帝王院高等学校
そのおケツに敷かれるなら本望です!
「アレクサンドリアには、それほど似ていないな」

節張った男の手は、掌がテカテカと脂ぎっていた。
一際太い親指は今になると大して長くはなかった筈だが、その時は自棄に悍ましく思えたものだ。

「ヴァーゴはサファイアとエメラルドヘーゼルのアシンメトリーアイズだと聞いているが、お前の瞳は煮詰めたハニーシロップの様だ」

両手足を縛られて、口には猿轡。
ふと目ざめて真っ先に外されたのは目隠しだけで、視界一杯に映り込んだ初めて見る男は、その時までに見てきた大人の男達の誰にも似つかない、まるで化物の様だった。
けれど忘れたくても忘れられない光景とは、あれの事ではない。

「ふん」

何に興奮しているのか、名前も知らない男は荒い息遣いで、ひたすら全身を撫でてくる。脱がされたのはシャツだけ、ふにふにと何度となく脇腹を擽られながら出来た事と言えば、ただ見つめるばかり。

「然し日本語しか喋れんとは、庶民の娘は無粋な真似をする」

いや。本当は何度か、呟いたかも知れない。けれどその時の言葉は結局、一つも伝わらなかったのだ。苛立った様に手を振り払う男から、殴られる度に忘れてしまったけれど。

「まだ2歳だったか。もう少し育っていれば他に楽しみ様があったのに、…まぁ、少しずつ慣らしていけば造作もない事か…」
「旦那様、マダムの従者からご連絡が」
「何だと?まさかバレた訳じゃないだろうな…っ」
「その点はご安心下さい。恐らくは、先日香港へ送られたヴァーゴに関しての話ではないかと」

いつも通りの筈だった。
母親が親しくしているご近所さんに呼び掛けられて、庭先の異様に背が高い石垣から道場側へと走り寄っていき、編み込んだ竹の柵越しに挨拶をして、確か、初めて見るおやつを貰ったんだったか。

「…それなら良いが、暫く屋敷に人を近づけるなよ。アレクサンドリアは庶民の娘だが、アラン大叔父は目と鼻の先のマンチェスターだ。アレクセイの件で、過去最高に本家と折り合いが悪い」

あれは、何と言うお菓子だった?
キラキラと、光を反射して輝いている様に見えたのに。頬張ると笑みが零れるほど甘く、ホロホロと舌の上で溶けていったのに。

「マダムクイーンは何を考えているのか。アレクセイの墓を建てたかと思えば、亡骸を取り返しもしない。叶桔梗が寄越したのは一通の手紙だけで、マダム宛ての親展文書だ。中身は誰も知らない」

どうして。
(ごめんなさい、と)(悲しげな顔で呟いた人の顔はもう思い出せない)(優しい人だった気がする)(顔を合わせる度におやつをくれた様な)(忘れてしまったけれど)
どうして、今はいつもと違うのか。
(苛立たしげな男の荒っぽい手が全身を這っている)(恐怖なのか嫌悪なのかも判らなかった)(判ったのは、彼らが話す会話の殆どが判らないと言う事だけだ)

「正統な血筋を鑑みれば、分家の末娘が産んだアレクセイの子供らが最優先に決まっている。叶が隠していたとは言え、行動していれば苦労はなかったのだ。だと言うのに、マダムは一人目の乙女を見殺しにした」
「旦那様、その辺で…」
「ふん。これが嫡男として認められれば、後見人確実の私が公爵なのも同然。老い先短いマダムに早々ご退場願いたい所だが、…女は無駄に長生きしてくれるから困るわ」

それは地獄の始まり。けれどほんの数ヶ月の事。
数日に一度やって来た男は、日本語を口にすると鞭で何度も叩いてくる。脇腹や二の腕、太股、柔らかい所ばかり何度も強く噛まれた。内出血した歯型が消える前にまた、繰り返される。

だから必死で言葉の欠片を集めた。何度も何度も気色悪い男に触られては叩かれ、噛まれ、舐められる屈辱から早く抜け出したい一心で。

やっと異国の言葉を理解する頃、男がやってくる度にわざとらしく舐めていた飴玉の意味が判ったのだ。蜂蜜色のべっこう飴、メープルの香りが微かにするそれをわざとらしくボリボリ噛み砕く男は、『お前の瞳の様だろう』と厭らしい笑みで宣っている。

すぐに慣れた。
恐怖なのか嫌悪なのか判らない暗い感情にも、終わらない痛みにも、一日中降ろされたブラインドの向こう側を知らない事にも、すぐに。それだけの時間はあったから。

忘れていくと言うよりは、麻痺していく。日常がすり変わっただけだ。
穏やかで幸せだったあの日は夢だったのか、それとも今の状況が夢でしかないのか。どちらにしても、どんな状況でも人はいつか慣れていくのだと言う事。新しい言葉を覚えた代わりに、話し相手のいない初めの言葉が消えていった。けれどそれを悲しいと思う事もない。幼さ故の無知が精神を救ったのか、その逆なのか。



「漸く会話が通じる様になったかと思えば、何だその面は」
「…」
「先頃、貴様の愚かしい父親から無礼な連絡があったそうだ。残念だが気高い獅子の女王は、脆弱な島国で虎を名乗るマフィア崩れなど相手にしない」

甘い甘い、キャンディーや菓子ばかりボリボリと喰らう男が近寄ってくる度に、その匂いに吐き気がする事だけが、どうしても慣れない。

「手枷を解いて欲しいか、ベルハーツ」

己の名前ではない名詞で呼ばれる事にも、とっくに慣れている。つまりこれは自分の出来事ではないのだ。ベルハーツ=ヴィーゼンバーグと言う、何処かの子供の出来事だと言う事。
本当の自分はきっとすやすや眠っていて、ひたすら長い悪夢を見ているだけに違いない。

「暫く下手に動けんからな、暇潰しにお前で遊んでやろう。クイーンズイングリッシュを覚えるより遥かに簡単な事だ、まずは口を開けろ」

悍ましい男の悍ましい下半身を突きつけられて、舐めろと言うから噛み砕いてやったら脊髄反射で顔を蹴られた。でもそれは、自分の顔ではない。ベルハーツと言う、だから何処かの誰かに起きた悲劇だ。

「この餓鬼…!」
「おやめ下さい旦那様!殺してしまっては、価値がなくなります!」

つまりは、他人事。





男の要求は時を重ねる度に悪化していく。(その度に慣れていく)(古い記憶はすっかり塗り替えてられていて)(幸せだった頃の事は遥か過去の奥底に)(祈った所で無駄だと何故か知っている)(助けてくれと言う言葉を知らなかったからだ)
撫でられる事にも、噛まれる事にも、舐められる事にも、舐める度に意識が曖昧になる飴玉を放り込まれる事にも、何ら反応しない子供のそれを楽しげに弄ぶ男の気色悪い笑みにも。

「小さい穴だ、これじゃ使い物にならん。縁を幾らか切って広げれば、使い道もあろうが…」
「Have to go away, stupid.(とっとと失せろ、間抜け野郎)」
「お前の悪態など、怯える子犬の威嚇同然だわ。大人しく媚びへつらいながら咥えていろ、他に使い道がない弱者は」

慣れた。ホラー映画を繰り返し観ている様なものだからだ。
最早何も感じない。噛みついて殴られる事にも慣れているが、早々と射精させた方が楽だと判った。間抜けな男が間抜けにも下半身を晒したまま、幼い子供の前であられもなく喘ぐ様はホラー映画所かコメディではないか。

「ぶっ殺してやる」
「出来もせん事をほざくな。だが、獅子を継ぐプリンスはそのくらいでなければ」

ああ、何度見ても無様な笑顔だ。
急所を躊躇いなく晒す馬鹿な男、隠したナイフの場所もピストルの在処も、とっくに知っていると言うのに。










その日、何があったのか。
酷く不機嫌な顔で帰ってきた男は、花瓶やカップを投げつけた。

訳が判らない事を繰り返し吠えている。

アレクサンドリアとは誰の事だろう。
虎がどうだと暫く喚いたかと思えば、漸く、男は焦点の合わない目を向けてきたのだ。






「ああ、私の帰りを待っていたのかベルハーツ。寂しかっただろう。今から可愛がってやるから、ベッドに行きなさい」

屋敷中の従者が顔を逸らした。男がいつも以上に横柄な態度で暴れ回っても、止める人間は何処にもいない。メイド姿の若い娘が裸に剥かれても、泣き喚いているにも関わらず、陵辱されていても助ける者はなかった。
いつからか手枷や足枷は簡易なものになっていて、ブラインドが下がったままの窓辺には近寄れないながらも、部屋を歩き回れるくらいの長い鎖で繋がれる様になっていたのだ。

「優しい私が、お前を大人にしてやろう」

可哀想なメイドの泣き声から目を逸らしたまま、他の大人達が見て見ぬ振りをしている隙を見て、鈍く光る鉄の塊をシャツの内側に忍ばせた。退屈な時はいつも映画を観ていたから、読みふけた本にも書いてあったから。大丈夫、やろうと思えば出来ない事などないのだ。

「このナイフで切る時に少しだけ痛むだろうが、その先には快楽だけが存在している。怖がる事はない」

鈍く光るナイフを、いつも通りの気色悪い笑みを浮かべた男が握っている。食べなさいと飴玉を握る手が伸びてきたが、いつもなら素直に開いた唇を閉じたまま、シャツのボタンを開いた。

「な、」
「Be afraid, stupid.(ビビてんのはテメェだろ、間抜け野郎)」

心臓に最も近い左手。
人差し指で引いたトリガーの次に凄まじい音が鼓膜を貫いて、左腕が吹き飛ぶ様な衝撃。

「っ」

ベッドから転がり落ち何分経ったのか。
幾つもの足音がやってきた頃に起き上がれば、真っ白なシーツは真っ赤に染っていた。裸の男と共に、握り締められたナイフさえも。



「っ、日向!」

ああ。
違う、これはベルハーツの物語なのだ。だから振り向いてはいけない。とても聞き覚えのある、例えば祖父の声に酷く似ていたとしても、振り向いてはいけないのだ。

「遅くなって悪かった…!じーちゃんだ、判るか?!」

振り向いたら、目を逸らしていた地獄が現実のものになってしまう。

「じ、ぃ、ちゃ…?」
「日向…!」

どうして。どうして。どうして。
だってまだ、目覚めていないのにどうして、この悪夢は終わらないのだろう。(どうして抱き締めてきた祖父の体は熱い?)(どうして表情を削げ落としたかの様に無表情な父親は)(腹を押さえて蹲る男の髪を無表情で鷲掴んだまま)(日向からゆったり取り上げた鉄の塊を)(苦しむ男の口の中へ、押し込んだのか)

「漸く会えたじゃねぇか、糞野郎。糞が糞なりに逃げ回りやがって、まさかロンドンに別荘を用意してるとはなぁ…」

祖父はいつも顰めっ面をしていて、父親はいつもデレデレしている。高坂日向の短い人生に於けるささやかな記憶は、それが日常の筈だった。
だから目の前の男はきっと、父親にそっくりな別の誰かだ。だって言葉がそう、最早忘れ掛けているいつかのそれと違って、日向が喋っている英語とも少しだけ違う。それとも、忘れているだけで父親はこうだったのだろうか。にこりともせず、冷たい眼差しで他人の口に銃口を突きつける様な、そんな男だったのだろうか。

「しょうもねぇ粗末なもん放り出して、テメェ俺様の息子に何しようとしてたんだ?おい、勿論懇切丁寧に説明してくれるんだろう、紳士の国の人間なら」
「あぎゃあああああ!!!」
「何語か判んねぇなぁ、人間様の言語忘れちまったか?…あ?おい、何処に逃げるつもりだ雑魚が。舐めてんのか白人、おい、何とか言えや、ヤクザに喧嘩売ってタダで済むと思ってた訳じゃねぇよなぁ、おい」

振り上げられた長い足が、晒されていた真っ赤な男の股間を無言で踏みつけた、恐ろしい程の悲鳴が轟いて、日向を抱き締める祖父の力が強まる。

「おら、何とか言えっつってんだろうが!こちとら一思いにぶっ殺してぇのを必死で我慢して縊り殺す方向に調整してやってんだよ!誰の餓鬼に手ぇ出したか、その汚ぇ口でほざいてみろ!豚が豚みてぇな悲鳴上げてんじゃねぇぞ、起きろゴルァ!簡単に死ねると思ってんのか、ああ?!」
「馬鹿野郎向日葵、日向の前だろうが…っ!」

判っているのは、祖父や父親に似ている大人達の誰もが、同じ色だった事だけ。










盆に庭先に咲く花の様に。
(世界はただただ、真っ赤だった)













真っ赤だった。
暑くて寒くて苦しくて煩かった、明るくて暗い雷鳴の下。

濡れそぼる大地にしがみついて、いつか見た鈍色の銃口を背に、抱きしめ続けたのは曼珠沙華の様に赤い、赤い、何か。

「おい、起きろ!寝るなって、おい!」
「Don't be afraid, angle.」

叩きつける雨から遠ざける様に、せめて少しでも濡れてしまわない様に。汚れてしまわない様に。あの日の誰かの様に、長い長い悪夢に麻痺してしまわない様に。あの日さえ願わなかった言葉を今なら、言えそうな気がするのだ。

「っ、誰か…!」

そうだ。あの時、猿轡を外されていたにも関わらず、言えなかった言葉がある。

「誰か、ジーザス、神様…!頼むから誰か、コイツを助けて…!」

例えば、お父さんお母さん
















「通りゃんせ」






居るのだとすれば、神様。






















「…ん、まぁ、こんなもんか。何とかなった」

鏡の前で仁王立ちしている男が満足げに頷いているのを横目に、軽いとは言えない溜息を吐いた高坂日向は、ペットボトルを手探った所で眉を跳ねた。窓辺の縁に置いていた筈だが、気の所為だっただろうか。

「何本か抜けちまったから、トリートメント行っとくか。いや、もういっそ切っちまうか…」
「…」
「おい、テメー何とか言えや。話し掛けてんだろうが。シカトすんな」
「あ?独り言だったんじゃねぇのか」

賑やかしいカルマの一人が気遣って買ってきた訳ではなく、単に品揃えの悪い自動販売機のボタンを片っ端から押した所為で、誰からも選ばれずに残ったのがアイスティーだった。持てるだけ買ってきた、と言う割りに何本も抱えてきたのだから、流石は工業科のリーダー格と目される竹林だ。カルマ副総長、自称カルマの母とほざくパトロンの財力に甘えているとしても。

「何で一人じゃねぇのに独り言なんか言うんだ、訳判んねぇ事ほざきやがる。ボケたか?」
「ボケるか!…ちっ、馬鹿の相手してると無駄に疲れる」
「誰が着替え貸してやったと思ってんだ。言っとくが俺は馬鹿じゃねぇ、総合得点じゃ毎回テメーと大差ねぇだろうがハゲ猫」
「あ?何でテメェが俺様の点数知ってんだ、キメェ事抜かすなストーカー犬」

嵯峨崎佑壱の髪の毛事件、と言う訳が判らないトラブルに図らずも巻き込まれ、一息つこうと思えば、売れ残りのペットボトルがどうも見当たらない。

「誰がお前なんかに付き纏うか、糞親衛隊と一緒にすんな。大体、ストーカーっつーのは根暗がやるこった。叶みてぇな陰険が」
「…笑かすな」
「笑うっつー事はテメーも思ってるっつー事だろうが」

我ながら下らない口喧嘩をしていると呆れ半分、ひょいっと蹴る真似をしてきた佑壱の足を軽く躱して辺りを見回すも、目に入ったのは缶コーヒーのボトルだけだ。丁度そのボトルを手に取った佑壱が、キャップを捻りながらパチパチと瞬いている。

「先に目薬差しとけっつっただろうが。テメェ、何回溺れそうになったか覚えてねぇのか」
「そんな事にはなってねぇ」
「犬畜生に言っても理解出来ねぇだろうが、現実から目を背けても得する事はない。余所の家庭に首突っ込む暇があったら、大人しく犬掻きの練習してろ」

メキョっと佑壱の手の中でスチールが歪んだが、何やかんやで日向に助けられた様な気がしなくもないと思わなくもないのか、奇妙な表情でぐるぐる唸っている。野良犬の威嚇にも、喉を鳴らして甘える猫にも見えるが、見た目は180cmを超えた立派な男だ。
何か言い返してくるだろうと佑壱の言葉を待った日向は、然し凹んだボトル缶を無言で撫でているだけの佑壱に眉を跳ねた。

「たけりん。ユウさんが高坂と並んでて大人しくしてるの、何か変な感じだよね〜」
「まつこ、思ってても口に出さない方が良い事ってあるよね〜」

何を謙遜しているのか知らないが、教室ごと地下へ埋まった佑壱を助けに行った身で逆に庇われた挙句、果ては怪我までさせたとあれば、叶二葉辺りなら腹を抱えて崩れ落ちる話だ。

プライドの高い赤毛の王子様ならば、例えばミサイルを前にしても同じ事をしたに違いない。今黙り込んで唸っている様子を見ても、もう少しうまく助けられた筈なのになどと、自責の念を多分に含めて、後悔しているのだろうか。
ただの我儘野郎かと思えば、訳の判らない所で自己評価が低い所があるのは、対外的に褒める所しかない全知全能の従兄を持った所為なのか、日向には判らない。
こそこそと作業着らがこれみよがしに囁いているので、軽く睨んでおこう。黙らせるのは簡単だが、今現在、騒いで許される場ではない。

「良し、コーヒー飲んだら行くぞ」
「あ?何処に」
「テメーは何を聞いてやがったんだ馬鹿猫、隼人の親が来てるっつってただろうが」
「それがどうした。首突っ込むなっつっただろうが、人の話を聞けや」
「どっちがより隼人の母親に相応しいか、見定めねばならん」

ゴキリ。ああ、素晴らしい音だ。
何を粉砕するつもりか知れないが、その悍ましい右手が発てた音は、本当に人類の手が奏でたものなのか。霊長類最強と謳われるゴリラがヤシの実を潰す様な音だが、スチール製のアイスコーヒーボトルのキャップを捻っているだけに見える。そう、眺めているだけならの話だ。スチール製で良かった。アルミ製だったらまた事件が起きたかも知れない。

「本音を言えばシャワーくらい浴びてぇ所だが…ぐびぐび、ぷはーっ。ちょ、UCC…う、美味い?!どうなってる、最近の缶コーヒーは此処まで美味くなってんのかコラァ?!」
「デケェ声出すな、またご隠居に叱られんぞ」
「つーか、テメーは何で総長の曽祖父様と面識があんだ。素直に吐かねぇと、痛い目に遭わすぞ。淫乱の癖に」
「誰が淫乱だ。大体、遠野総合病院は俺様が産まれた病院だっつーの」
「…マジかよ」
「親父は俊江さんの幼馴染みで、お袋は留学中に俊江さんと知り合ったらしい。まさかあれが俊の母親とは思わなかったが…」
「俊江姐さんに気安く近寄んな。俺が全世界で唯一崇めてる女性だぞ、覚えとけ」

シャツのボタンを留めて、ネクタイを首に回し掛けた佑壱は湿っぽい眼差しで日向を睨み、プイっとそっぽ向いた。全く似合わない可愛らしい仕草だが、心のアルバムに連写している場合ではないだろう。
湿っぽい視線は佑壱だけでなく、嫌ににこにこしている小林守矢や保健室の脇にある扉に張りついている西指宿麻飛からも、何故か日向に注がれている気がする。西指宿に関しては目が合う前に逸らされるので構う事はないが、学生時代の父親を知り尽くしていると言う小林の方は一筋縄ではいきそうにない。

「つーか、お前紅茶は?もう飲んだのかよ」
「いや、さっきから見当たらねぇんだよ。別に構わねぇがな」
「健吾!」

別に構わないけど、と言う言葉尻に佑壱の怒声が覆い被さる。目を丸めた日向を余所に、ベッドで布団に潜り込んだ後輩らの周囲に立っている作業着らは、佑壱の睨みから逃げんばかりに目を逸らした。

「おい、倭。竜。高坂の紅茶、何処やった」
「午後の紅茶を正午に飲むから美味いっつって、さっきケンゴさんがパクってた〜」
「無糖だったから一口飲んでユーヤさんに押しつけてた〜」
「おい、レジスト!テメー、何で止めねぇんだコラァ!」
「えっ、俺?!」

哀れ、何も悪くないのに佑壱から怒鳴られた平田洋二は頭を掻きながらごめんなさいと呟き、飲みかけのソーダをそろそろと差し出してくる。

「ご、ごめん、高坂副会長。これで良かったら飲んでくれ…」
「いや、気持ちだけで良い」
「そう言う訳には…!紅蓮の君が睨んでるし…!」
「…後輩相手にビビってんじゃねぇっつーの」
「ビビるだろ普通!逆に何で平気なんだよ、カルマだぞ?!」
「それがどうした、保健室で騒ぐな。唾が飛んでくんだよ」
「これだからABSOLUTELYは!何だよ!同じ副総長だろ、俺の気持ちも汲めよ!」
「嵯峨崎も副総長だろうが。何が言いてぇんだ、テメェは」

他人の飲みかけに口をつける勇気など、残念ながら日向にはない。遠慮するなと詰め寄られても殺意が増すだけ、唾液まみれのペットボトルなど近づけるなと喚き散らしたくなるだけだ。
泣き真似している平田を横目に、健吾が潜り込んでいる布団をジト目で睨んでいる佑壱は、こそっと顔を出した健吾がすぐにまた隠れたのでゴキャっとボトル缶を潰したが、中身は空だった為に事件は起きない。

「おい、ユーヤ。テメーが飲んだなら新しいの買ってこい」
「あー、心底面倒臭ぇぜ。まだ入ってっから返せば良いんだろ、返せば」

布団に潜り込んでいる健吾の背中に覆いかぶさった裕也が、欠伸を放ちながら布団を捲り、エメラルドの瞳を眇めてペットボトルを投げてきた。確かに半分ほど入っているが、開封済みは明らかだ。

「糞程要らねぇから飲んで良い。どうでも良いから帰らせろ、こちとら一時でも早くシャワーを浴びてぇ所だ」
「俺だって髪洗いたいの我慢してんだろ。我儘言うな」
「あ?何が我儘だと?」
「うっ。肩が…痛い…」

他人の体液にも出来れば触りたくない日向に、最低でも二人が口づけたペットボトルなど凶器以外の何物でもなかった。何の精神的虐待なのだと怒鳴り散らしたい気分だが、己の弱点を晒す様なものだ。

「何でこんなに肩が痛いんだろう、まだ17歳なのに四十肩になっちまったのかも知れねぇ。誰かの所為で…」
「テメェ、マジ此処が保健室じゃなかったら蹴り倒してっからな」

わざとらしく肩を押さえたままペットボトルを差し出してくる佑壱に舌打ちを噛み殺し、渋々受け取った。飲まずに捨てようと仕方なく手を伸ばせば、ガシッと佑壱から腕を掴まれた。

「おい、ちんたらしてんじゃねぇ。行くぞ、要に任してたら収まるもんも収まらなくなっちまう」
「っ、おい?!何で俺様まで、」
「テメーは俺に一人で行けっつーのか!俺はお前、アレだぞ?!」
「はぁ?どのアレだ、はっきり言え」
「アレはアレでアレしかねぇだろうが!判ってんのか!」
「判るかよ。馬鹿か」

凄まじい勢いの佑壱が顔面の近くで喚き散らし、日向の顔に唾が降り掛かる。
アレとは何だと豪快に眉を跳ねた日向を余所に、カルマ一同はしゅばっと顔を合わせたのだ。まさかアレで判るのかと瞬いた日向の前で、赤毛はうろちょろ忙しない。

「あ、ユウさん上がり症だったっしょ(´ω` )」
「人見知り拗らせてるもんね〜。でもカナメさんと榊の兄貴も居るんだろ?大丈夫なんじゃないかしら〜」
「あ、もしかしたらさっき総長が神帝からセクハラされてたって言っちゃったからかも、まつこが」

こそこその音量がデカくないか。
ビタっと動きを止めた日向と佑壱の目が合い、何故か日向は睨まれた。まるで『お前が会長を躾けないから悪い』と言わんばかりの目だが、あれが思い通りになる人間だと思うのかと、許されるなら三日程語り尽くしたい。何故自分があれの右腕の様な副会長などをやらねばならないのか、やはり四日は愚痴らせて貰えないだろうか。何せあれなのだから。
あれとはあれだ、帝王院神威の事だ。

「普通の心境じゃ上がっちまうから、見てるだけで胸糞悪ぃ光王子を同席させて、怒りで羞恥心を忘れる作戦かよ」

しれっと呟いた裕也の言葉の棘が日向に突き刺さる。
近頃の後輩には人を慮ると言うスキルが枯渇しているのだろうか、いや二葉にもそんなスキルはなかった。然し言葉尻に乗って喚き散らせば、日向が恥をかくだけだろう。

「…テメェ、上がり症ってのは仕事サボる為の言い訳じゃねぇのかよ」
「別に上がってねぇ。こう、不特定多数の良く判らん人間の前で発言すんのが好きじゃないだけだ」
「笑かすな、ンな派手な見た目しといて説得力ねぇんだよ。神崎ん所に行きたきゃ、テメェ一人で行け。人を巻き込むな」
「じゃあもう良い、あそこで盗み聞きしてる阿呆を連れてく」

くいっと佑壱が親指で示した先、日向の視線を感じたのか振り返った金髪が、紫のメッシュが混ざる前髪の隙間で目を丸めた。合わせるつもりがなかった視線が合ったからなのか、単に日向の表情があれだったのか。

「…ウエストなんざ連れてって、どうするつもりだ。拗れるのが目に見えてんだろうが」
「一応、あんなんでも自治会長っつー肩書きがあんだろ。俺よか阿呆だけど」
「あ?自治会長がどうした、所詮権限差異で二葉にも着信拒否される程度の雑魚だろうが。失せろウエスト、糞程目障りだ」

尊敬する中央委員会副会長から恐ろしい目で睨まれた高等部自治会長は、風紀委員長から苛められている時以上に青ざめると、無言で扉から離れた。

「結局ついてくんだ、付き合い良いね〜」
「ほら、ウエストってハヤトさんの兄貴な訳だし。本妻の子供が愛人一家に混ざるって、昼ドラ過ぎる訳だし」
「つーか、ハヤトを引きずってったっつーカナメは何企んでんだよ。脅して金巻き上げるつもりじゃねーか」
「だからユウさんが慌ててるって事?」
「ユーヤさん、流石にカナメさんがそんな事する筈ないじゃない。多分」

錦織要の悪い噂が流れている中、ビタっと日向に張りついた佑壱が深呼吸しているのが見える。

「おい、とっとと行くぞ」
「ちょっと待って、押すな、まだ心の用意が出来てないのにお前が押すから俺の心臓が飛び出た。その辺に落ちてるかも」
「落ちてねぇから落ち着け、もっかい深呼吸しろ」
「ヒッヒッフー」
「ちっ。…何を産むつもりだテメェは、おら、入るぞ」
「うっほーう!ばっ、コラ、押すなっつってんだろうがコラァ!」

あの中央委員会副会長が完全に佑壱の尻に敷かれている様な気配がしたが、それに気づいているのは、無意識で裕也の尻を揉んでいたオレンジ頭くらいだろうと思われた。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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