帝王院高等学校
夢見る少女とチキンな現実主義者
「小娘」

体に悪いものはどうしてこんなに美味いのかと、煙草を咥えたまま缶コーヒーのプルタブを引く。ぷはぁ、と煙を吐きながらコーヒーフレッシュを一つ缶コーヒーの中へ注いで、ごっごっごっと一気に飲み干した。
ゲップが出そうで出ないもどかしさをどうにか飲み込めば、何だか強くなった気にならなくもない。

「いつまで泣いてやがる。変な噂が立ったら名誉毀損で訴えるぞ」
「ひっく」
「粋なご老人を晴れやかに無視するな。どっか遠くに行って存分に泣け」

人目が気になるのでブラックコーヒーしか買わないが、苦くてとても飲めたものではないので一人の時にはクリームを一つ入れるのが、遠野夜刀の習慣だった。
引退してからと言うもの、年に数回の健康診断にかこつけて病院の様子を見に来てみれば、自分が院長の時には和気藹々としていた遠野総合病院は、現院長による恐怖と畏怖が降り混ざった独裁政権。然し夜刀以上に神の手として知られている遠野龍一郎に対し、尊敬する者はあっても逆らう者はない様だ。

誇らしい反面、イラッとする不思議。
総回診と言う名のナースや美人患者との触れ合いを楽しみに働いていた夜刀とは違い、龍一郎は難しいオペや症例を纏める事に尽力しており、従業員や患者とは殆どコミュニケーションを築いていない様だ。流石に妻である一人娘も、困ったわとぼやいている。

「言葉が判らんのか?」

自分の時代とは空気が違う院内の雰囲気に馴染めず、結局一通りの検診を終えて暇を持て余している時だった。啜り泣く声が聞こえてきたのは。
暫く気づかない振りをして、通り掛かった看護師にそれとなく尋ねてみれば、産婦人科で大騒ぎした患者だと言う。殆ど人が通る事のない裏庭の芝生の上で膝を抱え、小一時間経っても顔を上げない女にとうとう根負けし声を掛けたが、苦笑いを浮かべた看護師に聞いた通り、錯乱して英語で怒鳴り散らしていたと言うのは間違いない様だ。

「ちっ。ドイツ語ならともかく、英語とはまた癪に障る。…が、仕方ない」

しゅばっと取り出した携帯にコールしたが、プルルと言う音が途中で切れて留守番サービスの音声が流れ始める。此処で『着拒された、えーん』と泣き寝入りする様な性格ではないので、夜刀は構わずリダイヤル。留守番サービス。リダイヤル。留守番サービス。リダイヤル、やっと出た。

『…何の用だジジイ、忙しい時に邪魔をするな』
「パパの声を聞いて嬉しい気持ちは判ったから、そう喜ぶな馬鹿息子」
『切るぞ』
「う…く…あ、ァ」
『おい?どうした、おい?』
「し、心臓が…っ」
『何だと?!貴様、まだ院内におるのか!おい、何処にいる!』

良し、掴みはオッケーだろう。
医者の仮病は症状を知り尽くしているだけにバレ難いものだが、鬼をも超える神の手を黙せるのであれば、夜刀はカンヌ国際映画祭を狙えるかも知れない。

「すこぶる元気だ!お陰様で煙草もうまい!」
『…』
「ふ。今のは親父ギャグと言う名のちょっとした冗談だ、相手の声だけで診察する技量があってこそ真の医者だと言うに、容易く騙されるとは馬鹿め。今からお主を藪医者と呼んでやろう、嬉しいか龍一郎」
『殺す』
「切ったらお前の悪事をバラすからな。例えば立花に寄越した俺そっくりな医者の中身が、核だとか核だとか核だとかを」

鋭い舌打ちが聞こえてくる。医者にならなかったらヤクザになっていたに違いない婿養子は、暫く沈黙していたかと思えば、絞り出す様な声を出した。

『…出来るものなら貴様の記憶を消してやりたい』
「夜の王と謳われた俺を貴様如き尻の青い小僧が手玉に取れると思うなよ。パパと呼びなさい龍一郎、若しくはお父様と」
『死ね』
「おい、良く考えろ。龍流と俺なら、明らかに俺の方がマシだろうが」
『用件を手短にほざけジジイ』

否定しなかった所を見るに、やはり冬月龍流の悪名高さは流石だ。
夜刀の亡き父は、夜刀には全く似つかない聖人君子だったが、患者や病院の仲間以外の人付き合いが苦手で奥手な男だった事もあり、友人らしい友人が龍流しか居なかった。星夜の葬儀に黒の燕尾服で現れた男前と言えば、恵まれた顔立ちが笑えるほどぐしゃぐしゃで、親族以上に泣き喚き、夜刀が母親の次に怖かった祖父一星が心底呆れた程だ。
然し、それほど息子の死を悼んでくれるのかと、最後には笑って受け入れたと言う逸話もある。

「変な噂が流れたら不味かろうと思って、わざわざ手を貸してやると言っとるんだ」
『何の話だ。とうとうボケたか老耄が』
「俺はまだ88歳のヤング米寿だィ!ボケるかァ!」

そこそこの金持ちだと言う龍流は、まだ学生だった夜刀に向かい、自分が診療所を作ったら手を貸して欲しい、と、頭を下げた。冗談だろうと笑い飛ばせなかったのは、彼の目が真剣だったからだ。
然しそれから間もなく龍流は亡くなり、冬月の屋敷は大火事で跡形もなく消え去ったと聞いている。それは星夜の死を遅れて知った、帝王院俊秀から聞かされた事だ。

『貴様なんぞに大殿の遺した耐性があろうとは、未だに信じ難い』
「ふ。鳳凰は俺の舎弟も同じよ。あれが結婚出来たのはこの俺のナイスなインスタントがあっての事だ」
『アシスタントとインスタントの違いも判らん時代遅れが抜かすな。貴様ら兄弟は揃いも揃って…』
「夜人は底抜けの馬鹿だが、最大の間違いはレビだかエビだかについていった事に尽きるわ。メリケン人なんぞより俺の方が何万倍も男前だろうに!」
『貴様など陛下の足元にも及ばん。頭蓋骨を陥没させられたいか糞ジジイ』

夜刀の冬月夫妻の第一印象は、美人だが幸薄げな妻よりも、どう見ても賢そうなのに仕草が逐一変態じみていた旦那の方に注がれている。遠野星夜の忘れ形見である夜刀に対しては、何処までも紳士的な態度だったが、中身は狐の様なものだったに違いない。
あの食わせ者を死へ追いやった彼の義兄に興味があるが、張本人は焼け落ちた屋敷の後から焼死体で発見されている。表向きは不慮の事故として片づけられたが、あの事件の生き証人である嫡男の証言を聞いている夜刀には、他人事だ。

「夜人は優しい子だったのに、何で龍一郎の育て方を間違えたんだろう。エビの所為で人格が犯されたに違いない、エビの所為で龍一郎がひねくれちゃったのょ」
『…わざとだな。認めたくはないが、夜人より若干貴様の方が賢い。ほんの爪の先程の差異だが、曲がりなりにも医者になれた程度の凡人だと認識している』
「お前は義父を引退に追いやっただけでは飽き足らず、心を傷つけて何が楽しいんだ?」
『亡き大殿を呼び捨てにするわ、陛下を魚介類と一括りにするわ、20年前だったら眉間を撃ち抜いておったものを…』
「撃ち抜かれた瞬間、手術して治してやるわィ」
『しくじれ』
「俺のオペ成功率は脅威の97%だ、しぐしらん」

変わり者だった。
冬月夫妻共に、およそ凡人離れしていた。浮世離れしているのは帝王院の誰もがそうだったが、あの帝王院俊秀ですら予測しなかった冬月の悲劇は、今、平成の世で何か変わったのだろうか。

「忙しいを口癖にして、人との関わりを遠ざけてねェだろうな」

甘え方を知らない子供が、甘え方を知らないまま甘えのない人生を送って今。やっと家族として認識しつつある育ての親の兄を、義父とは呼べない事など判っている。

「夜人が草葉の陰で怒り狂っているぞ。お前はAB型の天才肌だって話だが、不器用過ぎる」
『血液型で性格が判って堪るか』
「全くその通りだ。だがな、血糖が似ていれば性格が似る事もある。俺と夜人は血液型は違うが家族だ。夜人は俺が育てた。つまり俺に似てる」
『…』
「否定せんな。お前が龍流小父に似てるとすれば、多少詰めが甘い所があるやも知れんだろう」
『何が言いたい』
「英語でナンパする時にイイ感じのフレーズを教えてちょ☆」

変わり者だったが、医師を目指した仲間として年上の龍流の事を忘れた事はなかった。だから彼に何処か似ている龍一郎が現れた時、脊髄反射で手を貸したのかも知れない。

「意地悪言われたからムカついていじめ返しただけで、本題は今のだ」
『切るぞ』
「良いのか遠野龍一郎、お前に苛められたって泣き喚くぞ。因みに俺は今、正面玄関からそう遠くない所でコーヒーブレイク中だ。舐めるなよ、やると言ったらやる男だぞ遠野夜刀はなァ!」
『………Hey son of a bitchと言えば、振り返ろう。切るぞ』
「おっけー、センキューベリーマッチョ。チュ!」
『Go to the fucking hell.(地獄に落ちろ)』

父の葬儀の場で見た、よれよれの龍流と同じ様な表情をしていたから、などと言えば綺麗事だろうか。
然し変わり者の冬月の血は変わり者の遠野の名に負けず劣らず、ほんの違いは夜刀に英語力が全くない所くらいか。亡き帝王院鳳凰が『新婚旅行はアメリカ以外にしろ』と言ったので、夜刀のハネムーンは草津だった。嫁には大不評だったが、近場の国内が一番だ。何より言葉の壁がない。

「へい、さのばびっち、だったな。良し」

飲み干した空き缶をゴミ箱に捨て、小銭入れを取り出して自動販売機のミネラルウォーターを押す。正面玄関側の自動販売機は充実しているが、人通りの少ない廊下の自動販売機は品揃えが悪い。人目につかずにこっそりミルクコーヒーを飲むにはうってつけの場所だが、少なくとも夜刀にとってはの話だ。

「へい、さのばびっち!」
「失礼ね…!ひっく」

窓から顔を出した夜刀が叫べば、うねうねウェーブが掛かった赤毛を乱して啜り泣いていた女が素早く顔を上げた。片言だが日本語を喋っている事に眉を跳ねた夜刀は、握っていたミネラルウォーターのペットボトルを投げてやる。
コロコロと芝生を転がったそれは、少女の足元で停止した。

「日本語喋れるのか」
「少しだけ」
「簡単な英語なら俺も喋れる。問題ない」

ペットボトルを指差し、キャップを開ける様にジェスチャーで促してやると、泣きすぎて真っ赤な目元と頬を手首で擦りながらペットボトルを拾った少女は、小さく掠れた声でサンキューと呟いた。気が強そうに見えるのは濃い化粧の所為だろう。涙や擦った所為で殆ど落ちている化粧の下の素顔が見えると、随分若い娘に見えた。

「お前、幾つだ?」
「いくつ?」
「あー、何だったか。龍一郎の奴はもう出らんだろうし…あー、うー、ハウオールドアーユー?」
「シックスティーン」

知識を辛うじて振り絞れば、通じた様だ。泣き過ぎでしゃくり上げている少女が掠れた声で呟いたが、流石にその単語は夜刀にも判る。

「16?」
「そう」

診察室で騒いでいたと聞いているが、どうも面倒臭い理由がありそうだと息を吐く。娘の美沙が小児科と産婦人科を兼ねているので電話を入れれば探れるだろうが、そうなると目の前にその少女がいる事を説明せねばならなくなるだろう。
またお父さん年甲斐もなくナンパなんかして、と、チクチク叱られるのは火を見るより明らかだ。今後こそ老人ホームにぶち込まれるかも知れない。

「貴方、誰?」
「俺は夜刀さんだ」
「ヤトゥー?アラビアンのよう」
「粗挽きハムだと?」
「私はサラ」
「皿…コホン、サラか。覚え易くて良い名前だな」

通じているのか居ないのか良く判らない会話だが、16歳の少女と90歳近い年寄りの会話を聞いているのは、そよぐ芝生だけ。病院の裏手は川を挟んでバイパス沿いになっており、ドカンと一本のトーテムポールが聳えている以外には、何の面白みもない。
遠野総合病院七不思議の一つ、108本の巨大トーテムポールは夜刀の数少ない友人、帝王院鳳凰からのハネムーン土産だ。贈られた時は心の底から迷惑だったが、あれから数十年経て、送り主がこの世を去っても立派に現存している。

「聞かない?」
「何を」
「私、泣いている理由」
「はっ。ぜーんぜん、興味ねェわァ」

鼻をほじりながら宣えば、また啜り泣く声が聞こえてきた。今のは大人げなかったと慌てた夜刀は、仕方なく窓を乗り越える事にしたが腰がヤバそうなので諦め、少し離れた出入口から普通に外へ出る。

「年寄りを歩かせやがって!」

少女の隣まで早歩きで近寄り、どかっとその場に座る。ほれ話したければ話せ、と表情で伝えたが益々膝を抱えて塞ぎ込もうとするので、夜刀はちょっとだけ焦った。この年頃の娘っ子は、万国共通で扱いが難しい。天地無用のギフトと同じだ。

「聞いてやっから!おっちゃんに話してみろ、サラ」
「シンフォニア、欲しいの」
「しんほにあ?何だそりゃ」
「あかんぼ?」
「アメンボ?」

耳が悪くなったかな、でもさっきの検診で耳鼻科医から『20代の聴力』だと褒められたばかりだ。蚊が奏でるモスキート音にも敏感な夜刀だが、何せ腕力がないので仕留められた試しがない。たまにパチッとヒットしても、手の隙間からプーンと華麗に逃げていく有様だ。

「ベイビー。私、ナイトのベイビーなんて要らないわ」
「はァ。出産舐めるなよ。今時の餓鬼は簡単に妊娠したり中絶したりするが、ああ言うのは神聖な行いで、そりゃもう大変なんだ」

一人娘の二度に渡る出産がどちらも難産だった事を覚えている夜刀は、諭す様にゆったりと口を開いた。若者が素直に聞くとは思えないが、人類の最も神聖で重大な行いが妊娠出産だと思っている夜刀は、出産中に亡くなる妊婦もいるのだと滔々と語る。医療の場で起きるのは、綺麗事ばかりではないのだ。

「…He doesn't smiles less and less when he went to Central city.(あの人はセントラルへ行ってしまってから、笑わなくなった)」
「スマイル?お前はそいつを笑わせたいのか?」
「YES」
「そんな甘い考えで…と言いたい所だが、考えなく出産する女が後を絶たないのは嘆かわしい事に、事実だ。一時の感情に振り回されて、後悔するのはお前だぞ?」
「?」
「だがまァ、恋ってのは厄介だな。投薬も手術も出来ん」

少しばかり脅し過ぎたか、それとも日本語が難しかったかと隣を窺うと、想定外に真剣な表情で夜刀の話に聞き入っている娘と目が合った。何か言いたげな表情に気づき、質問しても良いぞと促せば、片言の日本語と幾つかの英語を混ぜて、幾つかの質問を投げ掛けられる。
一つ一つ、判る英単語があれば答えてやり、判った事がある。サラはまだ初潮を迎えておらず、交際していると言うには少々難しい関係の相手がいて、恐らく何らかの理由でその男の子供が産みたいと言う事の様だ。

「そいつは産めって言ってんのか?」
「…」

益々きな臭い。
どちらにせよ、女性として子宮が機能していないのであれば妊娠は不可能だと言えば、突然ぶんぶんと頭を降り始めた。波打つ赤毛が夜刀の頬に当たり、鞭の様だ。

「焦っても良い事はないぞ。神様仏様のお告げがあるまで待て。レディーになって出直せって事だな」
「ノー!いや!あかんぼ、産む!」

そばかすが散る顔を両手で覆いながら、駄々っ子の様に繰り返される産みたいの台詞に、流石の夜刀も言葉を失った。サラの言葉には渇望が現れていて、子供の我儘と笑い飛ばせない情熱を感じさせたからだ。

「本気か?」
「い、イールばっかり狡い!」
「は?」
「私の方が先なのに、イールはクリスが好きなのに、クリスの王子様を奪った!何でそんな女が愛されるのよ!わ、私の王子様も奪っていくなんて、酷いわ…!」

誰に言っている言葉なのか、頭を振りながら悲痛な声で叫び散らしたサラは、芝生を手で握り締めて肩を震わせた。ポロポロと、透明な雫が落ちていくのが見える。

「私、駄目?!Why王子様はいつも、エアリアスを選ぶの?!あんなに綺麗で、優しくて、私のfrecklesをcuteだって言ってくれたクリスも、叶わなかったのはどうして?!」

やはり、女は幾つだろうと女なのだ。
夜刀には殆ど判らなかったが、サラの叫びに嫉妬がありありと浮かんでいるのは判る。想像に過ぎないが、友人と一人の男を取り合っている、と言った所だろう。

「イールが止めなかったから、彼は行ってしまったのに…!知ってるの!あの子はクリスを独り占めしたかっただけなのに、どうしてアダムはあの子なんか…!」

そして恐らくサラが愛した男の本命は、イールと言う人物なのだ。

「…あァ、うっせー餓鬼め」

ぽん、と。乱雑に持ち上げた手でやはり雑に赤毛を撫でてやれば、つけまつげが外れるほど咽び泣いていた少女は、スカートの裾で鼻をかみながら今度は啜り泣いた。忙しい女だ、これが思春期と言うものかも知れない。男には代わりに反抗期として訪れるものだが、夜刀の反抗期は両親の死後に訪れた為、祖父に反抗しては殴られた覚えしかない。

「その度に、ちっこい夜人から慰められたっけなァ…」

一人娘は妻の育て方が良かったのか大人しい娘だったので、どう接して良いのか良く判らない。孫娘は性別を間違えたに違いないほど乱暴で、孫息子は正反対に大人しい子だ。
叔父であり弟として育てた夜人は星夜の記憶が殆どなかった為、夜刀を父の様に慕ってくれた覚えがある。18歳で書き置き一枚を残して消えてしまった時は、流石に呆然としたものだ。夜刀が結婚した頃で、一緒に草津に行こうと誘っても、曖昧な笑みで断られたのが最後の記憶だった。

「サラよ。悪い事は言わん、お前を愛してくれる男が現れるまで、辛抱しろ」
「そんな人…っ」
「まだ出会ってないだけだ。どんな奴かは知らんが、お前が惚れたくらいだから、まァまァ良い男なんだろう。この夜刀さんには叶わんだろうがな」

何処までも自分に自信がある男、それが遠野夜刀である。
台詞の半分は理解出来なかったらしいサラは、然し暫くして、淡い笑を零した。

「ヤトゥー、ちょっとパパに似てる…」
「ん?お前のパパはハンサムなのか?」
「とってもハンサムよ。凄く頭が良いの。だから、ユニーバーシティのプロフェッサーなのよ」
「ほう、プロフェッサーか。プロと言えば、鬼と呼ばれた遠野夜刀こそプロ中のプロ、つまりセミプロって奴よ」

それでは格下だ。

「パパはジュリアス・シーザー。ABSOLUTELYからBYSTANDERが産まれた様に、CAPITALを現すものって、ネルヴァ卿が教えてくださったのよ」
「うむ、俺が知らん英語だな。知ってる英語の方が少ないんだがな。エビの所為でアメリカは大嫌いなんだ」
「私、イギリス人よ。ママはスコットランドに居るわ」
「何だ、そうか。知ってるか、あれはトーテムポールだぞ」
「変な顔ね」
「だろう。鳳凰の趣味は出会った頃から可笑しいんだ。なのに女の趣味だけ良かった、奴に舞子ちゃんは勿体なかったなァ」

然し二人の語彙力では会話のキャッチボールは成立せず、スカートで再び鼻をかんで水をゴクゴクと飲み干した少女は、弾かれた様に振り返るとキョロキョロと辺りを見回した。

「どうした?」
「わ、からない。ヤトゥー、私、行かなきゃ。遅くなってしまうと、マジェスティに叱られるの…」
「そうか。玄関への行き方は判るか?」
「うん」

何故か誰もいない空間をキョロキョロと伺っているサラに首を傾げつつ、これ以上引き止める理由はないと、空いたペットボトルを捨てておいてやるとその手から奪う。ぐしゃぐしゃな髪を撫でてやれば、ほっとした様に息を吐いたサラは、再び淡い笑を零した。

「笑ったら可愛いぞ。自信を持て、お前は十分美人だ」
「サンキュー…あり、がと。ヤトゥー、さようなら」

照れた様に小さく手を振ってくれた少女へ、豪快に振り返す。
引退してからと運動不足が深刻になってきた夜刀を置き去りに、跳ねる様に駆けていく少女の背中を追い掛ければ、出入口から中へ入る間際、窓辺の向こう側に横切っていく白衣を見た。

「…見掛けん医者だな。優男風の男前だが、あっちは心療内科の入院棟だ」

遠野総合病院では、医局によって首に吊るしているパスケースの紐の色が違う。従業員が一目で何科の医師か判る様にと、夜刀が取り入れたシステムだ。

「青いストラップは外科だが、何で外科医が心療内科なんぞに…」

駆けて行ったサラの背中も、通り過ぎて行った白衣の背中もすぐに見えなくなった。
ペットボトルをゴミ箱へ捨てた夜刀は、どうしても気になって携帯を取り出して息子に掛けてみたが、

『お掛けになった電話はお繋ぎ出来ません』
「俺に恐れを為して逃げたな龍一郎め、ケツの青い餓鬼だわ」

どうも本気で着信拒否にされたらしい。
これだから息子いびりがやめられないのだが、あの朴念仁に言った所で切ない男心など微塵も通じないだろう。

































目の前に聳える漆黒の塔。
と言うには馬鹿でかい建物を首が痛くなるほど見上げていると、いつの間にか唇がポカリと開いていたらしい。たらりと落ちてきた涎の気配に口元を拭いつつ、キョロキョロと辺りを見回した。

「こうも人の気配がないと、益々現実味を感じないね」
「ミスタースミス。直ちにお引き取りを」
「何度言われても答えはノーだ。私はカミュー=エテルバルドに脅…こほっ、頼まれてやって来ている。無駄足で帰るつもりはない」
「お立場をご理解頂けていない」

生気を感じさせない黒服の男達に共通しているのは、漆黒の十字架を首に下げていると言う一点だろう。漆黒の居城へ続くなだらかな人工芝には、大理石の足場が飛び石の様に組まれていた。階段と言うにはオブジェの様で、機能的ではない。
時々見掛ける石像が、いつか見たキング=グレアムより目付きが悪い様だと気づいたのは、ドラキュラの様な表情で睨み据えてくる男達から目を逸らした時だった。

「私の立場?エリザベート=マチルダ=ヴィーゼンバーグが祖母に当たる事は、亡父から聞いている。貧しい育ちだった私が大学へ通えたのは、陛下のお心遣いによるものだと感謝は尽きない。一つ尋ねたいのは、あの時に受けた融資を返さないと中へ入れて貰えないと言う事かな?」

胸元から取り出した財布を持ち上げたまま、わざとらしく微笑みを貼り付ける。生気のない化物を相手に取り乱す様な初心な心は、とっくに還暦を過ぎているブライアン=C=スミスにはなかった。

「では、耳を揃えてお返ししよう。これでも長く教授を務めていて、幾つかの論文が認められた事もある。君達には何の得にもならない、粗末な数字の話だがね」
「ならばご理解頂けましょう。『何処の誰が』貴方をセントラルへ招き入れたかは存じ上げないが、キャノン・テイターニアは許可なき者の入場は認められていない」
「直ちにお引き取りを、ミスター」

判っていた事だが、これがアメリカの地下世界なのだ。
こんな寒々しい所に可愛い孫を何年も閉じ込めていたのかと思えば、とうに忘れたと思っていた喜怒哀楽の半分が轟々と燃えそうな気もするが、喚き散らしても良い事はない。疲れるだけだ。

「久し振りにミスターと呼ばれて照れ臭いが、意地悪をするなら教え子に電話するしかなくなってしまう」

財布をしまう代わりに携帯を取り出し、掛けるつもりはないがわざとらしく宣ってみた。ドイツが産んだ最強最悪のドS、大学卒業後はネルヴァと名乗っていたあの糞餓鬼と言えば、還暦を過ぎても昔から殆ど変わっていない。お前に選択権などないと言わんばかりに、やれと言ったらやるのだよ、と吐き捨てたのだ。

「大学では、ケルベロスとミッドナイトサンには逆らうなと、未だ噂されているよ。ファーストは学部が違うが、ネイキッドはどうかな。あの子は数学に愛されている。私達は数多の数式を追い求めた、言わば同士だ」

超必殺技、元特別機動部長から託された『困った時は叶二葉を使え』と言う言葉に倣い、内心ドキドキはち切れそうな心臓を抑えたまま、年嵩で鍛えた愛想笑い一つ。

「叶二葉の名に聞き覚えがあるのであれば、今から彼のプライベート携帯にコールしよう。流石に彼の許可が出れば、許して貰えるのだろう?」

ブライアン=C=スミス。物理学・数学の分野で研究を続ける傍ら教鞭を奮う男は、叶二葉の携帯電話の番号など、勿論知る筈がなかった。両親にも娘にも先立たれた男に友人らしいものもなく、彼の携帯電話に記憶されているナンバーは然程多くはない。

「それとも、私が此処で一人きりの孫にコールすれば、満足して貰えるのかな?」

我ながら、心臓に毛が生えているのではないかと疑いたくなる。
数少ないメモリーに登録された孫の携帯電話は、つい先日から不通状態だ。使われておりません状態である。

「我が孫、カエサル=ノアの機嫌が良い事を祈ろう」

着信拒否されるほど会話した覚えはないが、18歳男子は気難しいのだと己を慰めたい。

「…失礼致しました。どうぞ御入城下さい、ミスター」
「唯一神の冥府揺るがす威光を須く知らしめんが為に」
「心遣い、感謝する」

何せ使われておりませんが使われていますの時から、孫は電話に出てはくれなかった。余程退屈な時以外は。

←いやん(*)(#)ばかん→
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