帝王院高等学校
だからこの世は弱肉強食の世界なんです!
「汚れていると言うから、仏が賜った褒美だと考えました」

珍しく声を弾ませた男の声音に、それを聞いていた男はそれほど長くはない足をしゅばっと組み替え、歳を重ねても尚も衰えない美貌を僅かに曇らせた。
産まれた時から知っている弟の様な存在が、今は全く知らない第三者の様に見える。その理由は、単に見窄らしい髪型だからと言うだけではなかったに違いない。

「自分こそ他に類を見ないほど穢れた人間、否、狗です。なればこれ以上なくお似合いの夫婦になるに違いないと考えました」
「少し話を巻き戻そう。良いか」
「御意のままに、否などございません」

ああ、素直だ。記憶の彼と全く同じ、絶対に逆らわない姿勢である。
が、ボッサボサの芸術的な髪型を暫し眺めてみても、彼から放たれる薔薇色の空気は消えそうもない。この胸焼けする様な雰囲気には心当たりがあった。
例えばそう、己が初恋を覚えたばかりの頃に、恐らく目の前の男はそっくりだろう。痛いほど判る。恋愛は人生で最も楽しく充実している、唯一無二の娯楽だ。生き甲斐だ。恋を知らない男には生きる価値がないとすら、今では思っている。

「…暫く姿を見ないと思えば、私にも内緒でアメリカへ渡り私にも内緒で子供を作った挙句、私にも内緒で結婚したとはな」
「お恥ずかしながら、何度求婚しても自分の言葉に頷いてくれない女を手に入れるには、子供を作れば良いのだと思い至ったのです」
「それは犯罪だぞ」
「まさか。自分と宮様では立場が違います」
「我が帝王院だけの道理ではなく、一般論だ」

帝王院鳳凰の台詞に、もっさもさな黒髪でその美貌が全く見えていない雲隠陽炎…否、嵯峨崎陽炎はきょとんと首を傾げる。馬鹿だ馬鹿だとは思っていたが、幼い頃から勉強の代わりに体術ばかり学んできたからだと、鳳凰は今の今まで陽炎の評価に水心を注いでいた事を悔やんだ。
今でこそ一般論を語っている鳳凰もまた、己が世間知らずである事を思い知ったのは結婚後の事だが、一人息子の駿河の為に学校を作ってからは交流の幅が広がり、いわゆる庶民感覚と言うものも理解出来る様になっている。近頃では、あの遠野夜刀から『やっと人間になったか』と鼻で笑われる始末だ。そんな夜刀もまた世間知らずの部類に入りそうだが、鳳凰は心の中にのみ留める事にした。夜刀には若気の至りをあれこれ知られている為、舞子に余計な告げ口をされたくないからだ。

「陽炎」
「はい」
「可憐は誠に哀れだが、心無い者共の所業により子を作れない体にされたと聞いている。左様、相違ないか」
「仰せの通りにございます」

例えば、乳が欲しいと鳴く子犬に自らの乳首を差し出した事や、顔を真っ赤にして付き合って下さいと言った女生徒に対し、『娘が男と並んで歩くのは誤解を産む』と真顔で答え、その場でわんわん泣かれた事とか、あれこれである。
超がつくほど箱入り息子だった鳳凰が実家を出たのは、成人を迎えてからだ。長い戦争が終わり、久し振りに目にした父親に向かって堂々と『父上、俺は反抗します』と宣った。表情が然程変わらない冷静な俊秀は一言、『判った』と言っただけだ。

「可憐を辱めた男共は十口の管轄下にて投獄されておりましたが、自分が一人残らず口を塞ぎました」
「…報告は届いている。何と言う向こう見ずな真似をするのかと、肝を冷やしたぞ。行動する前に相談しろと、これまで幾度となく私はお前に言い聞かせてきただろう?」
「この程度の瑣末事、大殿のお耳に入れる程のものではございません故に」
「陽炎」
「は」
「俺はお前を家族だと思っている」
「有り難き幸せに存じます、宮様」
「…平伏すのはやめんか」

陽炎とは違い、女学院に通っていた糸遊と久し振りに会話をした鳳凰は、学校と言うものに憧れを抱く様になった。世話係に集めさせた教材で同世代と同じ程度の知識を手に入れ、二十歳を超えて受験する事にしたのだ。
駄目で元々だったが奇跡的に合格し、緊張しまくりながら入学式へ足を運べば、誰も話し掛けてこない。やっと話し掛けてくれた心優しい勇者こそが、遠野夜刀その人である。

「事情を話し、夜の王の手を借りて奴らの死因を流行病で片付けておいた。徳川時代に老中を務めた家の息子が加わっておったが、この鳳凰に直接物申してくる事はないだろう。だが、幾ら何でも…上顎と下顎を力任せに裂く奴があるか…」
「人の体は脆い。手足をもいだ程度では息絶えるに足りませんので、うら若き少女の体を穢した奴らの下卑た面を砕いたまでの事」

鳳凰より年下だが全く敬わない夜刀は、事ある毎に鳳凰の視界に入ってきた。そんな事を宣えばあの男の事だ、『そっちが俺の視界に入って来たんだろうがボケェ!』と、血管が切れるほど怒鳴り散らしただろう。
但し女性に対しては何とも優しい男なので、舞子を紹介した時の反応や凄かった。クネクネっと悶え、何故か膝から崩れ落ちると、泣きながら地面を殴っていた事を覚えている。

「尋ねるまでもないだろうが、子供は無論、可憐の子だな?」
「自分に抜かりはありません。全てはあまねく天網を紡ぐ天神たる宮様の名の元、一切妥協してはならないが空蝉の掟」
「…どうやった?その様な真似、あの夜の王とて出来はしない」
「夜の王ではなく、地下の王の手を借りました」
「地下の王?」
「近頃、海の向こうの学者らが発見したと言う、でーえぬえーです」
「でーえぬえー?」
「しんふぉにあがくろーんで、嶺一と名付けました」

キリッとした表情だ。
キリッとしてはいるが、アメリカへ渡った事のある鳳凰ですらちょっと理解出来ない発音ではある。

「陽炎」
「は」
「お前は英語が判ると言ったな」
「はい、理解しています」
「What your name?」
「お戯れを」

本当に判っているのかと鳳凰は疑ったが、雲隠は本能で生きている人間ばかりなので言うだけ無駄だろう。

「む。全く判らんが、お前に説明を求めるだけ無駄か」
「申し訳ありません。嶺一の誕生についての一切を他人に話してはならないと言われておりましたが、自分が宮様に嘘をつく事など有り得ませんので」
「話したら駄目って言われたら話したら駄目じゃないか陽炎、俺はどうしたら良いんだ」
「今のレビは機嫌が良いので問題ないでしょう」
「れび?」
「以前会った時は隙のない男でしたが、戦後間もなく来日した際に伴侶を連れ帰り、現在は鼻の下を伸ばした助平です。宮様にお聞かせ出来る様な話ではありませんので、奴についての話は此処まででお許しを」

阿呆は阿呆なりに変な所で頑固なので、話したくないと言うのであればつつくのはやめておく。似合わないにも程がある黒髪が蛇かミミズの如く踊っていて、鳳凰は再び大して長くはない足を組み替えた。

「お前達が幸せなら、俺が言える言葉は『末永く睦まじく』だけだ」
「は。有り難き幸せ、お言葉を肝に銘じましてございます」
「だが陽炎、婿入りはともかく、その頭は何だ。たまには鬘に櫛を入れなさい」
「いえ、これは妻が暴れた為にこの様な形に」
「可憐が暴れた?あれは確かに気の強い娘だが、何をしたんだ?」
「待てど閨に自分を招きませんので、少々荒い真似を」
「ふァ?」
「無抵抗で死んだ虫けら共はあれの体を知っているのに、俺が知らぬ道理がありましょうか?」

ボサボサの頭で首を傾げた男の、真紅の瞳が前髪の隙間から少しだけ覗く。
つまり、いつまで経ってもエロい事が出来なくて我慢出来ずに押し倒したら、凄く抵抗されて超燃えた。と、何の恥じらいもなく宣っているらしい。

「妻は幼い時分に、この俺を美しいと言いました。あの無垢な娘の心を穢した虫けらが虫けらの様に死んで尚、手前の妨げになる事を俺は承知していません」
「それで?」
「生かす価値のない虫けらを折角殺したのに妻の記憶の中に生き続ける、これ以上の冒涜はありましょうか?」

抵抗されればされるほど本気になる、それが雲隠一族だ。抵抗されなければ面白くないが、されたらされたで頭に来る、それは榛原一族だった。

「…晴空なら、もう少し苦しめて殺しそうなものだな」
「灰原の兄者は大変ご聡明でいらっしゃいます。愚かな手前などには想像も出来ない妙技をお持ちでございましょう」
「その台詞は晴空に言ってやれ。あれは性格の悪さでは龍流に負けんと豪語している、喜ぼう」

当たり前だと思って生きてきたが、皇四家のどれもがまともではない事を、今の鳳凰は理解している。とは言え、最もまともでないのは明らかに、帝王院そのものだ。ならばこれ以上の詮索は、自滅でしかない。

「…今の話は聞かなかった事にする」
「は。出過ぎた真似を致しました、お許しを」
「可憐は舞子の妹の様な娘だ。泣かせる様な事があれば、俺はお前を許さんぞ」
「承知致しました宮様、腹を切ります」
「切らんで良い切らんで良い。可憐に出て行けと言われるまで、お前は嵯峨崎の男だ。判っておるな?」
「委細承知仕ります」

育て方を間違えたかしらと、鳳凰は顎を撫でながら溜息一つ。

「旦那様、おやつの時間ですよ」
「ま〜いこぉおおお!!!鳳凰ちゃんは舞子が食べたい気分だぞ☆」
「奥方様、お邪魔しております。手前はすぐに消えます故」

そんな自分も褒められた育ちではないのでさらっと忘れ、おやつを運んできた妻のほっぺをつまんだのだ。


























画面の前の皆様こんにちは、帝王院学園東京本校高等部3年Eクラスのイケてる作業着キャラ、平田洋二だよ!あだ名はヨッチ、ヨーズィ、全く呼ばれてるシーンが出ないけどメタ設定って奴だね!

カルマ、ABSOLUTELY、エルドラドに続くレジストと言うチームの副総長がこの俺だ!喧嘩はそれほどだけど、持ち前の器用さで負けなしだぜ!

双子と言っても年子で本当は違うんだけど、同学年に下半身ゆるゆる兄貴がいる中々苦労性な僕は、突然レジスト初代総長に笑顔で脅されたり、ハレンチなお姉さんに貞操を奪われそうになったり、逃げ出してほぼ崖の様な山道を滑り落ちたり、楽しい新歓祭最終日なのに全く楽しくない有様だよ!

つーかこのBL小説は事件しか起こらなくね?
ラブとかスクールライフとか、もっとあれこれ語ろうよ?!何で折角の楽しいイベントが闇に染まってんのかな?!あれなの?作者が病んでんの?だったら病院行けよって話だよね!


さりとて、くわばらくわばら。
てんやわんやのトラブルから命からがら逃げ出した俺は、校舎の裏手にある部活棟近辺に出るなり大事件に見舞われてしまったんだ!何が大事件ってね、もう僕、どう説明すれば良いのか判らないから少しだけ時間をくれますか…?


全く本当に困った学園だぜ、俺は現実が受け入れられないよ?



「な、なっ、何やってんだお前らー!!!」

脳内でDJになってしまった平田洋二の絶叫が、崩壊し掛けた部活棟の前で響き渡る。
彼の視界にはこんな爽やかな朝には似合わないボロボロの建物と、花が落ちた木々と、真っ赤に染まる男と、真っ赤な男の姿がある。

「…あ?何だテメー、やんのかコラァ」
「ヤる?!ヤるってナニ、何をやってんのか聞いてんのはこっちだ馬鹿!」
「馬鹿だと?テメー、その面見覚えがあんぞ。レジストの雑魚タコじゃねぇか。俺が誰だか判ってんだろうなぁ、ファッキンドタコ」
「ファッキンドタコ?!」

血だ。明らかにあれは、血ではないか。
確かに平田でなくとも学園の誰もが知る紅蓮の君と言えば、目が眩むほど全体的に真っ赤な男だ。噂では背中に真っ赤なタトゥーが入っており、不死鳥だかケルベロスだか、それはもうご立派だそうだ。熱心なカルマファンと言う訳ではない平田は、残念ながら見た事がない。

「つーか、大丈夫かよ?!何でそんな事になってんの?!」
「あー。大丈夫な訳ねぇだろうが、俺じゃなかったらな」
「何で冷静なんだよアンタ、俺より年下なのに!」
「此処にもう一匹、馬鹿が伸びてる所為じゃね?」

だからと言って、嵯峨崎佑壱を絞って出る汁が苺シロップな筈がない。幾ら凶暴だろうと、例え洋二より強い兄の太一であろうと勝てない相手だろうと、人間である限り中身は血液しか流れていない。筈だ。

「そうだ、それ誰だよ?!何で抱きついてんの?!」
「3年Sクラス高坂日向とか言う淫乱猫」
「こ、こここ、高坂日向ぁあああ!!!お前は中央委員会副会長の癖に後輩相手に何してんだ!何してんだ!これは一体全体何の闇イベントなんだぁあああ!!!」
「煩ぇ、喚くなハゲ。こっちは出血多量で色々ギリギリなんだボケ、気遣いやがれ」
「ですよね?!でしょうね?!何でこんな事になっちゃってんの、何でこのイカレ金髪王子は血だらけの紅蓮の君に抱きついちゃってんの?!ラブ?!闇に落ちたラブイベントなの?!」
「あ?」

可哀想なくらい狼狽えながら走り寄ってくる汚れた作業着を前に、溢れ出る肩口の傷跡を押さえながら眉を跳ねた佑壱は、覆い被さる様に抱きついてくる高坂日向の背をぽんぽんと叩いた。この重みは確実に、意識があるものではない。騒がしい平田の怒声で、日向の寝息は流石に聞こえない。

「何でって、撃たれ…ごほっ、ちょっと喧嘩でヤられてやべぇ所を高坂が手当してくれたっつーか、結果的に自分で処置したっつーか」
「どーゆー事?!つまり光王子にヤられたんじゃないって事でオッケー?!」
「あ?俺が高坂如きにヤられるタマに見えんのかテメー」
「見えないけどアンタらめちゃくちゃ仲悪いから心配してんだろうが…!」

混乱の余り半泣きの平田は、日向を引き剥がそうと屈み込んで来たが、日向が顔を乗せている肩ではなく佑壱が押さえている方の肩が恐ろしい状態になっていた為、顔から血の気が引いている。誰がどう見ても喧嘩で受けた傷にしては酷いが、カルマ副総長の表情はいつもと殆ど変わらない。

「…」
「お、おい、紅蓮の君…?」

寧ろはたりと黙り込んだかと思えば、何故か若干機嫌が悪くなった様にも思えた。

「別に、悪くねぇ」
「は?」
「だから悪くねぇっつってんだろうが、日本人なら日本語ぐらい即座に把握しろ」

佑壱と日向の中が決して宜しくない事は、学園内で知らぬ者がない事実だ。

「だってお宅ら、顔を合わせりゃ殴り合いしてただろ?!」
「知らん」
「知らん?!あの毎日の様な大騒ぎを?!」
「つーか静かにしろ、コイツ多分寝てねぇから落ちてんだよ」
「落ち?!…って、マジ?寝てんの?光王子が?あの光王子が?!」
「こっちは起き上がるのも無理だっつーのに、こりゃ完全に寝てやがる。テメー、何とかして俺と高坂を連れてけ」
「連れてけって言われても、二人は無理だって!つーかその傷見せてみろよ、どう見てもそれやべぇだろ!」
「ほっときゃ治る」
「治るかよ!まずアンタから保健室に、…あ!」

縋る様に周囲を見回した平田は、視界の端に目立つ作業着を見つけて素早く振り返る。

「丁度良い所に、松木!竹林さん!ちょっとちょっと、こっち…に………」

クラスメートを見つけた平田は笑顔で手を挙げたが、とんでもないものが見えたのでそのままフリーズしたのだ。聞き覚えのある名に、佑壱の表情が幾らか和らいだ。

「…んだよ、あっちに竜と倭が居るのか?」
「…」
「おい、どうなんだよテメー。起き上がれる様になったらぶっ殺すぞコラァ」
「し」
「あ?」
「神帝が…」
「あ?ルークだと?!」
「は、裸の男の……」

歯切れの悪い平田の台詞になけなしの眉を寄せた佑壱は、意識のない日向に羽交い締めにされたまま、

「まともに喋れ、かち殺すぞコラァ」
「ケツ揉んでチューして、加賀城が泣いてる…」
「…は?」
「あ、裸の奴が逃げた」
「はぁあああああああ?!」

重傷とは思えない絶叫を上げた。




















叶二葉は我慢と言う言葉の存在価値を認めていない。
加えて元来非常に気が短く、損得勘定の脳内暗算速度は脊髄反射と言っても過言ではない速さだ。彼の脳内をもし可視化する事が出来たなら、秒刻みで乱高下する株価に負けないバイオグラフを描いただろう。

叶二葉はお肉が大好きだ。
この言葉が彼の全てを物語る。我慢に美徳を唱える日本人を心底見下している彼は、物心ついた頃には既に、自分に恋愛感情を抱く人間が判る特技があった。大なり小なり欲を秘めた目で見つめてくるその誰もに、幼い頃から抱いていた感情は一つだけだ。

『先生、お庭にかいらしいお花が咲いたんどす』
『っ』
『摘んだらあかんて、お茶の生徒さんら言わはりました。でもあては、どうしてもこうやって…ほら、簪みたいでしょう?』

我慢は美徳だとばかりに、手の届かない宝石を眺めるかの様に。
兄である文仁の友人にしては地味な面立ちの男は、青春を謳歌している大学生の割りには洒落っ気もなく、真面目に勉強だけを教えては無駄話もせずに。時間が終わり帰宅するまでただただ、何とも言えない表情で視線を注いできた。

慣れた視線だ。
母屋からは離れている宵の宮の庭の前をわざとらしく通りすがる、その誰もがそんな目を向けてきた。時折やって来ては、皮肉をオブラートに包んで年端のいかない子供に吐いていく毒女達ですら、嫉妬を帯びた目を向けてくるのだ。男達は例外なく一様に、『桔梗にそっくりだ』と繰り返す。


長兄である冬臣に逆らう者はなかった。
顔色一つ変えず笑顔のまま、深夜屋敷に入ってきた強盗数人を家宝の刀で死なない程度に痛めつけたと言う、18歳年上の兄は頬についた血を素手で拭いながら、騒ぎで目を覚ました末の弟を見遣り、庭の向こう側から『静かになったから寝なさい』と宣った。
流石の文仁ですら苦虫を噛み潰した様な表情で『やり過ぎだ』と呟いたが、2歳になる前の子供が見る光景としては、余りにも物々しい。

満月に等しい、臥待月の夜だった。寝待月とも呼ぶらしい。



地味で凡庸な男が、とうとう一線を越えようとした日。



「叶さん」
「ふふふ」
「飴玉をおはじきみたいに遊んだら、いけません」

許しを乞う様に何度も何度も、跪いた男は繰り返した。

「舐めたらなくなってしまうんどす。勿体のうて、大切に取っておいたんどすえ」
「叶さん」
「体に触ると何で溶けてしまうのやろ。不思議やわぁ」

哀れな男。
とても。そう、とても哀れな男だった。
彼は彼を奴隷同然の取り巻きの一人としてしか見ていない男の為に、苦学生の身の上で幾らかの手間賃と引き換えに、片親の母親を楽させてあげたいと言うささやかな夢を粉々に壊す、破滅の道へ進んでしまったのだ。

「退屈なんどす。同じいろは歌を書くのは」
「…次は新しい教科書を用意しておくよ。こんなに早く終わってしまうなんて、本当に賢いね」
「ふふ、ほんまに?」

似ていると、初対面でわざわざ呟いた男の言葉の意味に、その言葉を聞いた相手が果たして気づいていなかったら彼はもしかすると、そのささやかな夢と淡過ぎる恋心を今も尚、慎ましく抱いていたのだろうか?

「蚊帳の中に入らないと刺されてしまうよ、叶さん」
「せんせ。あての名前は、二葉言うんどすえ?」

彼はまだ、二十歳に満たない少年と青年の境だった。
けれど2歳そこそこの子供にとっては、大人との細やかな違いなど理解出来る筈もなかった。

「それは勿体なくて、…とても呼べない」
「勿体ない?」

ひたすらただただ、哀れな男。
生後間もなく人殺しの二つ名を賜った、少しばかりひねくれ過ぎた分別のない幼子の誘いに彼は、そう、彼は。

「君の名前は、彼女がつけたものだよ」

そっくりだと。
彼は何度言ったのか。例えば彼が恐らく本気で愛していたのだろう女が死んで、2年の歳月が経った頃だった。宵の宮の向かいには無人の離れがある。明の宮、8月8日の朝日が昇る頃に産まれた娘が、ほんの十歳まで暮らしていた屋敷だ。
けれど生前の彼女は何故か、宵の宮から最も遠い陽の宮で過ごしていたと言われている。

「せんせはいつも、明の宮を見ていはりますねぇ」

家庭教師として招かれた男は文仁の友人にしては平凡な男で、叶の屋敷の中にあっては異質なものに見えるほど、服装も地味だった。この狭い世界しか知らない子供にとっては、遊び飽きた人形達とは似ても似つかない、『新しい大きな人形』でしかない。ただそれはきっと、当の本人ですら知らなかった事だ。

不幸の連鎖。
愛した女を失い、彼女に良く似た殆ど交流のなかった幼馴染みを同じ大学に通っていると言うだけで友人と呼び、その命令からは逆らえない蝉の末端。出来損ないの坩堝である十口の中でも最も普通な男は、とうとう会わない様にしていた子供の元へ辿り着いてしまった。

「…叶さん」
「ふふ」
「君は本当に、そっくりだね」
「そうっと触って、首を絞めてもええんどすえ?」

可哀想な男。
戻らない誰かを思い続ける勇気もない、抜け殻の様な男。
身代わりの如く叶文仁に従う様は、まるで人形の様だった。例えば『お人形さん』よりずっと、雁字搦めで。

「…悲しい事を言うね、君は」
「悲しい?」
「僕らは弱くて狡いから、何も判らない生贄が必要なのかも知れない」
「いけにえ?」
「打っても痛がらない、藁人形の様に」

此処に朝日は登らないそうだ。
月の宮と宵の宮、冬月と榛原の表札を抹消されている屋敷の価値を知るのは恐らく、当主だけだ。だから叶の表門に記された龍紋に、六星を二つ重ねた様な正十二芳星がある理由もまた、同じ様に。

「アレックス様がご存命だったら皆、叱られただろう。だけどあの方はもういない」
「知ってますえ、アレクセイ=ヴィーゼンバーグはあてのお父様」
「…今日はこの辺で終わりにしようか。蜻蛉が少なくなってきた」

紅と紺を混ぜた様な空は、夏の終わりとは言え随分暗い。
文仁が顔を出すまでは真面目に教科書を開いている筈の男は、静かに縁側の障子へ手を掛けた。

「次の誕生日を迎えたら、お稽古が始まるよ。叶の子は2歳まで性別を偽って育つ事が習わしだから、貴葉様のお着物を着られるのはもう何日か…」
「ふふ。可笑しい事。せんせだけ、姉様の名前を間違えはるの」
「間違えてないよ」
「姉様はタカハどすえ?」
「キハだよ。…いや、そうだ。僕が間違ってた」

障子を閉めて、密やかに密やかに畳の目を踏む。叶の縁戚にしては足音を発てて、キシキシと。

「…次はいつお披露目になるんだろう」
「せんせはこの着物が気に入りなんどすか?」
「可愛らしい金魚が華やかだろう?彼女がいっとう好きだった柄なんだよ…」
「あてはお魚よりお肉の方が好いてますえ」
「…そう。そこは似てないんだ」
「ふふ。明の宮に?」

残り時間は幾許か。
時計もテレビもましてラジオや音の出る全ての機械がない屋敷にあるのは、窓辺の風鈴と酷く立派な仏壇だけだ。幾つもの名が記された位牌と芳名帳、見ず知らずの人間が並ぶ写真立てに感慨などない。少しも。

「…元々、陽の宮は客間だったんだ。宮様が母屋を改装なさるまでは。君は今、陽の宮が何処にあるか知ってる?」
「はて、宵の宮から出た事がないあてには、とんと」
「天は、龍が塗り替えてしまったんだよ」
「そら?」
「天神は黎明の元」

閉ざされた障子、指差す男は恐らく東の空を。そろそろ夜がやってくる。東から、じわじわと。

「空には仏様がおわすよって、せんせが居ない時はじっと眺めてますのや」
「この着物を着て?」
「それももう少しの間…」

さぁ、触れられるのは今だけ。
時間を告げにやって来る男が帰宅を促すまでの、ほんの微々たる密やかな時間。



「…」

幼子を見下ろした男は血の気のない表情で、何かを呟いた。
それは謝罪だったのか、それとも既にこの世には居ない誰かの名前だったのか。

彼の手は躊躇いがちに伸びてきた。
けれど淀みなく衣を撫でて、軈て跪いたのだ。

「…おや。お前達は何をしている?」

例えばそう、いつもは月が登る前にやってくる月の宮が帰宅を促す寸前まで。
それがこの日だけ、少しだけ違っただけの話だ。

「文仁」
「…悪い兄さん、人選を誤った。後は俺が片付ける」
「帯を正しなさい、宵の宮」

遺影で微笑む金髪蒼目の男に酷く良く似た黒髪黒目の男の言葉は、屋敷の中では絶対だった。

「ご先祖様の前でみっともない真似をするんじゃない。判ったね?」
「…仰せのままに、龍の宮」

哀れな男はその日を境に姿を消した。
一言の言い訳もせず、圧倒的な暴力と絶対的な命令を前に、何を思ったのか。

←いやん(*)(#)ばかん→
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