帝王院高等学校
あいうえおのあから飛び立ちます!
その日が偶然、眩しかっただけの事だ。
サマータイムにはまだ早い、けれど春とは言えない気温でのプールサイドは幾らか湿っぽく、他人が発てる騒音との相乗効果で常に増して煩わしく思えた。

「…暇」

何処かの誰かの様な台詞が口を衝いて、読み飽きた古びた数学史のハードカバーは散乱したまま。頼んでもいないのに差し入れと称して貢物を置いていく年上の生徒らは、目が合っただけで熱射病でも患ったのだろうか。一様に頬を染めて、頼んでもいないのに投げキッスを寄越してくる。

「うぜぇ」

ああ、日本語は楽だ。どうせこの界隈ではまず通じない。

「腹減ったけど動きたくねぇ。喉乾いたけど動きたくねぇ。借りてきた本が邪魔で寝転がるスペースもないけど、全部面倒だ。あー、怠ぃ」

左脳の活用を放棄した文系の群れは視界の外れ、見渡す限り左脳主義者の群れの中で長閑な午後を長閑とは程遠い気持ちで過ごしている今、書き殴った数式で埋め尽くされたルーズリーフが散らかっている事も煩わしくなってきた。散らかしたのは他でもない、自分だ。

「What's going on, Midnight sun?(やぁ、ミッドナイトサン)」

そんな時に限って空気を読むスキルに乏しい左脳主義者と言う生き物は、非合理的な行動に出てくる。自分の呼吸音が聞こえるほど退屈な時に、空を流れる雲にすら舌打ちが出てしまう様なこの刹那に、どうして正体不明な行動力を発揮するのか。
つい先週まではストーカーの如く温室周辺を彷徨いて、挙動不審に右往左往していた人間の分際で、揶揄い半分で話し掛けたのが運の尽きだと言うしかない。目が合う度に嬉しそうな顔をされても、面倒なだけだ。

気が向いた時以外に返事をしたくない、人間とはそんなものだろうと何処かの赤毛に言った事があるが、理解出来ないとばかりにビーフジャーキーを投げつけられた。直情的な人種と合理的な人種は、相容れないのだ。

「As you can see, I am always working just hard.(見たまんま、糞忙しく働いてる所だ)」
「Alright! What are you up to today?(ああ、凄い!今日はこれから何をするんだ?)」

舌打ちを噛み殺したのは、単に舌打ちするのも億劫だったからだ。
典型的に会話力がない理系男は、皮肉と揶揄を込めた台詞だろうと返事が返って来ただけで舞い上がり、大して広がらない会話を何とか続けようと頭を回している。そんな他人の心情など知った事ではないが、この手の人種に遠回しな皮肉を言った所で通じないと言うのが目に見えていて、だからと言って怒鳴った所で『何故怒っているのか判らないから教えてくれ』とほざくのが関の山だ。

「リチャード=テーラー」
「Yes.」
「テメェと遊ぶのはこないだ限りのサービスだ。理解しろ。んで速やかに枢機卿のケツ追っ掛けてこい、一生な」
「What?」

ああ、煩わしい。
喋れるのと脊髄反射は違うのだ。未だに自分が自然に使っている言語は日本語らしいと思い知った所で、今更英訳するつもりはない。どうせ何を言った所で目の前の学生は喜ぶだけ、何も彼もが無駄だ。とても。

「ミッドナイトサン、今のは中国語か?日本語か?君はやはり凄い、僕はどうも語学から見放されている様だ。恥ずかしい話だが州名のスペルも度々間違える程で、English以外に覚えられる気がしないんだよ」

こんな時に視界の外れからやって来ないだろうかと呪った所で、地獄の番犬はこの界隈には近づかない。何故ならば此処は、数学愛好者の数学愛好者による数字と方程式とウォールマーケットの挙動が会話の大半を占める、右脳の機能を母親の腹の中に忘れてきた合理主義者だけの楽園…もとい、理数学部エリアなのだ。
叶二葉が退屈を持て余し過ぎ、涼やかなプールサイドの賑やかしいベンチで夥しい数の貢物と言う名のプレゼントと数学関連の書籍に囲まれていようと、ケルベロスと名高い200ヶ国以上の言語を操ると謳われているファースト=グレアムは、残念ながら地球が縦回転を始めても此処へは近づかないに違いない。

「ああ、そうだ、そうだった、君はハリウッドに行った事はあるか。なんて事はない普通の町だが、娯楽は揃っているんだ。ラスベガスも良いけれど君にはまだ早いだろうから、そうだ!買い物はロスが良いかな!でも君の様に美しい子が歩く街じゃない、君の背景にはそうだな、オペラハウスが似合う」

何故なら、敷地外れの温室の主、たまに大学敷地内を歩いているだけで星条旗を振り回す生徒も見られる超有名人、イクスルーク=フェイン=グレアムは現在、語学部を片っ端から荒らしている。
何をさせても片手間仕事で極めてしまう、極めて天才と言うより他ない神の子は、つまり赤毛の文系覇者のテリトリーにおわすと言う事だ。暫く二葉のテリトリーは静かだが、カエサルルークの姿が見えない事と引き換えに、数学部エリアの目の保養役を引き受けねばならなくなったのは、どう考えても喜ばしくない。はっきり言うと面倒だ。金にならない貢物は悉くゴミ、肉以外の食べ物は悉く生ゴミ。

「それにしても、君の周りにはいつも沢山のプレゼントがある。でもまるで駄目だ、ミッドナイトサンが子供の玩具を貰って喜ぶ筈がないのにそんな事にも気づかないなんて、近頃我が校の生徒の質が著しく下がっていると嘆くよりない」

と言うかこの数学オタク…ではなく、大学院生は何をほざいているのか。口説くと言うスキルが明らかに枯渇している。語彙力はない癖に頭の回転は早いのだから、言いたい事が次から次に湧き出す度に吐き出し、脈絡がなくオチもない。返事があろうとなかろうと一人で喋り続けているだけ、問題なのはBGMにしては煩いと言う事か。

「こう言うトイはケルベロスにあげると良い。彼は大変聡明な子供らしいけれど、温室の片隅であれこれ干してるんだ。知ってるかミッドナイトサン、柘榴や林檎やとうとう最近はビーフを干していたそうだ」
「…」
「アラスカではサーモンを干す話は知ってるけれど、あれは何かの儀式なのかな」

ブライアン=スミスが目を掛けている生徒の一人、大学院卒業後は大学に残ると言う話を聞いた事はあるが、すぐに助教授辺りに食い込むだろう。それほどの素質があると、教職員らが噂している事も知っている。二葉に貢物を持ってきた内の一人が、理数学部の女性職員だからだ。
所であの暴走機関車…失礼、赤毛の王子様の悪戯にどう仕返ししてやるべきか。二葉が仕入れていた最高級プライムビーフを洗濯物扱いとは、余りに酷過ぎる。生肉は生肉でも、カラッカラのビーフジャーキーは好みではないのだ。血が滴るほどのレアが良い、何なら生きたままの牛を捌いて食したい程には。

「ケルベロスの髪は、見る度に長さが違うと言う伝説があるのは知ってるか」

ローストビーフの焦げた部分が無駄だと、叶文仁が呟いた朧気な記憶がある。
京都の食事はどうしてああも菜食に尽きるのか。夏は蒸し暑いわ冬は死ぬほど寒いわ、思い返すだに地獄の様な所だった。宮大工が建てたと言う築何百年か判らない、それこそ有形文化財の様な屋敷は風鳴りがして、夜は軋む音が耳についた。

「君はいつ見ても美しいけれど、変わるものと変わらないものを単純に進化と停滞で片付ける事は出来ないと考える。そうだ、数学はそれそのものは不変な論理だが、扱う分野によって変化する不変にして無限の存在と言えるだろう。どんな方程式にも回答は一つしかないけれど、もしかしらその考え方も間違っているといつか何処かの誰かが解き明かしてしまうかも知れないじゃないか」

アメリカへ渡ってからの二葉は、3食お肉ですくすく成長している。
すくすく成長しているにも関わらず、何度隙を狙ってもアルビノの王子様の息の根を止める事は出来ず、だから香港から何度せっつかれても無駄なのだ。無能な熊がどれほど吠えても、祭楼月の浅はかな企みは成就しない。あそこには扱い難い祭美月と、得体の知れない李上香がいるからだ。

「僕ならこんなナンセンスなプレゼントはしない。貰って嬉しくないプレゼントに価値はないだろう、君もそう思うだろうミッドナイトサン。良ければ今度の休みに街へ買い物へ行かないか」

暇過ぎる。大学生は暇だ。退屈だ。けれどどんなに退屈だろうと、無駄な時間の浪費に邪魔されたくない。人情だろう?

「く、車の免許を取ったんだ…」

愛想笑い一つ、二葉は日本語で『うぜぇ』『失せろ』と繰り返す事をやめた。通じない悪口は悪口として機能しない所か、疲れるからだ。主に声帯が。
大学構内で暴力沙汰を起こす訳にもいかないだろう。此処は人目があり過ぎる。

「…リチャード、ブライアンのゼミは年中無休でしたよねぇ?院生が暇してると思われますよ」
「!暇なんてとんでもない、僕はそう、き、君に会いに来たんだ!」

だろうな、とは言わない。隠す気のない恋心などに興味はないからだ。
どいつもこいつも、姿形や考え方が違えど反応は同じ、性的な目で見てくるか崇める様に見つめてくるか。その根底は、つまり情欲。無駄以外の何物でもないもの。例えば、報われない片思いで暴走している何処かの赤毛の様に。

「もう会ったじゃないですか」
「そ、そうだけど、いや、そうじゃないだろ…僕は…僕は…」
「あ、枢機卿があっちに」
「えっ、カエサルが…?!」
「居た様な気がしたけど、居ませんねぇ」

あれは崇拝に近いだろうか。いや、文系の論理など知った事ではない。二葉には理解出来ないからだ。単に面倒臭い。今は暇だ暇だと何もせず転がっていたいだけで、退屈を凌ぐつもりじゃなかっただけに。理系とはそんなものだ。

「そんな暇があるなら未解明の定理の一つでも解いたら如何ですか?懸賞金が出ますよ、莫大な」
「よ、良し、君の為に頑張ろう。解いたら真っ先に君に教えるから、期待しててくれ」
「ええ、期待してますリチャード=テーラー」
「僕の名前は発音が難しいのか。テーラーじゃなくて、テイラー。でも君がそう呼ぶのは、凄く可愛らしく聞こえるよ」

いそいそと去っていきながらほざいた男に対して、笑顔を凍らせた二葉は絞り出す様に『きもい』と呟いたが、二葉の台詞を正しく理解した人間はいない。だからこの場が左脳主義者のテリトリーで、脊髄反射で飛び出した台詞が紛うことなき日本語だったからだ。


「…ちっ。報われない片思いを拗らせて死にかけてる奴なんか、揶揄うんじゃなかった」

後悔先に立たず。
理由がなければ殴る事も出来ない社会の摂理は間違っている、などと宣えば二葉は即座に病院へ連れていかれるだろうか。太陽が眩しいだけでムカつくなどと宣えば尚更、精密検査だけでなくカウンセリングかも知れない。

「鬱陶しい野郎だ。俺に取り入って、ルークに近づく魂胆が透けて見える」

無駄なのに。まるで意味がない。
あの男には人類の全てが総じて須く無駄なのだ。どうして気づかない。あの男は既に、200ヶ国を優に超える言葉を理解し、膨大な懸賞金が掛けられた未解明の方程式を解き明かし、とうとう法学部や哲学にまで食指を伸ばそうとしている。二葉以上に退屈な、はっきり言うと空っぽな人間だ。

「プライベートライン・オープン」
『コード:ネイキッドを確認』
「枢機卿へ繋げて下さい」
『了解、コード:イクスへお繋ぎします。………99%』

例えば今朝、予言者の様にそれは呟いた。真紅の瞳が覗く白銀の仮面の下、赤い唇で。

「おはようございます、殿下」
『…そなた、昼は読書をするから呼ぶなと言わなんだか』
「おや、お昼寝を邪魔してしまいましたか?そんな事より、リチャードが来ましたよ。今朝仰ってた通りにねぇ」
『ほう、寸分の狂いなく想定通りか。つまらん言葉を並べ立てて、そなたの関心を引こうとしたのではあるまいな』
「気色悪い方ですねぇ、死ねば良いのに。今度は心理学に興味が向いてんのか?」
『何、ただの暇潰しにもならん瑣末事だ。ファーストにそなたが買い占めたプライムの話をした所、想定通り干し肉を作り始めた様にな』
「高かったんだがな、あの肉」
『100ドルか』
「200ドルだ。ムカつくから300寄越せ」

二葉よりずっと退屈を持て余した神の子は、昨日と何ら変わらない平坦な声で吐き捨てるだろう。

『ああ。既に今朝、300ドル送金している。確かめておくが良かろう』
「…それはどうも」

雲が流れた。ああ、また、眩しい。
酷く肉が食べたい気分だ。小憎たらしい真紅の瞳に良く似た、真っ赤な生肉を。

















Symphony primary Midnight.
真夜中の住人の凱旋曲












「…日本、ですか?」
「聖地の建前は良い隠れ蓑になるだろう。そうは思わんか」

眩しかった。何処までも。
騒がしかった。果てしなく。

「バレたら問題になりませんかねぇ」
「私に対して表立って事を起こす者は居るまい。居た所で、困る理由もない」
「ふふ、死にたがりの持論を振りかざされても理解に苦しみます」
「尤も、私を殺せる可能性が現時点で最も高いのは、そなた以外に存在しまい?」

湿度と温度と陽光と蝉の音に支配された世界の、ほんの一極集中した狭い何処かの話だ。ありふれた世界の一部、変わり映えしない日常のほんの一コマでしかない、だからつまらない話だと言っている。

「だろうな」

眩しかった。
騒がしかった。
暑かった。
苦しかった。





6度目の夏。
思い出したくないのに忘れられない夏








「ネイちゃん、おはよー」

薄っぺらい絵本一冊読むのも四苦八苦する様な子供と、分厚い数学史を小一時間で読み飽きてしまう様な右脳の機能を置き去りにしていた筈の子供が、ほんの数日、ほんの数十時間、つまらない会話をしただけの退屈な話だ。
起承転結などあってない様なもので、喪失がゴールだった。

「…おはよ、アキ。早くこっち来い、鼻の頭が焼けてる」
「えー、またアレ塗るのー?ベタベタするから、やだなー」
「…ベタベタする為にやってんだろうが、ばーか」
「あっ。バカって言ったほーがバカなんだよっ、ネイちゃんのばーか!」
「可愛くない事言ってないで素直にこっち来て日焼け止め塗るなら、にこってしてやるぞ」

眩しかった。何処までも。いつまでも。
騒がしかった。果てしなく。だから、毎日。

「ネイちゃん、にこってするとかわいーねー」
「まぁな。俺より可愛い奴は居ねぇ」
「まーねー、あきちゃんのお嫁さんだもんねー」
「だったら泥を捏ねるのやめろ。目を離した隙に勝手にどっかに消えて、懲りずに馬の骨のケツ追ってんじゃねぇ」

夜が来るのが煩わしい程に、世界には、視界には、小さな太陽があるばかり。
いつか煩わしく思った頭上の太陽になど、構いもしなかった。いつか煩わしく思った雑踏よりずっと騒がしい蝉の鳴き声にすら、構いもしなかった日の話だ。

「ふぇー、うまのほねってなーに?あきちゃん、うしのふんならねー、知ってるよー。あのねー、売れないんだよー」
「またドラクエの話か」
「うん、ドラクエ大好きー」

例えば、日焼け止めクリームを言い訳に、他人の肌を撫でる行為に無駄に緊張した日の。
例えば、視界の何処に居てもすぐに見分けられたあの日の、ほんのささやかな思い出話の一つ。

「ゲームと俺のどっちが大事なんだお前さんは、返答次第で泣かすぞ」
「んー、ネイちゃんのが大事かなー…あっ!アイス屋さん、きた!」
「…おい。抹茶と俺とどっちが大事、」
「まっちゃ!ヤス、アイス屋さんきたよー!」
「即答だと?ちょ、おい、待て、テメェ百円しか持ってねぇだろうが!今食ったら後からまた欲しがるだろ、我慢しろ!」
「うー。あきちゃん、かいしょー欲しいなー。あのねー、男はねー、かいしょーがないとモテないんだってー」
「誰から聞いたんだよ、それ」
「じーちゃん!かいしょーなしだから、ばーちゃんに捨てられたんだよー」
「意味判って言ってんのか」

あれを例えば(いつか自分が嘲笑った『人類で最も無駄なもの』だと気づいていたら)その瞬間、ちゃんと理解していたなら。そう、言葉にすれば(笑えるほど)単純な、恋心と呼べるものだと気づいていたなら。

「あきちゃん、コームインになるまで、かいしょーなし…」
「大抵の三歳児に甲斐性はない」
「あきちゃん、4歳だよ!だってね、だってね、つん君が4歳だって言ってたもんね!」
「お前の誕生日は」
「お正月のあと!」
「で、幼稚園は?」
「ねんしよーさん。でもね、でもね、ヤスはまだダメなんだって。喘息、苦しくなっちゃうから、駄目なんだよっ」
「元気そうに見えるがな」

じめじめと、疎ましい目で睨みつけてくる全く似ていない双子の片割れに舌打ちを噛み殺せなかった理由も、ポケットがついているシャツを好んで着ては、胸ポケットに小銭を忍ばせておくのが日課になった理由も、毎朝登る太陽を待ちわびた理由も、明らかだった筈だ。

「仕方ねぇ。初めの一本は買ってやるから、自分の小遣いは昼過ぎるまで取っとけ。あそこでうじうじしてる餓鬼呼んでこい」
「ヤス?」
「糞生意気なチビに、年上の甲斐性を見せつけてやる」

弟相手に勝ち誇らねばならなかったつまらない理由も、同じ事だ。
何故変わらないものだと容易く信じたのだろう。あれほど進化しないものを疎ましく思っていた癖に、期限付きの小旅行だと初めから判っていた癖に。本当は、すぐにでも帰りたかった癖に。

「あきちゃん、あきちゃん、おしっこ!アイス食べたいのに、どーしよ、もっちゃう!」
「黙って行けよトイレに」
「ダメー!抹茶売り切れちゃうー!」
「売れねぇから行ってこい。この糞暑い中、バニラと抹茶はワーストだ」

小さな島国で、好意を全く隠さない小さな子供は、けれど性的な目で見つめてくるでも、崇める様に見つめてくるでもなく、堂々と上から目線で『遊んでやる』と宣った。そこから始まったほんのささやかな物語、喪失へのカウントダウン、自覚しないままの初恋のほんの冒頭。

「…アキちゃんに気安く触るな、変態」
「デケェ猫が剥がれてるぞ、どチビ」

これはまだ可愛い冒頭の1ページだ。

「病弱はとっとと涼しい室内で、今にも落ちそうな葉っぱ見つめながら溜息の花だけ束ねたブーケに酔ってろ」
「はぁ?訳判んない事言わないでくれない、男の癖に女みたいな顔して気色悪い…!」
「男の癖にガリガリどチビが何かほざいたか、あ?病床に伏すか墓石に敷かれてろ虫けらが」
「男の癖に日焼け止めなんか塗ってるから幽霊みたいに真っ白なんだろ。うっぜ、兄さんが優しいからって図に乗るなブス」
「は。ブスから言われても痛くも痒くもねぇな、俺の美貌が理解出来ねぇとか視力と頭は大丈夫か、ブスチビ」

年下の子供相手にムキになった、余りにも情けない光景を思い出す度に笑えてくる。あんなみっともない真似は、他に覚えていない。

「僕のアキちゃんから離れろ変態女男お化け!」
「いつからアキがテメェのもんになった!弟如きがほざくな!」
「は?!アキは生まれた瞬間から俺のもんだろ!他人はお呼びじゃないっつーの!」
「抜かせ!蝉も捕まえられねぇモヤシが、誰に喧嘩売ってんのか思い知らされてぇのか…!」
「おしっこしたー!あれー?ネイちゃん、ヤスちゃん、ケンカしたのー?」
「「ううん、してない」」

猫被りが二人。中心には燦々と輝く小さな太陽が一人、たったそれだけの話。

「なんだー、ケンカするなら仲間に入れて貰おーと思ったのにー」
「アキちゃん、バトルはゲームだけにしよ?」
「何処まで好戦的なんだお前さんは。…で、トイレに行っただけで両手が泥だらけなのはどう言う事だよ」

夏には台風がつきものだと謳う島国の嵐は、分厚い雲と激しい雷鳴と共に太陽を覆い隠したのだ。

「あのねー、眼鏡のヤクザがいたからー、投げてきたー。アイツ、ちょいとかっこいー感じなんだよねー」
「あ、アキちゃん、ヤクザに泥団子投げたの…?!」
「眼鏡?…ああ、脇坂か。おーおー、恨めしい面で睨んでやがる。…んな事より、アキ。好みの顔を見掛けたら泥投げるのやめろ、俺のが美人だろうが」

それは空から、

「うん!ネイちゃんが一番美人!はいっ、アイス屋さん行こ?」
「よいしょが雑過ぎ」
「ネイちゃん、大好きー」
「…ふーん」
「アキちゃん、僕は?」
「ヤスちゃんも、大好きー」

そして、大地から。

「でもまっちゃが一番、大好きかなー!」
「「ちっ」」

最後に、自分からも。











(容赦なく奪っていった、起承転結のほんの『起』)














物語は暫く停止した。
喪失したとある子供は凍りついた世界で何ら変わりなく暮らし、どれほど凍りついていようとすくすく成長したのだ。例えばあれほど好きだった肉を一切食べなくなっても、すくすくと。

『再測定結果をご報告します。聴力、共にA。視力、0.1。0.007』
「おやおや。暫く面倒な仕事を引受けてしまった所為で、衰えましたねぇ」
『人工角膜に損傷は見られません』
「今の技術では現状維持が最大限、多くは望みません」

無情な世界の摂理。例えば大切な誰かが死んだとしても、地球は回り続ける。事実、昨日も今日も回り続けているではないか。時計の文字盤を回り続ける針の如く、変わらずに。

『現時点のスコアでコンタクトレンズをお作り致しましょうか?』
「…いや、レーシック調整しておきましょうか。片方だけ。補正は眼鏡で間に合わせます」
『了解。手配します』
『区画保全部よりご連絡差し上げます。コード:セカンド、応答下さい』
「おや、制服が着きましたか?」
『大変お待たせ致しました。強化素材で仕立て直したものをリブラセントラルへお届け致しましたので、来日後にご試着願います』

視力測定器から顔を離せば、ばさりと前髪が視界を覆った。久し振りに悠々自適な空の旅だ。パシフィックのファーストクラスも快適ではあるが、ジェット機をチャーターした方がずっと早い。

「正々堂々と入国しようと思い立ったのは良いとして、シャドウウィングに比べると大層遅いですねぇ、プラべートジェットは」
『マスターセカンド、レーシックの手配が完了しました。来日後すぐにご利用頂けます』
「場所は?」
『シンガポールです。政府要人より歓迎の返答が』

気が急いているのか。久し振りの故郷の島国を前に、叶二葉は意味もなく前髪を弄んだ。真っ黒な手袋で黒髪を摘む面白味のない視界、見ていても楽しいものではない。

「真っ直ぐ日本へ向かいたい所ですが、まさか赤道に近づくとはねぇ。体重が軽くなりそうですが、仕方ありません。ヴィーゼンバーグがうろちょろしていて目障りですからねぇ、今の日本は。生温い高坂君の所為で」
『畏れながら、ヴィーゼンバーグを取り潰す事は出来ません』
「ええ。考えなしのレヴィ=ノヴァが迂闊にもヴィーゼンバーグの娘を娶ったりするから、末代に遺恨が残る羽目に。…とは言え、キング=ノヴァが誕生していなかったら今のステルシリーはない」
『ステルシリーライン・オープン、対外実働部より通信が入りました。コード:ネクサスより応答要請』
「どうぞ」

あと少し。(太陽を失った地球は凍る)(氷河期だ)(それでも回り続けた)
ほんの少し。(地球に於ける重力の値は980Galほど)(回り続ける星の中で人が活動する為に必要なもの)(慣性の法則がなければ血液が正常に回る事すら難しい世界)(奇跡の連鎖が産んだ地球を蒼く染める為に)

手の懸かる従兄が先立って帰国している。
本来なら警護を称して同行していた筈なのに、幾ら雑用でも数が多いと時間だけは立派に懸かるものだ。

『対外実働部マスター代理としてご報告を。先程シンガポール政府よりアポイントがございましたが、』
「ええ、私の個人的な事情なのでお構いなく。大した用ではないので半日以内に出国しますが、そうですねぇ…ジェット機は揺れるので、術後の安静を鑑みてもシャドウウィングの方が良いでしょうか」
『シャドウウィングを待機させろとのご命令であれば、対空管制部へ転送しますが』
「おや、ご冗談でしょう?」

決して交わらない右脳主義者と左脳主義者に共通点があったと知ってから、早数年。機械人形だらけの特別機動部と、機械人形を副部長に据えている対外実働部はとても良く似ている。

「君達のマスターは『飛行場』ではありませんか。対空管制部など通さずとも、快適な乗り物を用意して下さるでしょう?」
『代理権限では精査しかねます。マスターレイへお繋ぎします、お待ち下さい』
「冗談はおやめなさい。マスター代理如きが、ランクA2位枢機卿の私に軽々しく通信要請が出来ると思いますかネクサス。ふふ、権限差異で弾かれますよ」
『セキュリティのご解放を願います』
「どうしましょうかねぇ」
『プライベートライン・オープン、コード:ルークより通信要請。権限最優先により自動展開します』

ああ、窓の外の夜が遠ざかる。自転の速度には全く適わないとしても、それでも飛んでいるからだ。音を貫く速さで空を、夜を切り裂く様に空を。

「ご機嫌よう、マジェスティ」
『そなたの為にベルセウスを放ってやろう。そう他の部署を苛めてやるな』
「お気持ちだけで。あんな派手な艦隊で乗り込むには、あの国は小さ過ぎます」

今度こそ起承転結は回るだろうか。長過ぎる皆既日食だったと笑えるだろうか。



「…そろそろ、髪を切りましょうかねぇ」

どうせ忘れられていると、初めから知っている癖に。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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