帝王院高等学校
かごめかごめ、隣の貴方、だーれ?
「ねーねー、そっちは出来た?」
「アンテナ出来た、これで内線が使えるよ。そっちは捕まえた?」

芝生を駆けてくる子供の姿に、屋敷の屋根の上に立っていた同じ姿形をした子供は振り返った。即興で設えた大きなアンテナに通電されて、インジケーターが光を灯す。

「黒いの、全部居なくなったって。おじーちゃんの所にいた皆がね、探してくれたんだ」
「やった。パパもおじーちゃんもいないけど、僕達は頑張った。リヒト、褒めてくれるかな」
「判んない。だってリヒト、帰ってこないもん」
「ナイトが教えてくれるかな」
「駄目だよ。だってリヒトは光だもん」
「そっか。あの子が言ってた、リヒトはナイトの三分の一」

ひらりと、屋根の上から飛び降りた子供は芝生を土ごと幾らか散らしたが、平然とした表情で埋まった片足を引き抜き、同じ姿形をしているもう一人の子供へ握っていたペンチとスパナを投げた。受け取った子供はカパッと口を開けると、工具を丸のまま飲み込んでいる。

「あの子はバイオジェリーを放ったんだ。眠ったまま灰色で染まりきれば良かったのに」
「あの子はリヒトから何を奪ったの?」
「子守歌。嘘っぱちのララバイ。リヒトはだから間違えたんだ」
「騙されたのかな。だったら可哀想。可哀想なリヒト」
「あの子はミューズと三分の一」
「光と音と影。世界の真理」

表情が変わらない二人は、帝王院財閥当主が長く不在にしていた屋敷を見上げ、窓から顔を覗かせた家政婦の一人に揃って手を振った。機械人形相手にも笑顔で「お疲れ様」と呟く人につられて、執事や庭師までもがニョキニョキとあちらこちらから顔を出してくる。

「双子達、もう終わったのかい?」
「流石は仕事が早いねぇ、とても適わないよ」
「だって僕達アンドロイドだから」
「出来ないアンドロイドは破棄されちゃうよ」
「機械だって人間だって、良い時もあれば悪い時もあるさ。お腹は空いてないかい?」
「充電が足りなかったら執事さんに言えよ、いきなり倒れたら人間はびっくりするんだからな?」
「「ありがとー」」

無表情でぺこりと頭を下げた双子は、抉れた芝生を二人で整えると、やはり無表情ながら意気揚々と森の小道へ歩き出した。
学園北部のアンテナが故障した事で、学園独自に構築した特大共有回線が沈黙していた為に、外部から引いている大元の通信回線を、学園敷地の西の外れに位置する帝王院の屋敷から仮設アンテナで飛ばす事にしたのだ。

「「褒められた」」

ただでさえ長く不在にしていた帝王院駿河が戻ってきたと喜ぶ使用人達は、昨夜からてんやわんやで屋敷内の改装だの掃除だの宴の準備などに慌しかった。何処から漏れたのか、新入生に秀皇の子がいると言う噂で持ち切りで、使用人の大半が学園内のトラブルなど二の次と言う状況だ。

「じじゅー。ネズミ捕り終わったー」
「じじゅー。アンテナ動いたー」
「ジジューではありません、侍従長と呼びなさい」

然し新歓祭に併せて、普段は駐在している職員の半数が休暇を取っている学園内と言えば、西園寺を招いている立場だけでも一仕事だが、水害だの崩落だの、入ってくる噂はきな臭いにも程がある。
流石に屋敷づきの使用人の中からも、学園を手伝うと言う者が現れ始め、主人不在の屋敷は、侍従長の腕に委ねられた。

「じじゅー、出戻りの癖にやる気があるのって鬱陶しいよ」
「じじゅー、オートノが帰ってくるまで東雲で浮気してたの知ってるよ」
「そのデータには著しい間違いがあります。この有村、幕末の廃刀令によりお家断絶の憂き目の折り、帝王院俊秀様より賜ったご慈悲で一族離散を免れた事、平成に至るまで忘れた事などございません」

ビシッとテールコートを着こなした男は、見た所50代そこそこの様だが醸し出している貫禄は只者ではない。きょとんとしている双子の機械を前に、ビシッと腕時計へ目を落とすと、トントンと文字盤を叩いた。

「後先考えず浪費に走り没落した宰庄司などとは比べるまでもなく、冬月に与した神坂など語るまでもなく。始まりは神木家のご当主となられた先々代天神の義妹君に仕えた私の曽祖父は、恐れ多くも昭和に我が祖父が先代天神のご慈悲を受け、」
「じじゅー話が長いー」
「入力が間に合わないから録音だけで良い?」
「こほん。つまり、大殿がご入院中はご命令もあり東雲幸村様のお世話を仰せつかってはおりましたが、有村は明神の端くれとして駿河の宮様のご命令とあれば、仕えたまでの事。本日より屋敷に戻ったからには、理事の身勝手な真似は決して許しません」

ビシッと撫でつけた髪を両手で押しつけた男に対し、子供は首を傾げ過ぎて今にも倒れそうな所で踏ん張っている。庭木を整えながら眺めていた庭師は苦笑いを浮かべ、今にもピサの斜塔が二本立ちそうな芝生を憂い、高枝鋏を下ろした。

「有村の旦那。ご子息が東雲に残ったからって、そろそろ機嫌を直しなさいや」
「そうは言いますが、養子と言えどあれは有村の子です。甘えは許されません」
「こりゃ旦那の石頭にはお手上げだ。奥さんも苦労するねぇ」
「良いんですよ。あの子は村崎さんの為に、変わったんですもの」

穏やかな大人達の会話に飽きたのか、双子達はピサの斜塔のポーズから突如として走り始める。子供の行動は脈絡がない、と言うプログラムを忠実に守り、蝶を見掛ける度に足を止め、花が咲いているとその場に座り込んで無表情で眺めてみたり、走っているわりに目的地には着かない様だ。

「ねー、知ってる?おじーちゃんの所の皆が、ミューズを苛めたんだって」
「どうして?リヒトが悲しむよ、おじーちゃんの前でメルトダウンしよう」
「絡まった糸を解く為だったんだ。だって反転してるんだよ」
「そうだね。存在してはいけないナイトが存在してるから」
「王の責務を放棄したあの子が王子様になろうとしてるから」
「炎は命であり光、宇宙に芽生えた始まりの光。ナイトは言ったんだ、炎と同時に光が生まれたんだって」
「ベルハーツとエアフィールドは決して交わらない輪廻。光が見るのは影。影が見るのは光」
「反転してる世界。対になるのはあの子とベルハーツ」
「エアフィールドとネイキッド」
「黒と赤」
「だったら白は何処から生まれたの?」
「知らない」
「誰にも判らない」
「空白の対は空虚」
「空っぽ」
「空蝉の主こそ、空蝉」

そよそよと世界を撫でていた風が、止まった。
凪いだ空を、灰掛かった薄い雲がゆったりと広がろうとしている。

「ねー、赤いのがいるの」
「真っ赤って事」
「バイオジェリーなのに違うんだ」
「人が触っても怪我しないバイオジェリー。それは良い事?」
「でもね、赤いバイオジェリーは黒いバイオジェリーを消してくんだ。まるでエアフィールドがあの子を食い殺す様に」
「雲が空を覆えば、世界は灰色に染まるでしょう?」
「犬になったエアフィールドは空を飛ぶのかな」
「だったらリヒトはどっち?」
「帝王院になってしまう?」
「グレアムになってしまう?」

羽根を休めた蝶は動かない。
蛾とは違い、綺麗に折りたたまれた羽根は無風の世界ではただ、静かに。羽ばたいている時ほどの優雅さはなかった。

「シスターテレジアの非現実的な子供は0と1」
「キングの血は何処へも繋がらないまま」
「内線が動いたよ。パパのパソコンで、おじーちゃんが再計算したんだ」
「李上香とルーク=フェイン=ノア=グレアムのDNAは、」

ひらりと、



「「やっぱり、全くの他人だって。」」


落ちたのは最後の桜か、ひとひらの雨粒か。
























「あ、ちょーちょ」
「余所見してると転ぶわょ」
「一足早く春を感じるな。今日は天気が良くて、暖かかった」
 
大中小、段差を描く影がアスファルトを流れていく。
最も小さい影はキョロキョロと頭の部分だけが忙しなく動き、足並みが止まらない中型の影に寄り添う大きな影は、少しばかり歩く速度を弛めたが、歩幅をその分増やしたので足並み自体は変わらない。

「今日パパは一人で地下鉄に『乗ろうとした』ぞ」
「そんで間違ってJRの改札口に入っちゃった?さて此処で問題です。地下鉄とJRの違いを簡単に現すと?」
「地下鉄だと環状線で帰るのが簡単?」
「メトロは320円、JRの最長片道切符は単純計算で約200倍。地下鉄は安い」

ドーンと胸を張る大きな影の傍ら、やはり足並みが変わらない中サイズの影は、歩道の側石の上を平均台代わりに歩いている小さい頭を『ピンポーン』と軽快に叩いた。

「あらん?あーた、髪の毛かったいわねィ。まるでイガグリか馬糞ウニのよう。あっ、手のツボに丁度イイ感じで刺さるわょ」
「母、俺を頭から潰し殺す作戦なのか?」
「くっくっく、気づいてしまったか俊左衛門の助。命が惜しくば余を崇めるがイイ」
「上様ァ!虐待ではございませんか?」
「苦しゅうない、子は親の肩を揉むものざます。これ常識」

母の親の声と息子の声が、長閑な住宅地の黄昏に少しばかり響いた。
雑草を食んでいたカラスがばさばさと飛び立ち、電柱の上で羽を休める。ビシッと揃ってカラスへ敬礼をした母子は、似た様な眼差しを細めた。

「「カラス隊長、街のパトロールお疲れ様です」」
「上様、今回は同行していた営業部長が電話で離れてしまったのが悪いんだ。切符を買わなくても乗れると言うから、先にホームで待とうと…」

妻子のマイペースにして微笑ましいやり取りなど目に入らないのか、若きサラリーマンはボタンを外した背広を意味もなく弄びながら、やや唇を尖らせている。囁く様な声音で宣うのは、二十歳を超えているのに迷子癖が直らない事への照れ隠しだろうか。

「パパの助左衛門、地下鉄はまだちょっと早かったわねィ。お昼には帰ってくるって聞いてたのにちっとも帰ってこないから、どーせ迷子になったんだとは思ってたわょ?いつもの小林さんから連絡貰って、本当にGPSは便利ざます」
「…あの眼鏡め、シエに連絡を入れるのはやめろと言ってるのに」
「今回は四時間で帰って来れて良かったんじゃない?晴れてたから、早目に富士山が見えて良かったわねィ」
「面目ない」

仲睦まじい夫婦のやり取りを尻目に、側石の終わりまで駆け抜けた子供は小さな柔道着の帯を締め直すと、とんっと歩道へと降り立った。目の前の交差点が区の堺だ・などと標識を見上げながら何処か神聖な気持ちを抱え、遠野俊は背を正したまま一歩を踏み出したのだ。

「あ、にゃんこ」
「コラ、追っかけないの。怖がって逃げちゃうでしょ」
「でもにゃんこが…」
「何だ、俊はまた野良猫が触りたいのか」

気づいた時には既に、それは生活の一部だった。
わざわざ誰かに尋ねる必要もない程に、それは景色の一部だった。つまりは見えている景色の片隅には常に、それが存在していると言う事だ。

「野良ちゃんばっかじゃないわょ。この子ったら、何処でも此処でも猫が目に入ったらまっしぐらなんだから。ワンちゃんには無反応なんだけどねィ」
「パパは犬の方が好きだな」
「ママもワンちゃん派ざますん」

柔軟で機敏な猫は、街のあらゆる所で勇ましく環境に適応しながら暮らしている。人間からはつかず離れずの距離で、カラスや雀ともうまく共存している様だった。

「犬は呼ばなくてもいつもいる。にゃんこは呼んでも来ないから、不思議だ」
「はァ?相変わらず意味不明な事ばっか言って、」
「ほう。息子よ、お前はつれなくされると燃えるタイプか」

古びたアパートからかなり離れた隣町の道場へ通い始めて、何日目だったか。
一つの所に長居すると実年齢がバレてしまうと言う両親の言うがまま、恐らくその道を通うのもほんの数日の事だろうと考えながら、黄昏の街。腹を空かせているのか単に休んでいただけか、とあるマンションの駐車場に数匹の野良猫の姿があった。
駐車場脇のフェンスには看板が設置されていて、幾つかは広告だったが、その内の一つは『野良に餌をやらないで』と可愛らしい猫のイラストと共に大きく書かれている。その隣には『駐車場を散らかさないで』と手書きで書かれていた。

「此処の住民はこれが見えないのか?」
「この辺りの町内会は毎週掃除をしている筈だから、この分じゃ一人や二人じゃなさそうだな」
「餌をやるのも散らかすのも駄目だって書いてるのに、犯罪だ」
「そうとも限らないぞ、俊。憲法で定める所の犯罪ではないな、治外法権と言う奴だ。然し餌をやる事で野良猫が集まってきたり増えたりすると、追い払うのが色々お困難になる」

けれど注意深く敷地内を見遣れば、色んな車が停車していたり空いていたりする白線の先、車止めのブロック石の近くに、空の缶詰やプラスチック容器の様なものが点在していた。

「法律が通用しなければ犯罪じゃない?」
「そうなるな。だからと言って、管理者が処置の方法を間違えれば動物愛護法違反で犯罪になる場合がある」
「自分の土地なのに?」
「それが難しい所だ。法律上、持ち主が許可した相手以外が土地に侵入すれば不法侵入に当たるが、人が作った法律が裁くのは人だけ。猫には適応しないし、防犯カメラに映っていると言う前提条件の上で、ゴミを捨てた人間が『それは置いていただけ』と言い張れば、不法投棄を立証するのは個人では不可能だろう」
「この場合は明らかにゴミに見えるけどねィ、非を認めずに屁理屈捏ねる人間って何処でも居るのよね〜」

幼い息子の素直な疑問に答える父親と、歯に衣着せぬ母親の価値観による意見は差が激しい。社会の本音と建前を夫婦で絶妙に表現しているが、息子がそれに気づいているかは不明だ。
親子揃って街並みを歩くのは久し振りの事だが、話をしながらもキョロキョロと辺りを珍しげに窺っている子供の表情はマネキンの如く変化がない。

「ママが言う様に、対人関係はまずまず揉めると面倒臭い。持ち主と加害者の境は司法判断に任せるしかないと言う事だな」
「にゃんこを追い出したいのに、誰かが餌をやるから追い払えない。大人は困るのか?」
「駐車場に猫がいたら危ないだろう。猫だってドライバーだって、怪我だけじゃ済まないかも知れない」
「判った。そうならない様に、餌をあげるなと言う事か」
「実際は糞尿被害とか色々あるんだが、まぁそう言う事だ」

動物とは気紛れなものだ。
野良猫は決して近づいてこない孤高の存在かと思えば、何故か犬派を自称する母の元にはどんなに気性の激しい野良猫であろうと、何故かゴロゴロと喉を鳴らしながら近づいていく。

「飼えないけど自己満足には浸りたい、なァんて、ご都合主義で身勝手な偽善心を満たしてる人間の所為で、野生じゃ生きられなくなったら困るわねィ?」

この三人の中では明らかに、最も餌をくれない人間の足元で、俊には少しも近寄ってこなかった野良猫が数匹、ゴロリゴロリとアスファルトに体を撫でつける様に転がった。誰が見ても明らかに、猫から感じられるのはリラックスした雰囲気だ。

「また、母だけ。俺にも父にも寄ってこないのに」
「動物は自分に関心がない人間の事が判るんだ。それと、賢い動物は一目で群れのボスが判ると言われてる」

似ていると。
近所の大人達は、秀隆と俊が並んでいると常に口を揃えた。けれど秀隆に対する視線と、俊に対する視線は全く違う。にこやかな秀隆に対しては誰もが笑顔で、無表情な俊に対しては誰もが、多かれ少なかれ怯える様な気配を漂わせる。

「俺達の中では母が一番強いのか?」
 
例えば歯に衣着せない本能剥き出しの俊江は、俊がそう言った時に『目つきが悪いからじゃない?』などと、鼻で笑い飛ばした。ならば同じ眼差しを持つ俊江が、近所の誰もと仲が良いのは何故だろう。彼女に怯える他人を見た事がない。

「俊、お前はママに勝てると思うか?」
「護るべき対象に勝つ必要性を感じない」
「俺もそうだ。勝ち負け以前に、勝負にならないだろう」
「ん」
「だから、ママが一番強いんだ」
「そうか」

飽きたのか、マイペースな母親は一言もなくスタスタと歩き始めて、その後ろを暇なのか何匹かの猫がついていくのが見えた。

「此処の猫は人に慣れてる」
「俺には慣れてない」
「猫は特に子供が苦手だからな、もう少し大人になったら触らせてくれるかも知れないぞ?」
「もし触らせてくれなかったら、俺は父を許さないだろう。今の台詞を俺は記憶した。忘れない限りは覚えている筈だ、純粋な子供を騙したらバチが当たるぞ」
「根に持つのが早過ぎるぞ俊、何でお前は的確にパパの精神を抉るんだ」
「男は父の背中を超えた時に一人前になると言う」

ただでさえ凄まじい目付きをキリッと眇めた息子を前に、父親は冷めた笑みを浮かべる。

「…さては、公民館の待合室にあった漫画を読んだな?イキイキ空手体操なのに一人だけ極真空手を披露して悪目立ちしたかと思えば、特撮で覚えただの語り始めたそうだが…」
「土曜日の朝8時、仮面ダレダーがショッカーにダレダーキックを決めるのを見届け続けた俺は、蹴りとはショッカーを一掃する為にあるのだと知った。巨大な悪は、鍛え抜いた拳で屠るべきだ」
「パパが後ろ髪を引き抜かれる勢いで出社した後に、パパを差し置いてスーツアクターなんかに目を奪われていたとは…。パパだってまだまだ体のキレには自信が、」
「あ、ちょーちょ」
「違う、アレは冬尺蛾だ。もう少しお父さんに興味を持ってくれ、俊」

然し時折車道を車が走っていくと、チョコチョコと動きを止めて歩道の隅に避難している。文明社会と共存する野良達は、あらゆるものを適度に警戒し妥協しながら、合理的に生活している様に思えた。つまりは何の制約もなく、引き換えに歪められた自然の摂理に適応しなければ生きていけない、無慈悲な社会で暮らしていると言う事だ。

「ママ、今日は買い物には行かないのか?」
「3時のタイムセールは逃しちゃったから、次は5時のタイムセールを狙うわょ。5時のタイムセールはもやしが1袋5円で、お一人様3袋まで!お大根はお一人様一つ限りで40円ょ!」
「ああ、俺の部署で作ったチラシだから間違いない。春先取りセールは6区の店舗だと小麦粉1kgが80円で、手羽先がグラム25円だ。バレンタインフェアは全店舗で、」
「でももやしは8区だけでしょ?我が家の今夜のディナーは、塩焼きそばなのょ!」

駆け寄っていく父親の背を横目に、散っていく野良猫へ目線で別れを告げる。野生に生きる獣は等しく全て、目が合うと寄ってこない。目つきが悪いからと考えたが、母親譲りだ。彼女には猫が寄っていく。
まるで、この人は決して傷つけないと判っているかの様に。



「父の足元には犬がいる」

風一つない静かな冬の街並み。黄昏の空はキラキラと。宛のない呟きは、誰に届いたのか。
初めてテレビで見たそれの名を知った日に、玄関を指差し覚えたばかりの単語を口にした事がある。洗濯物を干していたベランダの母は怪訝げに部屋の中を覗き込むと、「うちじゃ飼えない」と宣ったのだ。

「お前は、俺だけに見えてるのか」

黒い毛並み、赤い首輪、穏やかなゴールドの眼差しの聡明そうな犬はいつも、健気に父の帰りを待っていた。根元で奇妙に曲がっている尾を時折揺らしては、ただ静かに。

「見えないものを人はお化けと言うらしい。だが俺にはお前が見える。だとすればお前は、お化けじゃない」

けれど、手を伸ばしても触れない事を知っている。
話し掛けてもその犬は、従順に平伏すばかり。まるで、感謝しているのか、許しを願っているかの様だ。

「…秀隆。お前は父と、同じ名前なのか」

猫の鳴き声が聞こえる。
春には幾らか早い2月の始め、名前をつけた赤子の初めての誕生日は数日前の事。生後間もなく首が座るとすぐにハイハイを始めたと言う子供は、然し未だに歩く気配がないそうだ。代わりに既にしっかり喋っていて、口癖は「はいはい」の様だ。

「見ろ。オレンジの光がビルの隙間に沈んでいく」

聡明な犬はそこにあるばかり。

「あれは黄昏と言うんだ。空がオレンジ色になって夜がやってくる。父が帰ってきて学校に行く準備をして、夜ご飯を食べる時間だ」

じっと、主人の傍らで。
まるで執事の如く騎士の如く、肉体を失って尚もそれは、魂のまま。

「お前は、何がそんなに悲しいんだ?」

悲しいと。
告げるその眼差しの感情をまだ、理解出来ない子供。

「…俺には判らない事ばかりだ。感情は全て、命あるものに分け与えた。俺にあるのは常に、時間ばかり。それ以外は何もない。無限と引き換えに得たのはこの体だけ。魂に業は宿る。けれど俺には魂がない。ならば業を紡ぎ上げれば、」

赤い首輪はまるで、呪いの様だった。



「空っぽな俺にも、魂は宿るだろうか?」
























「西川教頭、学園長と理事長は見つかりましたか?」

汗を拭いながら駆け寄ってきた教師を前に、廊下を走るなとは誰も言わない。流石にこの状況では、猫の手も借りたいくらいだ。

「全然見つからん。校内放送を掛けようにも、アンダーガーデンが浸水してスピーカーの半分が機能してないみたいでなぁ」
「校長は胃薬を過剰摂取して喉に詰まって職員棟で療養なさってます」
「ご苦労が祟ったか。可哀想に、校長先生にはこのまま休んでいて貰おう。ただでさえ朝早く、とんでもない方から電話が入ったと聞いている」
「あー、YMDの…」

とは言え、基本的に地上敷地内の土地勘が差程育っていない箱入りの初等部や、セキュリティ上行動範囲が規制される中等部の生徒を駆り出すには、些か心許ないのが本音だろう。初等部は新歓祭前日から連休扱いであり、大半が一時帰省している為に残っている生徒の方が少ない。
無論、初等部専属の教師陣も休暇期間中で、現在帝王院学園の教職員は新歓祭要員としての、休日出勤メンバーだけだった。

「内部反乱で早期引退されたとは言え、宍戸本家の跡取り息子だ。お姉さんが継がれて今に至るが、婿入り先があの山田大志の孫娘でなかったら…」
「榛原様のご当主でらっしゃいますからねぇ、榛原優大様は…」
「ひたすら良い方と言う事が救いだよ。去年からは初等部の理事に就任なさった事もあるが、榛原様の奥様は山田大志会長の名実共に一人孫だ。彼女も、まさか母親の従兄弟が夫を裏切るとは思わなかったろう」

休む間もなく働いている工業科の作業音が微かに聞こえるが、来客には『年中行事の校舎リフォーム』と言う名目で、人目に晒さない様に作業されていた。力仕事に中年教師はお呼びじゃないと、雰囲気で早々に悟ったデスクワーク派達は、窓辺から長閑な学園風景を眺めたまま、雑談に花を咲かせている。

「絹恵様が亡くなって間もなくの事でしたから、羽柴派が勢いづいたのも無理はないですよ。何せ当時の羽柴副社長は、引退後も幅を利かせていた羽柴相談役の息子でしょ?」
「同じ兄弟でも、大志会長は一代で富を築いたが、弟の和志さんは何をやっても上手くいかなくてな。羽柴電工の娘婿に入ったが倒産の危機に瀕し、お兄さんに泣きついたと言う経緯がある」
「教頭先生、詳しいんですね」
「羽柴はなぁ。現在の社長は野望こそあるが、人間はそう悪い方ではないんだ。…と言うのも、私の兄の同期でね…」
「えっ、そうなんですか?!じゃあ羽柴社長は…」
「中等部まで一緒だったんだが、彼はとうとう3年間でSクラスに入れないまま、高等部には進学せず外部受験で余所の高校に進んだんだよ」
「はー…」
「美空さんとの結婚を希望していた様だが、親族間結婚を絹恵まれさんや当時の取締役達が認めなくてね。結果的に美空さんより先に結婚したんだが、今の奥さんは三人目だったか」
「それは有名ですよね。確か子供は全員、親が違うんでしたっけ?」

何せ敷地が広すぎて、ちょっとした伝令だけでも一仕事だ。
創設者である帝王院鳳凰が、その名の通り鳳凰が翼を開いた様に広大にして雄々しい学園を創ると宣言し、金はあるが一般常識がない帝王院財閥幹部らは、創立62年目にして先5年間はリフォームスケジュールを詰め込んでいる。今後どれほど広がっていくのか、誰もが考えたくもない所だろう。

「大志会長はそれはそれは厳しい方だったが、彼の有名な大志会長も弟家族が路頭に迷う事は避けたかったのだろうな。ぽんっと専務の役を与えたんだから」
「でも、そこまででしょう?旦那様を亡くした絹恵お嬢様がお戻りになると、娘なのに叩き上げで営業、経理、人事を経験させて、十年もしない内に副社長に任命なさったんですし」
「あれは株主総会での満場一致だったそうだよ。何にせよ、大志会長の血を継いだ絹恵さんは聡明な方だったと有名な話だ。美空お嬢様もご聡明でらした様だが、それこそ優大さんも東京大学を卒業しているから、馬鹿じゃない」
「何せ、羽柴社長とは比べものにならないくらい、男前ですもんねぇ」
「コラコラ、滅多な事を言うんじゃない」
「へへ、すいません。あ、それより聞きましたか?学園長のお屋敷からボランティアで来て下さったシェフの皆さんが、カフェやレストランの手伝いをして下さってるそうです」
「助かるなぁ」

校長が瀕死と言う以外は概ね、まったりしている。

「…それにしても、筋肉ってカッコイイですよね教頭先生…」
「体育教師はモテるんだろうなぁ」
「意外とそうでもないそうですよ…」
「だが国語はモテん」
「世界史もモテません…」
「学園長は日本史なのにモテモテだったぞ?校長も日本史だがモテてはないな…多分」
「つまり筋肉と顔じゃないですか?」
「我が校はイケメンが多いと妻と娘がはしゃいで…あ、あそこで作業着の生徒を前に悶えてる黄色のワンピは娘だ」
「残念です教頭、娘さんはお父さん似ですか…」
「どう言う意味だね?」

輝いているマッチョ達の機敏な工事現場を前に、男としての疎外感を感じなければ、の、話だ。

←いやん(*)(#)ばかん→
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