帝王院高等学校
ご機嫌いかがでございますやら社長さん♪
「社長」
「我は頭痛がしておる。何だ」
「皆には気づかれないよう、窓の外を…」

小声で呟いた祭美月を微かに一瞥した男は、体は動かさずに視線だけを窓の外へ向けた。視界の端に振り返った金髪が見えた様な気がするが、だだっ広いホールの端だ。聞こえる筈はないと、大河白燕はそれほど気に留めていない。

「お判りですか」
「…我の視力は0.3だ、見える物の方が少ない。幼少の砌にあわや抉り取られ掛けた片やの目は、矯正して尚、微かに光を感じる程度だ。目敏い汝が気になるのであれば、申してみよ美月」
「この場に朱雀がいない事が悔やまれましょう」
「何?」
「吾には13時方向に宿り木が見えます」

細心の注意を払う聡明な美月の台詞は暗号めいている。片目だけにはめたモノクルを片手で覆い、辛うじて視力を残している方の目で注意深く窺っても、大河には遥か階下の様子の細部までは判らない。

「12年前、サンフランシスコで一斉検挙された組織のドンだった男の嫡男は、当時未成年だった為に粛清から逃れた」
「それがどうした」
「何故か、その男の姿が」

吾には判断しかねます、と。
微かな呟きに何度も目を凝らしたが、祭楼月の元に産まれたとは思えない知能を持った美月に判らないものが、美月を買っている大河に判る筈もなかった。だが然し、大河を『鳥』と揶揄しているのであれば、宿り木とは鳥が羽を休める木の事だ。
アジアでその名を欲しいままにしている大河が、唯一家名で適わないのは帝王院を除いて存在しない。

「…李の姿が見えんな」
「寄生虫共に好き勝手されては、社長のお心を不用意に掻き乱しましょう。外を見張る様に申しつけました」
「良くもまぁ、この状況で我にも悟られず外に出られるものよ。汝にしても李にしても、朱雀より余程我の後継に相応しいのではないか?」
「…ご冗談を」

大河には今一、美月の考えている事が判らないままだ。十数年前、初来日した際に現地の子供の世話になったと言う話は聞いていたが、それが遠野俊だと知ったのはつい最近だ。何年も隠し抜いてきたのだから、舌を巻く。

「吾は『月』、李は『塔』なれば、どちらも空に届かんばかりとは言え、『鳥』の如く自由に飛び回る翼はございません」
「ふ。物は言いようだわ」
「朱雀が青蘭を遊び相手として目を掛けて下さらねば、引き取った折りにあのか細い命は消し飛んでいたでしょう。吾にユエの暴虐を止める力はなく、また社長にとって吾の弟など、何の価値もないもの」
「そうとも。王たる者は、常に上を向いておらねばならん。か弱き命の一つ一つに目を掛ける様な真似は、有り得ん」
「その通りです。けれど朱雀は青蘭を呼んだ。大河朱雀の目がある元、如何に浅慮に尽きるユエと言えど、容易にあの子を殺す事は出来なかった」

その所為で叶から保護を求められた末の息子に、楼月は我が子を殺せと命じたのだから、笑えない。結果的に、父とは真逆の取引を叶二葉に持ち掛けた美月は、『フェルマーの最終定理の様だ』と嗤った悪魔の気紛れに救われた。

「大河に洋蘭を囲ったのは良くも悪くも…いや、デメリットの方が際立つ。未だに我の兄弟らは洋蘭を殺せと喚いておるわ」
「叶を贔屓目に見ても、ステルシリーは大き過ぎると?」
「ネルヴァが政府へ爵位を返上し間もなく、洋蘭は軍を支配下に置いた。ステルスの名が優位に働いたのは言うまでもないが、半分以上は己の力で勝ち取ったものよ。ユーラシアとアフリカの堺、小国が入り乱れての戦争が長期化すれば、今頃世界的にも小さくはない被害が出ておったろう。あの短期間で終わらせられたのは、非情な決断が下せる者があってこそだ」

二葉が楼月を馬鹿にしていたからか、それとも将来的に付き合いが長くなるだろう若い美月の方に儲けを見出したのかは不明だが、錦織要が現在まで健やかに成長したのは事実だ。

「…然し広東語も覚束なんだ青蘭が、今やカルマ幹部か。これでは楼月は勿論の事、我とて容易に手出しは出来んだろう」
「強く育ってくれています。目障りなユエの息の根を止めるのは、吾が先か青蘭が先か、近頃は判らなくなりました」

総長は帝王院財閥後継者にして、キング=ノヴァ=グレアムが現時点で自らの後継者として指名している。今後これが表沙汰になれば、世界は震撼するだろう。
ルークとナイト。そのどちらもが帝王院の後継者であっても可笑しくはない、血縁の有無はともかく、事実上の兄弟なのだ。勢力が割れるのは想像に難くはない。

「く、ほざきよるわ。寧ろ、既に楼月を越えている汝にとって、消す価値がないと判断しただけではないか?」
「電話を掛けると吾の機嫌を窺う様になりました。あれの息が掛かった幹部陣を、長年に渡り少しずつ間引きしてきた甲斐があった様です」
「犬も食わん親子の冷戦喧嘩は好きにすれば良いが、大河の経営に妨げがあろうものなら、汝ら親子共々、王蒼龍の刀に刎ねられるものと心得よ。アレは我の様に甘くはない」
「ご自分の従兄弟同然の蒼龍老を戸籍から消した社長以上に、恐ろしい方を吾は存じ上げません」

底冷えする様な会話を止めたのは、やはり金髪の男のダークサファイアの瞳が静かに見つめているのが判ったからだ。大河の視力では彼が顔だけ振り返っているのが何とか判る程度だが、美月には正確に見えているだろう。

「酷く嫌な予感がするのう。美月、大陸の前覇者が我に求愛をしておらんか」
「求愛かどうかは不明ですが、視線は感じます」
「金髪の婿など願い下げだわ。朱花の様に我を楽しませる金髪美女であればともかく、そもそも我は朱花が死んでから早十年、とんと勃起した試しがない」
「聞かなかった事に致します」

麗しい微笑ではないか。
二葉の愛想笑いは、幼い頃から美月が父親に向けていたそれを真似したものだ。物心ついた頃には楼月を見下していた美月が、わざとらしく良い子を演じている事に一目で気づいた二葉は、以降嫌がらせの様に美月の微笑を真似た。
現在の二葉の愛想笑いは数段バージョンアップしており、最早以前の猿真似ではない。表向きの成績こそ美月に劣るが、雑学量は美月よりずっと多いだろう二葉の経験値は、6歳から殆ど日本を離れていない美月とは比べるべくもなかった。

「汝の様なゲテモノ喰いは飽きずに李の尻を狙っておるのだろうが、今後は他人に悟られぬよう精神を鍛え直せ」

的確に人の腹を突いてくるのは、何も二葉に限った事ではない。少なからず成功者と言うのは、一目で他人の腹の内を読み解くスキルに恵まれているものだ。中国でその最たる例と言えば、やはり大河白燕だろう。実際の所、楼月を見下している美月は、大河には本気で忠誠を誓っている。そうは見えないにしても、だ。

「仰る意味が」
「チャーシューの切れ端を狙う野良猫の様な目をするでない、と言っている。汝の美貌では隠しきれん卑しさが、年々鼻につくわ」
「…社長のお鼻がそこまで宜しいと言うのも、初耳ですねぇ」

成程、初対面の女に逆プロポーズを受けて笑いながら快諾した男と言うのは、恋愛についてもある意味で極めているのだろうか。にやにやと、恐らくは嘲笑で歪んでいるのだろう口元を扇子で隠した大河は、茶と緑が混ざった様なブラウンヘーゼルの双眸を細めている。彼にとっては美月ですら、赤子と変わりないのだ。

「見逃して頂けるのですか?」
「他人が同性で交わろうと、獣と交わろうと知った事ではない。昔の我に匹敵するほど女遊びが過ぎる朱雀は、放っておいても孫の一人や二人連れてくるだろう」
「先の事は判りません。変わりないのは、吾と母が命ある限り大河を支えていく覚悟のみ」

何にせよ、大河には絶大な恩がある美月はいずれ祭を継ぎ、楼月が積み上げてきた数々の悪事を償っていくだろう。大河白燕が引退し、ファミリーの当主が大河朱雀へと移り変わろうとも。

「暫く会っておらんが、美麗は健勝か」
「楼月とて、上海に足を踏み入れる事は用意ではありません。母は香港へ戻る気はないので、このまま上海で囲って頂けると助かります」
「この大河白燕に向かって、朱雀をシアトルから連れ戻せと怒鳴りつけた気丈な女だ。楼月などに遅れを取るとは思えんが、上海は我の庭ぞ。馬鹿は黙って、埃臭い香港に閉じこもっておけば良い」

馬鹿は馬鹿なりに使える、と言うのが大河の意見だ。
下らない計画を立てては毎回失敗している楼月は、然し金儲けに於いては上手かった。攻める隙を見つけると躊躇わず飛び込む命知らずな真似も、成功すれば武勇伝だ。賢い美月ですら、楼月ほど一気に稼ぐ腕は今の所ない。

「美麗の自由と引き換えに、楼月は我へ金を持ってくる。我が楼月を殺すのは息をする程に容易いが、今暫し理由がない」
「承知しております」

少々の悪戯は見逃す、引き換えに稼げ。判り易い弱肉強食の世界で、身内を排除し成り上がった男は現在に至るまで、首の皮一枚で生き残っている。ただの幸運ではない事は、美月も判っていた。
美月の母親にして楼月の唯一の妻は、そんな悪運に恵まれた楼月の野心を知っていて結婚したものの、やはりついていけないと家を出たのだ。結婚から僅か一年の事だから、むしゃくしゃした楼月が手当たり次第の女に手を出したのも、判らなくはなかった。

「哀れだが、あの馬鹿に嫁いだ我が身を恨めと言うよりあるまい。我は賢すぎる女は好みではないのだ、長く婚約者として我に尽くしてくれた女を娶ってやれなかったのは、悪かったと思っている」
「朱花様を選ばれたのは僥倖でしょう。母は年下好きの悪癖さえなければ、もう少し穏やかに暮らせたでしょうに…」
「くっく。我は美麗より五つも年上だ、万に一つも我らが結婚する事はなかったと言う事ぞ」

家出に飽きた祭美麗が一人息子を心配して帰宅すると、暫くは表面上穏やかだった祭家は然し、楼月が香港に囲っていた愛人の一人が妊娠していた事が判り、第二次夫婦喧嘩に突入する。

「我らに男女の愛情こそないが、我は美麗に似て清らかな心を持つ汝に期待している。美麗が男であれば右腕に欲しいくらいだ」
「勿体ないお言葉です。母も喜びましょう」
「あれは朱花と親しくしていた。落ち着きがなく、この大河白燕に回し蹴りを決める様な恐ろしい女だったが、あれにも汝と同じ様に腹違いの姉がおった。父親には恵まれなんだが、姉妹仲は頗る良かったと聞いている。悔やまれる事に、藤倉涼女には最期まで会えないままだ」

妊娠中の愛人を殺そうと企んでいた楼月に先手を打ち、錦織と名乗る日本人の娘を保護した美麗は、秘密裏に用意した家で出産させる手伝いをした。
我が子を殺そうとするなど言語道断だと楼月を非難した美麗は、そこで産まれた男の子に『青蘭』と名づけ、その子を産んだ女は『要』と名づけたのだ。その場を、幼い美月も見守っていたらしい。と言っても記憶は殆どない。母親から聞いた話で覚えている様な気がするのか、それすらも曖昧だ。2歳・3歳の記憶などそんなものだ。

「碧色の瞳。似通った顔立ち。朱雀と裕也は、性格こそ真逆だったが、我から見ても双子の様だった。違いがあると言えば、朱雀には我の『目』が遺伝してしまった所だ」
「今は全く似ていません。朱雀は朱花様を真似て金髪を続けていますし、藤倉裕也は派手な緑の髪色です」
「ブロッコリーの様な姿になっておる事は承知している。一種の反抗期か」
「反抗期は朱雀でしょう。吾はこの期に、社長自ら朱雀を連れ戻して頂きたいと思っております」
「知るか。謹慎中は一切生活費を送金しておらんと言うのに、泣きながら帰国するかと思えば、意気揚々と大阪へ渡り連日乱癡気騒ぎと言う」

アジアの支配者も息子には手を焼いている。
溜息と共に扇子を開いた大河は、見事に真っ白な前髪を鉄扇で扇いだ。ちらりと目を大河から離した美月がホールの端を見れば、理事長は既に生徒らに埋もれて小さな円卓の主と化している。何の話をしているかは、全く聞こえない。

「在学が認められている内は捨て置く事にした。今の所、この学園が日本で最も危険な場だ」

密やかに世界情勢は変わりつつある。
ルーク政権の進退が明確ではない内は、未だ発足していないナイト政権に期待するのは憚られるからだ。ルーク=フェイン=ノア=グレアムの手腕は神憑り的だが、幾ら帝王院の正統後継者だと言ってもほんの15歳の、日本しか知らない高校生が担うにはステルシリーは余りにも大きい。

「汝が期待する天の宮がどれほどのものか、我が目で確かめば帝王院に全財産を任せるのは躊躇われる」
「今更傍観なさるおつもりですか?前男爵の円卓の半数は、この場に揃っているんですがねぇ」

若いルークの円卓は、最年長が40代だ。嵯峨崎佑壱の代理として月末会議に参加している嶺一を加えても、狸揃いのノヴァ側から見れば尻の青い子供同然ではある。人望を取っても、長く男爵だったキングに偏るだろう。然しカリスマ性だけで言えば、軍配はルークに上がる。

「選択を間違えれば、朱雀の復学を待たず我が一族は破滅だ。オールオアラブでは、判断に窮するのは必至よ」
「ですから、ルークに張って全てを失うよりナイト様に賭けるべきなのです」
「帝王院が肩入れしてくれようと、ステルシリーの裁量一つで世界中の経済が止まる。我が大河の総資産2兆など、奴らから見れば端金だぞ」

つまりルークVSキングの戦争は、不確定要素であるナイトがどう動くかに委ねられた。どちらにベットするかで安泰と破滅が決まる、余りにも恐ろしい選択を大河だけでなく、世界中の富豪、政治家が迫られるのだ。

「あくまで噂だが、ルークの個人資産は日本円で2京を越えているとも言われている。勝ち負け以前の問題だ、現時点でルークが矛を投げれば、我らは無論、帝王院の先は暗い」
「ですがステルスには日本不可侵の絶対率があると…」
「やはり若さか、汝は甘い。遥か昔レヴィ=グレアムが築いた社訓など、現社長には何ら意味を為さん。ルークが法を変えれば、今日にでも日本はステルシリーの植民地に成り果てるだろう。…日本だけでなく、アジア全てが」

判断材料が足りない。判っているのはそれだけだ。
ルークに対抗するだけの力が遠野俊にあるのかないのか、つまるところ、大河はそこが知りたい。会った事もない息子と同じ年齢の少年がどれほどの素材か、見てもいない内に決めようがないだろう。

「最悪、宮様に備わる催眠がマジェスティルークに効けば、いよいよ未来永劫の安泰が約束されるだろうが…」

冗談めかした大河の台詞には、幾らかの本音が滲んでいる。最悪の兄弟喧嘩だ。祭楼月の悪巧みなど可愛らしく思えるほど、帝王院神威と遠野俊の戦局は何も見えない。

「然し静観し時期を逃しては元も子もない。勝機を見つければ食らいつくつもりではおるから、汝が気を揉むでないぞ。我の尻拭いは、朱雀の役目よ」

その息子が当てにならないのだとは、流石の美月も口にはしなかった。弟の要と母親と李が苦労なく暮らせる、美月の望みはそんなささやかなものだ。
要が帝王院学園に入学した時は飛び上がるほど喜んだが、やっと日本語での会話が出来る様になった美月は、気軽に要と話す機会がなかった。初等部は二人一班で行動するのが基本で、ルームメートとなる。
上級生との交流は班ごとにランダムで振り分けられ、生徒数が多い初等部で美月と要が顔を合わせる事は、美月が中等部へ進級するまでついになかった。ならば中等部で要との接触を待てば、いつの間にか可愛い弟は全く可愛くない男と親しくなっていたのである。

「ルークに転ぶかナイトに転ぶか、見極めてから愚息を呼び寄せても遅くはなかう?」
「それは、そうでしょうがねぇ…」
「出遅れる真似はせん」

祭美月が叶二葉以上に苦手とする、嵯峨崎佑壱と・だ。
判るか。どれほど天才と褒められようと、佑壱の気分が悪ければ美月は会話する事も出来ない。中国に現存する全ての言葉と、日本語と、韓国語に台湾語、加えて英語が少しばかり話せる程度の美月は、あの赤毛の前では『馬鹿が気安く近寄んな』程度だった。
その場でボコボコにしてやろうと思ったものだが、上背で勝っていても細身の美月が佑壱に適うかどうかは、甚だ怪しい。
二葉にも動じない死神が、高坂日向には一目置いている事からも、神威と日向を力で押さえつけるのはまず不可能だと思われる。そんな日向と元気よく毎日殴り合っている様な野獣は、美月の理解を超えていた。

はっきり言えば、美月は佑壱が苦手なのだ。あのどの角度から見ても『雄』にしか見えない男は、どれほど髪を伸ばしてもやはり雄のまま。美月とは対極の人類と言っても過言ではない。若干、憧れを感している程でもある。
そんな赤毛の首に赤い首輪をさらっと嵌め、ペットの様に扱っている俊は最早論外だ。憧れる憧れない以前に、あの憎たらしい神威よりずっと良い。何しろ要の面倒も見てくれていて、要が手放しで懐いている。

「考査受講している点で、理事会からは最低限の出席日数を保証されてはいます。然し今後卒業するまでFクラスのままでは、大河社長の名が穢れるばかり故」
「汝もFクラスだろうに。何故毎度満点でSクラスを嫌がるのか」
「首位から神帝が消えれば、喜んで進学科の席へ戻りましょうとも」

李上香と全く同じ顔をしていながら、全く似ていない空虚な眼差しの男は、その全てが人間離れしている。
中等部3年生だった頃の冬の終わり、美月は既に来日していながら高等部からの登校を希望していたその男に問い詰めようとして、先に李が激しく罵っている光景を見たのだ。

『俺は貴様を兄とは認めん!』

大人しい李があれほど声を荒らげたのは、後にも先にもあの一度きりだった。自分が日本から極秘裏に大河へ送られたと言う事を、李は独自に調べ上げていたのだ。
李を保護する際、中国での保護者として子供がいなかった李家の当主が召し抱えたが、当主が仕事で殆ど屋敷にはいない事を理由に、同い年の子供がいる祭家に預けられる様になった。その子供の身の上を知っていれば、人目に触れる外に出す事は得策ではないと誰もが理解する事だが、大河幹部らから同等扱いをされていなかった楼月に説明はなく、浅はかな男は李家の養子を懐柔しておけば後々メリットがあるだろうとして、祭の裏稼業である隠密の一切を叩き込んだのである。

「人智を超えた神皇帝など、毒には成り得ても薬になるとは思えません」
「慎重な考えだが、汝のそれは聡明さから出る意見として受け取ろう。我にも、秀皇の血を分けた息子を贔屓したい気持ちはある」

教えられたものを片っ端から吸収していった李上香は瞬く間に天才と謳われ、その鬼神の如き強さから、死神と囁かれる様になった。その李が怒鳴りつけただけで挑もうともしなかった双子の片割れは、二葉を従え、今では日向も囲っている。佑壱の従兄と言うのも問題だ。ルーク=フェインには問題点しかない。

「精々、火の粉が振り掛からん位置で俊の活躍を見守ろうではないか。のう、ユエ」

人智を超えている猛毒。
それが神威に限らない場合、今回の戦争はパンドラの箱ではないと言い切れるだろうか。































「おはよう」

地上への出口を前に、漸くその背中は振り向いた。
全身の悉くが黒い男は、素肌の上に着衣しているジャケットの下、同じ黒いスラックスを纏う両足を折り曲げた。

「お前は太陽を怒らせたな。叱らないから、何をしたのか教えてくれるか。あの子の感情が戻りつつあるのは喜ばしい事だ。それほど興味はないけれど」

ああ、そうか。伸びる幾つもの段差が見える。これは階段だ。
目の前の男は地上を目前にした最後の段で屈んでいる。彼より数段低い位置にいる自分は、だから座り込んだ男の真っ暗な双眸を同じ目線の高さで直視したのだ。

「名前は」
「エラー。社員のプライベートはお答え出来ません」
「目的は」
「お答え出来ません」

機械的に答える部下の声が聞こえる。基本的に内勤である人員管轄部の業務は人事だが、他部署社員の恨みを買う事も少なくない為、外勤を必要とする場合は秘書兼ボディガードとしてアンドロイド社員を同行する規則がある。

「アダム」
「やっと私を呼んだか、俊」

だから、何の気配もなく空から降りてきた漆黒のバイクに跨る銀髪の男が、ダークサファイアの双眸に無機質な笑みを浮かべているのを目にした瞬間。

「主任、お下がり下さい」

傍らの女性体アンドロイドが庇う様に身を乗り出したのは恐らく、真っ黒な男の後ろの美貌もまた、人ではない事を教えていたに違いない。

「データ吸収は済んだか」
「都合良く充電切れしていた時に、LANからガーデンサーバーに介入し、現円卓のコンバートは済ませている。我が身は夜刀が主人格だ。最後までデータの保存を嫌がってはいたが、副人格の鳳凰に切り替わった瞬間にデータごと凍結していたのを、先程回収した」
「そうか」
「取引を果たして貰おうか。ナインはお前を後継者として認定し、既にノヴァの回線をクロノスの元に再構築している」

ナイン。ノヴァ。
前男爵をナンバーで呼ぶ人間など、少なくとも現在のステルシリーには一人として存在しない。ルークに忠誠を誓う若い社員ですら畏れる程には、9年も昔に引退した金髪の男爵の影響力は、今尚廃れていないからだ。

「女性に過ぎる力を使うのは『俺』の趣味ではないんだ。どうも『俺』は太陽から愛されていた様だが、この通り遠野俊とは俺以外の誰でもなく、俺だった」
「初めから何ら変わりなく」
「そうだ。だから俺が産まれる以前に起きた件に関して、俺は繋ぎ合わせた人間の行動理論を読み解く以外での術を持たない。遠野夜人がその遺言の如く残した遺書が黒い箱である事までは突き止めたが、箱を開ける鍵は未だに見つからない」
「困ったな。これでは取引は成立しない」
「アンタらは、何者なんだ…?」

恐らくは何処か本能で理解している筈だった。
遠野俊、この学園にその名の生徒は一人しか存在しない。いや、似た名前の生徒が居ない訳ではないが、トオノではなくトウノだ。高等部の生徒ではなく、つまりは目の前の凄まじい威圧感を放つ男とは似ても似つかないだろう、中等部の二年生。

「人員管轄部マスターは純粋な統率符主義者だ。今までこそ誠心誠意ルークに仕えていたが、その実、キングが後継者として30年前に指名したナイトの復帰を求めている」
「あァ、親父にそんなつもりはないぞ」
「秀隆はとっくにその銘をお前に委ねているからな。ルークには譲らなかった馬の銘を、愛した女が産んだ『時外れの子』に」
「卵殻を破り切るのが人より半年ばかり遅かっただけだ」
「産まれる前に一度取り出されている子供など、この世には存在しない。言い方を変えればお前は、2度生まれたと言う事になる」
「親父が逃げたからブラックシープと呼ばれたんだろう。ノアの国のアルビノの子供、黒である事を善とする地下で、嘲笑う様に黒羊と呼ぶのは、差別じゃないのか?」

ブラックシープ。現男爵が爵位を得る以前、幼い頃に呼ばれていたと言う忌み名は、現在使用禁止だ。不敬罪としてその場で首を落とされても文句は言えない、破滅の呪文でもある。

「俺の宝物を傷つけた奴らは残らず喰ってやる」

無表情で呟いた男の双眸が僅かに細まり、木々がバサバサと揺れる音がした。恐らくは木陰で囀っていた雀か何かが、慌てて逃げていく様な音だ。

「困った事だ。我が子らは、お前を怒らせてしまったらしい」
「肉だ。肉を喰う。哀れな子猫は眩いばかりの光を追い掛け、獣としての欲を見失った。牙をなくした獅子は子猫と何ら変わらない」
「セカンドは、89%の確率でアクエリアスに従うだろう」
「いや、100%の確率で子猫は主人を失う。辿り着く先は永久の絶望だ」
「…セカンドが絶望?あれは我社でも稀に見る過激派だが?」
「一度何かに従った者は、その心地良さを知っている。何かに縋る事で覚えた気楽さは、そうそう消えない」
「ルークに従った事を言っているのか」
「夜の一族が月に憧れるのは宿命だ。けれど、太陽の代わりに月を求めるのは間違っている。太陽がなければ月の意味がないと宣う人間が存在する世の愚かさが、俺は心底嘆かわしい」
「感情豊かだな」
「全ての感情を回収した。『俺』の楽器は既に、一つ残らず壊れている」

さァ。
と、何の脈絡もなく両手を伸ばした男は、明るい外の世界を背景に屈んだまま、凪いだ漆黒の双眸で真っ直ぐ、立ち止まっている男を見据えた。

「君達は俺を探していたのだろう?後でちゃんと太陽に謝るんだ、あの子は何千年も根に持つからな」
「貴方が、ナイト…?」
「そうだ。帝王院秀皇は与えられた統率符を俺に移譲した。ルークが戴冠する以前に」

ああ。なんと言う目だろう。

「俺をノアにする為、力を貸してくれるんだろう?」
「もっ、勿論です!何なりとご命令を…!」
「Why is 6 afraid of 7?(どうして6は7を恐れるのか?)」

無慈悲に告げる言葉に人間らしい感情はない。囁く様なその声音は現男爵に良く似ているが、銀髪の男爵よりずっと、夜に近い匂いがする。

「Because 7 ate 9!(7が9を食べてしまったからです!)」
「リバティは七つの陸と海の自由を祝福した。俺は君らに永久の夜を約束しよう」
「!」
「ノアよりずっと深いカオスノアだ」
「唯一神の冥府揺るがす威光のままに…!」

今が昼である事が悔やまれる程に、濃い夜の匂いがする。世界から今すぐ全ての光が消え去っても無理はないと思えるほどに、目には見えない夥しい数の星の唸り声が聞こえてくるかの様だ。

「I will be SINGLE of the seven continents like clock face.(俺が星を穿つ唯一の針になるだろう。つまりは文字盤の如く)」

人を人として見ていない神にのみ許された、それは純然たるノアの目だった。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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