帝王院高等学校
不満と不安は一字違いざますん!
何かを言ってやるつもりだったのだ。その時は。
きっと二人きりになったら、お説教じみた台詞を幾つか。その瞬間までは確かにあの時、用意していた筈なのに。

「お前、馬鹿じゃねぇの」

諦めたのか呆れ果てたのか、ネクタイを緩めながら吐き捨てた男の目は天井に向けられていたが、台詞と共に吐き出された溜息と同時に閉ざされて、見えるのは瞼に沿った長い睫毛だけ。
その睫毛は、近くで見ると黒でも赤でもない明るい茶色だと、彼と通り過ぎてきた過去の恋人達の何人かは、やはり当然の様に知っているのだろうか。

「折角逃がしてやったのにぶっ壊しやがって、無駄に疲れたじゃねぇか…」
「ふーん。おれが馬鹿だとアンタ疲れるの?」
「…判ってねぇな。自分が何したか」

例えば今日、何の連絡もなくやって来た息子に久し振りの挨拶もなく、開口一番『早く東京へ戻りなさい』と声を荒らげた母親に対して、初めて『うっせーババア』と言う酷い言葉を投げつけた。
ふらりと貧血に見舞われたらしい母は、年齢を感じさせない身内の贔屓目を抜いても美しい表情を青褪めさせていたが、震える手で自分の父親へ電話を掛けるなり『お父さん!し、獅楼が…獅楼が男らしくなってたの!』と叫んだ。

「時期が早まっただけじゃん。いつか継ぐ予定だったのが、今日になっただけ」
「正気かよ。世間知らずの小便タレが、一国一城の主たぁ笑わせる」
「勝手に笑ってれば?」

興奮した人は興奮の余り鼻血を吹いたが、ヘリコプターで駆けつけてきた旦那に『お仕事ご苦労様』でも『心配掛けてごめんなさい』でもなく、『反抗期万歳』なのだから、息子の加賀城獅楼すら両親の思考回路を疑ったものだ。

「判ってないのはどっちだよ。おれがその気になれば、明日にも変わるって知ってる?嵯峨崎航空の経営権」
「は。脅してるつもりか、加賀城新社長」

そっくりだと、思った事はあったか?
目の前の男と、一度として弱った姿など見せた事もない炎の様な人と、今日一日で一度でも。

「生憎、うちはテメー程度に潰されやしねぇ。日本列島の枠組の中じゃ、確かに嵯峨崎は加賀城系列の資産にゃ負けるだろうが…」
「何だ。全然、似てないじゃん」
「あ?」
「ユーさんだったら、おれもう殴られてるもん」

ぐだぐだ恨み言を吐く様な真似を、嵯峨崎佑壱ならしない。
言葉で語るより殴った方が早いと躊躇わず吐き捨て、今頃獅楼は殴り倒されている筈だ。

「は、この俺をあの馬鹿と比べてんのか?」
「ずっと満点取ってたら偉いの?ユーさんだって帝君だ。肩書きだけなら同じだろ」
「崇めんのは勝手だがな、ありゃただの糞餓鬼だ。勝手に人様の弟を神扱いしてんじゃねぇぞ、童貞が」
「それが本音?」

訳が判らない内に名古屋まで連れ去られて、訳が判らないままに捨てられて、世界中の何人が許せるだろう。少なくとも獅楼は頭に来た。せめて事情を説明してくれていれば、理解しようと努力したかも知れないけれど。嵯峨崎零人と言う男は、そんな所だけ彼の弟に似ているのだ。

「おれがユーさんにまとわりついてるのが目障りだったから、苛めたの?」

童貞が、と。
笑う口元から飛び出した男の声は冷ややかで、低い。見た目はそっくりでも声は全く似ていない兄弟は、兄の方がずっと声が低かった。佑壱ほど遠くまで響かない代わりに、至近距離で凄まれた場合は、佑壱より威圧感があるかも知れない。

「経験してないと馬鹿で、経験してたら偉いの?」

例えばそう、あの手に触られた事がある。
例えばそう、あの唇に触られた事がある。
向こうからすれば大した事ではなくて、自分からすれば大事件だった。たったそれだけの話だ。

「おれが童貞だから馬鹿で、アンタは童貞じゃないから馬鹿じゃないんだ」
「あのなぁ、誰がンな話…」
「勝手にオメーで線引いてそっから飛び越える勇気もない癖に、人を馬鹿にする権利あんの?」

殴る権利くらい、あるのではないか。
手を伸ばし、弛められたネクタイを鷲掴んで引き寄せれば、零人は微塵の抵抗もせずソファへ乗り上がった獅楼を見上げている。微かに片目を細めているのは、コンタクトレンズでもズレたのだろうか。

「おれには殴る権利がある」

努めて冷静に。声を荒らげたら負けだと、つまらない意地で増えた肩書きの本当の価値など今はまだ殆ど理解していないまま、ただ責任だけは感じている程度。

「だったら殴れば?」
「おれに権利があっても、そっちに『殴るほどの価値』がない」
「…酷ぇな」
「知ってる?アンタ、ウエストより遊び人なんだって」

報道部調べだと言うと、瞬きもせずに見つめてくる男の唇がまた、笑った。
二十歳を超えると誰でもこうなるのだろうか。一人だけ憤っている獅楼が馬鹿みたいではないか。これでは零人の台詞が正しかった事になってしまう。

「嵯峨崎は門番なんだって、じーちゃんから聞いた。おれは、本当は地元から出たら駄目だったんだ」

獅楼の両親は親戚同士で結婚した。母親は加賀城敏史の娘で、父親は敏史の義理の姉の息子だ。敏史にとっては甥っ子同然だが、血の繋がりは薄い。

「ずっと昔、瑞穂って人は自殺したんだ。瑞季…おれのじーちゃんの義理のお父さんが、同じ日に自殺しようとした瑠璃子さんだけ助けたんだ」
「それを俺に聞かせてどうすんだ?」
「知らないよ、そんな事…」

加賀城瑞穂には一人娘がいたが、一人目の旦那を早くに亡くすと育児放棄同然で遊び回り、目に余る態度に頭を痛めた皆の口添えで、妻を亡くしていた加賀城本家の当主と再婚している。二人は親子ほど歳が離れており、本家当主の息子には美しい一人娘がいた。

「加賀城本家はね、一人娘が嫁いだ時に終わったんだって。ううん。本当はその前、娘さんにほんの少し障害があって、その所為で親戚中から責められたんだ。だから本家の当主さんは、娘さんを守る為に引っ越したんだよ」
「…今で言う、知能障害って奴だろう?」
「知ってんのか。おれなんて、さっき初めて知ったのに」
「俺の婆さんが、その人を姫さんみてぇに慕ってたんだとよ。つっても、餓鬼の頃に聞いた話なんざうろ覚えで、大して知らねぇ」

加賀城舞子、後に帝王院へ嫁ぎ帝王院駿河を産んだ人だ。それでも獅楼がその名を知ったのは、祖父からではなく、帝王院神威から教えられたからだった。
彼女の従姉の元に産まれた敏史は、産まれて間もなく舞子の両親の元へ跡継ぎとして里子に出された。然し舞子が亡くなる少し前に加賀城夫婦は亡くなっており、そこで本家は途切れている。血縁だけなら駿河が残っているが、加賀城財閥と帝王院財閥は比べるまでもない。

「本家なのに宗家から煙たがられて、山梨じゃなくて静岡に住んでたんだ。富士を望む安倍川の麓、一本の桜の木を何百年も守ってきたんだって」

初めて聞いた話は、獅楼の耳を通り過ぎて行った。スラスラと他人事の様に話しながら、握り締めた零人のネクタイをどうする事もなく、彼の膝の上に跨る様にして座っている自分は本当に馬鹿だと思わなくもない。

「ほんと、馬鹿みたい。桜の木なんかより、家族の方が大事に決まってるのに」
「…」
「だから、おれ、判るよ。おれみたいな罰当たりがユーさんの近くをうろちょろしてたら、ムカつくよね」

浮かせていた腰が辛くなり、遠慮なく零人の膝の上に腰を下ろした獅楼は呟いた。
重いとも退けとも言わない零人のネクタイに、シルバーのタイピンがついている事に気づく。いつもはジャラジャラと重たげなアクセサリーで飾られている零人は今日、パーティーフォーマルに合わせているのか、控えめに指輪が一つ右薬指に光っていた。
シンプルな指輪だと思ったが、良く良く見れば少しもシンプルではない。細かな模様がびっしり刻まれた、結構な代物ではないか。

「つーか、瑠璃子が生きてたっつーのは、初耳だ。ババアが生きてたら怒り狂ってそうだな、…って、何やってんだよ」
「この指輪、かっこいい。何処で買ったやつ?」

佑壱も気分でアクセサリーをつけているが、基本的にピアスと中央委員会役員証明の指輪だけだ。私服は派手な割りにスーツスタイルは基本から離れない、育ちの良さが彼をただの不良で終わらせない魅力なのだと、獅楼は思っている。

「…買ってねぇ」

仲が良い訳でも悪い訳でもない佑壱と零人は、恐らくそれほど気づかれていないだろうが、獅楼からは他人行儀に見えた。余所余所しさが抜け切らず、互いに互いの扱いを持て余している様な、違和感がある。勘違いかも知れないけれど。

「貰いものなんだ?だったらオーダーメイドかな。彼女がくれる手作りのプレゼントって、マフラーとかだけだと思ってたよ、おれ」
「何十年前の少女漫画だそりゃ」
「少女漫画なんか読んでんの?」
「あー、母親の教科書?」
「は?教科書?」
「俺の母親は死ぬまで日本語が下手くそだったんだよ」

日本人じゃないから、と。呟いた零人は獅楼の目の前で薬指から指輪を引き抜くと、何故か獅楼の中指に嵌めようとして、眉を跳ねた。

「げ。テメ、シロの癖に俺よか指が太ぇとは舐めてやがる」
「ちょっと、人から貰ったものをおれに勝手につけんなっ」
「有難く受け取っとけ。社長就任おめでとう、ご愁傷様」
「貰ったものを人にやるなんて失礼だろっ」
「あ?これが貰いもんだなんて言ったか?」

じろりと睨まれて、そう言えば言われてない様な気になった獅楼は口篭った。
冷静に冷静にと心の中で唱え続けてはいるが、実は全く冷静ではない事をとっくに知っている。零人に名古屋城の前で置き去りにされて、丸々太った烏と鳩を暫く放心状態で眺めて。ふつふつと沸き起こった憤りのまま母親が主催しているパーティー会場のホテルへ乗り込み、途中でどう見ても日本人ではないSPに取り押さえられそうになり英語で怒鳴り散らしたが、佑壱のネイティブ過ぎる英語に憧れて真似しているからか、屈強なSP達が引いていた程には、我ながら酷かったと思う。
沖縄から連れてきたのだろうSP達が警護していたのはやはり獅楼の母親で、彼女に会うまでに散々苦労した獅楼は興奮したまま、産まれて初めて母親に悪ぶったのだ。

「言ってない、かも」
「かもじゃねぇ。ったく、勝手に想像して勝手に暴走してんじゃねぇ、馬鹿が」
「う。また馬鹿って言った…」
「教育実習生にゃ、受け持ちの生徒のテストの点を調べられる権利があんだよ」
「絶対嘘。自治会長権限でサーバーデータ見たんだろっ」
「無駄に鋭い推理するじゃねぇか。ハッキングが得意なダチでも居んのか」

お陰様で、出張先の出雲からヘリコプターで駆けつけた父親は母伝いに話を聞き、何故録画していなかったのかとSP達に怒鳴っていた。ヤンキー漫画が縁で結婚したと言っても過言ではない夫婦は、獅楼がカルマに入ったと報告を受けると光の速さで『ヤンキーセット』と言う品目の宅配便を送ってきた程には、ヤンキーを愛している。両親にこう言うのは酷いとは思うが、獅楼の両親は馬鹿なのかも知れない。
その中にはジャラジャラしまくったアクセサリー類やら、ヘアカラー剤やら、ダメージが著しい可哀想なジーンズやら、とにかく様々なものが入っていた。お陰様で獅楼の私服は佑壱に負けないほどファンキーで、街を歩いていると大抵の人は近寄ってこない。

「ハヤトさんが…」
「カルマにゃろくな奴が居ねぇ。神崎隼人と、藤倉裕也もそうだが…錦織要は最悪の極みだ」
「カナメさんが何?って、痛っ。ちょ、無理矢理押し込もうとするなっ。中指も薬指も無理だよっ、人差し指なら入るかも!」

同じく、佑壱に近寄ってくるのは腕に自信がある不良か、舎弟志望か、気の強い女ばかり。稀に獅楼にも寄ってくる女性はいるが、片っ端から断っている獅楼は恋愛に希望を抱いている訳ではなく、将来的に結婚する相手は親が選ぶだろうと思っているからだ。昔からそう思っているので、何ら不満はない。だから誰かを好きになっても、そこに恋愛感情が宿る事はなかった。一度として。

「抜かせ、テメーは明らかに薬指よか人差し指のが太ぇだろうが。最近の餓鬼は無駄に発育が良過ぎんだよ、大体お前は見た目よか重ぇっつーの」

だから、ある意味では尊敬するのかも知れない。呆れるほどにだらしない零人の貞操観念は、獅楼には理解出来ないものだ。立場としては獅楼と大差なく、だから今回のパーティーで零人は目玉商品だったに違いない。より良い婿を探している女性にとっては、一点限りの上等品だ。

「はぁ?!おれ、まだ70kgしかないしっ。ユーさんみたいに体脂肪6%で74kgまで増やすのが目標なんだっ、ユーさんかっこいい!」
「体脂肪なんざ11%で上等だろうが。何を求めて鍛えたがるんだ最近の餓鬼は、光姫もマメに飯食ってるらしいが」
「おれ、総長と同じであんま太んないんだ」
「世の中の女が発狂する様な台詞を吐きやがる…あ、入った」
「好き嫌いしないで沢山食べてトレーニングすればユーさんみたいになれるかもってホークさんが、………は?」

キラキラ。
右手のどの指にも嵌らかなかった指輪が、左手の薬指にピッタリ嵌っている。目を丸めて己の左手を持ち上げた獅楼は、細かい装飾か施された指輪をマジマジと眺めた。

「羽根みたい」
「炎だっつーの。トライバルって知ってっか」
「海外の部族が体に彫ってるタトゥーだろ?それくらい知ってる」
「昔々、忘れ去られた楽園で兄妹が慎ましく暮らしていました」

ソファの上。
脱ぎ捨てられたジャケットは背凭れに投げられたまま、ネクタイを解いた男は鎖骨を惜しげもなく晒した無防備な姿を、背凭れに預けている。まるでジャケットの様に。

「は?何、いきなり」
「そこへくすんだブロンドの蛇が現れて、本物のブロンドの兄妹の片方に一目惚れしたのです」
「だから何だよそれっ」

元々まともだとは思っていなかったが、とうとう零人が壊れてしまったのかと思えば、そうでもないらしい。勝手に嵌められた指輪をどうしたものかと逡巡したが、『くれ』と言った覚えはないし、『やる』と言われた訳でもないのだ。

「お綺麗な理性なんてもんは、下らねぇ本能で壊れちまうっつー有り難い教えだよ」
「判んないんだけど、それって有り難いの?」
「さぁ。聞いた時は無駄だと思ったな」
「何が?」
「本能って奴がだよ。悟れ」
「全然判んないんだけど…ふぎゃ!」
「色気がねぇ」

どちらにせよ、高価なものをひょいひょい貰うほど獅楼は擦れていない。返そうと右手で指輪をつまめば、むにゅっと零人の両手から尻を揉まれて飛び上がる。

「ちょ」
「ババアがどうあれ、俺個人は加賀城にゃ何の恨みもねぇ。お前の親にもそう言っといた筈なんだが、聞いてねぇのか?」
「知らないよそんなの。もう、セクハラやめろよっ」

逃げようと暴れてみても、そもそも零人の膝の上に乗ったのは獅楼だ。腰を抱き込まれてしまえば逃げられなくなるなんて事、たった今、実演されて気づいた。
こうなれば冷静に話をするなんて綺麗事は、既に獅楼の頭の中にはない。今まで大人しかったのが嘘の様に、いじめっ子の笑みを浮かべている零人は獅楼を抱えたまま立ち上がり、逃げる間もなく獅楼はどさりとソファへ下ろされる。

「ああ、ちょっと触っただけでビュービュー飛ばすもんな。気持ち良すぎて泣いちゃう加賀城獅楼君、社長になっても泣いちゃうのかなー?」
「っ、最低…!気持ち良すぎてじゃない、気持ち悪すぎて涙が出たんだっ」
「恥ずかしがんなよ、俺はお前のケツの穴まで見てんだから」
「もう、死ねばっ?!」

流石は佑壱の兄、零人の身長や体重を獅楼は知らないが佑壱よりは大きいのは見ただけで判る。それでも差程体格の変わらない獅楼を、軽々抱き上げられたのは、一体どう言う魔法なのだろうか。

「案外、口が悪いよなお前。佑壱の前じゃ被ってる癖に」
「嫌われたくない人の前で猫被って何が悪いんだよ。離せって!」
「煩ぇ、触ってるだけで入れた訳じゃねぇだろうが。幾ら童貞でも溜め込むのは体に悪いぞ」
「うっさい、余計なお世話…っ」
「お母様も心配してたぞ。折角反抗期を楽しんでるのに、色気が全くないってな。とうとう『お宅の佑壱さんに一肌脱いで頂けませんか?』って言われた」
「お母さんの馬鹿ぁあああ!!!」
「は。お母さんって呼んでんのかよ」

あっという間に脱がされていくのも、意味が判らない。ダブルのスーツなど初めて着た獅楼は、初めて締めるネクタイの結び方を教えて貰ったものの、外すと二度と締められないと言う自信があった。

「佑壱は、まぁ、やめとけ。元々は俺よか適当に遊んでた佑壱はともかく、あれには面倒臭い呪いがついてる」
「呪い?!ユーさんにそんなのついてないよっ」
「ついてんだよ。この俺がいい加減乗っ取りなんて企む程度には、やべぇのが」
「はぁ?!訳判んないんだけど、ひゃっ!み、耳舐めんなっ」

いや、今はそれどころではない。
マイペースだとは思っていたが、息子が憧れている相手の兄に、『貴方の弟さんとうちの子を一発やらせて貰えませんか?』などとほざくのは、流石にどうだろう。ないだろう。恥ずかしさやら情けなさやらで泣けてくる。いやいや、それもあれだが、手が早過ぎる最上学部自治会長が舐めたり揉んだりしてくる、そちらも大事件だ。

「何でおれなんだよっ。加賀城に恨みはないって言ったじゃんか!」

力では適わない。それは早くから知っている。
何せ獅楼は、細身の高野健吾や、川南北緯にも適わないのだ。線の細さと見た目の儚さで、健吾より弱そうに見えなくもない錦織要に至っては、喧嘩を売る人間がこの世に存在するのかと獅楼は疑っている。勝てないのに挑む神崎隼人の勇気を、獅楼はこっそり尊敬していた。

「大体っ、おれユーさんと付き合いたいとか、そんな分不相応なこと考えてないしっ」
「だってお前、間違えてんじゃねぇか」
「はぁ?!」
「お前が佑壱に惚れた理由言ってみろよ。クラスメート達には随分知られてるんだってなぁ?」

天井を背景に、獅楼の髪型と殆ど変わらない零人の短髪が重力に従っているのが見える。

「身内にバスケ部のエースが居たら、自慢と同時に厄介だったろう?学部振り分けがない初等部の頃は、秀才も馬鹿も一括りだ」
「…おれなんかの昔話、わざわざ調べたわけ?キモいんだけど」
「内定が出てる大学生は暇なんだよ。残念だったな」

何処の美容師に染めて貰ってるのかと、かなり執拗に聞かれて答えてから、零人の髪の色が少しだけ変わった様に見えるのは、きっと気の所為ではない筈だ。

「親衛隊気取りの餓鬼共に、体育館の倉庫に閉じ込められたんだって?」
「黙れよ、関係ないだろ」

昔話なのだ。だからもう、どうでも良い事だ。
土日に入る金曜日の夕方、食事前の放課後。獅楼はあの日、ルームメートに帰省する話をした。ほんの世間話だ。6年生、寮生活に慣れて教師の目も離れる頃。世話係が派遣されていた獅楼は帰省する予定が決まると、きちんと外出届を出していた。
知っている者は知っていた筈だ。6年生、悪知恵も育った頃。外出届が出されていれば、認可された期間内は外泊扱いになる。

獅楼はその日、実家へ帰る為に迎えの車へ向かう途中で、中等部の生徒を引き連れた同級生数人に呼び止められ、昌人の事で話があると人目につかない場所に連行された。中等部生徒は当時バスケ部のメンバーだった様だが、中等部二年の頃から高等部のバスケ部の練習に混ざっていた昌人に対し、恨みを持っていたらしい。
獅楼から昌人の弱みを聞き出そうとしたが、獅楼は従兄の昌人を心から尊敬していて、勿論悪い感情などある筈もなかった。褒める所はあれ、貶す所などないと断言する程には。

その獅楼の態度か台詞か、どちらにカッとなったかは定かではないが、獅楼を何度か殴った男は体育館内の倉庫に獅楼を閉じ込めた。メインで使われている大きな体育館ではなく、高等部普通科やダンス部などが使う、小さな体育館だ。週に何度使用されるかは不明だが、土日が休校となる普通科の生徒や部活動の生徒が倉庫までやってくる頻度は、当時の獅楼にも判った。
殴られて暫く意識がなかったのか、目を覚ましたのは真夜中。外が白むまで何度も戸を叩き叫んだが、誰からも返事はない。

何時間経ったのか。夏場だったのがせめてもの救いだった。恐らく獅楼を探してくれているだろう世話係の誰かが、いつか助けてくれる。その僅かな希望は、空調がコントロールされている筈の学園で、唯一と言って良いほど盲点だった体育館倉庫の気温が、日が昇るにつれて上がった頃には消えていたと思う。

喉が渇いた。
息が苦しい。

昔、悪戯をして叱られた昌人が納屋に閉じ込められたと言う話を思い出した。彼は元気良く出てきたが、無人の納屋の中で女性と話していたから全然平気だったと宣い、両親を筆頭に親族を唖然とさせたそうだ。獅楼はその時、昌人の台詞の意味が判らなかった。
けれどたった一人で閉じ込められると、誰でも良いからそばに居て欲しいと叫びたくなる。実際は上がった気温に晒されて、殴られた痛みを抱えたまま、泣いても水分の無駄遣いだと知っていた。11歳の子供には残酷な仕打ちだ。けれど自分は悪くないと信じていた。

それでも最後には自分が悪かったから許して、と。
開かない扉に向かい、みっともなく喚いただろうか。



「恋だの愛だのほざきたがる奴に限って、冷めた時の反応は大抵醜いもんだ。だったら初めから逆上せなきゃ良いのに、何でハマりたがるんだろうな」

左手。
胸元に吸い付いてくる零人を引き剥がそうとして伸ばした腕は、珍しく何の飾りもない零人の指に捕まった。獅楼には似合わない指輪が光って、佑壱とは違う、日本人特有の黒い眼差しが眩しげに細められる。

「ハマったら駄目だ。元には戻らない。この指輪みてぇに」
「抜けば元通りだろ」
「他人から貰ったもんなんざ身につけたがる奴の気が知れねぇ」

吐き捨てる様に呟いた零人は真顔だったが、すぐに笑みを浮かべた。本音を隠す様な、その表情は少しだけ、叶二葉に似ていると思う。佑壱には余り似ていない。

「だったら誰にも触らなきゃ良いのに、それは出来ねぇ。それじゃ逃げてるだけだ。俺は違う。馬鹿女の願いを叶えてやってるだけだ、逃げてねぇ」

途中から、零人の台詞が独り言なのだと理解した。セクハラめいていた零人の手が止まっているからだ。怖々と目を向ければ、獅楼の腹を見つめている顔が見える。呆れるのは、こんな時でも男前だと言う事だ。髪が短い分、零人の表情は佑壱よりも判り易い。

「…なんて。テメーにゃ判んねぇだろうな。俺にも判んねぇんだから」
「不安なの?」
「あ?」
「自分がしっかりしてなきゃ駄目だって思い込むのは、長男の気質なんだよ。おれは一人っ子だから判んないけど、ウエストが言ってた」
「何でお前がウエストとンな世間話してんだよ。学年違うだろうが」
「カルマに入ったばっかの頃、いきなり部屋に来てセフレにしてやるって言われた」

零人のポカンとした表情は珍しい。パーティーの場で獅楼が社長として紹介された時にも見た様な気がするが、あの時は急遽決まった挨拶の緊張で殆ど記憶がない。

「何でもいいよ。別に、理由なんて」
「あ?」
「サボってただけかも知れないし、もしかしたらカナメさんに叱られたのかも知れないし、何だっていいんだ。あの時ユーさんはたまたま体育館に来て、たまたま煙草吸ってて、昼寝したかったのかも知れないし、冷房嫌いだから倉庫で寝ようとしたのかも知れないし、おれには判んないからどうでも良い」

どうだって良い。
赤毛の先輩が獅楼を保健室へ連れて行ってくれて、目が覚めた時には獅楼に暴行を働いた中等部の生徒は謹慎になっていた。獅楼を呼び出した時にいた同級生の一人は、弟だったそうだ。

「お礼くらい言いたかったけど、初等部は先輩に会ったら駄目なんだ」

昌人には言わないでくれと言ったけれど、中等部では謹慎になったバスケ部の生徒の話題で持ち切りで、昌人のチームメイトが獅楼の事件に気づいてお見舞いに来てくれた。その時に、獅楼を見つけたのが『真っ赤な髪の王子様』だと、楽しげに教えてくれたのだ。

「でも中等部に上がっても、Sクラスには入れないし。チビだし弱いし、カルマは派手だし接点なんかないし、でも背が伸びたってユーさんに話し掛ける切っ掛けなんてなかったから、だから」

親衛隊がない帝君は珍しかった。
中央委員会役員なのに誰ともつるまず、誰も寄せつけない男に近づく為に出来る事は、望まれていないと判っていても親衛隊を発足し、嫌がられても嫌がられても、公認の許可を得られるまで頭を下げるくらいだった。

「諦めなきゃ、叶うんだ。弱くても強くなれば良いんだ。だからおれは、ストーカーって言われても諦めなかった。…そりゃ、馬鹿みたいだと思うけど」

メールアドレスを知った。
カルマの試験は学校の授業より難しかったけれど、合格した。ご褒美は電話番号と、毎週末の集会への参加許可だ。Sクラスに昇格するよりずっと、嬉しかったと思う。昇格した事なんて、一度もない癖に。

「何かの所為にして、自分は違うんだって言い訳してるみたい。やった事もないのに馬鹿みたいなんて、何で決めつけんだよ」
「やらなくても判るからだろ」
「他人の経験を聞いただけで判った気になってるだけじゃん。見たり聞いたりしただけで自分のものになるんだったら、プロレスファンは皆レスラーになれる」

抵抗した事などあったか?
目の前の男はきっと、元中央委員会会長と言う肩書きのままに本当は、本気で嫌がればそれ以上何もしない筈だ。

だとすれば、どうして。



「…そうだよ、お前の言う通りだ。俺は違うんだって証明してねぇと、不安で仕方ねぇ」

呟いた男の高い鼻が降りてきて、どうして逃げずに目を閉じたのか。
あの時の自分の本当の気持ちを知る人間が、果たして存在するのだろうか・と。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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