帝王院高等学校
ねぇ、本当に欲しいものはどこですか?
「ナ、ナイトが死んだ…?」

今にも起きてくるのではないかと。
まるで眠っている様にしか見えない美貌は、花とドライアイスに包まれた棺の中に横たわっている。

「ああ」
「な、に。何、おま、お前は何を…」
「信じ難いのは理解するが事実だ」

その美貌の大半が酷い火傷で爛れてさえいなければ、泣き疲れて絶望の底に居たその場の誰もが、僅かな光明を信じたのだろうか。

「黙れシリウス、陛下の御前だぞ…!」
「黙るのは師君の方だ、ライオネル=レイ」

この世には神も仏もない。
そうだ。それらの言葉も信仰も、所詮は人間が作り上げてきたものだ。

「現実を受け入れよ。最早立ち止まる暇はない」
「何、を、馬鹿な事を…っ。幾らお前と言っても、悪い冗談が過ぎるぞシリウス」

レヴィ=グレアムが死んだ。
その第一報で震え上がった大陸な地下は、男爵の死を聞いて自ら命を絶つ社員が既に複数人見られた為、即座にナイン=ハーヴェスト=グレアムの戴冠を知らせる事を優先した。幾度の手術の甲斐なく、現在両目共に微かな光ほどしか感じられない盲目の後継者は、然し誰よりも冷静に『死に急ぐな』と命じ、男爵の遺体を確認しと同時に男爵の元へ旅立つ事を宣言していたレオナルド=アシュレイの命を救っている。

「ナ、イトが死ぬ筈がない。彼はまだ32歳だ」
「…心不全だと思われる。急性であれば、要因は幾つもあろう。年齢は関係ない」
「冗談はやめろと言っている!」

けれど、日本から空を経て男爵の亡骸と共に戻ってきた彼のパートナーは、心身共に酷い有様だったが生きていた筈だ。
ナイト=メア=グレアムの良き友として十年、如何なる時でも元気だった夜人を見守ってきたレイリー=アシュレイは、泣き枯れた両目から涙が滴らなくなって尚、痛ましい男爵の骸に祈り続けていた事を忘れ、同じ様に泣き腫らした表情で知らせにやってきた白衣を呆然と見上げた。

「陛下が亡くなられて誰もが冷静でない事は明らかだろう!陛下が息を引き取られるまで傍にいたナイトは、我々よりもずっと傷ついている筈だ!」
「…ライオネル=レイ」
「そうだ、オリオンの姿が見えないな!あの性悪がこんなつまらない悪戯を思いついたに違いない、何処だオリオン!今日と言う今日こそ流石に俺も頭に来ているぞ!出てこいオリオン、傷ついているナイトの代わりに俺がお前の尻を叩いてやる…!」
「やめよ、ライオネル=レイ!師君が儂の言葉を信じられんのであれば、この場に夜人の骸を運んでこればよいのか!」

一回り離れた若者の恫喝に、跪いたまま瞬きを忘れたレイリーの両目から、再び涙が溢れていく。
レイリーと同じ様に打ちひしがれていた幹部の誰もが、冬月龍人の足元で震える手を持ち上げ、顔を覆ったレイリーの震える背中を眺め、再び襲ってきた絶望に絶えられず酷い者は意識を失った。

「全てが遅かった。衰弱していた夜人が眠ったのを確かめ、技術班員は全て陛下の蘇生につかせていたが、食事を運んだオリオンが夜人を起こそうとした時には既に、っ、…夜人の脈はなかったそうだ」

何と言う事だ、と。
呆然と呟いたレオナルドは目を見開いたまま、膝から崩れ落ちる。未だ40代の彼はこの数日で何歳老けたのか、干からびた唇を震わせ何度も何かを呟いているが、彼のそれは正常な言葉として響く事はない。ただただ、声にならない悲鳴を絞り出しているだけだ。

「オリオンは、どうした…?誰よりもナイトに懐いていたのに、姿が見えないが…」
「姿はないが、誰より悔やんでおるに違いない。あれは誰よりも先にナインへ夜人の訃報を伝えた様だから、…察するに、隠居同然のテレジアへ報せに向かったのやも知れん」

神よ。
ああ、ステルシリーにとっての神とは常に、唯一だった。聖書で語られるキリストの父でも、マリアの夫でも、太陽神アポロンでも冥王ハデスの弟ゼウスでもなく、レヴィ=ノア=グレアムだけだった。

「悪かったな、シリウス。お前の方が泣きたいだろうに。覚悟が窺える表情を見ると、…殿下は既にご存知なのか」
「ナイン…いや、キング=グレアムは、既に玉座で師君らを待ちかねておる」

何処かに、この宇宙から見れば果てしなく矮小な星を司る万物の神が存在するのであれば、何故救ってはくれないのだろう。既に数千人に上っているステルシリー社員総員の父であり、母であり、兄であり弟であった二人を、どうして同時に奪う様な真似が出来るのだろう。

「嘆く暇があれば円卓を揃えよ。新たなノアの為に」

判っている。レヴィ=ノア=グレアムが生きていれば、龍人と同じ事を命じたに違いない。

「…ナイト、は。本当に、逝ってしまったのか…」
「…そうだ」
「悪い。もう少し、立ち上がれそうにないんだ」
「っ」
「お、俺には…情けないが今は、ナイトの死に顔を見る勇気がない…」

決して泣くまいと、既に親であり兄であった夜人の亡骸の前で叫び泣いた冬月龍人は、けれど他の誰かの前では気丈に歯を噛み締め、18歳の少年には辛すぎる現実の中、両親たる男爵夫妻が遺してくれた責任を果たそうとしている。

「見たくなければ見なければよい。但し、玉座を空けたままではおられん。レヴィ=ノアの崩御は既に、政府の耳に入っておろう」
「………そう、だな。判った」

彼より大人である誰もがそれを理解していたが、突如襲った悲しみが癒えるにはまだ、時間は足りていない。

「一同、聞いて欲しい。誇り高きレヴィ=ノヴァ=グレアムと、伴侶ナイト=メア=グレアムの安らかな眠りを祈るのは、陛下をお迎えに上がってからでも遅くないだろう」

けれど、レイリー=アシュレイは誰よりも早く立ち上がった。
実直にして冷血だと思っていた兄が未だに座り込んでいる様を横目に、同じく咽び泣いている誰もを見渡して、彼の方が死人の様な表情ではあったが。

「我々は立ち止まってはならない。我々の命は一人の例外なく、ノアの為にある筈だ。それ即ち、唯一神の冥府揺るがす威光を須く知らしめんが為に…」

途方に暮れた声で呟いた対外実働部長が涙を零したのは、それが最後だった。
































「早かったわね」
「んー」

普段は閉ざされているグランドゲートの門の外、自動改札の遮断機が降りている地下駐車場への入口へ続く山幹の脇に、見慣れた車が停車している。
平日の昼間にこんな山道を走る車など皆無だが、後部座席のドアを開くまでハザードランプは点滅していた。無人の運転席に背を預け煙草を携帯灰皿に押しつけた女は、後部座席のドアが閉まると同時に、運転席へ乗り込んだ。

「結果、どうだった?」
「んー」
「んー、じゃないわよ。流石に今回はスケジュールきつかったから、テスト勉強やってる暇なかったじゃない」

走り出したホイール、整備されている山道は山道を感じさせない穏やかなドライブを演出している。ハンドルを握ったままミラー越しに視線を送ってくる異性の声に、嘲笑一つ。

「もしかして、寝不足?」
「十時には寝てたけど?」
「…なら良いけど、クマなんか作ったら怒るわよ」

勝手知ったる他人の鞄の中からペットボトルを引き抜くも、どうにも好みではない飲みものだ。長いだけで面白味は特にない山道を下るまで、店も自動販売機もないのに。

「カルピス買っといてって言ったじゃん」
「時期が早いっつーのよ!…って、ペットボトルのカルピスで良かったの?ギフトかと思って、わざわざお中元コーナーで買って持ち帰ってきたのに」
「なーる。それで助手席にお中元があったわけ」

車へ乗り込む寸前に見えた某百貨店の紙袋が、助手席のシートに鎮座している。夏のおもてなしカルピスギフト、最近はめっきり減っていると聞いたが、探せばあるものだ。素麺を貰うより、少なくとも神崎隼人にとっては嬉しい品物でもある。

「ちょっと濃いめに入れてさあ、氷をいっぱい入れとくのー。段々溶けてくると、飲み干す瞬間が一番美味しくなるんだよねえ」
「はいはい、カルピスのレシピなんかどうだって良いわよ。社長に働かせ過ぎだってお小言貰ってんだからね、こっちは」
「あは。仕方ないじゃんねえ、隼人君はどうしても取り返さなきゃなんないもんがー、あるんだからさあ」

数年前に市長を辞めた隼人の形式上の保護者は、以前働いていた職場に戻って働いているそうだ。暫く会っていないので、スカウトされてモデルを始めた時も事後報告だった。非行に走れば即座に辞めさせるからと喚かれているので、成績は維持しないといけない。
何せ形式上とは言え、血縁関係が全くない隼人の保護者は、神奈川の片田舎で市長をしていた女装コスプレ趣味の男と、その当時副市長を務めていた現職の市長だ。

「心配しなくてもお、いーっつも通りい、一番だったもんねえ」
「…呆れた。どうなってんのよ、アンタの頭の中は」
「生まれつき天才なだけだよお?」

帝王院学園と提携した廃校寸前の学校が、試験的に寮制を導入する話を聞きつけ、隼人の母親の代理人に喧嘩腰で『こっちで寮に入れるから今更母親面してくれるな』と吐き捨てたらしい。無論そんな暴挙に出たのは、冷血故に嫁が来ないと噂されていた、当時の副市長だ。
祖父母が亡くなった騒動の最中、大人に任せておけと言われて母親とも弁護士とも直接話をする事がなかった隼人は、寮に入るギリギリまで地元の皆に可愛がられ、特に町内会長と畠中養鶏の夫婦の家へ代わる代わる泊まり、たまに副市長が住んでいる新築マンションでデリバリーピザなるものが食べ放題だった。

「その割りに嬉しそうじゃないわね。首席は当然だって思ってたんじゃないの?」
「まあ、事前に聞いてた噂よか、本校の進学科って馬鹿ばっかなんだけどお」

皆の前では生真面目な副市長は、実はかなりの子供好きで隼人が遊びに来る時は豪勢なご馳走を用意してくれたものだ。50歳になるまで独身貴族を貫いていたから、料理は出来ない様だったが、掃除はきっちりしていた。玩具で遊ぶより外で遊びたがる隼人は散らかさないので、親戚の子供達より可愛がってくれた覚えもある。
本校へ昇校が決まった隼人が卒業する寸前に、入学式の時の様に卒業式も町内の皆で出席すると息巻いていた町内会長が体調を崩した。長い入院になると聞いて見舞いに行きたいと言ったが、

『弱ってる所を隼人君に見せたくないみたいでね。お父さんったら、絶対に来ないでくれって言ってるのよ…』

困った様に奥さんは『ごめんね』と呟いた。間もなく亡くなった人の葬式は平日の昼間に執り行われ、寮暮らしの隼人の耳に入ったのは、休みに入ってからだ。
幼い頃から大人は隼人を甘やかし、辛い時には一致団結して助けてくれた。それなのに卒業証書を誰よりも楽しみにしてくれた人には、見せてあげられないまま。

「近くて遠いか神奈川、ってねえ」
「何かの歌詞みたいね」
「縮まってた」
「は?」

一斉考査。世間的には中間テストと言うらしい。
二日間の試験期間は寮に戻って受験し、終了翌日の朝に掲示板で結果を確かめて仕事へ向かう。上位30名だけが在籍を許される進学科の首席帝君だけに許された授業免除権限は、帝君である限り文字通り単位を保証する権利だ。テストの結果だけが全て、私立校だからこそ可能だろう、実に合理的なシステムだと思う。

「2位の奴。進級試験の時は確か12点差だって聞いてたのにさあ、隼人君が土日所かゴールデンウィーク返上でお仕事してる間にい、3点差まで迫ってたー」
「は。その子からしてみたら、サボってばっかりのハヤトが首席なんて納得出来ない、って所かしら」
「やだねえ、ガリ勉って暇さえあれば逆恨みしたがるんだもん。自分の物覚えが悪いだけなのにさあ」
「まぁ、どっから見てもアンタはガリ勉って感じじゃないもんねぇ。どんな子なの?やっぱりガリ勉君って雰囲気?」
「んー」

どんな顔だったか思い出そうとするも、思い出さない。
隼人にとってそんな事は有り得ない話だった。とすれば、思い出せないのではなく、そもそも面識がないと言う事だ。
テスト期間は教室受験ではなく、不正防止の為に3学年全員がランダムに振り分けられた会場で、それぞれ入口でくじ引きした席で受験する決まりになっている。カンニングが出来ない様に、周囲の生徒が同級生で固まらない様に考えられているらしい。

「覚えてないってか、知らない」
「アンタねぇ、クラスメートの名前と顔くらい覚えときなさいよ。スタッフの名前はすぐ覚える癖に」
「まーね。記憶力には自信あんのお」

入学からまだほんの2ヶ月弱。
梅雨を待つ5月末までに隼人が教室へ足を運んだのは、入学式典とその後の進学科説明会だけだ。入寮準備は4月に入ってすぐに行い、休まずに仕事をこなしていったお陰で、方々で隼人を見掛けたプロデューサーからオファーが届いている。社長曰くラッキーらしいが、自称敏腕マネージャーの努力だけで舞い込んできた数ではないだろう。

「社長のお小言を躱す為にも、抜かれない様に頑張んなさいよ。30番以内に入っとかないと、授業料の督促状が『タケちゃん』に届くんだからね」
「判ってるっつーの。タケちゃんはよい人だけど真っ赤な他人だもん。迷惑は掛けませんよーだ」

どんなハードスケジュールだろうと、一度タイムテーブルを聞けば時間通りに行動する隼人は、大人達にとっても都合が良い様だ。一度仕事を共にした相手は高確率でリピートオファーが来ると言うのだから、幸先の良さにプロダクションの方が慌てている。

「そう言う価値観はしっかりしてるわよねぇ。クラスメートの子達、絶対アンタの事を勘違いしてるわ」
「させとけば?知って貰わなくて結構だもんねえ」
「あのねぇ、若い内の友達は何人でも作っときなさいよ。建前が必要ない頃の友達は一生もんなんだから」
「お友達ならいっぱいいますー。今夜も明日も予約入ってるからさあ、撮影終わったらジャーマネは先に帰ってよいよ」
「は?って、もしかしてアンタ…っ」

目を吊り上げた運転手がハンドル操作をミスする前に、隼人はヘッドレスト越しの彼女の頭をポンと叩いた。

「よしよし、おばさんのヤキモチはみっともないからやめよ?今夜と明日は無理だけどお、暇な時に遊んであげるからよいでしょ?」
「っ」
「おばさんにばっかモテるってのもさあ、何かアレじゃん。5年生の時に担任からパンツ剥がされてシゴかれるわ、彼氏とホテルに入ってった教育実習生と目が合った次の日にはまたパンツ剥がされて咥えられるわ、町内会長の娘からは会う度にキスされて舌入れられまくるわ…おばさんって恐いよねえ。あ、5年生の時の担任は男だったけど」

それでも、決して守っていた訳ではない童貞を喪失したのは、地元では有名だった元市長と現市長の名前の効果がなくなった、上京二日目だ。

「仕事優先し過ぎて彼氏に捨てられたからって、フツー商品に手ぇ出すかなあ?」
「…」
「これからマネージメントしなきゃなんない初々しい中学生をー、オムライスを餌に自宅にお持ち帰りしてえ、泣きながら元彼の愚痴言いつつ、2時間もさあ」
「その話は忘れてって言ったでしょ!なんて性格の悪さなのっ」
「顔と体がよいから、性格くらい悪くないとねえ。ただの完璧な男の子になっちゃうしー?」
「社長にチクったら、タケちゃんにアンタが毎晩夜遊びしてるってチクるから」

お陰様で、隼人は二十代のマネージャーに最初から本性を晒している。猫を被る前に服を脱いだからだ。破局の憂さ晴らしは満足したのか、早急に金が必要だと言った隼人にな従って、このマネージャーは効率的に仕事を持ってきてくれた。
ギブアンドテイクだ。社長にすら話していない隼人の目的と、本当の両親の話をピロートーク宜しく語り聞かせてやった分、マネージャーには協力して貰わなければならない。いや、寧ろ従属だろうか。

「で、この車って何処向かってんのお?撮影って世田谷じゃなかった?」
「思ったより出てくるのが早かったから、ご飯食べましょう」
「何処のレストランですかー?」
「私のマンション」
「わー、何されちゃんだろうねえ」

けたけたと笑いながらペットボトルのキャップを捻る。
だから言っただろう、ギブアンドテイクだ。欲求不満を隠さない女に対して、仕事を与えてくれるご褒美になるなら、安いものだ。

「ジャーマネとやるのも枕営業になんのかなあ」
「…アンタには年相応の初々しさってもんがないの?」
「あは。それが12歳に喘がされてるお姉さんの言葉?」
「そりゃそうね。私服だと大学生にしか見えないもんね、アンタ」
「夜遊び所か夜も休まず働いてるんだけどねえ、主に腰が」
「親父臭い事ほざいてんじゃないの」

そう言えば、入学式典で見掛けた派手な3人は良く覚えている。青、緑、オレンジ、派手なネオンの様だった。カルマがどうだの、こそこそ陰口を叩いていた生徒の声も。
下らない事は覚えているのに、顔を思い出しても名前は知らない。赤の他人だ。覚えているだけで思い出す必要のない、風景の一部にしよう。

全部覚えていたら気が狂ってしまう。
例えば一人きりの時に、勝手に再生される終わらない映画の如く。

「あ、ネオンで思い出した。隼人君ねえ、いっぺんラブホ行ってみたいんだけどさあ」
「どんなスキャンダル狙ってんの、却下」
「判った、今度誰かと行ってくる」
「っ、絶対バレない様に!」
「はいはい、了解」

早めに済ませれば、仮眠を取る時間は残るだろうか。

「錦を織るって書いて、ニシコリかニシキオリか」
「何?」
「別にい?調べておけば良かったかなあ、って思っただけ」

他人の手料理などどうせ食べる気にもならないから、お気に入りの毛布を詰め込んだだけのバッグと他人の体温さえあれば、後は何も。

「ねえ、必要の『要』って書く名前ってさあ、ヨウ?カナメ?どっちだと思う?」
「人名はクイズになんないわよ。日本だけじゃなく世界にだって、当て字文化はあるんだから」
「だよねえ」

後は何も、求めていない。








(どうせ本当に欲しいものは、一つも)
(今は)


(いや、これからもきっと)

































「いつまで寝てるんだよ、叶」
「あ?」

ふと足元に目線を落とした3年Sクラス宮原雄次郎が呟けば、はたりとズレた眼鏡を押さえた男は起き上がった。キョロキョロと辺りを見回し、ぽつんと突っ立っているバスローブの背中を見るなり光の速さで抱きついたのだ。

「ハニー!遠野君とキスしたなんて冗談を仰るから、つい転んでしまったみたいです!」
「…へ?あ、うん、冗談じゃないんだけど、何で転んだんだっけ?」
「そんな事はどうでも宜しい!何故あんなダサ眼鏡にこの愛らしい唇を許してしまったのですか!宜しいですか一年Sクラス21番左席委員会副会長山田太陽君、貴方はそんな安い男ではないのですよ!」

とうとうクラス名、座席、フルネームに加えて肩書きまで増えてしまった。
とてつもなく滑舌の良い叶二葉にガクンガクン揺さぶられながら、山田太陽は何かを忘れている様な違和感に必死で頭を巡らせたが、全く思い出せない。肩を凄まじい握力で掴んだ二葉が、ガクンガクン揺さぶってくるからだろうか。

「いちゃつくのは後にして貰えるか。早く宝塚を見つけたい。僕の所為で、退学者を出したくないから」
「柚子姫様」
「ふ。その頭の様に笑わせる綺麗事を宣いますねぇ、3年Sクラス4番宮ハゲ雄次郎」

二葉の台詞に太陽は一瞬動きを止め、素早く俯いた。絶対に笑ってはいけない事だけは柚子姫の表情だけで判るが、笑ってはいけないと思うと笑いたくなるものだ。してはいけない、と言う言葉に恐らく仕掛けがある。人はルールを破りたがるものだ。

「そもそも高坂君の肉便器如きが、この私の目や尻に入れても全く痛くない所か快感すら感じる自信がある山田太陽君の下駄箱に幼稚な悪戯をした時点で、退学所かこの世からの除籍は決定しているのですよ」
「ふ、二葉先輩、言い過ぎですよー、落ち着いて下さい。ね?犯罪は駄目だよ、犯罪はっ」
「いいえ、言い過ぎなものですか。四六時中ファーストの事しか考えていないド変態に報われもしない片思いなんざしやがってカス共が、貴様らの命なんざ何万人掻き集めても俺のアキの足元にも及ばねぇっつー事をそろそろ理解しろ」

これは駄目だ。太陽の口から「あちゃー」しか出ない。
わざとらしいいつもの丁寧語を忘れた二葉は愛想笑いも忘れていて、余程太陽が浮気をした事に対して動揺しているのだろうと思われた。浮気も何も、チュっと挨拶に毛が生えた軽い口付けをしただけだ。いや、されただけだ。
そんな言い訳を聞いてくれるだろうかと考えて「無理か」と諦めた平凡は、視界の隅でこそこそしている黒人と白人を認め、首を傾げた。そう言えば居たんだったと今更思い出したものの、何でいるのかが良く判らない。

「何をとぼけているんだアート、見ただろう…!」
「だから何の話って聞いてんじゃん」
「あのセカンドを容易く転ばせて、奴を連れていった…!」
「はぁ?」

早口の英語で捲し立てている長身の黒人は、話が通じていない相手の胸ぐらを掴んでいた手を悔しげに離すと、苛々と貧乏揺すりを始めている。掴まれた胸元のシャツの皺を手で整えていた白人の方は、太陽の視線に気づいて「喧嘩じゃないよ」とばかりに手を振った。

「話は後で聞くから、とりあえず普通にしとけ。セカンドとあの子が居る」
「…あの時、私の体は何故動けなかったのか判らない。早急にファーストにお会いしなければ…」
「あ、今ファーストって言った」

小声のネイティブな英語でも、知っている単語を落ち着いて並べれば大体の意味は判る。太陽にとって、英語は苦手意識があるだけで喋れない訳ではなかった。全く点数が取れなければ、そもそも進学科の万年降格範囲内で生き残るのは難しい事だ。

「一応、念の為に聞いときたいんですけど、対外実働部の皆さんは神帝派なんですか?それとも理事長の味方?」
「難しい質問をするね〜、時の君。まぁ、一介のランクBなんで誰の味方かと聞かれたら、マスターの味方って感じかな」
「…私はファーストに命をお預けしている。マジェスティノアの命令は絶対だが、ファーストが劣る訳ではない」
「つまり、二人共イチ先輩の味方って事かー」

いつの間にか本性丸出しの二葉と、同じく柚子姫と謳われた『儚げなお姫様』が壮絶な喧嘩をしている。二人共被っていた猫が盛大に家出している様で、聞こえない振りをしていた太陽はデコを曇らせたのだ。

「どう見ても颯人の方が可愛いっつってんだろ、馬鹿じゃねぇの?!度が合ってない眼鏡なんか割っちまえ、陰険野郎!」
「勝手に抜かしてろ糞ブスが!どの角度から見れば俺のアキに伊坂が適ってると思えるんだ、甚だしい勘違いしてんじゃねぇ!テメェの眼球は腐ってんのか?!見せたかねぇけど今だけ許してやっからアキを見ろ!目薬染み渡らせた上で崇める様に見ろ!もう本当に、天使かよ…!」

ビシッと太陽を指差した二葉は宮原に『見ろ』とほざきながら、バチッと目が合った太陽に口元を押さえ、膝から崩れ落ちる。誰もが可哀想なものを見る目で二葉を見ているが、『マジ天使』だの『いっそ小悪魔』だの呟いている浴衣は本気の様だ。

「えっと…。これ、本当にあのセカンド?どっかで頭でも打った?」
「そっくりな別人と言うなら信じられる」
「ほんとすいません、うちの風紀委員長が誰よりも風紀乱してて…」

太陽のツッコミスキルが鳴りを潜めるほど痛々しい二葉は、外した眼鏡を浴衣の裾で磨きながら『フォーエバーフェアリー』と呟いた。どう見てもこの場で最も美しいのは二葉だったが、この場で最も頭が可笑しいのももれなく二葉だ。

「…呆れた。自分しか愛せない様な男が、こんなしっちゃかめっちゃかになるほど惚れ込むなんて」
「ゆうちゃん、白百合様は恋をしてるんだよ」
「いえ、恋などではありません。愛です」

呆れ果てた宮原の傍ら、宮原より大分大柄な伊坂颯人はキリッと宣った二葉に感動し、ぽわっと頬を染めて左胸を押さえた。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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