帝王院高等学校
ジーザス!妻の本気に腰砕けですか?!
「誕生日おめでとう、イチ」

毎日欠かさず巻いている首輪のホールについていた鳩目金具が、一つだけ取れてしまったと嘆いていた時の話だ。何処にでもある様な大型犬用の首輪なのに、探しても探しても同じものが見つからないと暫く拗ねていると、誕生日がやって来た。
去年の誕生日には居なかった男は、既に客を入れる様になって半年ばかりになるカフェカウンターの中央、王冠型クッションに慣れ親しんで座っている。

「何もめでたくねぇっス。15歳になっただけだし…」
「新しい首輪を用意したぞ」
「…えっ?」
「だから機嫌を直して、笑顔を見せてくれないか」

ふわりと、何処の絵画の慈悲深い神の笑みだろうか。
銀色のウィッグの隙間から覗くサングラス越しに細められた眼差しが窺えるが、その下で形の良い唇がゆったりと笑みを描いている。迂闊にも喘ぎそうになったが、目元が隠されているお陰で助かったのかも知れない。

「あっ、俺のと同じ奴!ずっと探してるのに見つかんなくて、イライラしてたんス!」
「だろうな。健吾は昨日、話し掛けただけなのにお前から蹴られたと言ってたぞ」
「あー、覚えてねぇっス。良いんスよ、蹴られたくらいで死ぬ様な奴はカルマにゃ居ねぇんで」
「イチ」

咎める様に呼ばれ、伸びてきた手に反射的に目を瞑れば、わしわしと頭を撫でられる感触がする。恐る恐る目を開けば、既に笑みを消している人はカウンターで頬杖をついたまま、犬を撫でる様に嵯峨崎佑壱の頭を撫でていた。

「…判りました。健吾には後で謝っときます」
「後で?」

ぞわりと背に走った凄まじい恐怖は、容易く体を支配する。高々低い声音で囁かれただけだ。けれど呼吸が浅くなり、意識を保てなくなる様な気もする。
違うとばかりに首を振り、口をパクパク喘がせた佑壱は青褪めた表情で何とか振り返ると、開け放した大窓の向こう側でテラス掃除をしている舎弟らを視界に捉えたのだ。

「健吾…っ!昨日の件は俺が悪かった、許せ!」
「ひょ?!("ω"*)」

ホースで水を撒いている体で騒いでいる後輩らにカチンと来なくもなかったが、それは今の話だ。先に昨日の非を怒鳴る様に謝れば、目を丸めた高野健吾は驚いた様にその場で硬直し、キョロキョロと辺りを見回した上で、『明日は大雨か』と言わんばかりに頷いた。
佑壱の表情から何かを感じ取ったのか、ホースを握り直すと、真面目にテラスの掃除をしている。デッキブラシを動かしている藤倉裕也は背中しか見えないが、一心不乱に同じ所を擦っている所を見ると、半分寝ているのかも知れない。器用な男だ。

「あ、謝りました…!」
「イイ子だな」

恐ろしい程に要領が良く、化け物じみた腕力と体力を誇る男はたった一人で倉庫の掃除を終わらせてしまい、何なら冷蔵庫の余り物掃除まで終わらせた上で、昨日から佑壱が仕込んでいた桃のジャムを2瓶舐めてしまった為に、舎弟らからカウンター休憩を申し付けられている。

「副長、総長にコーラを出しても良いですか?そして総長、ユウさんだけ狡いです。俺にも新しい首輪下さい」
「お前はこないだ誕生日過ぎたばっかだろうが。さっき買ってきたコーラ開けて良い」
「こっちの袋の中身は何ですか?ほんのり温かいですね」
「すぐそこの惣菜屋で買ったコロッケ、一人一個ずつな。中身が違うから、喧嘩になんねぇ様にお前が仕切って分けろや、要」
「判りました。総長は先に選んじゃって下さい、どれにしますか?」
「そうだな、比較的衣が多いものか焦げてるものでイイぞ」

掃除を皆に任せ、榊と共に買い出しに出ていた佑壱が店へ戻ると、錦織要が厨房掃除を終えていた所だった。桃ジャムは、カルマの常連客でもある近所の商店の夫婦から、店には並べられない傷物の果物と過剰在庫だと言う桃を沢山貰ったので、賄い飯にしようと作ったものだ。直接店の損にはならない事もあり佑壱的にはオッケーだったが、その他の在庫まで俊が食べない様に要は心を鬼にして見張っていたらしい。

「一番大きく見えるので良いですか?」
「カナタ、俺を甘やかしてどうしたいんだ…?」

佑壱が帰ってきたので気を抜いている要は、俊に顎クイされつつ囁かれ、くにゃんと崩れ落ちた。あのどケチな要が自分の分のコロッケを俊へ差し出したので、佑壱は自分の分を要に譲ってやる。

「凄まじい早さで二つのコロッケが消えましたね、総長。ちゃんと噛まないと腹痛くなりますよ」
「イチ、俺は今まで病気をした事がないんだ」

アイスコーヒーの様に炭酸を煽った男は、無駄に良い声で宣う。
どう見ても高校生、いや私服姿なら確実に社会人にしか見えない外見だ。佑壱には入らなくなったレザージャケット、レザーパンツ、それらを俊に着せてからはいよいよ堅気には見えなくなり、街を歩けば余程の馬鹿以外は目を逸らす。

「マジっスか」
「親父がおたふく風邪でおたふくになってた時も、俺だけは極々いつもと変わらない地味な顔のままだった」
「総長の何処に地味要素があるのか全然判んねぇっスけど、流石っスね」
「麻疹にも風疹にも水疱瘡にも罹った試しがないんだが、知ってるか。馬鹿は風邪を引かないそうだ」

佑壱が着ればロッカーファッションが、俊が着ると皇帝ファッションに変わるから謎だ。調査した上で確証を得た佑壱が未だに俊を年下には思えない最たる理由が、醸し出す威圧感とその印象的な声だった。彫りが深い二重の、吊り上がった眼差しを幾ら隠しても、存在感は消えない。
選ばれた人間とは常に、そう言うものだ。

「総長」
「ん?」
「こないだやった、学期末考査の答案なんスけど…」

新しい首輪に替えて、外した古い首輪をバッグに詰める。その時、3年生へ進級する為に受験した選定考査の結果をコピーしていた事を思い出した。
基本授業の数学は、複雑な図形やグラフ問題が少なかったので比較的点数が伸びていたものの、全教科満点には到底届いていない。採点後の答案用紙の上部に学年順位が印字されるので、首席である事は間違いないが、佑壱としては満足に値する出来栄えではなかった。

「凄いな、国語も英語も生物も地理も満点だ」
「凄くねぇっス。いつも点落としてんのは理数関係で…」

帝王院学園では初等部時代から中学レベルの授業を取り入れている事もあり、中等部の授業では選択授業の方が多い。帝王院学園中等部の偏差値は、学年全体で60程度を誇っているそうで、百位以内の生徒なら他校では首席相当だろう。首席帝君の佑壱の偏差値は、高校生と然程変わらない。語学に至ってはそれを遥かに凌駕している事は、海の向こうの大陸で教授の役を与えられた事で、既に実証済みだ。

「基本化学は満点で、落としたのは応用化学問題でした。内容は物理っス」
「回答用紙だけじゃ判らないな。問題用紙はないのか?」
「うちの選定考査は、問題も回答も学外へ持ち出し出来ない様にデジタルなんス。タッチパネルの画面にペン入力するんで、この回答はコピーした奴で」
「そうか」
「酸化還元の問題だったんスけど…」

本来なら、中等部3年生が基本授業で学ぶ内容だろう。中等部の勉強は3年間通して外部より一年早く進む為、3年生で学ぶのは高校教育の基礎だ。

「この空欄の部分か。炭酸水素ナトリウムでバツになってる問題は?」
「それはケアレスミスっス。性質の選択肢で、酸性の水溶液を選ばなきゃなんねぇ所を、炭酸水と間違えちまって…」
「ああ、NaHCO3は弱アルカリ性だからな。水には幾らか混ざるが、エタノールには完全に混ざらない」
「詳しいっスね」
「重炭酸ソーダ、つまり重曹の事だぞ?」
「そうなんスか?!」

最後の一年間で高等部での希望学部を定め、普通科を除くそれぞれの学部を希望する者には、そちらの分野での勉強に専念出来るよう、一般教養の5科目を早めに叩き込んでおく。大学への進学を目標としている普通科や外部高校へ受験予定の生徒には、中学総まとめの授業で復習させる。これに加え、進学科の生徒は選択授業で高校レベルの問題が増えるのだ。
早い話が、帝王院学園中等部の生徒は1・2年生の間に中等三年間の授業を終了しなければならず、進学科の生徒は3年生で高校教育を叩き込まれる。成績での退学や留年制度がない中等部は、高等部以上に授業内容はシビアだ。それでも、高等部Sクラスの地獄じみた授業スケジュールに比べれば、可愛いものだが。

「重曹は掃除の時にも便利だが、中々溶けないだろう」
「はい。多めに入れた方が綺麗になると思ったのに、スプレーが詰まっちまって」
「呼び名が違うと混乱するから、炭酸の表記で誤解する様に問題を設定したんだろう。炭酸は文字通り酸性だが、胃薬になる炭酸水素ナトリウムは、酸性の胃を中和する効果がある」
「中和するからアルカリ性って覚えとけば完璧っスね。重曹半端ねぇ」

去年の夏、だったか。
佑壱が副総長になって初めての選定考査は悪くなかったが、化学が満点だった代わりに数学の取り零しが多かった。何度も教科書を確かめて予習しておいたのに、テストの問題は例題とは違って書き方を変えているので、佑壱は教師の罠に嵌ったのだ。ただでさえ理数科目と聞くと、小憎たらしい叶二葉を思い出して吐き気がすると言うのに、数学教師にはまともな人間がいないと思う。性格が悪い。

何処を間違えたのかおさらいしようにも、組み立てた式の何処が間違っているか自力では判らなかった佑壱は、勿論クラスメートに相談する事もなかった。後輩の要達にも言えず、だからと言ってカルマの同級生や年上の舎弟らは、確実に佑壱より頭が悪い。と言うより、舎弟にはテストの点数を見せたくなかった。それが例え、苦手と言いながらも89点だった数学の回答だろうと。

その時、佑壱はたった一人の例外、俊にテストを見せたのだ。
その時までは年上だと信じていた俊は、佑壱のテストを見て今の様に褒めてくれたが、記憶していた問題文を口にした佑壱が『どうやって解くのか』尋ねると、薄く笑ったのだ。

『教える代わりに、お前は俺に何をくれる?』

と。
まさか見返りを求められるとは思わなかったが、もしかしたら問題が判らないだけなのかも知れないと、佑壱は考えた。仕方ないかと苦笑いしながらたまたま持っていた飴玉を手渡せば、俊は至極あっさり佑壱に解き方を説明してくれたのだ。
その瞬間、喧嘩では負けたが頭では負けていないと思っていた佑壱は、凄まじい敗北感を思い知った。その説明が判り易かった事に感動し、何処の国の言葉か自分でも覚えていない異国語で『あの教師の給料マジで無駄』と呟けば、俊は佑壱の頭を撫でたのだ。

『イチ。お前に、人の話を理解する力が少しだけ足りてなかっただけだ』
『う』
『くっ、冗談だ。失敗を悔やむ余り責任転嫁したい気持ちは判るが、他人を恨んで反省を後回しにしても残るものはないだろう?』

痛烈な皮肉だと思った。完璧までに正論で諭され、夥しい数のボキャブラリーを備えている筈の佑壱が沈黙してしまったのは、返す言葉がなかったからだ。
俊はどんな話でも正確に理解してくれた。例えば些細な事でも、感情のまま喚き散らす酔っ払いの戯言すら、一つ残らず。

「酸化銅を水素と炭素でそれぞれ還元する時の、あー、方程式?反応式?何か、そんなのを書けって問題だったと思います。報酬はさっきのコロッケで」
「酸化銅はCuO、水素はH2」
「それは判るんスけど」
「水素は酸素と結びつく。還元すれば銅と水だ。よってCuO+H2は、Cu+H2O」
「………あ」
「炭素はカーボンのC、2CuO+Cで反応すれば二酸化炭素が出来るだろう。2Cu+CO2。反応式に順番は定められていないから、順不同でイイ筈だ」

忘れない内にメモしておこうとシャープペンを取り出し、ガリガリと殴り書きした佑壱は眉を跳ねた。

「…つーか、何で酸化式の2CuO+O2が2CuOになるのか意味判んねぇ」
「酸素原子は理論的に、単体では存在出来ないからな。一般的に酸素はO2だろう?この時点で原子Oは2つある前提になるから、銅のCuと結びつくとCuOだ。字で書くとOが一つ余ってしまう計算になる。机上の空論だがな」
「実際には余らないものが理論上だと余っちまうんスか」
「不思議だな。ならば計算後に割れば良いと思うだろう?だが、数学と違って化学に百分率の概念がない。O2だったものをOと表記させる為には、何らかの理由が必要だ」
「だから初めに銅を2倍しとくっつー?」
「まァ、帳尻合わせだな。人は都合が悪い時には、真っ先に言い訳を考える」
「成程。今の説明の報酬は総長が勝手に食ったジャムでお願いします」
「すまん。冷蔵庫の中で、桃の精が俺に食べてくれって言ってたんだ」

本当に反省しているのか。
商店の店主からは、傷んだ桃の他にも幾つか果物を貰っていたが、俊はそちらには手を出していない。異常気象と呼ばれた温暖化に慣れてきた国民は、4月に20度を超える快晴に見舞われても、何だかんだ生活していくのだろう。不自然なものからは目を逸らし、己を納得させる理由を見つけては、折り合いをつけて。

「うまくなかったでしょ?」
「ん?」
「付き合いがあるリンゴ農家が試しに収穫したもんだそうスけど、仕入れたのは失敗だったってぼやいてました」
「ああ、三橋青果店の奥さんのお兄さんが農家だったな」
「知ってたんスか。身内だから断れなかったっぽい事、旦那が愚痴ってましたよ。桃の取引先がないからって、妹夫婦に押しつけて」
「試験販売のつもりじゃないか?」
「名目上はそうでしょうけど、三軒隣の洋菓子屋がコンポートにしてもタルトにしても上手くいかなかったっつって、全部返品してきたらしいっス。底値同然で売ったのに返品じゃ、三橋さんが損するじゃねぇっスか」
「三橋夫婦はイイお客さんだ」
「総長」
「水分量は多かったがその反面、皮が固い。収穫が早かったんだろう。甘みもなかった。極めつけは、殆ど手を掛けず実ったものだった。つまり間引きしていない」

砂糖をこれでもかと加え、レモンの皮と共に煮詰めたジャムを舐めただけで良く此処まで判るものだ。佑壱が賄いにするつもりだったジャムの瓶が空になっていた事には、買い出しから戻ってすぐに気づいていた。
いつもなら美味かっただの、煮込みが足りないだの、何処ぞのグルメレポーター宜しく感想を述べる筈の俊は黙っていて、カウンターで要に睨まれながら佑壱を出迎えたのだ。その時にはきっと、既に『桃そのもの』の評価は出ていたに違いない。

「山形じゃ、林檎とラフランスの他に、さくらんぼを入れ替えで出荷してる農家が多いらしいっス。三橋の奥さんの所は兼業農家から、最近農業一本に絞ったみたいで」
「焦る気持ちは判らないでもないが、この桃は野性味が溢れてたなァ」
「ズバッと言えば、味もすっぽんもねぇ」
「春一番の警報が出てたから、収穫を焦ったんだろう」
「収穫が早過ぎて熟れてないわ、サイズ感まちまちだわ、皮に産毛がないわ…」
「林檎はテカテカに磨かれてるからなァ」
「新しい事を始めてぇなら、入念に調べてからやりやがれ…!」

つい感情的になってしまった佑壱は、コロッケを貪る皆が窺ってくる事に気づいた。怒っている訳ではないと説明しようとするも、所詮は他人事だ。幾らご近所付き合いとは言え、青果店ではなく、取引先の農家にいちゃもんをつけるのは度が過ぎているだろう。例えそれが、経営者の親族だろうと。

「イチ」
「っス」
「俺はタダよりうまいものはないと思う。少々皮が硬かろうが、剥かずにそのままでも良かった。何故ならば、桃は皮の近くがうまい。いっそ種ごと飲み込む覚悟だ」
「総長、農薬撒き散らして放置栽培された上に、カミソリで産毛を剃られた桃に同情する気持ちは判ります。でも桃の種はアミグダリンが含まれてるんで、食ったら青酸中毒」

佑壱はいそいそとテストのコピーを仕舞いながら呟いたが、舎弟らのコロッケをサングラスの下で凝視している男には通じなかったらしい。

「この俺がシアン化合物如きに屈すると思うのか?恙無く消化してくれる」
「抱いて下さい」

何と言う男らしさだろう。








去年の夏、世間は夏休みに入って間もなくの事だった。佑壱は、街中で酔っ払った男が喚き散らしているのを見た。その腕が掴んでいたのは、佑壱が良く知る男の腕だ。
初めて出会った時に見た学生服も、髪も、その双眸すら真っ黒な、何処にでも居そうな男子学生。およそ一般的ではなかったのは、その強過ぎる眼差しだろう。

「特別扱いが許されると思ってるのか!」

喚き散らしている男よりも、その相手の方かどう見ても強そうだった。だからか、通り掛かる誰もが見て見ぬ振りをしている。赤信号で止まっている車の群れに挟まれていた佑壱は、バイクに股がってヘルメットを被っていた。向こうから佑壱は見えない筈だ。

「どうして授業に出ない?!教えて貰わなくても勉強が出来るからか?!教師を馬鹿にしてるんだな!天才なら何をしても許されると思ってるのか…!」

ああ。
佑壱からは男の背中しか見えないが、静かに佇んでいる男の表情なら良く見える。フルフェイスの中央、風よけのガード越しに、その悲しげな眼差しが。

「お前が俺の評価を下げてる!不登校の生徒が一人居るだけで、保護者の信用はガタ落ちだ!お前の所為で俺の人生が狂った!首席なら首席らしく、生徒の模範になれよ!お前は俺の人生の、ほんの一瞬の踏み台だろうが!」

何と自分勝手な台詞だろうかと、佑壱の怒りは即座に燃え上がった。
けれど騒いでいるのは対向車線の向こう側、路側帯に沿って張り巡らされているガードレールのまだ向こうだ。環状線の高架下は中央分離帯を挟んで三車線走っていて、バイクを乗り捨てても渡り切るのは至難の業。
ただでさえ日本で最も交通量の多い首都東京の、帰宅時間だった。

「邪魔するくらいなら他所の学校に転校しろ!学校の名を汚すなクズ野郎!餓鬼が社会を舐めてんじゃねぇ、俺に土下座して死ねよ!」

死ぬのはテメーだと、怒鳴ってやりたい。
やっと動き始めた車の波だが、中央分離帯のすぐ傍ら、右折レーンに動きはない。佑壱のバイクは数台の車の後ろにある。小型バイクなら割り込めただろうが、無理があり過ぎた。

この交通量の多さの中、それでも聞こえてくる罵声の声はやまない。
流石に通報している通行人の姿も見えたが、警官が駆けつけてくるには暫く掛かるだろう。信号が右折優先表示に変わるまで待つ方が、余程早い筈だ。

ああ、今。たった今、喚き散らしている男のもう片方の腕が、銀色の何かを掴んでいる事に気づいた。右折レーンの車が流れていくのと共に走り始めた佑壱は、この時ほど時間が長く感じられた事はない。

「退学は出来ません。貴方を侮辱したつもりもない」

そしてやっと対向車線にUターンした佑壱のバイクは、ガードレールを挟んで騒ぎの真横に停車した。真後ろの車にクラクションを鳴らされたが、構っている暇はない。
反対車線からは見えなかったが、俊が着ていたのは学生服ではなかった。私服が学ランと言う俊に総長らしい装いをと、ウィッグやサングラスをプレゼントした佑壱が、自分の私服の黒いジャケットも贈ったのだ。俊が着ていたのはそのジャケットで、遠目からは学ランの様に見えなくもなかった。

「早めに怪我を手当なさって下さい」

乱れた黒髪で片方の瞳が隠れている男の足元に、何人かが倒れている。喧嘩の後の様に見えなくもないが、関わりたくない通行人は見えないと言わんばかりだ。遠巻きにしているギャラリーは随分離れた所で窺っている様なので、佑壱はバイクを幾らか進めると、ホステスの様な出で立ちの女性らに声を掛けた。

ヘルメットから顔を覗かせた佑壱の問い掛けに、嬉々として答えてくれた所によると、不良グループに絡まれていた酔っ払いが、繁華街方面から追い掛けられた事が発端らしい。助けてくれと叫びながら走ってきた男を助ける者はなく、とうとう掴まって連れていかれそうになった男は、通り掛かった銀髪の男によって救われた。
此処までなら良い話だったが、助けられた事で気が緩んだのか、それとも悪酔いしたのか、男は助けてくれた相手に詰め寄り『お前も俺を馬鹿にしてるのか!』と、癇癪を起こしたらしい。

「良い歳して、餓鬼に泣かされたのが恥ずかしかったんじゃない?助けてくれた人も若そうだから、八つ当たりしてんのよ」
「数に勝てなかっただけとか何とか、ずっと叫んでるの。それをたった一人で倒しちゃった子に、馬鹿よねぇ。あんなオッサン殴っちゃえば良いのに、もう十分近く黙って付き合ってあげてるんだよ、あの子」

見物人の反応を見るに、不良に襲われた被害者に対する同情は皆無だ。寧ろ助けてやったのに酔っ払いから髪を引っ張られ、腕を掴まれたまま怒鳴り散らされている銀髪の男に対しての同情で満ちていた。
警察に通報しても、あの酔っ払いの剣幕ではどんな逆恨みをされるか判らないと、皆が嫌がっているのが判る。


「馬鹿にしてるだろっ!」

再び凄まじい怒鳴り声が聞こえてきた。
それと同時に、遠くから駆けてくる警官の姿も見える。

「何なんだこの格好は!お前もこいつらと同じじゃないか!不良なんて社会のゴミだ、生きる価値なんかない!死ね!消えろ!役立たず共!」
「それは自分のコンプレックスですか?」
「っ…!」
「優秀な生徒を育てた優秀な教師として認められたい。自分は一介の教師とは違う、選ばれた人間だと」

佑壱には、その囁く様な声が聞こえた。どんな時でも必ずその声だけは聞き分けられると、何故かそんな確信があるのだ。

「黙れっ」
「何をしてるんだ!」

喚いた男の拳が当たる前に、駆けつけた警官が男と不良らを取り押さえる。
通行人に事情を聞いていた他の警官が駆け寄ってきて、何やら会話している光景が見えた。夥しい数の車の向こう側からパトカーのサイレンも聞こえてきて、佑壱はヘルメットのフェイスガードを下ろしてハンドルを握る。

「詳しい事情を窺いたいんですが」
「いえ、急いでいるので。知人を待たせているんです」

どうやら無免許運転を警察に咎められる前に、警察より厄介な男に見つかったらしい。

「被害届を出されるなら、ご連絡下さい」
「お構いなく。ご苦労様でした、さようなら」
「は、はい!お気をつけて!」

若い巡査が図らずも敬礼をしてしまう程に、淡く微笑む黒髪の男の威圧感と笑顔の威力は凄かったのだろう。ひょいっと細道へ左折した佑壱は、すぐ近くにあったコンビニの駐車場でバイクを停めると、携帯を開いた。

「プライベートライン・オープン」
『コード:ファーストを確認』
「今夜7区環状線で逮捕された中に、どっかの教師が含まれてる筈だ。そいつの身元を調べて報告しろ。個人的な調査だから部署に登録する必要はねぇ、報告したら即座に破棄しろ」
『了解』

フルフェイスを外し、コンビニで缶コーヒーとコーラZEROを一つずつ。
会計を終えて駐車場へ戻れば、佑壱のバイクに腰掛けた銀髪の男がサングラスのレンズをジャケットの裾で磨いていた。

「せめてティッシュで拭いたらどうっスか、総長」
「格好イイのに乗ってるな、イチ」
「…兄貴のバイクっス」
「そうか」

目が合わない。
真っ直ぐ此処へ歩いてきたと言う事は、やはり佑壱に気づいていたのだろう。

「派手にやったみたいっスね。繁華街に行ったんスか?」
「金色の毛並みの子猫に会いに」
「野郎…!アイツに誘われても行ったら駄目って言ったでしょ?!」
「今度、ピナタの誕生日なんだ。15歳になるお祝いを早めにしておいた。当日は行けないから」
「高坂の誕生日なんざ放っとけば良いんスよ!何月何日生まれだか興味もねぇが、どうせ大した日じゃねぇに決まってら!」
「8月18日だ」

コーラを押しつける様に手渡し、缶コーヒーのプルタブを引き上げた佑壱は動きを止めた。佑壱にとってその日は、今年の春からどんな記念日より最優先される日になった、カルマ総長生誕祭が執り行われる日だ。
一ヶ月前からカルマ全員でパーティーの計画を立てていて、当日は必ずカフェに来てくれと、俊と顔を合わせる度に佑壱はお願いしている。サプライズパーティーのつもりだが、そう念を押してはサプライズの意味がなくなる事は判っているが、初めての生誕祭に主役不在では意味がない。

「…嘘でしょ」
「俺と同じ誕生日」
「認めねぇ…」
「ふむ。ピナタに聞いてみるか?普段は電話に出られない事が多いそうだから、メールアドレスを交換したぞ」
「そんなアドレス返品して来なさい、携帯が腐りまス」
「無機物は腐らないぞ?金属には炭素が含まれないからな」
「ブラスチックは有機物でしょ」
「いや、単純にそうとも言い切れない」
「んな事ぁどうでも良いんスよ!高坂の誕生日を祝ったって事ぁ、奴とケーキ食ったんスか?!」

重要なのはそこだ。
佑壱が手作りする予定のケーキより先に、あのかわいこぶりっこ甚だしい金髪とケーキやお茶をしばいたのか。議論はそこなのだ。

「食べたのはお好み焼きだ」
「は?」
「七福神社の夏祭りで、宮田さんの奥さんがお好み焼きの屋台を出したんだ。青海苔とマヨネーズとソースの相性は罪深い」
「…」
「そんな事より、イチは14歳だな」
「そうっスけど」
「大型自動二輪免許の取得可能年齢は何歳だ?」

沈黙した佑壱はコーヒーを一気に飲み干すと、同じくコーラを飲み干した男に微笑み掛けたのだ。

「総長」
「ん」
「アイス食いたくねぇっスか?」
「バニラがイイです」

再びコンビニへ出戻った佑壱は、ショーケースの中からバニラアイスをあるだけ全部、大人買いした。チャラついた淫乱金髪に大事な総長を奪われてなるものかと、生誕祭のケーキはチョコレートソースとカスタードクリームを盛大に散らそうと思う。

「俺のケーキはお好み焼きなんか目じゃねぇっスから」
「大変だイチ、ハーゲンダッツは高級過ぎて俺の口に合わない。俺の代わりに食べてくれ」

ただ、青海苔は絶対的に合わなそうな気配を感じた。

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