帝王院高等学校
失うものの重さを知っていますか?
「いい加減にしてよ!」

またか。
甲高い声を放つ女が肩を震わせている。それに対して感じたのは習慣化している自分、得たのは『またか』と言う諦め同様の覚悟じみた感想だけ。

「何で顔を合わせる度に叱られなきゃなんないの?!私は、アンタの子供じゃない!」
「子供でも判る事が判んねぇから、言ってんだろうが。脱いだもんは脱ぎ捨てっぱなし、気紛れに料理したかと思えば、シンクの片づけはいつまで経っても後回し…」

諦め。そうだ、待っていても改善されないから口にしただけだ。言葉にした瞬間からある意味では覚悟していた。いつも駄目になるからだ。

「餓鬼以下だな。外見だけ取り繕って、好きに生きていきたいならそれで構わねぇ。指摘されてキレるっつー事は、自覚はある訳だ」
「っ」
「ただ、俺がお前に合わねぇんだろうよ」

どうする、などと一々聞きはしない。
それでも離れないと言うならそれで良いのではないか。どうせ互いに互いが全てではない事は、知っている。

「新しい男のセックスが気に入らねぇんなら、相性が良い男が見つかるまで我慢するか?年下の餓鬼に餓鬼呼ばわりされても怒鳴り散らかすしか出来ねぇ程度には、俺の体はお前を満足させてんだろう?」
「…アンタ、ろくな死に方しないわよ。どうせ私だけじゃないんでしょ」
「お互い様だろ。テメーも俺だけじゃねぇ。んな下らねぇ事でああだこうだ言う程の関係じゃねぇだろうが」
「もう良い」

ほら、まただ。

「アンタなんかもう要らない」
「へー、そうかよ」

判っていて、そうなるだろう台詞を選んだのだから報われない。いや、誘導したのかと聞かれたら答えは間違いなく、そうなのだ。
欲しい欲しいと言う癖に、女はすぐに諦める。どうしたって元には戻らない。

「最後の後片付けくらいは、せめてちゃんとしてけよ」

だから引き留める様な真似は、一度としてした事がなかった。逃げる者を追うのは動物の習性だ。理性を知る人間のする事ではない。

『そなたならば、何処へなりと飛び立てよう』

縋る者を救う神でさえ、去る者まで救いはしない事を知っているだろう?


「バイバイ、佑壱」

まるで地下から飛び立った日の、誰かの様ではないか。










『龍雲の如く』



いつだって、別れを告げる者は引き留めて欲しいと口に出来ない、敗者なのだ。

















「閏年だ」
「そうだな」
「とうとうこの日がやって来たのか…」

にこにこと書類に目を通している銀髪の男の傍ら、黒髪の日本人は難しい表情でカレンダーを睨みつけている。その独り言めいた呟きに幾ら頷いてやろうと、何ら意味を為さない。

「今日は今から14時間と27分前から始まっているが、ランチを食べた後はどうにも眠くなるだろう。眠くなったら私の膝で眠ると良い」
「こんな日に寝てられっか…!はっ!大きな声を出してすいません…!」

然し律儀に会話を試みた男は、やっと振り向いたパートナーが大声を出すなり口を覆う様を見て、笑みを浮かべた。それまでの無表情が嘘の様な変わりようだ。

「ナイト、アレはまだ出さないのか?」
「…しっ!大きな声で言うな馬鹿…っ」
「ああ、気が利かなくて悪かった。機嫌を損ねてしまったか?」
「えっ?あ、や、別に怒っては…」

にこやかな男のダークサファイアの瞳を一瞥した日本人は、然し何とも言えない表情で突っ立っている黒服に気づくなり目を見開き、しゅばっと目を逸らす。今は騒いでいる場合ではないのだ。

「畏れながら陛下、対外実働部からのご報告は以上です」
「大儀だライオネル=レイ。対外実働部の調査により今後の挙動を鑑みる必要系があろう。欧州情報部、此処へ」
「は」

そんな妻の様子を横目に、聞いていたのか居ないのか、報告を終えて離れていく部下を労った男は新たな部下を呼びつけた。先程までの淡い微笑は既になく、冷静たる経営者の表情だ。

「反オスマンのテロは戦争に発展する気配が濃厚の様だが、隣国ギリシャの重要文化財に被害が出ては遅い。他国の争いに口を出すつもりはないが、先人が築いてきた宝は保護してくれ」
「御意、心得てございますマジェスティ」
「先の戦争で今後暫く英国が鳴りを潜めるのは必至。とは言え、我らを笠に着たアメリカが勘違いを起こせば、世界発展の妨げになるだろう」
「御意。一層、政府の動向に目を光らせます」
「ああ。表の駒を揃える役目は、それぞれの管轄に任せよう。戦争とは人類が犯す最たる時間の無駄だ、知恵の悪用と言うより他ない」
「仰せの通りです。お心の仔細、承知致しました」

直立不動で報告を終えた黒服の一人が、優雅に一礼して下がっていく。
入れ替わりに他の黒服が起立し、先程と同じく書類を片手に報告を始めていった。カレンダーを睨みながらブツブツ呟いている怪しい日本人を除けば、誰がどう見ても、厳かな会議中だ。

「それでは区画保全部よりご報告申し上げます。コロラド州に位置するセントラル西部の新規開拓についてですが…」

そんな厳かな雰囲気の中、誰よりも鬼気迫る表情で突っ立ったままカレンダーを睨みつけている。そんな奇妙な人間に気づかない者は皆無だ。
然し誰もが遠巻きにしているのは単に、ステルシリーが高貴なものとして掲げている『ノア』を、髪にも瞳にも抱いている平凡な容姿の日本人が、いつも以上に挙動不審だからだと言っておこう。
そもそも彼が挙動不審でない時の方が珍しいのだが、基本的に快活で口数の多い男が、今日は静か過ぎる。天変地異の前触れだろうか。それとも腹でも下したのか。毎晩元気よく営んでいるのは知っているが、男爵に限ってそんな失敗をする筈がない。

有り得るとすれば、拾い食いしたか。

「閏年は英語で、leap yearでイイんだっけ…?」

ボソボソ独り言を宣ったかと思えば、唐突にグレゴリオ暦と呟いた日本人に対して、一足先に三十路の誕生日を迎えたレイリー=アシュレイは、近頃生やし始めた顎髭を撫でながら、眺めていた他部署の報告書から目を上げた。
会議中に集中力が欠如するのは褒められた事ではないが、誰もがチラチラとカレンダーの前に立つ男を気にしているのだから、そろそろ突っ込む必要が出てくる。

「グレゴリ…グレゴリオ…そうか…」
「ローマ法王が制定した暦に、何か不服がおありで?」
「へ?あー、や、うん、日本語が上手くなったねィ、ライオネルレイさん」
「有難うございますナイトメアさん」

いつもなら幹部陣紅一点の技術班長がまったりと止めるのだが、彼女は新しい何かを開発すると言って、暫く前から姿を現していない。いつもの事だから誰も気にしていない為、コード:テレジアは事実上サボり、行方不明同然だ。

「いつも以上に挙動不審だな。何があったのかは聞かない方が良さそうだ、拾い食いなんかしたらテレジアに叱られるぞ」
「拾ったもんを食うか、銀杏や栗じゃあるまいに!」
「今正に銀杏や栗なら拾って食べているって自白したのは誰だ」
「レイリーの癖に髭なんか生やしやがって明日禿げろでございますわょ、対外実働部長殿」
「悔しかったら生やしてみろでございますわよ、組織内調査部長殿」

他の面々の邪魔にならない様に小声で睨み合った同年代は、どちらからともなく笑みを零した。今の口喧嘩は大人げないにも程がある。己らの思慮のなさに笑ってしまう程には。

「なァ、レイリー。午後の会議って予定じゃ3時までには終わるんだよな?」
「あくまでも予定だけどな。さっき俺が、ヨーロッパで紛争が起きてるって言ったろ?」
「悪い、聞いてなかった」
「嘘でも頷いておけよそこは。欧州情報部の報告が規定時間を随分超えたから、少し押すんじゃないか?トイレに行きたいなら行ってこいよ、ナイト様」
「こんな日にトイレなんか行けるか…!」
「どんな日にもトイレは行くだろう?度々寝食を忘れるオリオンやシリウスならともかく、何があっても飯だけは食べるんだから誰かさんは」
「…テメ、親友に対して冷たいんじゃない?挨拶代わりに口説く癖に、向こうから迫られると怯える奥手お坊ちゃんめ」
「的確に人の痛い所を突いてくる様な奴は親友じゃない。悪夢と呼んでやる」
「やめろ。ナイトは良いけどナイトメアとクイーンはやめて、男なのにメアって呼ばれるのがどれだけ恥ずかしいか判るか」
「統率符を呼び捨てにして許されるのは、陛下と殿下と…あそこで堂々と昼寝してるお子様達だけだ」

まるでアーサー王の築いた円卓の様な議事堂の隅。壮年の特別機動部長が今季で引退する事を宣言した為、マスター代理として特別機動部を占拠しつつある、正に悪魔の代名詞の姿がある。

「…やっぱ寝てるか、アレ」
「ヘルムート卿が早期引退宣言してくれたお陰で引き継ぎが慌しいのは認めるが、月一の定例会議くらい耐えられないものか?日本人の利点は忍耐強さだと、誰かさんが言ったよな」
「あァ、育て方を間違えた…」

近頃白衣が私服化しつつある双子は、揃いも揃って船を漕いでいるではないか。こんなていたらくでも、頭だけは良い双子であるからにして、会議中に寝るなと叱った所で言い返されて終わりだろう。

「いや、ナイン殿下は素直に…若干まったりし過ぎていると思わなくもないが、お体に不自由がある上でも、穏やかにご成長なさっていると思う。髪色こそ違うが、年々陛下に似て来られているのも喜ばしい限りだ」
「…ハーヴィは俺の天使なんだよライオネル君、あの子は嫁にやらないつもりだ」
「どう足掻いても嫁にはなれんだろう…と言いたいが、お前の様な例があるもんなぁ。俺だって殿下を嫁にはやらん、殿下には可愛い娘さんと結婚して頂き、幸せに満たされた生活を送って貰わねば…」
「段々お前、お前の兄貴に似てきたな」
「やめろ。甥っ子がまた笑えるくらい兄貴に似て石頭なんだ、餓鬼の癖に」
「アシュレイは頭でっかちばっかだってテレジアさんが言ってたぞ」
「テレジアが異端なんだ。基本的にイギリス人ってのは石頭だぞ」
「レヴィはただの変態だろ」
「今ほどお前を不敬罪に問いたい時はない」
「ふ。残念だったなケツの穴の小せぇライオネルさんよ、レヴィはわりと簡単に俺に謝るぞ」
「大抵の男の尻の穴は小さいんだがな…」
「レヴィが…」
「やめろ、聞きたくない」

無言で見つめあった二人はどちらからともなく目を逸らし、麗しい男爵が優雅に組んでいる長すぎる足を見た。あの麗しくも長い足の間に、とんでもない凶器が潜んでいるのだ。それはもう、狂気を感じる程の。

「…結婚に嫌気が差してらした陛下が終のパートナーを見つけて下さっただけ、幸いだと思うか。お陰様で堅物の兄貴も結婚してくれたし、フルーレティが産まれた訳で」
「そう言う事だ。俺みたいなアバズレなんか、場末の墓場の隅で野垂れ死にするのがお似合いだと思っていたのに、こんな身に合わない幸せな暮らしを与えて貰って…」
「オリオンとシリウスは年々お前に似てきたがな」
「いや、口先から産まれてきたアイツらは俺よりレヴィに似てきた様な気がしなくもない」
「人を人とも思わないオリオンと、笑いながら人を見下すシリウスが陛下に似てる筈がないだろう。失敬な」
「お前が口説いてた女、龍一郎に取られたらしいな」
「オリオンの女癖の悪さは誰に似たんだ…!幾ら誘われたからってホイホイ誘いに乗るとは…っ」
「テメェの女を見る目のなさを棚に上げんな。まァ、やらかしたら殴ってでも責任は取らせる。くぇっくぇっ。…どんだけ口が達者でも殴って黙らせりゃ、終いだょ」
「その笑い方やめろ、背筋が凍る思いがする」

然しそんな口が回る双子を、躊躇わず怒鳴りつける男がいた。語るに落ちる、ナイト=メア=グレアムである。

「俺の心の支えはハーヴィだけだ。あの子だけは純粋に、ぐすっ、イイ子に育ってくれたら…」
「ちょ、おい、泣いてるんじゃないだろうな…?!へ、陛下に殺されてしまうから勘弁してくれ…!」
「歳食ってくると涙脆くなっちまうんだねィ…。あの俺の手を焼かしてばかりだった龍一郎と龍人が、とうとう来月末にはランクAになるんだって。ハーヴィの手術も目処が立ったって言ってたし…これが泣かずしていられっか…っ」

けれど今朝からはいつもの元気がなく、若干疲れている様に見えなくもない。
今にも泣きそうな夜人を慌てて宥めようとしたレイリーは然し、あわあわと巨体を震えさせたが、夜人の恐ろしい旦那が数メートル先の社長席に腰掛けている様な所で、迂闊に夜人に触るのは躊躇われる。
年頃の近いレイリーを、レヴィ=グレアムが表向き夜人の友人として認めているのは周知の事実だが、基本的に人格者であるレヴィの嫉妬の沸点は極めて低い。因みに、夜人の前では我儘放題の冬月兄弟にしても、夜人の目がない所では夜人の周囲を逐一監視している。

「来季ABSOLUTELYに認められる張本人達は仲良く寝てるのに、お前が本人達より先に泣くなよ…」
「うっ。ごめん…」

互いの利点が合ったと言うより他ない。
レヴィ=グレアムは夜人の目を盗み、早い段階で双子を特別機動部に招き入れ、研究室の使用を許す代わりに、会長の手駒としての部署の仕事もさせていたのだ。つまりは、遠野夜人の警護及び行動監視である。

「ずぴっ。ハーヴィの体が良くなって、いつか三人でレヴィの手伝いをしてくれる様になるんだろうなァ…なんて考えると…」
「や、やめろよ…!そんな事聞かされたら、俺まで泣けてくるじゃないか…!」
「だろ?だろ…?!いっつもお留守番ばっかさせてるハーヴィが、スーツなんて着ちゃって、ぐすっ、引退する時なんかに、『父上、今までお疲れ様でした』な、なんて言ったりして…っ」
「う、うう…っ」

夜人を組織内調査部長の立場に据えたのも、組織内調査部の性質が社内で何事かある度に会長へ報告すると言う、言い方を変えれば『社長とお喋りする係』だからだ。ガサツな割に真面目な夜人は、不器用ながら社内の様子を毎日窺っていて、決まった時間にレヴィへ報告している。報告など恐らく殆ど聞いていないに違いない男爵は、ひたすらにこにこするだけだ。

「そんでいつか可愛い嫁さん貰って、可愛い子供と孫達に囲まれて…っ」
「やめろぉ…っ、そもそも殿下の孫が産まれるまで俺達は生きてるのか、くっそー…!」
「俺は生きるっ。百歳まで生きてやる…!」
「くっ。…だったら俺も百歳まで生きるぞ、しぶといヴィーゼンバーグに負けないくらい長生きしてやる…!」
「そんで孫にじーちゃんって呼ばせたい!」
「ああッ!早くジジイになりたい!」
「馬鹿っ、お前は先に結婚しろ!」
「そうだった!」

そして大した内容のない報告を満足げに果たしている夜人は充実感を得て、明日も頑張ろうと容易く盛り上がる。まさか彼に四六時中、特別機動部の監視がついているなどとは、考えもしないだろう。
残念ながら、気づいていないのは夜人本人くらいだ。組織内調査部長に特別機動部の悪魔双子が四六時中張りついているとあれば、社内で悪さをしようとする気概を持つ様な命知らずは、存在しない。と、レイリーのみならず、誰もが思っている。

「ぐすっ。レイリーはハーヴィより先に結婚しろょ…?海外の姉ちゃんを口説いちゃ逃げてる場合じゃねェんだぞ、男も歳が過ぎれば勃起しなくなるんだと」
「悪い冗談だぞナイト様、俺は生涯現役だ。俺のキャノンはテイターニアと同じく、聳えたまま天に召すんだ」
「くぇっ。…俺はそろそろ引退かも知れん」
「は…?本気か?」
「何であんなに毎晩元気なんだろうな、レヴィ…」
「…聞きたくなかったが、流石ですマジェスティ…」

夜人に引き続き、何故かレイリーも肩を落とした。
二人の視線がチラっと会長に向かったが、すぐに逸らされた事に気づいた人間は少なくない。多忙を極める対外実働部長が疲れているのは無理もないが、いつでも元気が有り余っている夜人が大人しいのは、やはり一大事だ。

「以上にて、南米統括部のご報告を終わりたいと思います」
「了解した。市場変動幅は北部ほどではないだろうが、労働力を持て余しているのは勿体ない話だ。人手は有り余っていても職がければ、持ち腐れだろう」

ステルシリーセントラル最高幹部らは揃ってチラチラと男爵を見やったが、各部署の定例報告を一つ一つ聞いては助言を与えつつ、いつもの様に読めない微笑みを浮かべているだけだった。
とても50歳を過ぎている様には見えない、いつも通りの美貌で。

「我がステルシリーがヨーロッパに拠点を構え、サウスステイツまで手を伸ばせる程に成長したのは、今日までの皆の尽力があったからだ。春に新たな人事を敷く為にも、今一度幹部の意識を統一しておきたいと考えている」

一通りの報告を受けた男は表情を引き締め、社員を見渡して語り掛けた。その穏やかな力強い宣言に、聞いていた誰もが左胸へ手を当てている。

「皆の力を貸して欲しい。来期も宜しく頼む」
「「「この命尽きるまでお慕い申し上げます陛下。それ即ち、冥府揺るがす威光を須く知らしめんが為に」」」

何故か尻を押さえている夜人と、とうとう鼾まで響かせ始めた白衣姿の双子を除く声が揃ったが、とうとう大人しかった男の堪忍袋の緒が切れた様だ。

「そこの特別機動部長代理共っ!12歳だからって仕事中に寝る奴は、ぼた餅やんねェぞ!」
「「ぼた餅?!」」

弾かれた様に飛び起きた目元以外はそっくりな双子は、寝ている時には垂れていなかった筈の涎を拭いながら、期待に満ちた目を玉座ならぬ社長席に注ぐ。流石に夢うつつで聞いた話だったからか、誰の声だったのか確証がないらしい。
期待に満ちた息子同然の双子の眼差しを一身に集めた男は、ダークサファイアの双眸を細めて首を傾げた。

「ぼた餅は用意していない。私から二人への誕生日プレゼントは、専用のラボとランクAの社員証だ」
「「恐縮です陛下」」

にこやかな銀髪の男爵の台詞に頭を下げた双子の目は然し、がっかりしたと言う気配が滲んでいる。頭痛を覚えたのか、こめかみを押さえながら足を進めた夜人は現金な双子の頭をバシバシと叩いた。

「会議中に寝るな馬鹿息子共。もち米が手に入ったから、正月に食えなかった杵つき餅をついてやったぞ」

叩かれた事に対してすぐに反論しようとする二人に先立って、夜人はぼた餅を詰めた風呂敷を差し出す。近頃開拓を始めた区域で実った小豆と、海外出張から戻ってきたレイリーの土産であるもち米を試行錯誤し、やっと完成に漕ぎ着けたものだ。

「ついでに、ミシシッピ付近で始めた農耕事業が実用化の最終段階なんだと。根付けば豊作が見込める小豆と大豆と芋、…は、今はどうでもイイか」

イギリスと長く睨み合っていた中国にコネクションを築いた事で、対外実働部長として確固たる地位を構築したレイリーは、夜人より幾らか若いアジア人に随分興味があるらしい。毎年、暇を見つけては足を運んでいる様で、技術班は市場より早く交通手段の開発に明け暮れている。長距離の移動で時間を費やすのは、合理的ではないからだ。

「や、夜人が作ったぼた餅?!食えるのか…?!」
「狼狽えるなシリウス、不味かろうと死にはせん」
「失礼なお子様め、要らんならハーヴィにやるぞ。試食させたら餡子のうまさにハマっちまったんだ」

垂れ目を限界まで見開いた弟から、無言で何度も何度も揺さぶられた男は拭い切れない涎を拭い、限界まで吊り上げた眼差しを何度も何度も眇める。

「因みに、レヴィも食った。な、レヴィ?」
「ああ」
「へ、陛下がナイトのぼた餅を…?!」
「う、うぬぅ!陛下が腹を壊していないのであれば、一応食えるものに仕上がっているのではないか、オリオン…?!」
「テメェらいっぺん三途の川に沈められてェのか?」

珍しく双子の葛藤が見え隠れしているが、イギリス人に負けず劣らず頭が固い研究者が腹を決めるには、もう一押し必要らしい。

「ぼた餅と言うものを初めて口にしたが、中々良い菓子だ」

それを知ってか知らずか、最後の部下のティータイムを告げる声音をBGMに囁いた男爵は、組んでいた長い足を解いた。会議の終了を知らせる合図だ。

「区画保全部がもち米の開発に成功すれば、セントラルで販売する事が出来よう。餡子はホットミルクに良く合う様だ、ティータイムにはミルクを貰おうか」
「レヴィ、餓鬼共は要らないみたいだからおやつで食べてイイぞ」
「「失言お許し下さい、ナイト様ァ!」」

涎の海に沈んだ白衣のスライディング土下座が揃った。






























「で、こっちが総長のママさんとパパさん…つーか知り合いなんスよね?」
「そのけしからんお乳には見覚えがありまくるねィ」
「遠野先生がシーザーのお母さんだったなんて…!ってか、帝王院財閥の跡取りが遠野課長だなんてそんな、信じられないんだわ!」

迸るミーハー心を隠さない山田陽子は、震える胸を押さえた。
ワラショク幹部らに熱く見つめられたまま、書類に親指で拇印していたオレンジの作業着は肩を竦める。

「総長を馬鹿にしてんなら、怒るっスよ?オレらカルマは此処にいる姐さんや兄貴より、総長のが重要だし」
「ひゃー!やっぱカルマは統率が取れてるのねー!カナメ様もハヤトも一匹狼っぽかったけど、遠野先生の息子さんは圧倒的だったんだわ!」
「はい?うちの馬鹿息子が圧倒的に短足?知ってるわょ、んな事」
「お前は自分の息子を何処までこき下ろせば気が済むんだ、トシ。俊は俺から見ても良い男だぞ。…脇坂が目をつける程にはな」

遠野俊江。大学に上がるなり留学するまで、十代の頃は町中の悪餓鬼を乱獲し、鬼か悪魔かと恐れられた昔からとんでもない女だったが、高坂より十歳若い帝王院秀皇もまた、初等部入学当時からまともではない。

「あら、そ?シューちゃんに似てたらスタイル良かった筈なのに、平成っ子のわりには昭和体型なのよねィ」
「そうか?俊は俺にそっくりだぞ、ママ」

あの小林守矢が高等部在学中に作っていた息子である小林守義は、守矢が最上学部を卒業するのと入れ替わりに初等部へ入学した。親子共に知っている高坂にとっては、悪魔の様な風紀局長も最悪だが、中央委員会の会長と副会長を経験し、歴代中央委員会の中で最も『農業コースを贔屓した』と言われている氷炎の君と呼ばれた男も、同じく最悪だと思う。

「カルマはイイ子ばっかりだから安心してるけど、少しでも悪い事したらぶっ潰してるざます。イチきゅんのお陰でご飯ももりもり食べてたみたいだし」
「は?佑壱?」
「ファーストは昔から食事の用意が上手だったわ。俊江、ファーストがただの暴れん坊にならずに済んでるのはきっと、ナイトのお陰ね。有難う」
「つーか、ユウさんの父ちゃんと母ちゃんがマジ美男美女過ぎてウケる。ケンゴさんが居たら笑い死んでんだろうなぁ、こりゃ」

帝王院学園を最上学部まで卒業した高坂の9つ年下にして、あの帝王院秀皇には従わず、榛原大空を主人として勝手に付き纏っていたと言われている男は今、株式会社笑食の重役として、社内で初めて同性結婚し盛大な結婚式を挙げた。

「そうだった!良く考えたら、この馬鹿男がケンゴの父親で、藤倉理事はユーヤの父親で、そっちのイケメン保険医がハヤトの祖父で、どうなってるのか訳が判んないんだわ!そんでうちの太陽が、シーザーの友達?!」
「あ、うちの俊がお世話になってるざます。笑えるほど友達がいない子だから、山田君が居なかったら即退学してたんじゃないかしらねィ」
「姐さん、良く判んないんスけど最近カルマの総長が代替わりしたんですけど、知ってます?」

堂々とした記者会見で『撮影なさっても良いですよ』と宣い、詰め掛けた記者のインタビューに丁寧に答え、ローカルニュースになった程だ。隠れ腐男子ヤクザの高坂は、風呂上がりのコーヒー牛乳を盛大に吹いた。萌えたか萌えないかで言われたら、萌えるしかないだろう。
残念ながら相手のワラショク社員は非公開とされ、盛大な結婚式は盛大なわりにワラショク幹部と本社社員の一部だけ。小林方の親族は一人として参列せずだった様だ。

「「代替わり?」」

俊江と陽子の声が重なり、腐男子の胸騒ぎが抑えきれなくなりつつあった高坂は背を正した。じっと見つめてくる高野省吾がニヤニヤしている所を見るに、もしかしたら顔に出ていたのかも知れない。ついついワラショク男夫婦を見つめてしまうのは、腐男子の性だ。

「カナメさんもハヤトさんも、ケンゴさんは良く判んないっスけど、ユーヤさんも納得してねぇっぽいんですけど〜」
「え?何、シーザーは引退したって事?!そんなの許せないんだわ!」
「あらん?それじゃ、イチきゅんが総長になったんざます?」
「いや、山田君が総長になったんです〜」

ホクホクと契約書をブレザーの内ポケットにしまい込んでいたワラショク常務の眼鏡がヒビ割れ、専務の眼鏡がズレ落ち、ワラショク社長のデコが光る。

「や、山田?」
「山田?」
「山田だと?」
「成程、そう言う事か」

ポテチの袋を無表情で覗き込んでいた男だけは、ダークサファイアをやや細め、囁いた。

「ナイトはカルマを手放し、ブラックジャックはそれを受け継いだ。まるで流れ込む洪水を受け止める、アクエリアスの水瓶が如く」
「…どう言う意味だハーヴィ」
「そなたが一番理解しているのではないか、カオスインフィニティ」

話に全くついていけない子供達が沈黙を守っている光景を眺め、立ち上がった男は暴れている人質同然の異国人を一瞥し黙らせると、眉を潜めている弟同然の男へと足を進めたのだ。

「洪水の果て、セフィロトを失ったノアの一族は全てを失ったが、閉ざされた雲間から一柱の光を得た。そなたと秀皇の血を継いだ聡明なナイトはとうに、私の意思を継いでいたのだろう」
「…」
「あれは己が身一つでカイルークの12柱を屠るつもりか?」
「貴様は…この儂が、その様な愚かな真似を孫にさせると宣うのか」
「16年前にグリーンランドへ渡った。シンフォニアとして、遺体すら献体が決まっていたロードの髪を一房、墓へ納める為だ」

囁く声音に感情はなく、諦めた様に目を閉じた遠野龍一郎の網膜は今、闇に包まれただろう。

「そこに我が父母の骨はなかった。誰かがとうに墓を暴いていたのか、それとも初めから、そこに二人は眠ってなどいなかったのか。そなたならば答えを知っているのではないか?」
「…」
「今こそ答えよ、冬月龍人」

沈黙を守る男の代わりに、諦めた様に笑ったのは、優しげな眼差しを閉じた男だった。

←いやん(*)(#)ばかん→
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