帝王院高等学校
交差する者の希望と渇望の末路
「通りゃんせ」

 「通りゃんせ」

外へ出た時に自由の意味を知ったんだ。
責任と言う道標を失うと、人はこんなにも脆く、強い。


「通りゃんせ」

 「どうぞ陛下、夜の端へ」

12人の人の形をした演者達が、笑っている。仕方ない子だと言わんばかりに、早く行けと暗い階段を深紅の炎で照らすのだ。それは正にブロードウェイ、燃える光に導かれるまま駆け上がっていく足は、自分のものではない様だった。

「どうぞ、ノア」

 「コアを破りし背徳の王」

  「我らは貴方の子にして冥府の守り人」

急がなければならないと思うのに、足が重い。
処刑台へ向かう囚人の気持ちの様だと思った所で、誰に聞かせるつもりもなかった。

「貴方の魂を肉体ごとお連れします」

 「ノアの墓場へ」

  「死んだ星が還る場所、ノヴァの果てへ」

まるで主役の様だ。
(今にも逃げ出してしまいたいけれど)
助けてくれる脇役達の方がずっと、主人公の様に見える。
(誰もが皆、無表情を崩さない)


「通りゃんせ」
 「通りゃんせ」

誰よりも楽しげな声が聞こえる。
けれどやはり表情は無機質で、良く知る彼らは別人の様だった。

「裏切り者が夜の先へと消えていく」
 「その名はノア」
  「シーザー=ノア=グレアムの征く道に黒の祝福を」
   「ただの人へと成り果てようとしている皇帝の幸先に、祝福を。」

ああ、そうだ。
逃げ出したくて堪らない。消え去りたくて堪らない。けれどそれは自分の話だ。白く昇る黎明が追い払うのは、俺ではなかっただろう?



「…陛下」

最後の番人は、ダークサファイアの双眸をゆっくりを伏せる。万感の意を込めて、ともすれば平伏する様に。
けれどすぐに顔を上げやはり困った様に溜息を吐き切ると、固めた拳を持ち上げる代わりに下ろした仄かなランタンを、出口の前で放り捨てたのだ。

「こっから出たら、アンタはもう神でも何でもねぇ。ただの人間だ」
「…」
「前代未聞なんだよ。テメーでぶっ壊した癖に、元に戻そうとするなんざ」
「…判って、る」
「ざまあねぇ。何処まで身勝手だ」

空はあの扉の向こう側。
宇宙の何処かに燃え尽きた星の残骸が残り続けると信じるのであれば、ブラックホールへだって飛び込める気がするのだ。

「いっぺん殴らせろ。仕方ねぇから、それでチャラにしてやるぜ」

ランタンから零れた炎が、零れたオイルに引火してゆらりと燃え上がる。
鋭く風を切る裁きの矛を待ちながら、零れ落ちた笑みは誰かの網膜へ焼きついたのだろうか。



「あ、」

その名前を呼んだのだけれど、まるで音になりはしなかった。











今夜は星が降るそうだ。
長く外を見ていない事を今更思い出したけれど、窓の外には何もなかったのだと考えた。

描いた物語の終わりの向こう側の事なんて、考えた事もなかったんだ。
(まして作者のその後になんて)



(ただの一度も)















(時の流れを戻せ)
(それはまだ先の話)
夜が死ぬ話



(正しい物語を紡ぐ為に、)





(乱丁を正せ)








そのを集めたインクで。


















「ぁ、あ」

これが自分の招いた結果なのかと考えた時に、背骨の裾根から這い上がってきた嫌悪感は誰に宛てたものだっただろう。
決して届かない筈の高嶺の花を、幼さによる無知が故に躊躇わず求めてしまった。それが全ての始まりなのだと突きつけられようものなら、その時、恐らく壊れるまでに狂っていたかも知れない。単純な話だ。猜疑心から目を逸らし、ともすれば祈る様に、脆弱な虚栄心は信頼と言う便利な言葉に縋りついていた、その簡潔にしてそれ以上の説明が要らない説得力が、まざまざと突きつけられている。

けれど狂い死ぬ寸前で踏み留まったのは、決して褒められた理由などではなかった。ましてや裏切られたのだなどと、悲劇のヒロインを装うつもりもない。

「…こんな事してるのに、表情変わらないんだ」
「浅ましい口はまだ回るか」

甲高い、男子校である事を忘れるほどに女のものじみた、耳につく嬌声が響いている。それが良く知る友人のものだと気づいても構わず掴んだドアノブは、開く前に聞こえてきたもう一人の声で動く事を放棄した。
だから言っただろう、悲劇のヒロインのつもりはないのだ。十年以上想われている事を知りながら気づかない振りをして、少しばかりひねくれてしまった友人が当てつけの様に派手な交友関係を匂わせてきても、何も知らない素振りは容易い。わざわざ振ってやる必要はないではないか、円滑な人間関係には明らかにしない方が善い事もあるのだから。

そうしてのらりくらりと逃げ回り、けれど突き放しもせず、思い余って玉砕覚悟じみた真似をされない程度の飴を与えながら、確実に致命傷寸前の鞭を見せつけて一線を引く。どの世界の経営者でも、勝ち組と呼ばれる一握りの人間はそのスキルを兼ね備えているものだ。
多分に漏れず自分も先人に倣い、『愛してやる事は出来ないが決して切れる事のない絆で結ばれている』と、言葉ではなく態度で示してきたつもりだった。

帝王院秀皇と言う人間が18年間で培ってきたものこそが、友人である榛原大空を追い詰めたのだととうとう突きつけられている瞬間に、秀皇が何より凍りついたのは、友人が男に組み敷かれている現状を目にしたからではなかった。
例えばそう、扉一枚隔てた先に幼子が一人で留守番しているだろう部屋がある様な、食堂と居間を兼ねた広い部屋から漏れ聞こえてくる二人分の声音の、友人のものではない方の声の主が、秀皇にとっては何より重大なものだったと言う話だ。


「父上?」

寝る暇も惜しんで、与えられる夥しい数の仕事をこなしてきたつもりだった。期待に応えたいと思ったから、初めはそんな子供じみた理由だったろう。キング=ノア=グレアム、経済界でその名を知らない企業は特権階級を名乗れないとされている程に、皇帝とまで謳われる男爵は有名だった。男爵でありながら一国の王よりも畏れられる程に。
彼の期待に応えたかった。彼がそうであった様に。幼い子供の我儘じみた願い事を叶え、日本へとやって来てくれた神にも等しい、義兄の為に。

「お帰りなさい」

褒めて欲しいと思った訳ではない。本当の弟の様に甘やかされたいだなどと、世迷い事を宣うつもりもなかった。ただ、一度として笑った所を見た事がなかったのだ。初めてその姿を目にした日から今に至るまで一度も、だから。

「クゥーン」
「コーヒー飲みますか」

数を重ねる毎に体が軋んでいく。神の期待は己の器量を超えていくけれど、出来ないとは言えない。いや、言いたくなかっただけだ。
キングの言葉は須く。彼の前で否はない。だから一週間や二週間眠らなくても構わなかった。どんなに必死で仕事に食らいついていても、中央委員会会長としての職務を疎かにしたくなかった。流石に捌き切れなくなる寸前、聡明にして歯に衣を着せない小林守義の『アンタ馬鹿ですか?』と言う手酷い説教を食らったが、一ノ瀬や他の役員の厚意によって帝王院学園の運営は円滑だ。ポンコツ会長と誹られても無理はない。

「いつもご帰宅なさると召し上がってらっしゃいます」

何処で間違ったのか。
海を渡り日本とは比べ物にならないほど大きな国のとある屋敷の、何人もの警備員が守っていたとある一室に、こっそり忍び込んだりしたからか。それとも、そこで出会った余りにも美しい人に兄になって欲しいなどと、愚かな事を願ってしまったからか。
(人の感情が見えるのだ)(昔からだった)(例えば親友が向けてくる眼差しの意味)(それでも大事にしているつもりなのだ)
(だってそうだろう?)
(大空を抱いたりしない)(好きでもない相手と体を重ねる事は簡単だ)(けれどそんな空っぽな関係にしたくなかった)(友人じゃいけないのか)(俺はお前を愛せない)(お前だけではなく、他の誰も愛せないと思っていた)(仕方ないだろう、内面が見えてしまうんだ)(サラ=フェインの考えている事など初めから)

(ああ、空っぽじゃないか)


「父上?」
「…父。俺が、か?」

視界の隅が白と黒で縁取られている。
定まらない視線を落とせば、足元に白と黒の塊があった。

「…神威」
「はい」
「本当にお前が俺の息子だったら、俺が何を考えているか見えるだろう?」

何処で間違えたのだと言う、明確な答えは必要だろうか。
目の前で健気に見上げてくる白と黒の様に、潔癖なまでの境目を見つけなければならないのだろうか。

「え?」
「…まだ外は明るいぞ、暗くなるまで一緒にお昼寝しようか」
「暗くなったらお庭に行きますか?お夕食はお祖父様がお越しになられると伺いました。次の春に咲く新しい桜を、」
「秀隆」
「クゥーン」

頭の中が真っ白だ。
賢い犬は機嫌を窺う様に微かに鳴いたが、いつもは揺れている尾が垂れ下がっている事にも気づかない。

「神威は眠くない様だからあっちで遊んでやれ。仕事に出てくる」
「…クゥーン」

純白の白衣を纏う人の事ばかり思い出した。
(自分から捨てた癖に)








Star light into the noir of the darkness.
虚無から生まれたささやかな星の殻は、永い年月を懸けて銀河を生み出した。

あの日、俺が迂闊にも初めて口にした罪深き台詞をお前は宙へ還したのだろうか。愛が何であるかも知らない分際で、けれど零れ落ちた、たった6文字の拙い言葉はそれほど癪に障ったか。




「ルークはキャスリングによって、王とすり替わるんだよ」
「すり替わる?」
「王様が危ない時に、影武者になれるんだ」



どうしてこんな時に縋りたくなるのだろう。その瞬間まではその存在さえ忘れていた癖に、こんな時ばかり繰り返すのか。
…神よ、と。




「…でも、お前さんはチェスなんて覚えなくていいか。将棋とか囲碁の方が、何かかっこいいもんねー」
「はい」
「囲碁はね、黒石の方が少しだけおっきいんだよ。触ってごらん」






私に与えられた名こそ、神へ突きつけた背徳の槍であったのに。



















Episode No.X limited.
する者の希望と渇望の末路















「東京にあるんだって」

判っている。言いたい事も、それが優しさだと言う事も。
久し振りにもぎ取った休みと言う名目で、どうしてもスケジュールの都合上空いた3日間の中日だけ里帰りすれば、十数時間のフライトから開放されるなり投げ掛けられた言葉で、数年振りの日本製ビールの味は吹き飛んだ。

「最近流行ってるらしーし」
「何が」
「俺の話聞いてなかったんかよ、寮だっつーの。自立って奴?最近の若い奴はマセてるから、かぼす?は、早い方が何かと良いみたいな感じだって」
「巣立ちな?」
「何かさ、だからさ、今ガチで寮が熱い!…みたいな!」

ああ、苦しい。余りにも苦しい言い訳だが、指摘してやるのは酷だろう。
同世代の誰よりも大人びているのは確かだが、それでも中身はまだまだ子供だ。つまみ食いを誤魔化す様な小さな嘘ならともかく、今回は少しばかり規模が大きい。ある程度は理解しているだろうが、6歳で親元を離れると言う選択が、果たしてどう言った意味を持つのか。その全て把握している訳ではないだろう。

「へー、ほー。で、それは何調べだ」
「そりゃGoogle先生に弟子入りした俺調べっしょ」
「ほー、そのGoogle先生が言ってたのか。『今ガチで寮が熱い』って」
「熱過ぎてモンスーン吹き荒れて、港がヤバいみたいな。風がヤバいと地中海が時化って、ムール貝が全滅してイタリアがポッキリ折れるかも、みたいな」
「ふーん?一昨年サルデーニャで見た、あの穏やかな海がやばいってか」

頑固な性分なのは知っている。
お前は俺の子供の頃にそっくりだから、などと、高野省吾は決して口にしない。目を白黒させながら御託を並べている馬鹿息子は、残念ながら頭の中身だけはただの馬鹿ではないのだ。音楽の才能に至っては、演奏技法のみではあるが、右に出る者はない。

「毎年モンスーンなんか目じゃないタイフーンに襲われてる日本列島がピンピンしてんのに、イタリアは折れちまうのか」
「お、おぅ」
「折れ方によっちゃ、スイスとオーストリアとスロベニア国境もやばそうだな。来月スイス公演控えてんのに、どうすっかなぁ。オーストリアにゃ団員の実家も結構あるし、ドイツのアパート引き払って家買っちまったばっかなのに…」
「はぁ?ユーヤの父ちゃんからユーヤん家使わせて貰ってんじゃねーの?」
「あんな装飾品の一つ一つがルーブル美術館に飾ってても可笑しくない値段のもんしかない様な屋敷、安心して屁も出来やしない。2日目にアパートメント契約したっつーの」
「出てくの超早くね」
「額縁一枚が佳子のストラディバリウスと殆ど変わらねぇ金額だとよ」
「うひっ」
「エテルバルド家は元々領主だからな、ワイナリーでビール作ってたり不動産転がしてたり、洒落にならない金持ちなんだぞ。お子様は気楽にお友達になりやがるが、父ちゃんはハラハラしっ放しだっつーの」

微笑ましいと思えなくもないのだ。
久し振りに帰省すれば、開口一番『そこに座れ』と玄関先で仁王立ちする父親から、靴を脱ぐ前に小一時間の説教を喰らう羽目になったが、気を利かせた母親が近所のコンビニで買ってきてくれたビールと、義弟と呼べば良いのか孫と呼べば良いのか未だに怪しい敬吾が子犬の様に駆け寄ってきては、揉み揉みと肩を揉んでくれるのも、大変喜ばしい。

「一回の公演で指揮とバイオリンソロで結構なギャランティーギャラギャラしてんじゃんよ、コンマス」
「ギャラギャラって何だギャラギャラって、人聞き悪いな。クライアントとの交渉はどうしてもエージェントを通すから、えげつないパーセンテージ持ってかれんだぞ。それに言いたかないが、俺の演奏は指揮に比べたら劣る。つーかあんなもん、師匠が気前良くくれたストラを見に来てる客に対するサービスだ」
「うひゃ、それ自慢してるだけっしょ?誰か上手く弾いてくれる奴にやれば?」
「やだね。お前以外にはやらん」
「俺はもー、弾けねぇもん。…鼓膜ちょびっと破れたの、知ってんべ?」
「今は無理でも治ったら弾け。ストラディバリウスだぞ、インテリアで終わらせるのは勿体ないだろう」
「治ったらってぇ、………無理あり過ぎじゃね?」

死んでいたかも知れない息子が、下手糞な詐欺を仕掛けてくるまでに元気である事なと、奇跡の様ではないか。

「まぁ、確かにそれより先に地中海の大時化でヨーロッパが分裂したら、商売上がったりだ」
「…ごめん、さっきのはちょっと話盛ったっしょ」
「ちょっと所じゃない様に感じたのは俺だけじゃないと思うが、ネットってのは便利だな。お前は俺より頭が良い」
「何でそんなん判るんだよ」
「俺がモンスーンを知ったのは大人になってからだった」
「マジかよwww」

例えば馬鹿だったいつかの様に、もしかしたらと深層心理の何処かで疑っていたいつからならばともかく、今は知っているからだ。罪悪感を必死で封じ込めている事など、自分だけが知っていれば良いのだから。

「…って、話逸らすなし!」
「バレたか。大人しく逸らされとけば良かったものを…」
「何か前にどっかで受けたテストでさ、俺のIQが大人レベルとかって言ってたじゃんか」
「ジョージが持ってきたクイズ程度のお遊びだろ。…ま、確かにお前の場合、この辺の公立校じゃ浮くかも知れないけどな。何せ昔の俺も浮きまくってた」
「知ってる。近所のおっさん達が『省吾の武勇伝は一日にしてならず』って言ってたっしょ」
「何処のどいつらだ、口封じしておかないと俺のキャリアに傷がつくな」
「キャリア?ばーちゃんが、親父の通知表は音楽以外『1』だったって言ってたぞぃ?」
「馬鹿野郎、音楽と体育以外だ!体育は3だった」
「ってどんくらい?」
「普通くらいだ」
「普通www」
「大体、イヤイヤ習わされてたピアノよりギターのが格好良いと思って、俺のじーさんにギター買ってくれって頼んだら間違えてバイオリン買って来たんだよ。お前の曽祖父さんな」
「見た目www」
「あの時代の年寄りは、マラカスとボーリングのピンの見分けもつかないんだ」

手元に置いておけるものなら、迷わずにそうしているのに。
今でも渋々、他に選択肢を見つけられなくて仕方なく故郷へ預けているだけだ。本音を言えば、今の状況も納得しきれていない。

「ユーヤも日本が気に入ったって。アイツの目ん玉、超絶グリーンじゃんか。この辺の奴ら、ユーヤを見るとこそこそ陰口言うんだよ」
「まさか一人で上京するのが恐くて巻き込んだんじゃないだろうな、健吾」
「ちげーし!俺がネットで調べてたらアイツが後ろから覗いてきて…」

可愛い可愛い、馬鹿な自分にそっくりな馬鹿な子供。
どれほど大人びた真似をしても無駄だ、俺にはお前が考えている事が透けて見える。だからそう、駄目だと言ってもどうせ納得しない事も。老いた祖父母に迷惑を掛けたくないと思っている事も、その優しい性分がお前の母親に似ているのだろうと言う事も、全て判ってしまったから。結果的に、断れる筈がなかった。

「で、帝王院学園ってのはどんな学校なんだ。慶応みたいな感じだろう?」
「何かすっげー派手な学校っぽいんよ」

例えそれが己の意思からは遠い、家族に対しての遠慮だとしても。(例えばお前は俺の子だと言ってやっても)(確証もあると叫んだ所で)
どうして調べたりしたの)(と言われたら)(疑った事などないなんて安い台詞は)(どうしたって嘘臭いに決まっている)

「そりゃ私立だもんな…って、げっ。おいおい、入学金の桁を間違えてないか?!」
「よっ、天才指揮者。伝説の右腕でタクト振ったら、一晩で国家予算を稼ぐ男!」
「一晩は言い過ぎだ、二晩くらいだろう」
「マジ天才。神コンマス。イケメン。歌唱力以外恵まれた男」
「ふ、この上歌唱力まであったら…」
「全人類の女がバトルっしょ」
「良く判ってるじゃないか、健吾君」

せめてもう少し。
ただでさえ、生きている事が奇跡に近い幼子に、これ以上の負担を背負わせない為に。(その優し過ぎる心を守る為に)(罪悪感を抱いている事を知られたくないだけだろう?

「ま、合格したら考えてやらない事もないけどな。但し、お前の一存で裕也君を巻き込むんだったら駄目だ。ちゃんと裕也君の希望を聞く事」
「大丈夫だって。だってこれ、ユーヤの父ちゃんが『此処ならオッケー』っつってた学校だもんよ」
「判り易い嘘をつくな。あの紳士がそんなフランクな訳ないだろ」
「嘘じゃねーっしょ!ユーヤが『反対するなら絶交する』っつったら、『日本で一番難しい学園ならオッケー』って。その代わり『受かったら』ってさ、親父と同じ事言ってた」
「絶交が脅しになるのか」

大人の綺麗事で子供は、一足飛びに大人にならざるえないのだ・と。
(どうして気づいていた癖に、あの日)























「…悪いな、親父。お袋。ちょっと遅くなった」

抱えた花束を下ろしながら屈み込めば、此処まで案内してくれた父親の幼馴染である住職は、ぽんと頭を一つ叩くと無言で去っていった。いつまで子供扱いなんだと苦笑いが出もするが、嫌な気分はしない。親子水入らずで尽きない話でもしろと、恐らくはそう言う事なのだ。

「似合わない気遣いしてると思わないか、なぁ。あれで根は優しい奴なんだって、アンタいつも言ってただろ」

子供の頃は何度叱られたか。この破戒僧がと何度も罵ってはこの糞餓鬼がと追い掛け回されたのも、遥か昔の話。良い思い出とまでは言わずとも、それに近い所まで昇華しつつあるのだろう。

「…何だかな。飛行機の中じゃ、話したい事が沢山あり過ぎて、これでも悩んでたんだけど。此処に着いたら、片っ端から忘れちまったよ」

それだけの月日が流れているのだと、今更ながら噛み締めた。
あれほど元気だった両親が、まさか殆ど時同じくして亡くなるとは思ってもいなかったから尚更、そう言えば今の自分と大差ない年頃で子供を作ったんだったか、などと他人事の様に考えてみる。

「相変わらず、この辺は何処に居ても波の音が聞こえんなぁ。昔は煩ぇって思ってたけど、今はそうでもないや」

平凡な家庭だっただろう。共に教師だった夫婦は共に子煩悩な人柄だったけれど、一人息子を授かったまでで終わってしまった。その一人息子が馬鹿だったと言うだけで、彼らにはどれほど迷惑を掛けたか知れない。
潮風が北から運ばれてくる。海岸からはやや離れた高台の霊園には、盆でもなければ立ち寄る者はほぼない。昔は田舎だ辺境の地だと事ある毎に吐き捨てた覚えのある故郷は、それでも今よりずっと賑やかだったと思う。

「…悪い、先に線香立てなきゃだっけ。それより先に、まず水を掛けるんだっけ?」

素直に受け入れられる年齢になったのか、それとも今だけ感傷に浸っているからか。

「お陰様で仕事は順調だよ。だけど仕事ほっぽり出して俺がアンタらに会いに行ったら、親父の事だ。そんな責任感のない奴は息子じゃないって、怒ったっしょ?」

一人きり。
両親の最期にも間に合わなかった、親不孝な息子の話だ。両親の危篤の知らせを受けても顔色一つ変えず、喝采に包まれていつも通りタクトを振り続けた。それが仕事だからだと言えばそれまでだが、今となれば、ピアニストではなく指揮の道を選んで正解だったのかも知れない。
あの日、あの舞台上で、指揮者の傀儡人形の様に正確な音を刻むオーケストラの中に、奏者として紛れていたのだとすれば。今頃どんな恥を晒していたのか。

「過去最高に情熱的な第九だったって褒められたよ。あー、や、皮肉だったかも知れないわ。…あんなん、聞き分けのない駄々っ子みたいに、我武者羅で振り回してただけじゃんな。ヤケクソとも言う奴だ」

言葉の使い方には厳しかった母親は、それ以外の所では穏やかな性格だった。昭和の妻はこうあるべきとは流石に言わないとしても、旦那をそっと支えながら生き抜いた人だった。
思い出は次から次に湧き出して、ゆっくり、じわじわと後悔が襲ってくるのを静かに受け入れるばかり。けれど口にはしない。


「………仕事、断りたくなかった。最後まで親不孝な息子でごめんな」

しないのではなく出来ないだけでしょう、と。在りし日の母なら、ほとほと困り果てた様に言ったのだろうか。父親なら呆れた様に肩を竦めながらも、黙って諦めた様に息を吐いて、釣りに行くぞ、と。幼い頃の様に、釣竿とバケツを抱えて誘ってくれたのかも知れない。

「金が要るんだ。もしかしたら要らないかも知れないんだけど、それならそれで有り難い事だと思ってる。でももし必要になった時、例えばそれは俺が生きている間かも知れないけど、死んだ後かも知れないからさ」

何を言っているのか、天国の両親は判るだろうか。
今の今まで誰にも話して来なかった。高野省吾と言う70億分の1でしかない矮小な人間がたった一つ、出来ればこのまま死ぬまで誰にも言わずにいたかった秘密。耐え切れなくなったのかも知れない。

「健吾の腎臓も肺も心臓も、成長と共に修復されていくって言われてる。でも癒着の程度にもよるそうだ。下手したら部位によっては育たなかったり、何年も経って後遺症が出る恐れもあるんだと」

いつその日がやって来るのだろうと怯えている弱い息子に、空の上から見ていても気づかないで欲しいのだけれど、もしかしたらとっくに気づかれていて。だから何も言わずに孫を預かり、育ててくれたのかも知れないと考えてもいる。
幾ら子沢山に憧れていた子煩悩な元教師夫婦だったとしても、彼らは優し過ぎた。たった一人しかいない馬鹿息子を甘やかして、最後の最後まで親不孝を貫いても最後の最後まで縁を切らずに、別れの言葉もなく旅立って行ってしまった。

「ごめんな。親父もお袋も俺の我儘で困らせてばっかだったのに、…それでも俺ぁ、健吾のが大事みたいでさぁ」

せめて、この体が生きている内に。
いつかこの体が滅びて、先立った両親に現世ではない何処かで再会し謝罪した後にでも、万一残された息子に何事かあれば。その時はもう何もしてやれないのだから、今の内にその時に備えた蓄えをしておくべきだ。親であるから。あの子は、たった一人の息子であるのだから。

「…敬吾も可愛いとは思うのに、てんで違う。俺にも聞き分けられない様な、極些細な音ズレで健吾は楽器をやめちまったのに。健吾より遥かに劣る俺はまだ、指揮棒にしがみついてる。みっともないだろう。…全く、凡人ってのは嫌になるよ」

ゆらり、ゆらり、ゆらゆら。
立ち上る線香の白煙を見送れば、青空へと辿り着く。


「でも俺は、健吾が生きてる奇跡に縋りついたまんま。…どんなに惨めでも、生きてくよ」

詫びるのは心の中だけに留めた。
男が簡単に謝るものじゃないと、天国から昭和を生きた父親が怒鳴りそうだろう?

←いやん(*)(#)ばかん→
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