帝王院高等学校
可愛くないとしても大人の態度で!
「ハヤトが帝王院学園へ入学するきっかけになったのは、貴方が勧めたからなんですか、神崎先輩」

まただ。
わざとらしさを通り越して悪意さえ感じる錦織要の声に、むすりと黙ったまま窓の外を見るともなく眺めていた神崎隼人の肩が跳ねる。要が言う『神崎先輩』が己の事ではないと頭では理解していても、背筋がぞっとするのだ。間違ってもこんなに可愛げのない後輩は、お呼びでない。

「うん。僕が帝王院に入学した理由は、母方の祖父からの強い勧めがあったからなんだ。当時はそれなりの家だったんだけど、中等部に上がった頃に財政難で利権を手放さなきゃ会社が救えなくなってしまって」
「失礼ですが、先輩は幾つですか?」
「次の誕生日で42歳だよ。古い話だから知ってるかどうかは判らないけれど、当時電子技術業界最大手だったYMDの株価が乱高下してる頃で…」
「関連企業が煽りを食らうのは無理もない話です。昭和のリーマンショックですから」
「僕らが産まれた頃はオイルショックピークで、それを乗り越えて来たと言うのが祖父の口癖だった」

数年振りに再会する保護者を前に、懐かしさに浸る気も起こらない。
記憶より老けた、けれど人の良さは全く変わっていない畠中岳士の隣に、足を組みムスっとそっぽ向く女の姿がなければ、捻くれ者の隼人であれ、少しは素直に喜べたかも知れないのに。
逃げるに逃げられない状態の榊雅孝と斉藤千明と言えば、通りすがりに出会ったと言うバテ気味の外国人を並べたパイプ椅子の上に寝かし、部屋の隅にある目隠しの向こうで水を飲ませてやっている様だ。ボソボソと英語が聞こえてくるが、カフェカルマ非常勤アルバイトではなく、一応は医学生の榊が話をしているのだと思われる。

「父方の実家は養鶏場を経営していてね。食べていくのには困らない家だったけど、当時の母方の家に比べたら随分と…言葉は悪いけど、格式が落ちる家だった」
「んな事ないよ。じっちゃんの卵は、烏骨鶏にも負けなかったもんねえ」

つい口を挟んでしまった隼人は、照れ笑いを浮かべた岳士から『有難う』と言われ再び黙り込んだ。幼い頃に随分面倒を見て貰った畠中養鶏の老夫婦はどちらも大往生で、隼人が帝王院学園本校へ昇格が決まったと聞きつけ、町を上げて祝賀会を開いてくれた立役者のメンバーでもある。

「僕が帝王院を受験する時に、母方の神崎を名乗った方が有利だって、親族が言ったんだ。これに父方の祖父は激怒して、婿に入るなら縁を切ると言ってね。父も頑固な男だから、実家とは縁を切ってしまったんだよ」
「成程。初等部は簡単な試験こそありますが、基本的に面接受験ですよね」
「そうなんだよ。初等部の倍率は他の学部の比じゃない。少しでも有利に働くならどんな手段も厭わない、って祖父の意見に、恥ずかしながら両親も賛同したんだ」

最も散財したのは町会議員でもあった元町内会長だったが、それから間も亡くなり、喧嘩相手が居なくなったと肩を落としていた畠中も続く様に亡くなった。
一昨年とうとう畠中夫人も亡くなり、養鶏場としては既に機能していなかった畠中の家は、それから間もなく取り壊されている。明治時代初めに建てられたと言われていた古い家だったから、仕方ないのだろう。空き家を放置する無責任な真似を、目の前の責任感の強い男がする筈がない。

「でも結果的に母方の家は、父が社長を継ぐ前に倒産したんだ」
「それはご苦労があったでしょう」
「いや、僕なんて全然。家だけは手放せないと、抱えてしまった借金を返す為に両親が働きに出て、体を壊した祖父の介護で祖母にも苦労が掛かってしまって。のうのうと遊んでる場合じゃないと思ったんだけど、学校だけは通えって両親に懇願されて公立に移ったんだ」
「高校へは?」
「定時制の高校へ奨学金をお借りして通って、初めは幾つか仕事を掛け持ちしたかな。世間知らずだったから、僕は本当に不器用で、色んな方に迷惑を掛けたよ」
「仕事の内容はともかく、不慣れながら働こうとなさる姿勢は恥じる所がないと思います」

キリッと宣う要からは、綺麗事やお世辞を言っている気配はなかった。照れている岳士がどう受け取ったかは判らないが、短くない付き合いの隼人には判る。根っからの守銭奴は無駄な浪費をする人間を見下しているだけで、真面目に働く人間ならば例え風俗職であろうと差別はしない。
仕事、と言う区分に男女の垣根はなく、だから男であれ女であれ要は同等に扱うだろう。立っている者は親でも使え、と言うのが合理主義の錦織要に似合う格言だ。

「残念ながら母方の祖父は僕が成人になる頃に亡くなったけど、考え方は古い人だけど近所の方からは慕われていて、何度も市会議員への打診があったそうなんだ。まぁ、社員の技術を磨く方に生き甲斐を見つけてた人だったから、引退したら考えるよなんて断ってた様だけど」
「市長選に立候補したのはお祖父様の影響ですか?」
「恥ずかしながら、断れなかったと言うのも理由の一つ。当時は横浜在住で、色んな仕事を転々とした末に、私立大学で教鞭を執る様になった頃だった。時代が動くと先輩方が噂してたかな。昭和から平成に変わって、色んな事件があったり…今の風潮に変わるギリギリの頃だったよ」
「老害を排除して新しい風?」
「君は結構きつい…と言うか、素直な言い方をするね。政治家に向いてるかも知れないよ、錦織君」
「政治家なんて時間の無駄ですよ、稼ぐだけなら他にもっと…」
「でも国会議員や総理大臣になれば、税率を変える事だって…ね」

毒気のない笑みが、政治の話になると少しだけ印象を変える。
久し振りに見たと息を吐いた隼人は母親と目が合い、ほぼ同時に目を逸らした。向こうもそうだろうが、隼人もまた、話した事もない父親より母親の方が嫌いだ。

「カナメちゃん、嫌われ者に投票してくれる物好きなんて居ないんだからさあ」
「は、隼人君、言い方が良くないよっ」
「隼人君に選挙権があったら入れてあげてもよいけどお、カルマの身内票を掻き集めても50票くらいなわけ。どんな田舎の選挙区から出馬しても、カナメは絶対落選」

言われた事を一言一句覚えている隼人は、祖父母と暮らした家を躊躇いなく売りに出したこの女が憎くてならない。同時に、お陰で見返す為だけに生きてこれたのは、良かったと思える。
事実、中学に進学して間もなく、大きな仕事を立て続けに獲得してきてくれたマネージャーの言うがまま働いて、現金で家の利権を根刮ぎ買い戻せた時に、神崎隼人と言う個体の生きる目的は一度消えたのだ。

「確かに、俺は人に好かれる性格ではありません」
「えっ、認めちゃうんだ?!」
「よいかねカナメ君、政治家とは他人の為に自腹を払ってでも善人振らないといけない仕事なのお。ねえ、出来る?当たるか外れるか、株よりずっと不確定要素が多い人心に賭ける。デッドオアアライブなギャンブルがさあ」
「だったらお前が出馬して、俺の言う通りに動けば良いのでは?」
「待て、お前は何処のスーパーモデルをとっ捕まえて影武者やれっつってんの?」

何が不満なのか判らない、と言わんばかりに小首を傾げている要を認め、隼人は不格好な笑みを零す。感傷に浸る隙も許さないハイパーマイペースは、ぼそりと『力ずく』と呟いた。隼人を殺すつもりなのだろうか。とんでもない暗殺者だ。叶二葉に育てられているだけに、余りにも笑えない。

「はは。錦織君は隼人君の親友なんだね」
「「あ?」」

対面式のソファの堺、低めのテーブルの下で隼人と要の足が互いの足を踏んでいる中、おっとりと呟いた小太りの男の台詞でカルマは声を揃えた。盗み聞きしているつもりはないのだろう目隠しの向こうからも、榊と斉藤の声が揃った様だ。

「ごめんごめん。そう言うの言われると、照れちゃう年頃かな?」
「いえ、俺とハヤトは仲間なだけで親友などと言うものでは決してなく…」
「つーかカナメ友達居ないし」
「お前も居ないだろうが」
「はあ?居るしい、掃いて捨てるほど居まくるしい」
「子供の頃から使ってる毛布の端っこを握ってないと眠れない癖に」
「ちょ、それ関係ある?!今それ関係ある?!自分だってちょっと前まで私服も制服だった癖に!誰がブランド物の衣装を安く仕入れてやってると…!」
「あ、そう言えばこないだ絡まれて乱闘になった時に向こうの鼻血がついてしまって、洗ってもどうしても落ちないカーディガンがあるんです。汚れても目立たない様にダークグレーを選んでおいたのに、長く着ていたので生地が色褪せて血が目立つんですよ」

なので次の秋までにカーディガンを持ってきて下さい、と。この状況で言う必要がない台詞を悪びれず宣った要を前に、隣に座っていた隼人は思考停止した。

要が自費で私服を買うのは、元々が安いにも関わらず稀に割引タグが貼られている商品が出ない事もない、ワラショクの衣料品コーナーで底値の限界に到着している、そんな品物だけだ。
派手な商売のわりに贅沢をしてきた訳ではない隼人が、即座に金額を当てられない程には、要の私物はどれも安い。

お洒落に無頓着な要は、中等部時代に佑壱が着ていたレザーパンツや、捨てると言ったシャツなどを譲り受けて着ているくらいだ。
数年前までは健吾と大差ないほど肉が薄かった裕也は、二人で仲良く私服をシェアしていた様で、見た目の割りに地味な色合いのカーゴパンツや無地のシャツを好む健吾とは真逆に、裕也が選ぶ服は少し間違えればダサさと紙一重の奇抜さで、柄と柄を合わせる事も厭わない程だった。
裕也の紙一重の境界をド派手に飛び越えてくるのが、ご存じシーザーである。隼人の垂れ目が吊り上がる程には、遠野俊のファッションセンスは崩壊していた。彼以外が着れば途端に大事故だと言い切れる。

そんな健吾と裕也は然し、二人の私服を合わせて上手く組み合わせるとモデル顔負けのセンスに移り変わるのだから、見事だ。己の見た目を熟知している佑壱の、裏ニューヨーカーファッションもアドバイスの必要がない程で、そのお下がりを着ている要がダサい筈もない。ただ、放っておくと何日も同じ服装だと言う悪癖があるだけだ。モデルとして着々とキャリアを積み上げてきた隼人が発狂し、スタイリストに要の写真を見せて一通り揃えさせてしまったのも、だから無理はないだろう。

勝手に用意したのだから金は良い、と言って押しつけてきた隼人に最初は不満を隠さなかった要は、あっという間に味を占めた。隼人が持ってくる服はどれも、生地の肌触りが良く、判り易くお洒落だ。
安くてもすぐ駄目になる服よりは、幾らかコストが懸かっても長く使える服の方が、トータルコストは安いのではないか?脳内電卓を弾いた要は、以降隼人からのお土産を一切断らずに今に至る。
カルマの誰もが、隼人は要を贔屓していると断言するだろう程度には、要の現在の私物は隼人から貰ったものが多かった。
贔屓している訳ではなく、カルマ四重奏の癖に穴が空いた靴下を堂々と履く要の男らしさに、心底嘆いているのだ。同じ四重奏として、健吾や裕也ほどとは言わずとも、最低限年頃の男子として遜色ない出で立ちをしてくれと願うばかり。いや、カルマの中では明らかに唯一無二だと思われるその美人顔を、せめて汚さないで欲しい。二葉ほどの美人顔ではないにせよ、磨けば二葉に負けない筈だ。

結果的に、隼人の目の付け所は間違っていなかった。2学年年上には御三家が名を連ねているが、素顔を晒さない神帝より祭美月の美貌の方が生徒らの話題に上る。見れば見るほど美月に似ている要は、初対面の頃より垢抜けてきたと隼人はこっそり自負しているのだ。

「…予算はどんくらい?」
「1000円以内」
「ブフ」

カーディガンでそれは無理だと、苦虫を噛み潰した表情の隼人が口を開く前に、吹き出す声が聞こえてきた。つられた様に目を向けた先、要も岳士も隼人と同じ所を見つめているのが判る。

「そ、その顔で千円のカーディガンって…!ぷ、あは、あはっ。ないでしょ、アンタ本気で言ってんの?!あはっ、あはっ」

組んでいた細い足を解き、文字通り腹を抱えて笑い崩れた女の髪が乱れ踊った。

「何が可笑しいのか見当もつきませんが、苦学生の生活費は限られているんです。お陰様で授業料は免除されていますが、生活費がなくなる訳じゃないので」
「そ、そうだよね!いやぁ、誰の手も借りずに自力で生活しながらSクラスに通うなんて、簡単に出来る事じゃないよっ。僕ぁ、錦織君を尊敬するよっ」

本気で言っているのだろうが、人見知りする上に口下手な岳士の台詞は度々誤解を受ける事がある。要が馬鹿にされたと誤解しないだろうかと目を向けた隼人は然し、真っ赤に染まった珍しい表情の錦織要を見つけ、再び思考停止した。

「そ…それほどでは。貯めてきた小遣い…あ、や、洋蘭と言う保護者代わりがいまして、時折貰う駄賃を数年懸かりで貯めて、初等部の間は…その…腹違いの兄から生活費の面倒を見て貰っていた期間もあったので…」
「苦労したんだね…。でも凄いよ、僕ならとっくに挫けてるもん。錦織君は強いんだね、羨ましい」
「つ、強いのは父と母の教育のお陰です!いや、父と言っても楼月の様な馬鹿ではなく、勿論総長の事ですがっ」
「シーザーだね!そうだね、シーザーはカッコイイもんね!男でも惚れちゃうよ、サングラスのレンズ越しにキリッとした眼差しがうっすら窺えて、あの目で見つめられたらどうなっちゃうんだろうかって想像すると、もう…!」
「どうにもなりません!ただ想像妊娠するだけです!俺は4回妊娠しました!」

4回もかと目を丸めたまま呟いた隼人は、益々笑い崩れた母親の毛先がコーヒーカップに入りそうなのを見遣り、無意識に伸ばした手でソーサーを引き寄せる。その時にテーブルの上まで身を乗り出した為、顔を上げた母親と至近距離で視線が交わった。
即座に逸らした隼人は舌打ちしそうになり噛み殺したが、その様子を見ていた岳士と要が沈黙している事に眉を寄せている。どうにも尻の座りが悪いと苛立ち紛れに貧乏揺すりを始めた隼人は、要の『今すぐやめろ俺が貧乏になったら殺すぞ』と言う無言の睨みを感じ、それもまた我慢した。腹の底が弾け飛びそうだ。

「…はあ。悪かったわよ」
「…あ?」

ぼそりと呟かれた女の声で、フラストレーションが最高潮に高まっていた隼人は眉を跳ねた。居心地悪げにもじもじと膝を揺すっている女の目は、俯いている。

「どうしようもなんない事をアンタにぶつけて、八つ当たりしてたって認めるっつってんの」

何を言われているのか初めは判らず、ただ睨むだけの隼人は詰めていた息を吐き切ると、脊髄反射で今度は長く息を吸い込んだ。全く以て身勝手だとは思うが、今更彼女なりに謝罪をしていると言う事なのだろう。何に対しての謝罪なのかは、言葉の次を待つしかない。
今更謝るなと吐き捨てて妨げるのは簡単だが、そこまで子供っぽい真似が出来る年齢でもなかった。15歳など大人から見れば子供だろうが、実は大人と大差ないほどには色々と物事を見ているのだ。

「今のアンタよりずっと、あの時の私は馬鹿だったのよ。…認めたら自己嫌悪に陥るから嫌なんだけど、子供は自分の分身なんだから何を言っても許されるって思ってた…」

ほら見ろ、幾ら見た目を取り繕っても中身はこれだ。
抱かれた覚えもない、まして子守唄を歌って貰った事も手料理を食べた事もなければ、化粧を落とした顔も知らない女など、母親だと言われてどう納得する?

「方向性が違う謝罪なんて押しつけがましいだけだけどー?俺が何にキレてんのか、お宅本当に判ってんの?」
「家、アンタが買い戻したんだってね。あんなあばら家、どうせ買い手なんかある訳ないのに」
「…死にてえのか糞が」
「父さんだったら、あんな家も山も畑も跡形もなく取り壊して、さっさと売れって言った筈だわ」
「てめ、」
「アンタは知らない事がある」

すっと目を上げた女の瞳は凪いでいて、ある種の覚悟の様なものが見えた。隼人には教えていない、教えるつもりもない何かの理由が何であるかは、隼人も要もすぐに思いついた。

「つまんない例え話よ。岳士君には…もう話してある事。聞いてくれるんだったら話すけど…」

隼人の母親の視線が要に注がれ、席を立とうとした要は然し、ブレザーを摘まれている事に気づいて座り直した。

「自己紹介が遅れましたが、俺の日本外での名は、祭青蘭と言います」
「ジエ?それって中国の…」
「はい。大河の元で、表向き銀行の取締役を仰せつかっている家です」
「ちょっと待って、もしかして…日本の叶って家からヴィーゼンバーグ公爵の息子が一人養子に出されてる、あの祭家?」
「流石にご存じですか。芸能界と言う業界も色々とコネクションがあるんでしょう?表には出せない様なものも…」

悪びれない要の台詞に、呆れた表情の女はだらんとソファに凭れ、間延びした息を吐く。

「肝が据わってる訳ね。カルマ、カルマか…。もう少し調べておけば良かったわ…」
「因みにユーヤの父親は十数年前にドイツ政府に爵位を返上したエテルバルド家で、当時は伯爵でした。意味はお判りでしょう、冬月さん」
「…アンタ、隼人より性格曲がってんじゃない?」
「俺なんか可愛いものですよ。対外実働部マスターに比べれば」

扉一枚隔てた先、先程から無視していたが保健室がかなり騒がしい。要がドアを指差したので振り向いた女は、恥ずかしげに顔を覆った隼人に気づいて首を傾げた。

「腹の底から響く様な声で怒鳴ってるのが、俺らの母親です。嵯峨崎佑壱、アメリカでの名は…」
「ファースト=A=グレアム、ね。私があっちを離れた後、入れ違いに中央区に入ってきた紅鏡の王子だって事は、耳に入ってきた。無責任な私にそっくりで無責任だった私の父が、私を追い掛けてこれた理由でもあるわ」
「じいちゃん、若返ってた」
「は?」

開き直ったのか、途端に饒舌になった女の話を遮った隼人は、母を真似た訳ではないだろうが同じ様に背凭れに崩れ、天井を見上げたまま呟く。親子の久し振りの会話を見守っている岳士に倣い、要もコーヒーをペロっと飲み干し、隼人のカップに手を伸ばした。どうせ隼人は砂糖やミルクをぶち込まないと飲めないのだから、要が飲んでも怒りはしない。

「だからじいちゃん、生きてるっつってんの」
「アンタ、何馬鹿な事言ってんの?」
「だよねえ。フツー、そーゆーリアクションになっちゃうよねえ。でもピンピンしてる。何なら学園案内に教職員紹介が載ってる筈だから、後からチェックしなよ。保険医の欄に、冬月龍人って書いてあっから」
「な、ん」

空いた口が塞がらないとばかりに立ち上がった女は、仁王立ちのまま震えたかと思えば、へにょりと崩れ落ちた。慌てて恋人から支えられ、甘える様にその腕の中へ引っ付いていく。

「ごめん岳士君、ちょっと眩暈が…」
「しおちゃん、無理しなくて良いから休んでて」
「ババアがかわいこぶんなきしょい」
「言い過ぎですよハヤト、まぁ俺も同じ様な事を感じましたが」

遠慮を知らない鋭いナイフの様な15歳ペアは、容赦なく言葉の刃で大人を切りつけた。眉間に青筋を立てた女優は恋人の前だからか必死で耐えており、同情しない事もない。
目隠し代わりの折り畳み衝立の影から覗き見していた斉藤は、家政婦は見たとばかりに青褪め、ホラー映画を観ている様な表情だ。呆れた榊から引っ張られているが、観ないでは居られないと頑なに衝立に張りついている。何なら要の口から『対外実働部』と言う言葉が出た時に、斉藤の口から心臓が飛び出した程だ。

「あ、あのぉ…」
「「あ?」」
「なーに、盗み聞き?」

不良のデフォルト『あ?』でビビった斉藤に、女優の愛想笑いを張りつけた女は『岳士君の事を週刊誌に売ったらお前の臓器を売るからな』と無言で脅し、無言で脅された方は意味こそ伝わっていないがおしっこをちびる程には怯えながらも、逃げちゃ駄目だとばかりにそろそろと衝立の影から出てくる。

「実は俺の曾祖母ちゃんの話なんですけど、上に兄貴が居たらしいんです。戦争で出征して、向こうで結婚して子供が出来てたっぽいんですけど、それが判ったのが実はほんの最近でして…」
「あ、そう。それが何?」
「曾祖母ちゃんは養子に入った親戚の家を継いだんスけど、そこの長男が行方不明になったからで、藤倉って名前で道場やってたんです」

ぐるん、と隼人と要が同時に振り向いたので、斉藤は心の中で絶叫した。ソファに座っていた二人は斉藤に背を向けているのだが、その顔が背凭れの上で綺麗に180度回転したからだ。梟かよ、と半泣きで突っ込みたい気分だが、叫ばなかっただけ上出来だ。

「親戚なんで他人じゃないんスけど、本当の名字は神崎だったんです。神崎千春ってのが曾祖母の兄貴の名前で、百秋って書いてモモエがうちのばぁ様なんですよ。で、ばぁ様の兄さんには一人娘の遥って人が居たみたいなんですけど、戦争で子供だけ残して亡くなったそうでして」
「ちょっと待って、それじゃアンタが母さんの親戚って事?!」

しゅばっと立ち上がった女優はつかつかとヒールを感じさせない速度で近寄ってくると、至近距離でまじまじと斉藤を眺めた。

「あ、や、俺だけじゃなくて千景って言う弟が、は、隼人君のクラスメートやってまして!なんつーか、今更変ですけど、初めまして!」
「めちゃくちゃ遠い親戚だけど、初めまして…!こんな事あるの?!」
「うちのじいさんがスンゲー探してたんですけど、あ、うち武蔵野って言って貿易関係の仕事してまして…石油とか色々…」
「貴方かなりお金持ちじゃないの?跡取り?」
「いや、跡取りは弟で俺じゃないです!俺は普通の専門学生で…ヒィ!」
「あっそ」
「8区で江戸時代から呉服屋を営んでいる、斉藤呉服店の若さんですよ」

とうとう岳士の分のコーヒーまで啜った要は、しれっと呟いた。カフェカルマの会計士は、面接官も兼ねているので従業員の身の上をきっちり把握している様だ。
武蔵野貿易に比べれば落ちるとは言え、格式では負けない斉藤呉服店は先頃から、コスプレイヤー向けの貸衣装も展開し盛り上がりを見せている。現在の女将は50歳手前のやり手で、武蔵野千景と斉藤千明の母親だ。因みに遠野俊江の魔の手によって先頃から腐ってきたと言う裏設定があるが、俊江に頼まれて帝王院学園高等部の女子制服を密造した人物でもある。あらゆる意味でやばいマダムだ。

「どっちに転んでも育ちがよいって事か。一度ご挨拶に伺わせて貰うわ、宜しくねチナツ君」
「千明です」

女優にぎゅっと手を握られたピュアボーイは、笑顔で榊にヘルプミーした。喋るスマホの充電器をコンセントに繋いでいた雇われ店長は、これまた笑顔でシカトした。

「うっほーう!ばっ、コラ、押すなっつってんだろうがコラァ!」

何故かしら、ドアの向こうの保健室から保健室とは思えない遠吠えが聞こえてくる。あれは狼だろうか、ゴリラだろうか。
















時溯る事、数十分前。

「一番、遠野俊君」
「いません」
「二番、神崎隼人君」
「あっちにいます」
「三番、錦織要君」
「だから野上クラス委員長、錦織君は星河の君と共にあっちにいるのだよ」
「若い女性連れの男性と共に何の話をしているのか、とても気になるのさ。武蔵野、様子を窺ってきたまえ」
「え?どうして僕が…?」
「それは僕と宰庄司がうっかり寝てしまって、目覚めたら壮絶な筋肉痛に悩まされているからさ」
「溝江は運動不足かも知れないけれど、僕のはただの寝違いなのさ。首が回らないんだよ、湿布があったら貼ってくれたまえ」

愉快な一年Sクラスの仲間達は、やる事がないので点呼を取っていた。取っていたが、一年御三家とも言える出だしの三人がこの場にいないので、野上直哉に点呼を求めた溝江信綱と宰庄司影虎は光の速さで飽きた様だ。
何とか大怪我もなく救出された生徒らも、元はガリ勉揃いなので疲労困憊に陥っており、目は覚めてもまともに起き上がれないと言う若さの欠片もない所に追い込まれている。

「おい、着替えの制服はまだか」
「無理だべ?寮まで走っても片道5分は懸かるっしょ」

いつも通り体は元気な野上、高野健吾や藤倉裕也の様なモンスターを除き、誰よりも元気なのは間違いなく嵯峨崎佑壱だろう。夜中に自治会長として走り回っていたらしい西指宿は、隼人の母親と聞いて数分前から隣の部屋に続くドアに張りついたまま動かない。

「ちょ」

わたわたと頭を手探っていた男が、両手で後頭部を押さえたまま上体だけ振り向いてきたので、見るともなく目撃した高坂日向は完璧なポーカーフェイスの下、どう見てもボディービルダーのポージングだと心の中で呟いた。
あの見事な上腕筋の隆起はどう言う事だ。今まであの腕に殴られ続けてきたのかと思うと、流石に込み上げて来るものがある。ああ、目頭が熱い。

「髪が解けねぇ!こんな時は、倭!」
「ユウさん、たけおはジュース買いに行ったべ?(´∀`)」
「オレらの喉がカラカラモードだからだぜ?」
「テメーらぶっ飛ばすぞコラァ!もう良い!おい高坂、ちょっとこっち来い」
「あ?何でだよ」
「ゴムなしで編み込んだ髪が乾いて絡まっちまったからに決まってんだろうが。とっとと手伝え遅漏野郎」
「泣かすぞ早漏が」
「んだと?!俺の本気を知らねぇ癖に馬鹿にすんな淫乱猫が!やんのかコラァ!」
「喧しい、保健室で吠えるな馬鹿犬が!上等だ、叩き潰してやっから表に出ろゴルァ!」
「どっちも喧しいァ!唐揚げ詰め込んで窒息死させてやろうかボケェ!」

飛んできた杖とカルテでそれぞれ頭を打った佑壱と日向は、揃って沈黙した。どちらからともなく休戦のハイタッチを交わし、そっとヘアブラシを差し出した佑壱はくるっと背を向け、日向は無言でブラシを握る。

「ちょっと混乱した、許せ」
「…ああ」
「隼人の母親が今更ノコノコどの面下げて来やがったのかと思うと、怒りで母乳が出そう」
「出ねぇよ」

寧ろ出たら俺様が一大事だと、中央委員会副会長は言葉を豪快に飲み干した。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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