帝王院高等学校
全ては共に、宙へ還る為に。
「えっと…」

此処は何処だろうと、思った瞬間にはついさっきまでの光景を忘れている事にさえ、気づかなかった。
視界の端にオレンジ色の何かを見た気がしたけれど、振り向いた時にはもう、そこには何もない。見上げる程に大きい何かが立っている。それは根を張り、まるで大樹の幹の様にも思えたが、不思議な事にそれは緑でも茶色でもないのだ。

「木っぽい。多分、学園の外れにある神木くらい。…葉脈がくっきり見える。あれは葉っぱだ」

だとすれば何色なのだと聞かれても、色がないとしか答えられない。敢えて言うなら、白と黒だけ、だろうか。目の前には今、中間色が全く存在していなかった。
何とも寂しい光景だが、古いモノクロ写真の様に何処か印象深い。見た目では良く判らないものでも目を凝らせば、輪郭の境界がラインアートの様に黒で描かれているのが判る。

「変な所。写真を撮っても、面白くなさそう」

ひらり。
木の上から何かが落ちてきた。葉っぱだろうかと、見上げたまま大して眩しくもないのに目を眇めると、それは葉の形ではない様だった。ひらひら、ひらひら、左右で何かが羽ばたいている。


「蝶?」

パタパタと羽ばたくそれを追い掛けて、パタパタと身体中を手探る。

「待って。光る蝶なんて凄い、写真を見せてあげたら総長が喜ぶと思う。…悔しいな、カメラがない」

輪郭がはっきりしないそれは光の粒の様にしか見えなかったが、光を撒き散らしながらはためく様子を見れば恐らく蝶だろうと思う。
蛾なら、ああも優雅に上下しながら羽ばたく事はまずない。

「日本は蝶より蛾の方が種類が多いんだ。蝶は200種類くらいしか見つかってないのに、蛾は5000種類以上居るんだっけ。…良く判らないな、もう少し生物学のカリキュラムを取っておけば良かった」

そう言えば、悔しいと言う台詞を言ったのは久し振りだ。
以前は口にこそしなくても、何度もそう思った事があった。いつから自分と言う人間は他人を羨ましく思う事がなくなっていたのか、唐突に考えてみるけれど、見失わない様に発光体を見つめたまま小走りしている今は、考えが纏まる筈がなかった。

「そうだ、思い出した。副長が認めてくれた時から、だっけ…」

悔しい。
最後にそう思ったのは、それまで見下していた節のある工業科の作業着を纏う高等部の先輩と、対等の様な態度で笑いながら話している所を見た事があったら、一学年年上の生徒に勝てなかった時だ。

たった一歳の違いだった。
成績は明らかに勝っている自信があった。何故だろう、選定考査で篩い落とされてAクラスへ降格した癖に、だからクラスメートから執拗な嫌がらせを受けていた癖に。どうして自分は、そのクラスメートと同じ様な事を考えたのか。

見下せば見下されるのだ。
因果は必ず応報するものだと、どうしてもっと早くに気づかなかったのだろうか。

『…クラスも寮の階数も違うんだから、皆の前では話し掛けてこないでくれない?』
『何でそんな意地悪言うんだよ』

同じ日に同じ母親の腹から産まれた、たったそれだけの共通点。
双子と言えど、別々の卵子で育てば全くの別人だ。顔立ちも違えば、成長するにつれて声質も体格も少しずつ違ってきた。血液型だって違う。最早、同じ誕生日の兄弟と言うだけだ。

『僕らは兄弟なんだよ?双子なのに会話しないなんて変だよ』
『お前のそう言う所、本当に嫌い』
『…何だよ、今日はちょっと意地悪の度が過ぎまくり系キャラだったりする?まぁね、兄ちゃんなんて弟を甘やかす為に産まれてきたって所あるから、どーんと甘えてくれて構わない的な感じだけど』
『うざ』
『言葉の刺が致死量に達しつつあるよ!』

世間一般の双子に対する評価は、殆どが一卵性を指すものだ。
案外色々と考えている様でわりと気にしないタイプの母親はO型で、おおらかな様に見えて小さい事を気にする父親はB型で、夫婦の共通点は社交的な所だった。

双子の片方は両親の良い所だけを受け継いで、もう片方は両親の多分良くない所を受け継いだに違いない。物心つく頃にはそうなのだと受け入れてしまったくらい、数分早く産まれた兄は完璧だった。悔しいなんて思う余地もないくらい。

『降格する様な馬鹿な奴は弟なんかじゃないって、素直に言えば』
『そんな事ちっとも思ってねぇよ!何なの?誰かに吹き込まれただろ?!隠しても無駄だよ、即座に調べ上げて全員退学にしてやる!で、誰に何を言われたの?!』
『何も言われてない』
『北緯!』
『煩いな、もう帰って。Sクラスの奴が普通科エリアに居ると、すぐ噂になるんだから』

悔しかったのは自分にだ。
祖父の臨終に間に合わなかった事よりも、祖父より優先させたテストの結果が散々だった事の方がずっと、悔しかった。

みっともない八つ当たりをした自分。
甘んじて笑って流してくれた片割れ。
だから、見た目だけではなく中身の格差についても、言われなくとも痛感していた。


『馬鹿嵐は馬鹿なだけに一番倒し易い筈だがな、気持ち良くぶっ飛ばされたみてぇじゃねぇか』

出来の良い片割れに肩を並べる為に続けていた勉強時間を減らして、始めたのは喧嘩の真似事。初日は簡単なトレーニングだと宣った、当時中等部三年生だった三人組は工業科を思わせる作業着を着ていたが、何故だか全員がオレンジ色の作業着だった。
曰くオリジナルの普段着だそうだが、幾ら式典以外での服装自由が校則とは言え、流石にその格好はかなり目立つ。中等部千人を越える生徒の誰もが、彼らを知らないと言う事はなかった筈だ。

『…お陰様で。バカアラシってもしかして、梅森先輩の事だったりする?』
『おう、ついでに阿呆竜とクソ倭な』
『帝君の君にしてみればそうだろうけど、竹林先輩も松木先輩もAクラスの上位陣だよ。竹林先輩に至っては、光王子が昇校してこなかったらSクラスでも可笑しくないくらいだって聞いたし…』
『実際昇格してねぇんだから、その程度だってこった。淫乱猫如きに負けてる時点でざまぁねぇぜ』
『勝ち組の台詞だよ』
『俺の名前知ってっか』
『当然でしょ、誰でも知ってるよ。紅蓮の君』
『そのキモい呼び方やめろ。嵯峨崎佑壱だ』
『だから知っ、』
『佑壱だから、一番以外は取ったら駄目なんだろ』

真顔で冗談の様に宣った台詞は、余りに笑えなかった。

『負けっぱなしで逃げ続けるのはかなり気力が要るぞ。判ってんのか、ナミオ弟』

一番でなければいけないと行った男は然し、学園内では最強そのものだったが、学園の外に『総長』と呼ぶ人間が居るのだ。信じられなかったが、嵯峨崎佑壱と言う人間が初めて為す術なく破れた相手だそうだ。

『嵐はただの馬鹿だが、俺ほどではないにせよ体力だけはある裕也に「オメーが一番面倒臭い」って言われた程度にゃ、諦めが悪い。目的の為なら素で手段を選ばねぇ所は、要に張るだろうよ』
『…そんな人に認めさせるとか、俺に出来ると思ってる?』
『出来る出来ねぇはどうでも良い。黙ってやれ』
『…』
『竜は底抜けに面倒臭いアホ変態だが、倭は果てしなく面倒臭いカス変態だ。テメーみたいな甘ちゃんにゃ、相手しねぇ方が良いレベルの人間だろう』
『甘ちゃんって、俺はそんなんじゃ…』
『ま、俺なら三匹纏めて瞬殺出来る』

結局は自慢ではないか。
言葉の通り、川南北緯が人生で初めて本気で喧嘩しようと挑んだ相手の梅森嵐には、たったの一発も与えられずに完敗した。

『でもアンタ、二番手なんだろ』
『カルマ限定でな』
『信じられない』

そんな梅森を筆頭に、恐らく同等程度には腕が立つのだろう悪友らが揃って「兄貴」と呼んでいる、北緯より一つ年下の藤倉裕也は彼ら以上に強く、そんな裕也が「副長」と呼ぶ佑壱は、文字通りカルマの副総長だけに北緯などでは相手にもならないほど、強いのだろう。

『俺が地球だったら総長はガーネットスターだ』
『デカ過ぎ』
『総長はデケェ、下手したらケフェウス座を越えるぞナミオ弟』

ならば総長と言う男は、化物なのか。まるでゴリラか熊の様に獰猛な、獣じみた男なのだろうか。ファンを名乗る一般人が勝手に流布しているブロマイドやポスターを見るに、銀髪サングラスのチャラそうな『如何にも』な男にしか見えなかった。

『その呼び方、何?』
『川南の弟だから、ナミオ弟だろうが。知らねぇのか、世間じゃあだ名をつけるのがブームなんだよ』
『聞いた事ないけど、何処の国の世間話?』
『カルマに決まってる』
『局地的過ぎない?にゃりっすにょりっすあふん、だよ』
『しどろもどろぷはんガラパゴス』
『…この変な暗号、本当に覚えなきゃいけないの?』
『もう一度覚え直しだコラァ。嵐の馬鹿でもカルメニアを覚えてんだから、元Sクラスのテメーが覚えられねぇ訳がねぇだろうが。しっかり覚えろ、こんなのは序の口だぞボケ』
『総長の命令暗号はこれより複雑で数が多いから。…耳にタコが出来るくらい聞いた』
『交響曲第48番』
『えっと、ヨーゼフ=ハイドン、…受難?』
『てんで駄目だ。精々頑張れや、ナミオ弟』
『その呼び方やめて』

いつか悔しかった日。
いつかそれを忘れて、遣り甲斐を見つけた瞬間。

認められる喜びを知った。
勉強では得られなかった達成感を覚えた。
学校の勉強よりずっと難しい喧嘩を覚えて、難問数学の様な暗号を幾つも覚えて。

揚げたての唐揚げを丸呑みする人間を初めて見て、おいで・と。子猫を呼ぶ様に呼ばれる。

『猫』
『え?』
『キティちゃんのリボンは耳についてるのか、耳の辺りの毛を結っているのか。にゃんこの耳をリボンで縛るのは可哀想だと思わないか』
『…え?』
『ピアスは皮膚に突き刺さってるそうだ。俺の耳にそんなものが突き刺さったら、おしっこチビるかも知れない』

まるで幼い頃に祖父が抱き締めてくれた様に、腕を広げて。




「キィ」
「あ、総長見っけ」

キラキラと、光る蝶を追い掛けて、辿り着いたのは色のない何処か。
白と黒しか存在しない寂しい景色は切り絵の様に思えたが、そんな場所でもあの男だけははっきりとした輪郭で存在している。だから北緯には、彼がすぐに判った。

「総長だ。凄いね、総長ははっきり見える。何でこんな所にいるの?」
「竜が堕ちてしまったんだ」
「竜?」

高コントラストの世界は目映い。
真っ白な雪原に墨で描いた様な背景は質感の境目が曖昧なのに、遠野俊と言う男だけがはっきりと見える違和感。北緯は何となく己の体へ目を落としたが、高等部のブレザーもスラックスもシャツもネクタイまでも、この景色に溶け込んでいる。

「いつも楽しそうに空を飛んでいた」
「そうなんだ」
「竜の鱗は108に煌めいて、四季を27周回ると剥がれ落ちていったんだ」
「そっか。だから108」
「輝く鱗は落ちる度に一つの星になったが、竜は陽を追い掛けてばかりで夜の空には気づかない。翼を持つ者はいつも、光の中に存在した」
「眩しそうだね。でも今は飛んでないんだ」
「俺の所為で落ちてしまったんだ」
「何処に?」
「正確に時を刻む羅針盤から、繰り返される輪廻の渦へと」

キラキラと、またたゆたう蝶を見つけた。
ヒラヒラと、それは白と黒の世界を泳ぐ様に漂っては、羽を休める場所でも探しているのだろうか。

「世界が始まりを迎えた日、時の概念もまた産まれた」
「何かの物語?」
「さァ、どうだろうな」
「総長は俺達をどうしたいの?」

笑う。
うっとりと、笑っている時だけ意思の強い眼差しが甘く溶ける事を、カルマの誰もが知っていた。

「俺達をどうにかしたかったから、帝王院に来たんだよね」
「何故そう思う?」
「総長程の頭があったら、本当なら初等部から入れた。だから今じゃなきゃ駄目だったんだと思う」
「そうか」
「物語には終わりがあるんだ。総長の話はいつも絶対に、きっちり終わる話ばっかだった。俺達の話は何処で終わるの?」
「終わりを迎える日に」
「それはいつ?」
「清らかな白日が光を落とす、夜の始まりの果て」

謎めいた台詞はいつもの事だ。
試す様な物言いだとは、初めて会った日から思っていた。

初等部から一緒に過ごしてきた癖に、北緯が嵯峨崎佑壱とまともに会話をしたのは中等部2年の後期だ。祖父が大切にしていたカメラを抱えて、降格したAクラスに馴染めないまま、退学しようか悩んでいた時に。
元クラスメートの誰もが見向きもしない自分が、降格した事でクラスメートから嫌がらせを受けていた弱かった日の、いつか。見ているだけで助けてもくれなかった元クラスメートにして首席の生徒は、甘いお菓子の香りが染み着いたハンカチを投げて寄越した。

「紅蓮…嵯峨崎が言ったんだ。弱いまま逃げるのは悔しくないか、って。負けてもいつか勝てば、負けた事はなかった事になるんだ」
「人はそれを、思い出と呼ぶ」
「負けただけなら黒歴史だよ。でも勝てば、敗北の汚点は勝利で塗り替えられる」
「失敗を人は正当化する事があると俺は知っている。けれど、失敗は失敗以外の何物でもない。失敗があるから成功したと言う為には、常に後から上書きされなければならない」
「どう言う事?」
「俺は失敗した」
「何を?」
「美しいものを美しいと喜ぶ感情を命に与えると、魂は知恵をつけた。知恵とは軈て業となり、虚と光の狭間に産まれた無垢な魂は、徐々に濁っていった」
「空と光?」
「虚」

キラキラ。
キラキラ。
白と黒の世界でも、網膜は光を見つける事が出来るらしい。ヒラヒラ舞う蝶はまるで花弁の如く、黒一色の男の周りを踊り続けた。

「助けてくれと願うなら、取引をしなければならない」
「BLネタ?」

うっとりと、彼は微笑んだ。

「俺はもう誰も助けない」
「どうして」
「絶望を奪われてしまったからだ」
「え?」
「お詫びに、お前達の輪廻は跡形もなく消していく。その為に俺は、一度だけ光の元に還ろう」

囁く様な声音だ。
この声は記憶している彼のものよりずっと、大人びている気がする。

「但し、一瞬だけ地平線にあの子が落ちてしまう」
「あの子って誰?」
「魂も業も、姿形以外の全てが虚へ堕ちてしまった、憎しみの塊。あの子を人にする為に俺は、世界を反転させた。憎しみの反対は無関心だったからだ」
「…難しい、ね?」
「灰色の世界に色を灯してやりたかった。いつか叶えてやれなかった三つの願いを紡いだ物語は、空と音と命に変わりつつあったけれど」
「けれど?」
「人に、運命を左右する力なんかある筈がなかった。俺にはあの子を支配出来ない。あの子は、俺から産まれた命じゃなかったんだ」
「ねぇ、総長。そのあの子って、誰?」
「俺は壊れた羅針盤。虚が産み出した概念の残り火。けれど俺は、空じゃなかった。俺は時の番人。始まりを終わりへと導く舟守。…雪深い遠野は濁った白へと帰依し、本来あるべきだったグレアムへと戻るだろう」
「グレアムは神帝じゃなかった?」
「キィ」
「何?」

キラキラ、ヒラヒラ。
ゆったり舞う光の羽根は、まるで時を刻む秒針の様に。



「扉を開ける為の道具を何と言うか、知ってるか?」

漸く、白と黒の世界で微笑むその男だけが『灰色』だと、知らしめたのだ。


















「通りゃんせ」
 「通りゃんせ」
  「此処は何処の細道じゃ」


「天神様の細道じゃ」
 「天孫の子は鳥居を潜ったのか?」
  「人にして人に交わらず、獣と心を交わした哀れな子は…」







神よ。
王が残した国が消えつつあるのです。

仏よ。
妖怪と恐れられた我が身が消えても構わないのです。

天よ。
唯一の友に託された民の命を、守りたいのです。



どうか、
どうか。











「天守は行ってしまったか」
「狸に拐かされた哀れな王が招いた末路だ」
「…人の子の心は弱く脆い」
「また嘆いているのか」

「東の空が光を失っていく」
「この狼の体は堕ちた光の成れの果てらしい」
「…この犬の体は、堕ちた竜が生まれ変わった姿だろう。大地を這うほど、空へ戻るのが嫌だったのか」
「この体の内側には、憎しみと愛が渦巻いている」
「…この体の内側には、悲しみと愛が渦巻いている」
「王を失った国は滅び行く運命」
「駄目だ」
「何故だ」
「あの子は鳥居を抜け、願った」
「お前の鳥居を潜った方は生きて帰しただろう。死した体を戻す事はお前にも出来ない。だが、鳥居を潜らずに私の元まで辿り着いた魂を戻す事は不可能だ」
「…慈悲を」

「お前は廻す事しか出来ない。何故ならばそれが時の番人の宿命」

「慈悲を…」
「朽ちた体を戻す事は不可能だ。天守は生きたまま辿り着いた。けれど、獣の躯を抱いたまま最果てへ辿り着いたアレは、最早人の形をしていない」
「ならばせめて、虚へ戻さずに保護を」
「何の為に」
「…あの子がせめて、別離を受け入れられる時が訪れるまで」
「無駄な事を。時を読むお前には見えている筈だ、そんな時は誠に訪れるのか?」
「…」

「何物にも染まらず何物にも感化されない純粋な透明だったお前が、今や万物の光と色に染まり、白でも黒でもない」
「…」
「私は愚かしい万物を憎悪している。直ちに全てを呑み込む事は容易い」
「虚」
「光一つない宙こそ、私と共に産まれたお前に相応しいものだ。他には何も必要ではない」
「それでは余りにも、寂しいんだ」
「私にはお前があれば良い」
「俺は常に、終わりを迎える事しか出来ない」


「そうだ。時が産み出した全てに業の制約が課される。それこそが烙印。命に刻まれた寿命の証」



「俺が消えれば、烙印も消えるのか?」



「…ならば試してみるが良い。ほんのささやかな瞬間を与えてやろう」













Request to stearlthily god.

Episode zero
-NO COLORS EDEN-










「全ては共に、宙へ還る為に。」




















まただ。
頭の中で誰かの歌う声がする。

「あーた、何やってんの」

古びたアパートの古びた畳の目は、所々解れている。
それを目で追う内に、お情け程度のベランダに出てしまっていた様だ。昨晩の雨が雨樋のパイプから漏れては、ピシャリピシャリとひび割れたコンクリートを叩きつける。

「ハイハイの練習はまだ早いって言ってんでしょ。あーたはまだ生後2週間なんだから」
「歩くのも這うのも駄目なら俺は、何の為に産まれてきたんだ」
「パパとママがラブラブだから産まれたの。イイから黙ってお乳飲んでなさい」
「絶望した」

赤子とは思えない鋭い眼差しをそっと逸らした子供は、恥ずかしげもなく上着を脱ごうとしている母親の冷めた笑みには気づかない。

「何だって?」
「乳はすぐなくなる。足りない」
「左が出なくなったら右を吸えばイイのょ」
「吸うほどない」
「泣かずぞ糞餓鬼ァ」

赤子用のふわふわした手触りのボールが飛んでくるなり、無防備な子供の尻に直撃する。生後2週間にしては明らかに大き過ぎる子供は、開け放たれたベランダのドアを無表情で掴むと、よっこらしょと言わんばかりに無表情で立ち上がり、貧相な胸を晒している母親ではなく、台所へ歩いていった。

「殺さず痛めつけるだけなんて、とんでもない女だ。そなたには人たる心がないのか」
「誰がそなただコラァ、ママと呼びなさい」

が、満面の笑みを浮かべた恐ろしい女の腕にさらっと掴まると、母子の穏やかではない見つめあいが始まるのだ。

「テレビで見た。だから知っている。ママと呼ばれる人種は総じて美しく気高く、胸が大きい」
「八つ裂きにされたいのかしらねィ?」
「出来るのものならそれも良かろう」
「…馬鹿抜かしてんじゃないわょ、誰が簡単に殺してやるもんですか」

難産だったわりに、入院を嫌ってすぐに家へ戻ってきた強い女は、出産から間もなく定時制大学へ通いながら働く道を選んだ年下の夫を待つ為だけに、必要がなければ外出もしない。何があるか判らないからと、暇潰しの様に家計簿をつけては増えていく貯金箱の中身を見やり、満足そうだ。

「母親は子供を殺せないからだ」
「違うわよ」
「違うのか」
「母親ってもんは、子供が産まれた時には死ぬ運命を背負わせてんの」

息子を小脇に抱えたまま、やかんをコンロに乗せて火をつけると、粉ミルクを哺乳瓶とマグカップに放り込み、後は湯が沸くのを待つばかり。

「アンタは何十年か生きた後に『まだ死にたくない』って思いながら死になさい。何でわざわざ殺してやんなきゃいけないのょ、面倒臭いわねィ」
「面倒臭い?生きる方が面倒だ」
「餓鬼め。辛くない人生なんか人生じゃないってんだ」
「む」
「幸せだと思った時に死ぬの。それが普通の人間ょ」
「俺は既に絶望している。生きる意味を失ったまま生きていくのか」
「そーょ。童貞が舐めた事をほざいてんじゃないの、舐めるのはミルクと飴玉だけにしときなさい」
「どーていとは何だ」
「ほら見なさい、アンタには知らない事が多過ぎるでしょうが」
「ああ」
「無知がナマ言ってないで、食べて寝て早く大きくなるのょ。そんで好きな子を見つけて、働いて子供を育てて、やっと一人前になるの」
「それが『普通』だから」

古びたやかんは、このアパートへ入居を決めた時に大家の老夫婦から譲り受けたらしい。引っ越し荷物もない若い夫婦を憂いたのか、以後も出産祝いとして哺乳瓶や粉ミルクなどを贈ってくれたり、とても良くして貰っている様だ。

「普通なんて下んないって思ってんでしょ。昔は私も同じ事を思ってたもんよ、皆と同じなんて冗談じゃないってね」
「普通は悪い事なのか」
「何を普通と言うのかは、人それぞれの価値観。自分が受け入れられないものを、人は普通じゃないってほざくのょ」
「俺は普通じゃない?」
「アンタは普通ょ。ちょっとあんよが短いだけで」
「短くても歩ける」
「歩ける方が可笑しいんだっつーの、外で歩かないでよ。7kgあったって、ご近所さんには歳バレてんだから」
「判った。生後2週間で歩けると悪の秘密結社に誘拐される」
「そうょ、解剖されてテレビに出るわょ」
「歩くのは家の中だけ」
「歌うのは?」
「一人で風呂に入れる様になってから」
「本当に判ってんの?ついでにペラッペラ喋るのも駄目なんだけどねィ」
「お口チャック」
「イイ子」

米俵の様に小脇に挟んだ子供の頭を雑に撫でると、やかんの口からしゅんしゅんと言う音が漏れてくる。もうすぐだが、目の前で待っていると中々に長い。

「まだ?」
「まだ。待っただけ美味しくなるもんよ。さてと、あーたはミルクでイイとして、私の昼ご飯どうしようかねィ。さっと素麺でも茹でようかしら」
「素麺」
「離乳食始めるのも早過ぎるから仕方ないでしょうが」
「この世は駄目な事が多過ぎる。俺はもうお使いも出来るのに」
「隣のお宅に回覧板持ってくくらい、私だって生後半年でやってたっつーの」
「テレビで見たバク転も出来る」
「それはすんな」
「それも駄目なのか」
「アンタがやってイイのはミルク飲んだ後のゲップと、寝返りと、ハイハイする振りだけっつってんの。お判り?」
「ハイハイが出来ない振りは難しい。男の血走った目に見つめられながら、喋るのも歩くのも死ぬのも駄目な俺は、どうすればイイ」
「確かに最近、あーたが何かする度にシューちゃんのカメラ連写技術が唸ってるわねィ」
「あれはセクハラだ」
「違うわよ」
「違うのか」
「看護師さんなんか、アンタのチンチン見て『まぁちっちゃい』って笑ってたもんだけど、あれはギリセクハラかもねィ。産まれた直後はパパ似だと思ったのに、段々ジジイに似てくるんだもの。嫌になるわ」
「ジジイ」
「アンタのじーちゃん」
「沸いた」
「本当だ。ちょっと降りてなさい、お湯が掛かったら危ないから」
「危ない?」
「内臓が弾けて脳味噌がパーン!ってなるわょ」
「危険過ぎる。さらばだ」
「ただでさえ低い鼻を打って脳味噌がパーン!ってならない様に、気をつけて逃げときな」

火を止めて息子を卓袱台の近くに下ろすと、下手糞なハイハイで尻を振っている姿を横目に、母親は手早く哺乳瓶とマグカップへお湯を注ぐ。片手で哺乳瓶を振りながら、片手でスプーンを握りマグカップの中身を混ぜると、一息吐いて腰をとんとんと叩いた。

「あー。骨盤がまだまだ戻ってないなァ。良く私のか細い体にあーたみたいなサイズが収まってたもんだわ」
「か細い?」
「あ?」
「リモコンは凄い。押したらテレビがつく」
「だからリモコンって言うのよ。あらん?まだ熱いわねィ。氷で冷やした方がイイかしら、脳味噌がパーンってなっちゃってるお子様だもの」
「昨日のは熱かった。だが生きている」
「鼻と言う鼻から汁が出てたもんねィ。あーたのじーちゃんもそうだったわょ」

歩くのは早かった癖にハイハイが出来ない意味不明な赤子、と言うには大きすぎる子供の前で仁王立ちしたまま、シャカシャカと哺乳瓶を振っている母親は腰に手を当てた。テレビではお昼の時代劇が流れており、派手に悪者が斬り倒されていく。

「テレビの中ではこんなに簡単に死ねるのに、何故だろう。俺には判らない事が多すぎる」
「ま、その内死ぬ様な目に遭うもんよ。人間なんて日々危険と隣り合わせなんだから、待ってりゃぽっくり逝くんじゃない?」
「どのくらい待てばイイ?」
「んー、80年くらい?」
「そんなものか」
「美味しいもん食べてりゃ、あっという間ょ」
「明日は離乳食が食べたい」
「乳離れしてから言え」
「女。産まれてこの方14日、そなたの乳に離れ難さを感じた事はない」
「俊」
「何だ」
「ご飯抜き」
「えっ」
「ミルクが欲しければ『二度と巨乳のお母様には逆らいません』って言うのょ!」
「二度とお母様には逆らいません」
「…あーた、可愛くないわねィ」

お互い様だと、母子は揃って目を逸らした。

←いやん(*)(#)ばかん→
[戻る]


あきゅろす。
無料HPエムペ!