帝王院高等学校
それではお兄ちゃん、お手をどうぞ。
躊躇、と言う言葉を己の人生で数えてみると、後悔を伴うのは恐らく一度きりだろうと思う。思い返すだに忌々しい記憶だ。若気の至りと言う使い古された慣用句があるが、そんな言葉で正当化する事など出来はしない。

「何の真似だ」

自分の過去は棚に上げておこう。
他人事は極めて他人の身に起きた余所事で、登場人物に自分は含まれない。例外的に関与する場合は脇役に徹する、それがとある脆弱な子供が生きる上で念頭に置いてきた道理だ。
例えば今、保健室の薬品棚のすぐ左隣。廊下のドアより小さい勝手口を前に、ドアノブへ手に掛けて躊躇いなく捻ろうとした瞬間、狙い済ましたかの様にブレザーの裾を引っ張られる感覚。
溜息は幸せが逃げると言うから飲み込んで、片目を細め盗み見た右後ろの男は図体ばかり大きい癖に俯いている様に見える。

「俺は人の心情だの葛藤だの、犬の餌にもならないいわゆる空気を読むと言う行為を無駄だと思ってます。踏ん切りがつかないなら流れに任せて、諦めろ」

溜息が鼓膜を震わせた。
簡単に言ってくれると言わんばかりの気配だが、敢えて言えば他人事と言うものはそんなものだろう。

「皺になる。離せ」
「…もうシワシワだろ」
「はいはい、俺に強気に出てどうするんですか星河の君」
「やめろ。さっき笑い流せないモードに突入したばっか」

諦めた様な声が耳元近くで聞こえてくる。
余程葛藤しているのか、普段は後先考えずに行動している様に見える男は、怖いもの知らずと言う他人からの評価を裏切る瀬戸際だ。

「そのドアの向こうにあるのは時間の無駄。判る?無駄って事は何の役にも立たないって事、お前が一番嫌いな奴じゃん」
「お前が俺の耳元で小声で囁く時間も無駄だろうに」

耳に息を吹き込まれて擽ったいと言う人種も居るそうだが、他人事だった。基本的に擽ったいと言う感覚が良く判らない。どうせ下らない逃げ道を悪足掻きの様に模索していたのだろう男が、舌打ちを噛み殺す様な音が聞こえてくる。

「何故に反応なしよ、擽ったくないわけ?」
「全然」
「体まで鈍いとか、不感症極めてんねえ」
「この無駄話に俺は何処まで付き合ってやれば良いんです?そろそろ時給が発生しますよ」
「まだ3分くらいだろ。本音を言えば部屋に帰りたい。お腹減ったし。帰ろーよー、隼人君の部屋にパンだらけのラスクの詰め合わせがさあ、あるんだよねえ」
「3000円の?」
「3500円の方」
「…40枚入りのか。25枚で良いですよ」
「全部あげるから帰ろ」
「逃げるんですか虚声」

わざわざ振り返る必要などないだろう。
皮肉の様に呟けば、ブレザーの裾がヒラリと落ちてきた。むくれているのは見なくても判る。

「は。イラッとしたか」
「…狂犬だって何万回言わせんの」
「ユウさんがお前につけたのはハウンドブレスだ」
「だから、」
「逃げれば、誇り高き狼は忽ち負け犬の遠吠えのレッテルを貼られる。We are?」
「…King's pet dogs」
「英語の発音は四重奏でお前が一番酷いな」
「生粋の日本人で悪うござんしたねえ」

触れたままのドアノブを開けば始まる他人事、登場人物は溜息を零した右後ろの男と、その保護者だ。脇役として発言するのであれば一言、親の義務を放棄した人間が今更保護者面するのは笑い話ではないか、と。
けれどそれこそ他人事、部外者は黙れと言われればそれ以上は不毛なだけだ。

「覚えとけ青唐辛子野郎、今晩中に犯す」
「ああ、今のは狂犬っぽいぞ蜂蜜頭、プラス1点あげます。お前如きに押し倒される様な俺ではありませんがね」
「先の事はあ、判んないってゆーしい」

主役の準備が終わらないなら、脇役に出来るのは一つだけ。スタンバイの声を待つ、それだけ。

「確かに。今晩中に積もり積もった利子と元本を耳を揃えて返さないと、明日には自己破産ですよ」
「カナメちゃんの血は何色なんですか?」
「さぁ、青唐辛子野郎らしいので青じゃないですか?」
「ムカつくランキングぶっちぎり2位、錦織要」
「気が合いますね。俺のムカつくランキング2位は神崎隼人です」
「1位誰よ」
「祭楼月」
「あーね」

肩をとんとんと叩かれて、目を向ければブレザーが汚れていたらしい。
まだ腹を決められないのかと諦めて振り返れば、若干見上げなければならない男のシャツもボロボロだ。脇腹の辺りは焼け焦げて肌が露出しており、流石にこれは不味いと薬品棚に目をやれば畳まれたタオルがあった。
自分の酷い姿にも気づいていない男の職業を、わざわざ思い返すだけ無駄だろう。往々にしてモデルと言う着せられる事に慣れた人種は、甲斐甲斐しく傅いてやらねばならないのだ。

「おわ!…え、何?」
「破れてる。スマホをショートさせた時の奴でしょう?今回は仕方ないので、新しいシャツは左席の予算から出してあげます」
「凄い角度から優しさ出してきたけど、方向性が斜め。別に気にしなくてよいのに」
「俺が気にするんです。お前の育て方が悪いと思われたらどうするんですか」
「あは。育てられた覚えがないんですけどお」
「で、お前の1位は?」
「秘密」
「成程、自分自身ですか」
「…眼鏡のひとに育てられただけに、よい性格してんねえ?全然違うっつーの」
「殺されそうになる度に手当を施されて、死なない寸前で生かされると言う生活を教育と呼ぶなら、叶二葉以上の名教師は存在しないでしょう」
「金玉蹴ってやればよい」
「知らないんですか?洋蘭は痛みを感じないんですよ」

例えばそう、いつか死んでいたかも知れない時に颯爽と現れたヒーローは、妬むのも烏滸がましいほど五線譜から愛されていて。

「あー、化物じみた強さの意味が判った感じい。何かさあ、あんま覚えてないんだけど…夢に出てきた気がするんだよねえ。魔王が出てくる夢も悪夢って言うのかなあ、魔夢なんて言わないもんねえ…」
「顔上げろ、顎が汚れてる」
「ちょ、だからって手で拭く?」

助けてくれと叫ぶ間もなく、断罪の如く落ちてきた女神の鉄槌を浴び、真っ赤な染まった世界で誰よりも真っ赤だった登場人物は、死の淵から蘇ったらしい。救い上げた命の代わりに音を失って、されど嘆いたのは世界中の人々。本人は至って楽しげに、いつだって笑っている。

「折角見た目だけは良いんですから、背を正せ。あれだ、モデル立ち」
「こう?」
「不思議ですね。黙っていればモデルに見える」
「現役だっつーの」

怒れば良いのに。怒鳴れば良いのに。その腕から淘汰された楽器の数だけ、その手が奏でる筈だった音符の数だけ。何年も待ってきた。

「こうやって汚れた俺の手をお前のスラックスで拭けば、証拠隠滅は完璧です」
「先生、雑にも程があるのでは?」
「細かい事を気にする男は大成しないそうですよ。素直に有難うと言え」
「お礼を強請るのってカッコ悪いと思いますう」
「それだけ悪態吐ければ上等。行きますよ」
「はいはい」
「はいは1回」
「自分だってさっき2回言ったじゃん」
「俺は脇役だから良いんです」
「はあ?」

叫べ。
お前の所為だと責めろ。
何もなかったのだとばかりに微笑み掛けられて、その身が失った一切の責任を欠片も担わせない無慈悲な英雄は、優しげに笑うばかり。他人事の様に。主役は舞台の上に上げてくれなかった。

「逃げたら追われるんです。ずっと」
『カナちゃん、俺の事覚えてる?』

お前は無関係だと言われている様だった。
責められなければ謝る事さえ出来ない事を何故、慈悲深い神の子は気づこうともしない。
あの日、あの地獄の様な真紅の世界、零れ落ちた極彩色の音符は、不協和音さえ飲み込んで轟音の単音で支配した。

「目には見えない後悔と言う厄介なものが、四六時中、足元にある事に気づく」

時間はあの日凍りついて、命はあの日自分のものではなくなって、破滅の使者はやってきた。片目を眼帯で覆い、体中に絆創膏とガーゼを貼ったまま。

「簡単なんですよ。酷く罵られれば謝れるなんて大義名分は言い訳で、本当は罵られて、助けてくれなんて言ってないと、言い返しかっただけ」

悪魔は囁いた。

『爆発に巻き込まれた三人の子供の一人、奇跡的に軽傷だったお前に殺せと宣う男がいます。それと同時に、お前を守れと言う男も居ます。…悪魔の証明ですねぇ、究極の盾と矛』

天使の様な見た目で、蒼い蒼い眼差しを眇めて。
真っ赤な地獄は蒼の地獄に塗り替えられる。余りにも容易く。それでもそう、登場人物ではなかった。いつもそうだ。舞台には上がれなかった。

『簡単に殺してしまっては、面白くないでしょう?それに俺は今、絶対に殺せない相手をどう殺そうか考えている所なんです。フェルマーの最終定理を解いている時に足し算をしろと言われても、気が削がれるだけですからねぇ』

上がったのは断頭台、祭洋蘭と言う悪魔を持て余す大人達はその最大の刃を以て邪魔者を葬ろうと企んだが、よもやそれこそが究極の盾になるとは想像だにしなかっただろう。
人の嫌がる顔を何よりも好んでいた人格崩壊者によって生かされた、この世で最も殺したい男だが、ムカつく事はない。あれほど絶望に慣れた人間を他に知らないからだ。

「偽善の押し売りは迷惑だと、自分の安いプライドを守りたかったんです。きっと。認めたくはないけれど、本音はそこなんだと思います。つまり俺は負け犬、他人より優れているものなど何もない」

バスタオルをパレオの様に巻いてやって、意味もなくガーゼを貼っている脇腹をつついてみる。痛がらない所を見ると、軽い火傷と擦過傷と言うのは間違いない様だ。

「敗北に慣れる惨めさに、勝つ事に慣れたお前は耐えられないに決まってる。挫折は若い内にしないといけないんです。余りにも若い頃に経験してしまうと叶二葉の様なねじ曲がった人間になってしまいますが、時々ユウさんの様な成功例もある訳で」
「ねえ」

などと他人事の様に考えていると、伸びてきた手が右側の左目に掛かっていた前髪を掻き分けて、耳に流してきた。他人から触られる事に慣れたのは、カルマを知ってからだ。
耳朶に指が触れて、吊るした羽根付きリングが存在を知らせる様に揺れる。

「判り難いんだけど、それって慰めてたりする?」
「優しいでしょう。惚れ直しましたか」
「はあ?日本語可笑しいんじゃない?そもそも惚れてない」

頬を膨らませた神崎隼人の右手が離れていくのを見送れば、その手首に巻かれているブレスレットが汚れているのが見えた。無意識でその手を掴み、指でコシコシと汚れを拭ってやる。
俊から貰ったそれぞれの首輪代わりは、カルマの誰もから憧れを以て妬まれるものだ。

「そう言えば、前から気になってたんですが」
「へ?」
「何で右腕なんですか?」

気になってはいたが、口にする事はなかった台詞を抵抗なく口にした事に、錦織要は他人事の様に眉を跳ねた。同世代の会話の内容は大半が無駄話だと言う知識はあるが、カルマでも学園内でも、要が会話する相手は佑壱くらいのものだ。度々嫌味を言ってくる隼人と会話するのは大抵が学園外で、授業免除をフル行使していた隼人と学園内で顔を合わせるのは、テスト期間か式典程度だった。
過去を忘れた様に朗らかな高野健吾は躊躇なく話し掛けてきたが、要が苛立っている時や気が焦っている時は、図った様に近づいてこない。藤倉裕也に至っては、他人には悟らせない程度に最低限の会話と複数人が絡む会話はするのだから、健吾が近づいてこない時は当然の様に裕也も近づいてこなかった。

「これ?大した理由じゃないけど。右利きだから」
「は?一般的に、腕時計は利き手の逆につけるでしょ」
「右手を使う度に視界にチラつくじゃん。ボスに飼われてるーって実感する」
「成程、マゾですか」
「違う」

それが覆されたのは入学式典から、東雲村崎と共に歩いてくる見慣れない男の気配が、その全てが、あの人にそっくりだと目で見る前に耳が気づいたその瞬間から。穏やかな春の風が羽根を揺らして、まるで、広い空へと飛び立った渡り鳥の様な気持ちに塗り替えられた。

「で、神田だか神田川だか、最近こそ露出が減ってますが、流石に俺でも知っている人でした」
「事務所を移る度に何回か名前変えてるからねえ、あのクソババア」
「随分若く見えましたが」
「多分30歳くらい。頭悪そうな顔してんでしょ、見た目のまんま頭悪いから」
「ふーん。俺の母親は生きていれば40歳くらいです」
「そ」

呼吸をする様に空気を読んでいた健吾は、時々真顔で俊を見据えていた。まるで睨むかの様に。あの慈悲深い神の子は、いつから人間の様な顔をする様になったのだろう。
人の気配がすると眠れないと、大切な秘密を明かす様に呟いた裕也は、いつから人前でも眠れる様になったのか。犬は二度と飼わないと言った癖に、いつからか己を犬だと宣い始めた。
気が向いた時だけやって来る気紛れな野良猫の様な隼人は、狐顔だと言われる度に狐は犬科だと舌を出す様になった。あれほど自由気儘に神出鬼没だった男が、今では毎日視界に割り込んでくる。

「女優は台詞を覚えたり役の為に勉強したりするんでしょう?馬鹿には出来ないんじゃないですか。記憶力があるとか」
「記憶力、ねえ。どーだか」
「母親が女優なら、お前にも俳優の才能があるんですか?」
「…はっ?いきなり何?」

不思議だ。
春はまだ終わらない。あの時からそう、左席委員会と言う肩書きが増えて、桜が散っただけだ。それなのに世界は今は、先月とはまるで違う様に見える。脇役に徹してきた筈の人生が今、まるで自分が主役の様にさえ思える。
他人の為に助かろうとした事などなかった。折れたドライバーの芯を握り締めて、何度も何度も壁を叩きつけた右手は内出血を起こし、紫に変色している。運び込まれた時だろうか、湿布を貼られているので確かめた時から、やっと痛みが頭角を出した。隼人から鈍い鈍いと謗られるのも、これでは無理もない。

「思い返すに腹立たしい事に、二重人格に関しては他に追随を許さない洋蘭が言ってました。面倒な仕事の後にご馳走が待っていると思えば、あっと言う間に片づくそうです」
「意外に単純だねえ、あのクソ眼鏡。痛みには鈍い癖に」
「まぁ、叶二葉の言う事は99%信用出来ませんが」
「だったら何で今言った」
「ジョークで和ませてやろうと言う親心?」
「親」
「兄?」
「カナメの誕生日って2月16日だよねえ?俺10月27日生まれなんですけど?」
「だから何ですか?」
「もうよいです。お兄ちゃん、ドア開けて」

どうやら、主役の準備が整ったらしい。
気分は道楽息子の従者か執事か、あってない様なものだった保護者から本当の意味で解放される15歳男子の言葉に従って、要はドアノブに伸ばし掛けた手で、おざなりにノックを2回。
こんな事も忘れていたのだから、緊張しているのは隼人ではなく自分の方かも知れないと考えた。無駄話で猶予を引き伸ばした理由もきっと、そうなのだ。

「バイトの面接に来る奴らはこんな気分かも知れない」
「じゃ、今度からちょっとだけ優しく面接してあげたら?」
「俺に出来るんですか?自慢じゃないが俺の要領は良くない」

ああ。
素直に己の悪い所を認められる様になったのは、いつからだろう。悔しいと言う気持ちが今、何処かに消えてしまっている様に思えた。

「失礼します」
「へ?」
「…え?」

左席委員会が誇る守銭奴、少ない予算をやりくりしてくれる会計と言えば、一年Sクラス3番のこの男を置いて他には居まい。わざわざドアを開けたままエスコートしてやっているのに、3秒待っても入ろうとしない隼人の胸ぐらを掴む。

「先程は満足にご挨拶もせず、失礼しました。…ハヤト、内ポケットからパスケースを取って開いて下さい」
「は?どれ?あ、これ?」

隼人が取り出してくれた、学籍カードを入れているパスケースからしゅばっと名刺を取り出した要は、十センチは背が高い隼人の胸ぐらを掴んだまま、唖然としている一同の中で一番平凡な男へと歩み寄った。

「下院左席委員会会計、錦織要と申します。ハヤトとは…友達未満家族以上の関係です」
「それどんな関係」

カルマと刻印された名刺は、カフェの手伝いで駆り出される事が多々あるカルマメンバーに配られているものだ。シーザーにしてインテリア係(カウンターに座ってるだけで客が喜ぶ)には用意されていないが、中等部時代の選択教科でパソコンを選んだ要が作ったものでもある。
佑壱の背中にある不死鳥を手書きしたイラストが大不評で、メンバーからは『何このネズミ』と笑われたのも笑い話だ。デザインに煩い隼人がこの名刺には文句をつけなかった。恐らく絵心がないからだろう。隼人の字は象形文字時代から進歩がない。

「これはどうも!ぼ、ぼぼぼ僕は、か、神崎岳士と申します」
「タケちゃん市長、畠中じゃなかったっけ?」
「あ、それはね隼人君、」
「とりあえず座りませんか」

等身が同じ人間とは思えない隼人と、室内最年長だと思われる男を見比べて愛想笑いを貼り付けた要は、ムスッと不機嫌を顕に腕と足を組んでいる女へと目を向けた。

「初めまして、神田川さおりさん。他人の俺がこの場に居るのは目障りだと思っておられるでしょう」

破顔した隼人と、ぎょっと目を向いた神崎岳士を他所に、置物と化していた榊と斎藤が同時に顔を覆う。要のわざとらしい笑顔と出鱈目な名前の呼び方は、明らかに叶二葉の雰囲気を匂わせているからだ。

「…失礼ね。わざとかしら?」
「俺が不満なら、もっと良い演者をご用意出来ますが」
「は?」
「我が帝王院学園高等部自治会会長、西指宿麻飛先輩が隣の保健室にいらっしゃるんですよ。当然、ご存じでしょう?」

にこり。
微笑む要を前に、流石の隼人ですら笑みを忘れて天を見上げた。

「つえー…」

やはり錦織ファイナンスに逆らうのは、得策ではない様だ。

















カルマ小悪魔担当の錦織要が、保健室内のドアに某モデルを引きずり込んだのと時同じくして、保健室の廊下側の開け放たれている戸口に来訪者があった。

「すいません、元気が良過ぎる重傷者入りまーす」
「ついでに小言が多くて壊れそうな唇を縫いつけて貰えると助かります、百針くらい!」
「煩ぇ、騒ぐな馬鹿共」

大層騒がしい足音が止まったかと思えば、大層騒がしい声が合唱を奏でたのだ。
中央キャノン一階、大絶賛満員御礼の保健室に居た全ての視線が集まる中、二人がかりで担ぎ込まれた男は、何処ぞの舞踏会で踊っている姫様かバレリーナの如く編み込んだ髪の下、晒された額に青筋を発てている。

「うわ、全員怪我人?!」
「んだこれ、寝床どころか足の踏み場もねーぜ」

その傍ら、床に転がっている後輩を見やった平田洋二の疑問には構わず、ぬぅっと顔を覗かせた藤倉裕也は、髪より深い色合いのエメラルドの双眸を細めて溜息混じりに呟いた。

「面倒くせー、道理であっちの保健室に回された訳だぜ。副長の意味不明な髪型よかうぜー、どうにかしろカスの弟」
「藤倉君、太一が嫌いだって事は良ーく判ったから、その呼び方はやめてくれない?面倒臭いだろうけど、俺の名前を覚えて」
「今のどう言う意味だ裕也、ぶっ殺すぞコラァ」
「佑壱さん?」

賑やかしいカルマ4匹以下、レジスト副総長、寝息の大人しい高坂日向に鼾が男らしい高野健吾が同時に保健室へ踏み込むと、真っ先に声を上げたのは眼鏡を磨いていた男だ。ピントが合わないのか目を細めていたが、素早く眼鏡を掛けながら駆け寄っていくと、竹林と平田から雑に担がれている褐色の肌をまじまじ眺め、目を丸めている。

「何がどうしたらそんな酷い状態に陥るのか、懇切丁寧に日本語で説明して頂きましょうか!」
「何だテメーは、失せろ」
「何と!この小林をお忘れとは、たゆまなく傲慢さに磨きを掛けておられるご様子…!益々零人さん好みになられましたね、佑壱さん」

未だにフリーズしている東雲村崎以下一年Sクラスの愉快な狸寝入り達の目の前で、さめざめと目元を押さえている男は宣った。

「ユウさん、高坂って怪我してないんだよね?適当に捨てて良い?」
「ちょ、下手な事すると親衛隊から殺されるって松木!」
「えー。だったらオメーが何とかすれば?俺より成績悪いんだし」
「つーかコイツ邪魔、何で一人だけベッド使ってんのって感じ〜」
「たけりん、コイツ自治会長に似てるね〜」
「後輩の癖に何様〜」
「王呀の君様〜」
「左席委員会書記様のお通りだ、退きやがれ〜」
「あいた!何っ?!またえまが俺を殺しに来た?!」

数少ないベッドに一人で転がっていた西指宿麻飛を容赦なく蹴り落としたオレンジの作業着達は、呆れ顔の平田に押しつけた日向の寝場所などは、一切考慮していない。蹴り落とされてデコを激しく打ちつけた男と言えば、おまけの様にオレンジ二匹から腹を踏まれ、グフッと言うくぐもった声を放つ。

「お見掛けした所、興信所の調査では不仲と噂されていた高坂組の跡取りと殴り合いでもなさった様ですが、無様に負けた訳ではないですよね。この小林、悲しみの余り日本中のヤクザを消してしまうかも知れませんよ」
「誰が高坂如きに負けるだと?失礼な野郎だ、失せろクソ眼鏡」
「佑壱さん、この小林守矢をお忘れですか?」
「は、覚える必要がねぇからな。クソは名古屋でオカマのケツでも舐めてろ」
「社長そっくりなお顔で品性に欠ける物言いはいけません!ささ、こちらにお掛け下さい」

然しチャラ二匹が整えたベッドには全く躊躇わない藤倉裕也が腰を下ろし、背負っていた健吾を転がした。呆れ顔の三年生には構わず大きな欠伸を放つと、裕也は健吾の左腕を枕代わりに己も転がったのだ。

「ユーヤさん、そこユウさんが寝るとこ」
「ユーヤさん、ケンゴさんの腕が折れちゃう」
「グゴゴゴ…う、うぐ…(´ω`)」

眉間に皺を寄せた健吾は重いと呟いたが、再び景気良く鼾を奏で始めたので問題はないらしい。ついでにブッと存在感溢れるおならが響くと、鼻を押さえて悶え落ちたオレンジの作業着を横目に、起き上がろうとして健吾の屁が直撃した西指宿の死体が転がった。目を閉じたまま健吾の頭を叩いた裕也の眉間にも皺が寄っているが、慣れているのか起きる気配はない。

「臭過ぎる…!」
「誰かファブ持ってきて…!」
「佑壱さん、腕は上がりますか?」
「どうだかな。骨にヒビくらいは入ってる筈だが、それはどうでも良い」
「貴方の場合はそうでしょうがねぇ、普通は痛みで意識を飛ばしている筈なんですよ」

身長も厚みもある佑壱は、然し立ち上がれないだけで意識はしっかりしている事もあり、手当が必要な肩口が良く見える様に椅子へ下ろされた。

「何と言うザマですか」
「煩ぇ。黙って手当しろ」
「また何処ぞの女性に刺されたんですねぇ?ですからあれほど女遊びには気をつけろと、年賀状や暑中見舞いで何度も申し上げましたのに…。全く、胸ばかりお育ちになられて」

一目見ただけでただの怪我ではないと判ったのか、ぐちぐち口煩い秘書は薬品棚を漁っていた年寄りに二言三言告げると、手渡された消毒薬と脱脂綿を手に戻ってくる。その光景を眺めていた佑壱は、この場で唯一人間の匂いがしない女に気づいたが、麻痺していた猛烈な痛みがぶり返す気配に口を閉ざす。

「そこで死んでる馬鹿共、水くれ」
「コップとかあんの?」
「たけこ、コップがなかったら口移しがあるよ。でも俺以外とチューしたら20年くらい怒るからね」
「では私が佑壱さんに口移しを…」
「気安く触んな」

勝手に棚やら机やらを漁ってコップを探しているオレンジの作業着を横目に、ビーカーに水を汲んだ男が笑顔で宣った。オカンの表情は変わらないが、キスは挨拶の文化圏で育っていてもしっかり相手は選ぶらしい。がっとビーカーを奪い、ごくごくと飲み干した。

「あのジジイは何者だ?」
「気になりますか?隠居した元外科医ですよ。名前が知りたいなら女関係には気をつけると約束して下さい、零人さんはその辺りお上手に立ち回られてます」
「どうでも良い。シリウ…冬月のジジイは何処だ」
「何を隠そうこの小林は今まで7回ほど刺され6回ほど睡眠薬を飲まされ、5回ほど股間をすり潰されそうになりました」
「人の話を聞けやクソ眼鏡。これだから叶は…」
「小林です」

ぷちっと堪忍袋の緒が切れた赤毛は、目を吊り上げる。

「うっぜ、おい裕也!コイツを俺から遠ざけろ!」
「ユーヤさんならもう寝てます〜」
「鼾かいてます〜」
「使えねぇ奴ばっかだなコラァ!」
「遠慮しなくても宜しいのですよ佑壱さん。隅々までこの小林が、保険医に負けない手厚い処置をして差し上げますからねぇ。まずは屋敷をお出になられてからのこの十年、どれほどお育ちになられたか見せて下さい」
「…おい」

によによと佑壱の身ぐるみを剥がそうとした男の腕が、恐ろしい声を放った男によって捻り上げられた。ポカンと目を丸めた佑壱の視界に、佑壱ですら手を持て余す父親の秘書が容易く放り投げられる光景が映り込む。

「テメェ、誰のもんに気安く触ってやがる」

騒いでいたオレンジの作業着は勿論の事、カルマに比べれば劣るとは言え、一端のチームを率いている平田も目を見開いたのだ。

「咬み殺されてぇのか、…痛ぇ!」
「保健室で暴力を奮うな若造」
「んだとゴルァ!」

凄まじい表情で放り投げた男を見下している高坂日向の頭に光の速さで飛んできた杖が当たり、怒りのまま振り向いた日向は振り向いた姿で目を見開いた。

「この遠野夜刀の目が黒い内は、医者以外に人の命を左右する権利などないと思え」
「とおのやと…?」

ポツリと呟いた佑壱を見やった107歳は顎に手を当てて、細めるとヤクザ顔負けに人相が悪くなる目を眇めたまま、奇妙な笑みを浮かべたのだ。

「目元以外は笑えるほど陽炎にそっくりだな、要の礼儀の悪さは貴様に似たか小僧。お前がカステラだかカルメラだかの副操縦士だろう?」
「アンタ、は」
「遠野俊っつーイケメンの曽祖父様だ」
「は?」
「あぎゃ!(´ω`) えっ、総長のカルメラが8割引きってマジ?!」

飛び起きた裕也に脇腹を踏まれた健吾も飛び起き、カルマ全員の目が綺麗に丸まった。

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