4キャノン一階の保健室だとは思うが、基本的に校舎西側に当たる第4キャノンはFクラスの溜まり場と噂されており、一般の生徒は近寄らない。

「ったく、参ったなぁ。眺めてただけなのに、無言で殴り掛かって来るなんてよ…」
「殴る蹴るは、まだマシな方だろ。隣に獅楼隊長も居たってのによ、藤倉の野郎完全に手加減なしで暴れやがった」
「お前が高野のズボンなんざ脱がせようとすっからだろ!反省しろよ!」
「ばっ、あんな派手なパンツがチラ見えしてたら気になんだろ?!幾らケンゴが可愛い面してても男だぞ、興味ねぇよ?!」
「はっ、どうだか!テメェんとこの総長は高野のケツ追っ掛け回して、ユーヤから毛嫌いされてるじゃねぇか…」

何故近寄らなかったのかを考えた。思考が纏まらないのは、長く寝ていたからだろうか。夢見が悪かった覚えはない。

「Fクラスってだけで色眼鏡で見るのやめて欲しいよなぁ」
「俺ら純粋に素行と成績が悪いだけだしよ」
「祭総代みてぇに、頭も顔も良い奴は別格だろ。恵まれてる奴は何処に落ちても恵まれてんだ」
「腐るなよ、男らしくねぇぞ」

Fクラス最強とされている祭美月が個人的に利用している、第2キャノン一階の保健室は学園の改築が進む以前に利用されていた旧保健室で、現在は救護用品などの保管倉庫扱いになっている。新しい保健室は旧保健室よりずっと広く、リフォームの度に生徒が利用し易い場所へ移動している事でも有名だ。
聡明にして学園の事情に明るい神崎隼人曰く、学園内でも校舎と寮は定期的に部屋ごと移動していると言う話だったが、それが本当だと獅楼が知ったのは、つい昨夜の話である。左席委員会では会長権限を要し、中央委員会役員が人知れず組み替えていたと言う学園のハイテク設備にも幾つかの穴はある。

「俺らの合言葉は『カルマに入れなくても陰ながら!』」
「『シーザーに会えなくても紅蓮の君を見習って!』」
「『男の中の漢になる!』」
「つーか今度の夏Tシャツこそシーザーモデル当てたい」
「今度のシーザーモデルって、ぽっと出のソルディオとか言う奴じゃねーの?」
「あー、アイツか。ポスターぼやけてて顔が判んねぇよな」
「何かチビだよな」

例えば、美月が管理を申し出た小保健室は校舎の端にあり、システムの仕組みによると動かせないエリアに当たるのだろう。どう言う仕組みなのか獅楼には未だに良く判らないが、意地悪な隼人が丁寧に説明してくれる訳もなく。遠野俊に尋ねる勇気もない上に、嵯峨崎佑壱に尋ねるのは余りにも烏滸がましい。

「うーん。今度アイツに聞こっかな…」
「あ、隊長が喋った」
「生きてるっすか獅楼さん、今ベッド退かすんでもうちょい我慢っすよ」
「あ、うん。重いと思ったらベッドの下敷きになってるんだ、おれ。…って、何があったらこんな目に遭うんだ?」
「藤倉がブチ切れて暴れてったんす」
「あー、ユーヤさんかぁ…」

何があったのかは知らない方が良いだろう。
大半が工業科や体育科の、むさ苦しい漢気主義者で溢れている紅蓮の君親衛隊の隊員は、表向きは獅楼以外公開されていない。定期的にインタビューと言う名の監視にやって来る、報道部部長にして風紀局副局長の川南北斗の質疑応答に答えるのは獅楼だけで、当たり障りのない佑壱の近況を喋るだけだ。

『北斗は人の粗探しが上手いから、下手な事は言わない様に』

とは、カルマ入隊まで報道部に所属していた弟の言葉である。
川南北緯は全く似ていないが北斗の双子の弟で、獅楼がカルマ入隊を希望した時の審査員でもあった。

自他共に認める佑壱ファンの獅楼は、同審査員の一人にして自称疾風三重奏で最も力が強い梅森嵐に喧嘩の作法を習ったが、諦めが悪いと言う家系の血のお陰で少々痛めつけられても挫けなかったのだが、カルマ特有の暗号であるカルメニアを覚える事に関しては、かなり苦労した。
その時に北緯から効率的な覚え方を学び、何だかんだと世話を見て貰った経緯があり、カルマへ合格した後も、獅楼は北緯に頭が上がらない。その北緯は隼人の舎弟と言う認識ではあるが、獅楼は四重奏ではなく佑壱の下についているつもりなので、北緯の舎弟ではあるが隼人の舎弟ではなく、佑壱の舎弟だが錦織要、高野健吾、藤倉裕也の舎弟ではないのだ。

けれど、例外的にカルマの全ては総長の犬だった。
幾ら獅楼が佑壱以外には従いたくないと頑なに宣っても、カルマである限り、遠野俊には絶対的に服従しなければならない。そう定めたのは何を隠そう、嵯峨崎佑壱その人だった。
 
「シロ、やっと起きた?」

力自慢の隊員達が、荒れ果てた保健室の中を不器用なりに片づけていくのを横目に、小刻みに振動している床を撫でていると、獅楼の頭の上から声が落ちてくる。反射的に見上げれば、不機嫌そうな北緯が立っていた。
成程、先程誰かが呼んでいた兄貴と言うのは北緯の事らしい。

「ホークさん、怪我したの?」
「擦り傷。部活棟から運び出した時、お前だけビクリとも動かないから一番近い所に連れてきて貰ったんだけど、やっぱ覚えてない?」
「おれ、もしかして寝てた?」
「寝惚けてないで起きたら」

キョロキョロと辺りを見遣れば、頬にガーゼを貼っている北緯など可愛いものの様だった。彼より余程血だらけの厳つい生徒らはキビキビと保健室を片づけているが、不器用過ぎて逆に散らかしている様にしか見えない。

「あの、ユーヤさんがやらかしたって言ってたけど…」
「馬鹿がケンゴさんに悪戯しようとして、ボコられただけ。寝起きのユーヤさんは人の話をいつも以上に聞かないから、俺に気づかないで行っちゃったけどね」
「何処に?」
「さぁ、知らない。そんな事より、俺の一眼レフが見つからないんだけど。探すの手伝って」

何事にも関心がない北緯が感情を露わにするのは、祖父っ子だった彼の宝物に等しい祖父の形見のカメラだけだ。Aクラスに降格した事がある北緯は、当時報道部に居づらくなったらしく独自でカメラ愛好会を設立し、カルマに入隊して間もなくチャラ3匹よ名を借りて写真部として発足させている。
部活動や各委員会への参加を免除されていた佑壱の名も加えられているが、実際は幽霊部員だ。存外ブラコンらしい北斗が北緯の身を案じたのか、報道部からカメラ愛好会に現像用の暗室を分け与えてくれていたが、それもつい先日返却したらしい。

「あれ、部室に置いてたんだ。一階部分が崩壊してるから近づくなって言われたけど、補強が済んだら工業科の誰かに頼んで中に入れて貰おうと思って」
「あ、そっか。今のカメラ部って、庶民愛好会の隣の部屋使ってんだよね」
「そ。報道部の時は中央キャノンの放送室と準備室を使わせて貰ってたから、色々楽だった」

表向き非公表とされていた左席委員会が、現在堂々と活動する様になり庶民愛好会の部室を執務室の代わりとして使っている。元々部員は北緯一人の様なものだった写真部は、これを切っ掛けに報道部から事実上独立したのだ。

「何で部室返しちゃったの?」
「北斗はABSOLUTELY、俺はカルマ。左席委員会メディアミックス部長は、中央委員会に尻尾は振らない」
「でもさぁ、ホークさんってユーさんの舎弟でしょ?同じクラスだし」
「俺は総長の犬だよ」
「嘘だぁ。前までおれと一緒で、総長のこと苦手そうだった癖に…」
「うっさいよ、シロの癖に。…天の君だけだったんだ」
「何が?」

窓の外を、誰かが横切って行った様な気がする。


「俺の写真見て、もっと見たいって言ってくれた人」

床の振動は未だ、止まらない。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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