帝王院高等学校
拝啓お母様、おげん筋肉ですか?
「今こそ答えよ、冬月龍人」

皆の視線が白衣を捉えるのにつられて、アーモンド型の瞳を傾けた女は眉を寄せた。

「…冬月?」
「ちょ、何やってるんだ陽子!」
「触んな変態」
「あいた!酷い!」

ワンピースの胸元にズポッと手を突っ込んだ山田陽子は、傍らで飛び上がった夫からその手を掴まれ反射的に空いた方の手で平手打ちを決め、悪びれずブラジャーの中から取り出したらしい小冊子をその場で開いた。

「顔しか取り柄がない社長に裏拳を決めるとは。この小林、奥様の手の早さに心を痛めております。夕陽坊ちゃんの喧嘩早さは奥様の影響でしょう」
「お黙りコバ、アンタに保険掛けてぶっ殺すわよ。そんでお金を手に入れた一ノ瀬常務と私が再婚、大空は沢山いる愛人の誰かに持ってって貰うんだわ」
「僕は陽子ちゃん一筋だよ!携帯のメモリーだって目の前で全部消したよね?!ちょいとしつこい子には目の前で電話して、『僕には奥さんだけだから』って言ったよね?!」

その上でどれほど盛り上がったか、盛り上がり過ぎて陽子の怪我が悪化しどれほど青褪めたか、赤くなったり青くなったり忙しない山田大空は無駄に男前な表情で赤裸々に語ったが、最終的に陽子の恐ろしい睨みで黙り込む。

「余計な事は言わなくていいんだわ。生命保険たらふく掛けるわよ?」
「いずれ陽子ちゃんより先に死ぬと思うから、待っててくれる?」
「は。浮気したのが自分だけだと思わない事だわ」
「は?!えっ、嘘だよね陽子ちゃん?!ね、ちょ、待てよ陽子、何処の男とヤったんだい?!え?!俺がいながらお前さんはなんてアバズレなんだ!」
「大空」
「何だよ!今更謝ったって俺は許さないからな、興信所に調べさせれば相手なんかすぐに割れるんだよ!」
「アンタ、彼氏持ちの愛人と三人でラブホ行った事あるんだってね?」  

にっこり。
山田太陽そっくりな平凡スマイルに対し、ワラショク代表取締役社長は儚げなスマイルを浮かべ、全身の血の気が引く音を聞いた。何なら全身の毛と言う毛が抜け落ちる音も聞いただろうか。

「アンタが男もいけるんだって知った今より十歳以上若かった私は、離婚したいけど小さい子供を二人も抱えてやってける自信がなくて、別れる為にお金を稼ごうとパートなんかやってみたもんよ」
「は、はい、その節は本当に申し訳ございませんでした」
「楽しかったんだわ。若気の至りで子供放ったらかして自分の息抜きを優先した事は今も反省してるけど、あの時の私の精神面を理解してくれた人なんか、ネットで知り合ったママ友の会の皆だけだった」
「もういいです、判りました、全面的に僕が悪いです。もうしません。二度としません。ごめんなさい」

圧巻だ。
声を荒らげるでもなく、まして一言も『お前が悪い』とは言わず、けれど自分の反省点を自己評価する事で間接的に『こんな私よりお前の方が更に悪い』と指摘している。業界では知らぬ者がない敏腕経営者は今、えのき茸より痩せ細った表情で背を正し、失敗を上司に叱られている新人サラリーマンの様な風体だ。

「女って、女って、こっえぇなぁ、おい…」
「涼女もそうだったよ。どう見ても傷んでいるピクルスを、私の帰りが遅い所為だと責任転嫁したものだ」

聞いていた高野省吾も胃が痛くなる様な光景を、然し満面の笑みで眺めている白髪頭はエメラルドの瞳を細め、うんうんと頷いた。私がもう少し若ければ、などと呟いている所を見るに、大空が捨てられた後の再婚候補はどうやら決まったも同然らしい。

「所で涼女…ではなく陽子君、冬月教諭の名に何か疑問があった様に見受けたが?」
「あ、そうだわ。確かこれに…」

『合同新入生歓迎祭のお知らせ』と書かれた表紙には、帝王院学園の校章とは違う西園寺学園の校章が描かれている。きょとんと首を傾げた右席委員会会長も負けじとシャツのボタンを外したが、パンフレットを挟める程の谷間が見つからず無言で崩れ落ちた。

「あった。帝王院学園の教職員一覧に載ってる」

開いたページを皆に見える様にひっくり返した陽子は、然し首を傾げる。

「でも変なんだわ、夕陽が西園寺に入学した頃にそんな名前の保健医が居た様な気が…」
「陽子ちゃん」
「へっ?何ですか、遠野先生」

然し疑問点を口にすると、陽子より若干低い所から声が掛かった。

「俊江ちゃんでイイわょ。そのけしからんお乳は何処で育てたんだィ?」
「胸?私の体格は母親に似たんじゃないかと思います。何から何まで派手な女だったんで。顔は父親似なんだけど」
「クソが…!」
「と、俊江ちゃん先生?!」

身長だけ母親似で、その他は何から何まで父親に似た遠野俊江…いや自称遠野トシの恐ろしい拳が壁を殴りつけた。息子そっくりな人殺しの目で父親を睨みつけ、唇を吊り上げる。

「く。くっくっく、くぇーっくぇっくぇ!」
「おお、見ろ加賀城翁!シエちゃんの笑い声が亡き父に似ている…!」
「いや、あれはナイトにそっくりだのう。師君は娘に夜人の笑い声まで叩き込んだのか、龍一郎」
「…そもそも夜人の愚劣な笑い方は、身内から伝染したものだ。感染源は夜刀だ」

帝王院駿河が感涙している傍ら、俊江の笑い声で笑い転げた世界的指揮者は腹筋に大ダメージを受けていて、日本最大組織の組長は何故か恥ずかしげに顔を覆った。幼馴染み故の家族的なものなのか、ヤクザの目にも涙だ。

「いやー、さっきまで空気が張り詰めてなかった?流石の俺も空気読んで黙ってたのに、俊江ちゃんゴイスー過ぎるだろ。何だあのシリアス破壊スキルは、息子もあんな感じかよ?」
「俊は…父親の方が似てるんじゃねぇか?皇子に威圧感と親しみ安さをプラスして、」
「2で割る?」

高野省吾の問いに対し、高坂向日葵はスラックスのポケットが震えた事に気づいて携帯電話を取り出しながら、曖昧に首を振った。

「扱い難さだけなら、俺様は俊より皇子に軍配を上げる。帝王院と抗争して生きて帰れる奴なんざ、今は殆ど存在しねぇ」
「ふーん、『今は』か…」
「携帯、電波戻ってんぞ」
「マジで?良し、健吾…はどうせ出やしねぇから、裕也君に電話入れよ」
「ダセェ、息子にシカトされてんのかよ指揮者」
「お前も日向に着信拒否同然の扱いを受けているだろう、ひま」

指揮者を鼻で笑った組長は然しさらっと妻にバラされ、即座に沈黙する。狂った様に笑い続ける右席委員会会長を麗しい王子の様な美貌で、然しカメオタばりの連写モードで撮影している高坂アリアドネは、すぐにSDカードがパンクした様だ。

「ああ、久し振りに荒ぶるシェリーを目にした私の心は震えている」
「本当に震えてるわよアリー、大丈夫?」
「判って貰えるだろうか、クリス」

恍惚めいた表情で、ヘーゼルブルーの瞳を細めたアリアドネは俊江を見つめたまま、溜息混じりに囁いた。

「シェリーに無駄は存在しない」
「え?」
「…そろそろベールに包まれてきた前男爵は、身包みを剥がされる頃合いだろう。陽子の言葉を遮ったシェリーの行動には、理由がある」

アリアドネの言葉は確信めいていて、クリスティーナには理解出来ない。傍らでアリアドネの言葉を聞いていた嵯峨崎嶺一だけは、じっと帝王院秀皇の表情を窺っている様だ。

「おのれ遠野龍一郎、母ちゃんが浮気して出来た子供だったらイイのにと43年間祈ってきた俺の心を傷つけやがってェ!せめて身長10cm寄越しやがれクソがァ!」
「騒ぐな愚か者。貴様の様な出来損ないが父と呼ぶな馬鹿娘」
「こっちこそテメェみてーな糞親父、願い下げの払い下げだコラァ!何だその生意気な三白眼、抉り出して明太子の膜で角膜移植してやらァ!」
「お、落ち着きなさいシエちゃん、グフッ!」
「大殿?!」

しゅばっとジャケットを脱いだ男子の様なババアは素早く父親に回し蹴りを決めようとしたが、狼狽えた帝王院駿河が仲裁に入ろうとしてうっかり蹴り飛ばされ、加賀城敏史の寿命が縮む。

「残念だったな、俺ァ判ったぞ糞ジジイ」

どう見ても小柄な男子校生にしか見えない妻を無表情で凝視している男と言えば、広大な空き地の様な谷間を無表情で眺め、顎に手を当てて『面映ゆい』と呟いた。何が面映ゆいのかは、聞かない方が無難だろう。
勝ち誇った表情で父親を睨みつけたまま笑った女は、息子に良く似た意思の強い眼差しを細め、今にでも食らいつきそうな雰囲気で世界を掌握した。長く極道を率いてきた高坂向日葵が、思わず息を呑む程に。

「じーさんが邪魔したから失敗したんだ、クリスじゃない。俺が多分そうなってた」

直接的な言葉はない。
ただ絶対的な確信があるのか、己の左胸に手を当てた俊江は短い茶髪の下、これ以上なく唇を吊り上げたまま肩を震わせる。

「筋書きはこうだ。アンタが持ち出したのは、アンタが手紙を残した『ハーヴィ』のそれか、その両親の遺伝子情報のどちらか」

ハーヴィの名で目を細めたのは、静かに遠野龍一郎へダークサファイアの双眸を注いだ男だった。けれど口は閉じたまま、俊江の言葉を待っている。彼ら以外のほぼ全てが、俊江の威圧感に呑まれたのか沈黙を守った。

「俺が気づくくらいだ。俊の奴はとっくに気づいただろう、違和感を持ったに違いない。AB型のテメェとA型の母ちゃんから産まれたのは、O型の俺とAB型の直江。…有り得ない訳じゃねェ、医学に絶対なんて存在しないからなァ。ただ、その確率の話だ」

遠野夜刀はAB型。
いや、俊江は母から聞いていた。遠野は代々AB型が多く、何を考えているか良く判らない人間が多いのだと。

「ボンベイ型。居なくなったじーさんの弟、遠野夜人がそうだったんだろう。当時は今ほど知られてなかった筈だが、出生届けに当初O型って書かれてたらしいじゃねェか」
「…」
「単純なRH検査じゃ計り知れないのも無理ねェもんな、だから夜人の血を輸血した患者が死んだ時に、O型じゃなくAB型だったんじゃないかって騒ぎになった。立花のおばさんが教えてくれたよ、夜刀じーさんの面会に行った時にな」
「だからと言って、貴様は何が言いたい」
「秀皇の血はどの血液を輸血しても凝固しない」

吐き捨てた娘から笑みが消えた事を認め、父親は目を閉じた。

「ボンベイ型かと思って調べた。定期的に人間ドックに通う高校生なんざ珍しいからなァ、貴重なサンプルを少しだけ失敬した。悪かったな、手癖の悪ィ娘で」
「…」
「どうもボンベイとは一致しない。RH判定だと最も近いのはA型、でもB抗原が0じゃない。単純に言えばAB型、現代医学じゃ解明出来ないんだ。俺がアンタに話すべきか考えてた時に、本人の方から近づいてきたんだよ。興味がない筈がない、判るだろ」
「…酷いな。俺はただの研究対象だったのか、ママ」
「ごめんねィ、シューちゃん。最初だけょ、ほんの」

不貞腐れた声を出した夫に笑みを向けて、俊江は息を吐く。何処まで喋るべきか精査した上で、第三者が多過ぎる場所での暴露を諦めた様だ。

「一つだけ言えるのは、テメェが後生大事に保管してたサンプルと榊外科部長しか入れない『あの部屋』の中身、どっちも『この世には存在しない血液』だろ?秀皇と同じく、試験管ごと氷点下60℃で凍結保存されてるサンプルの片方は、ボンベイ型の亜種で説明出来る夜人大叔父とは全く違う」
「…リヴァイ」
「何?」
「その検体の持ち主は、リヴァイ=グレアムと言った」

囁く声音に覇気はない。
縋る様に金髪の長身を窺った龍一郎は、それからすぐに弟を見やった。

「二人の墓を暴いた事は知っていた。だがお前ではあるまい、龍人」
「…気づいておったのか」
「儂にも出来ん事をお前に出来るものか。損傷が著しかった陛下の遺体まで掘り出したとあれば、考えられるのはレオナルドか、…レイリーだろう」
「責めないでやってくれんか龍一郎。…あれは、見るも哀れなほど落ち込んだのだ」

藤倉のエメラルドの瞳が、真っ直ぐに主人へ向かう。
ギリギリの所で口を噤んだ双子を見据えたダークサファイアは一度瞬いて、仕方ないとばかりに首を傾げたのだ。

「ライオネル=レイか。…成程、ならば掘り出された我が父母はエデンに安置されていたと推測される」

聡明な男は無表情で呟き、保険医は眉を跳ねた。

「そうなのか、龍一郎?」
「ああ。儂がその姿を見つけたのは15年前。忘れ去られた教会に、テレジアと赤毛の幼子が居た」
「…ぁ」

小さく声を上げたのは、理事長と同じ幻想的な色合いの金髪にダークサファイアの瞳を持つ、妹だ。朧気な記憶が蘇ったとばかりに一歩踏み出したが、パンプスの不安定さによろめいた所を、即座に嶺一から支えられている。

「貴方、いつかお菓子を持って来てくれた人?!区画保全部の誰かだとばかり思っていたけれど、ファーストが暫く言っていたわ!大福とプリン、あんなものが配給された事なんてなかったから…!」
「お前はいつもベッドに伏せ、顔を上げようとしなかったから見覚えがないのも無理はない。乳恋しいと泣いても可笑しくない年頃の息子には見向きもせずにな」
「…そう。陽子よりずっと、私は悪い母親だった」

今も、と。呟いた女の隣、佑壱にそっくりな顔を歪めた嶺一は無言で首を振る。
一人きりの兄を失い、友人も失い、出産する時も一人だったクリスがどれほど寂しい思いをしたのだろうと想像すれば、彼女に落ち度がある筈もなかった。

「あろう事か目が悪いテレジアの代わりに両手で握るのもやっとのナイフを器用に扱い、傷んだ林檎を剥いていた」
「…思い出せもしないわ。あの子が小さかった頃の事は、もう全然判らないの。2歳までの写真もない。初めて立った時も、歩いた時も、目が見えないマザーはお前がしっかり見なさいって…何度も言ったのに…」
「もう良いのよ、クリス」

震える背中を誰よりも真っ先に抱き締めてやるべき自分は、けれど全てを失う覚悟で彼女の元へ飛び立つ事も出来なかったのだ。形ばかりの妻だったと言え、盟友同然のエアリアス=アシュレイが残した零人を残しては、どうしても。

「アタシだってゼロが初めて立った時も、歩いた時も、喋ったって時も側にはいなかったわ。人が仕事してる時ばかり狙ってくる様な子だったもの」
「悪かったな、日中活動的な赤ん坊で」

覚えていない事を今更責められて堪るかと頭を掻いた零人は、小さく背を丸めている母親へ手を伸ばそうとして、躊躇いつつ、ゆっく腕を下ろした。頭では理解していても、本心は未だ微かなエアリアスの記憶に寄り添っているらしい。

「何て言ったら良いのか判んねぇ。先に謝っとくけど、どうも俺ぁまだ母さんを認めてねぇみたいでな」
「ゼロ!テメ、」
「やめてレイ。続けて、ゼロ」

怒られるだろうとは思っていたものの、想像以上に気が短い父親から頭を鷲掴みにされた零人は、歯を食いしばって耐えようとした痛みがやって来なかった事に息を吐く。嶺一の無駄過ぎる強さは、幼い頃の零人の憧れそのものだ。

「母ちゃんが死に掛けてる時に親父が余所の女を孕ませて、餓鬼を産ませてた。最初、佑壱を家に連れてくるって言われた時に思ったのは、親父の裏切りと、母さんに対する嫌悪感だったんだよ」

学生時代に東雲村崎が喧嘩している所を見掛けた零人は、村崎に嶺一と近いものを感じ中央委員会役員への指名が入った時、少しばかり面倒臭いと思ったものの、最終的には引き受けた。
ABSOLUTELYをそっくりそのまま譲り受けたのも、本音を言えば村崎を尊敬していたからだ。だからその村崎が一目置いている『記念碑に残っていない中央委員会会長』に対しては、個人的な思い入れなどない。

「佑壱にゃ何の罪もねぇって事ぁ、最初から判ってた。だからってぽっと出の餓鬼を弟として認めろなんざ、11歳の餓鬼には難易度が高ぇ。俺だけかも知れねぇけどな」
「糞餓鬼ぁ、いっぺん頭かち割って胎児から育て直してやろうかコラァ!」
「レイ!ゼロを叱るなら私を叱りなさい!」
「嫌よ!」
「だったらShout up!」

ハリウッドが世界に誇る人気女優の声は、凄まじく良く通る。
嶺一を一括したクリスの姿は映画のワンシーンの様で、零人は思わず口笛を吹いた。

「Don't spoil me more. You are just my great partner. I'm sweet enough, thankyou.(もう甘やかさないで欲しいの。貴方は私には勿体ない素晴らしいパートナーよ。有難う、だからもう充分)」

完全に映画だ。
オカマを口説く超絶美人の光景を固唾を飲んで見守っている一同の片隅、英語が全く判らない工業科&Fクラスの愉快なヤンキー達は、こそこそと顔を突き合わせて『翻訳しろよ』『お前がしろよ』と囁いている。
仕方ないので無言で挙手した梅森嵐は、朱肉がちょこっと残っている親指をそのままに眼鏡を掛けているリーマン夫婦を手招いたのだ。未来の社員に頼まれて翻訳係になった小林守義の傍ら、年々涙脆くなりつつある鬼常務は目を潤ませたまま、嶺一とクリスを見守った。

「言い難いならオバサンが代わりに言ってやろうかィ、ゼロきゅん」
「父親が浮気したらそりゃムカつくだろう。俺はそんな馬鹿な真似はしないが、したら俊に軽くすり潰される覚悟でやる。まぁ、シエ以上の人間なんて全宇宙を探しても見つからないけれど」
「シューちゃん!」
「シエ!」

がしっと抱き合う右席委員会の二匹は、ただのBLだ。映画館で放映出来る基準ではなかった。

「いや、まぁ、浮気でも何でもなかったのは聞いたんで、今は納得はしてんですよ。それがなくても二十歳越えりゃ、ある程度判る様になったっつーか」
「だったらわざわざクリスを傷つける必要があったのかコラァ!糞餓鬼が、テメーの育て方を間違えた………わよ」

オカマキャラが完全に崩壊している嶺一は、妻に睨まれて語尾を細らせる。
どうも嫁の尻に敷かれた男しかいない様だと誰もが悟った時、凄まじい音が響いたのだ。

例えるならそう、爆発する屁の音の様な、轟音が。

「あら?マナーモードにしてたつもりが」
「おま、それ着信音か?!」

携帯電話を開いている世界的指揮者に目を剥いて突っ込んだ組長は、ブーブー騒がしい爆音が着信音である事に、息子そっくりな整った顔を歪ませている。

「もしもし」
「出やがった…!」

躊躇わずその場で電話を耳に当てた男にツッコミが揃ったが、

「はぁ?お前なぁ、珍しく電話掛けてきたかと思えば、何を喧々喚いてる。そう早口で怒鳴ってばっかじゃ誰だって判らないだろう?」

基本的に巫山戯けている表情の指揮者が真顔で呟く合間合間に、甲高い女性の声が漏れ聞こえた為、高野省吾以外の全員が沈黙した。完全に聞き耳を立てているが、喚かれているらしい省吾は気づいていない。

「まだ会ってねぇって。何も言ってねぇだろうが、何でキレてんだ。…はぁ?健吾からワン切り?だから知らないって、まだ顔も見てないんだから…」
『嘘よ!貴方があの子に何か吹き込んだに決まってるわ!』
「お前、何処まで俺に愛想尽かしてんだ、そろそろ人権保護団体に訴えるぞ!敬吾の事まだ引きずってんのか?!」
『そんな事言ってないじゃない!貴方って人はいつも勝手に解釈して、人の言う事なんて聞かないんだから…!』
「いやいやいやオメーには絶対言われたくない言葉ですが?!」
『もう我慢ならないわ、離婚して下さるかしら?!』
「絶対やだね、バーカ!」

百年に一人の天才とさえ謳われる指揮者の、幼稚園児じみた台詞が木霊する。

「どうしてもって言うんなら、俺よりお前を好きになってくれる相手を連れて来たら考えないでもない。…まぁ、ンな物好き居ないだろうがな!」
『なっ』
「あばよ三流ピアニスト!俺の指揮なしにオメーの下手糞なピアノが何処まで通用すっか見ててやっから、つまんねー事やってないで大人しく仕事してろ!」

膨大なオーケストラに指示を飛ばす男の声は、ハリウッド女優よりもずっと響いた。
余りにも修羅場過ぎた会話に翻訳など必要なく、健全とは言い難い男子高校生らも言葉を失っている。他人事ではない修羅場に山田大空は涙目で、携帯を握ったまま立ち尽くす指揮者の背中を見守ったのだ。


「アンタさ、本当に捨てられたいわけ?」
「………何で俺の口からは思ってもない台詞が飛び出しちゃんですかね、陽子先生…」

が、平凡魔女の前では消え入りそうな程に、儚い。





























「ぜぇっ、はぁ、か、替えの制服持ってきたよ、副長ッ!」

滴る汗を拭いもせず保健室へ飛び込んだオレンジの作業着は、素っ裸で膝を抱えている赤毛と膝を抱えている金髪と呆然と立ち尽くしているオレンジの作業着と、お通夜の様な表情でそれを眺めている一同を認め、肩で息をしつつ眉を跳ねた。

「…たけりん?何この状況」
「見ての通り」
「全く把握出来ないんだけど」
「この場の誰かが副長の毛を鳥の巣にした」
「はい?」

カルマで最も髪型に煩い疾風三重奏リーダーが指差す先、毛量が多過ぎて巨大なアフロと化している物体が嵯峨崎佑壱である事を認識したものの、パンツ一枚で膝を抱えている赤毛アフロの褒める所しか見当たらない背筋に言葉を失う。
佑壱に負けないほどぐしゃぐしゃな金髪をそのままに、あの横柄がトレードマークな高坂日向が子供の様に膝を抱えている光景は、出来れば見たくなかった。

「ユウさんがビッグバンしてる理由は何となく判った。で、何で二人揃って落ち込んでんの?この場合落ち込むのってユウさんだけでしょ?」
「俺がジュース買って戻ってきた時には、殴る蹴るの大騒ぎでね〜。ユウさんの剛毛加減は凄いから、あんな複雑に編み込まれてたら竹林さんだって解くのは骨が折れる」
「で?」
「俺が居なかったから光王子に頼んだんだって」

何故そこで日向なのだろうと考えたものの、高野健吾と藤倉裕也に繊細さなるスキルは産まれた瞬間から備わっていない。これはカルマの共通認識だ。
他に器用な人間は居るだろうが、バレていないだけで人見知りが激しい佑壱が西指宿や後輩らに頼むとは考え難い。保健室の中には粛々と怪我人に手当を施している保険医代理と、その手伝いをしている女の他には、見た目は全く似ていないが仕草や物腰が叶二葉を思わせる一般人と、受け持ちの生徒から事情を聞いている東雲村崎の姿があるだけだ。

「判った、こないだ懲罰棟に放り込まれた東雲っちが苦手なんだね〜」
「ぶっちゃけ過ぎ〜」

去年も一年Sクラスの担任だった村崎は、佑壱の担任だった為に年明け早々暴れ回っていた佑壱を取り押さえる羽目になった。一連の騒ぎを見ていた生徒が噂を広めた為に、あの紅蓮の君を力で抑えた村崎は一躍話題の人になったと言う顛末だ。
然し間もなく、校内で乱闘騒ぎを起こしたFクラス生徒数名が、風紀が駆けつける前にたった一人によって制圧された事件が起こり、村崎の噂は鎮火した。

「…俺らのお母さんって怖いもの知らずだね、本当に」

教師も手を持て余すFクラスの生徒を相手に、魔王の呼び名で知られる叶二葉を除いて、単独で黙らせる真似が出来る人間は少ない。ただでさえ佑壱は懲罰棟の中だ。
箝口令が敷かれていたのか直接的な話題にはならなかったが、騒ぎを起こした生徒らが以降光炎親衛隊に怯えていると噂が広まる頃には、誰もが同じ事を想像しただろう。

「光王子が『こりゃ無理』って諦めて、ユウさんが『コラァ』ってなる方程式は立つだろ?」
「目に浮かぶ様だよたけりん」
「どっちも譲らないから、喧嘩になる前に仲裁に入ったつもりでユウさんの髪を弄った犯人が、益々絡ませちまった」

成程、日向の代わりに別の誰かが力を貸したが逆効果で、発狂した佑壱と日向が乱闘騒ぎを起こしたと言う事か。ならば何故落ち込んでいるのだろうと思えば、裕也が指差した。

「そこの眼鏡のオッサンだぜ。副長の髪をもふもふにした上に、光王子に向かって」
「『あの雑魚向日葵でも中央委員会会長だったのにその息子は副会長止まりですか、君は雑魚以下と言う事ですねぇ、ベルハーツ=ヴィーゼンバーグ殿下』」

にっこり。
窓辺で腕を組んでいるサラリーマンが宣い、日向の猫背が益々本物の猫に近づいていく。

「いつまでも嵯峨崎の大事なご子息の裸を晒している訳には行きません。君、佑壱坊ちゃんの着替えを持ってきて下さったんでしょう?」
「そうだった。ユウさん、髪の毛はおたけが何とかしてくれるから、着替えよ?光王子が猫背になってるからって、ユウさんまで真似しなくて良いんだよ〜?」
「ごめんな、おまつ。竹林さんでも此処まで押さえる事しか出来なかったんだよ」
「は?これで?」
「これで。何つーか、濡れた髪をユウさんの力でぎっちり編み込むと、パーマネント効果がめちゃくちゃ発揮されるっぽい」

ならばどうしたら良いのだと、誰もが同じ事を考えたに違いなかった。

「こうなりゃ総長じゃないと無理」
「そ、総長ってにほちゃん、此処に連れてくるのは無理でしょ〜、ははは…」
「隠さなくても良いみたいだよ、まつこ。この場の全員が総長の正体知ってんだって」
「どーゆー事?!」
「あんま騒ぐなし。隣の部屋にハヤトの母ちゃんが来てるらしいっしょ(´`)」

佑壱のアフロへの興味が光の速さで消えるネタに、疾風三重奏イケメン担当は作業着のポケットからスプレーボトルを取り出す。そわそわと隣の部屋へのドアを見つめたまま、

「これ中身サラダ油だけど、クラスの備品の自転車のチェーンの調子が悪かったから持ってたんだ」
「これで俺らのママさんをテッカテカなボディービルダーにしろって?」
「え?椿油の代わりにって思っただけだけど、それもありかな〜」
「うひゃひゃ、ねーだろ!(*´艸`)」

笑い転げた健吾の傍ら、無駄に顔を引き締めた裕也は手を差し伸べた。

「あり過ぎのありだぜ。オレに寄越せや松木」
「ユーヤさん、一生ついてくんでユウさんに殴られて死なないで下さい」
「テメーら片っ端から馬鹿か。冗談のつもりなら他でやれ裕也」
「ふ。オレはいつでも本気だぜ副総長、もうその頭トマトにしか見えねー」

カルマで最も表情が乏しい男は、何ら躊躇いなくアフロに油を吹き掛ける。光の速さで殴られてはいたが、その程度でくたばる犬ではなかった。

←いやん(*)(#)ばかん→
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