帝王院高等学校
悶えて凍えて此処は何処の何号線?!
「通りゃんせ、通りゃんせ…」

まだか。
ああ、この世の神とは一体、どれほどの果てにおわすのか。

「此処は、何処の、細道じゃ」

全てを捨ててきた。
国も民も富も名誉も、この弱く脆い身に天孫と呼ばれた父が与え給うた全てを、残してきた。

忠臣は居たかも知れないが、友と呼べる者は居なかった。
他人の汚い所ばかりが気に掛かり、とうとう人目を避けて閉じ籠る事を選んだ哀れな男を蒼と碧の瞳で見上げた黒猫は、心底馬鹿にした笑みを零すと、『哀れだ』と言ったのだ。

「神、よ。父王の祖父だと歌われし、天の王よ。何処まで行けば御座をこの目に…」

天命だと言う。
人と獣の命の長さは違うのだ。命の重さは同じではないかと言えば、賢い猫はやはり笑った。

『私は地獄より這い上がった物怪。人に戻る事は許されない』
『何故だ。そなたの様に聡明な獣が人にはなれぬ道理が、あるものか』
『何故?愛を知れば腹の奥底に暗い火が灯るもの。人を遠ざけ孤独を選ぶ弱者には、理解出来よう筈もない』

冷たい躯を抱き締めて、吹き荒ぶ雪の道を裸足で歩き続けるばかり。
此処は富士の山か、雪深い北の大地か。ああ。世界は真っ白だ。腕の中の冷たい体だけが、黒い。

「月宵。月宵。もう暫くぞ。余は必ずそなたを、人へ戻してみせる」

神よ。
まだか。それも良いだろう。何処までも歩き続けるからだ。例えばこの体、この命、魂までもが凍りついたとしても、意味はない。この身に宿る火が尽きるまでに、必ず探し出してやろう。



「…この身に宿った暗き炎は、神の喉元に刃を突きつけるまで消えない」

神よ。
魂に愛と言う業を負わせたその玉座は、何処にあるのだ。
























『も、もしもしっ』
「…またお前かよ」

掛けてくるなと脅しておいたのに、何故わざとらしく怒らせる様な真似をするのだろうか。他人の考えが判る筈もないが、努めて冷静に声を荒らげる様な真似はしない。

「何度掛けてきても無駄だっつったろ。何で判んねーの?」

大きな枕を抱いて、まるで猫の様に背を丸めている眠り人を横目に、薄暗い部屋よりまだ暗い夜空が嵌め込まれた窓を見やった。一度眠ると滅多な事では目を覚まさないルームメートを極稀に羨ましく思うが、今ばかりは救われる。
口籠る様な他人の吐息を鼓膜のすぐ近くに聞いた嫌悪感から、耳元に当てた携帯電話を少し遠ざけると、ディスプレイに灯る光が暗い窓辺を照らし、己の顔が浮かび上がった。

「じーさんから、こっちには連絡すんなって言われてんだろ?」
『で、でで、でも…っ』
「…うぜーな。ビビってる癖にキレさせんじゃねー、二度と掛けてくんな。切るぜ」
『っ、待って!』

鏡よりはっきりとしない輪郭だったが、我ながら機嫌は宜しくない。
端末の側面についているボリュームボタンのマイナスを握り締める様に連打し、通話音を最低レベルまで落としてもまだ怒りは収まらない。

『ば、ばっちゃん、がっ』
「…るせーっつってんだよ、判んねーのかよ」

だからと言って大声を出せば、流石にルームメートの眠りを妨げるのは必至だ。だから必死で我慢している。今にも怒鳴りつけて、出来るものなら今すぐにでも息の根を止めてやりたいと思うほどには。

「今何時だと思ってんの?」
『け、けん、健吾…っ』
「寝てんに決まってんだろ。お前、オレらより年上の癖に何で判んねーんだよ」

例えば電話の向こう側、中学生になったばかりの他人はルームメートの家族だが、自分と言う人間にとっては他人だ。例えばそれが、自分と言う人間にとっては実の祖父母の様な二人が養子に迎えた子供だとしても、だからと言って高野敬吾と言う他人を、高野健吾同様に見る事など生涯ないだろう。

「ばーさんの具合が悪い事は黙ってろって、じーさんも言ったろ」
『…』
「ケンゴには言うなってよ。省吾さんからも言われなかったかよ?」
『お、父さんにも、言ったら…ダめ、って!』
「流石はじーさん」

目の前で肉親を亡くす事がどう言う事であるのか、例えば五年生になったばかりの藤倉裕也には、口数が少ない自分の性格を実感していても、珍しく言葉数を尽くして語り聞かせられる自信があった。

「ケンゴは駄目だ。オレもじーさんも言ってんのに、何で約束破るんだ?」
『ナンで、って…』
「コイツにこれ以上、なくさせるのは駄目だろ」

いつか、高野の実家へ初めて訪れてから間もなく、裕也と同じく教師だった割りには口数の少ない高野の祖父に、自分の話をした事がある。あれは上手く聞き出されたと言った方が正確だろうか。恐らく、息子の省吾からか、一度挨拶をする為に来日した父親からか、それなりに説明があったのだろう。そうでもなければ、幾ら面倒見の良い高野の祖父母であっても、他人を孫同然に手放しで出迎えてくれたりはしない筈だ。

「音楽が楽しくなくなって、佳子さんは帰ってこなくなって、今度はばーさんかよ」

おっとりしている様で、案外そうでもない健吾の祖母は普段は良く回る口を閉ざし、話を最後まで黙って忍耐強く聞いていた健吾の祖父は、腕を組んだまま深く息を吐くと、自分の父親は酒の飲み過ぎで死んだと呟いた。
目の前で大量に血を吐いてそのまま亡くなったんだ、あれは未だに忘れたくても忘れられない、と。

「狭心症で不整脈で、持って半年?んなもんとっくに過ぎてんじゃねーか。だったら言う必要あんの?」
『だ、ダッて、ば、ばっちゃん、可哀想…っ』
「で、ついでにじーさんも病気だって言うのかよ」

小学校へ上がる前の子供にする話ではないと今では思うが、心底嫌そうに呟いた彼の台詞とその表情に対して、母親を亡くして以来、半ば笑い方を忘れていた裕也が久し振りに笑った事を覚えている。

「実は二人共入院しなきゃなんねーのに、お前が居るから家から出られないじーさんが『誰にも言うな』って言ってんのによ。当のオメーがじーさんの覚悟をぶち壊す真似すんのは、違うんじゃねーのか」
『ぼ、僕のせ、い?』
「オレの所為だって言いてーなら、それでも良いぜ。別に誰の所為でもねーだろ。論点はそこじゃねー」
『…わ、からない』
「馬鹿と無能は別だって事だろ。オメーを見てるとイライラするぜ、宝塚敬吾」

わざとらしく夜中に健吾の携帯電話を鳴らす他人を、わざとらしく旧姓で呼び続ける理由は何だ。ただでさえ不気味な暗い窓に写り込む自分は、濁った紺に侵食されている緑の瞳だけが自棄に浮き上がって見える。

「ケンゴに会いたいなら昇校するしかなかった。オレはそれも駄目なんて言ってない。どうせ無理だと思ってたかんな。結局、失敗したのはオメーだ」
『…っ』
「省吾さんには言えねー癖に、何でケンゴ?オメーの本当の母親は、省吾さんの娘だって言ってんだろ?人様の家庭を壊しといてよ、何で高野のじーさんとばーさんが病気になっても連絡寄越さねーの?」
『お…お母さん、は、さ、再婚したノで、そ、そっとしてあげるなきゃダめなんダ、ヨ』
「は。もういい加減、馬鹿らしくて笑えてくるぜ。ドイツもコイツも好き勝手生きてる癖に、何でケンゴにだけ責任っつーもんを押しつけようとするんだ」

そう言えば最近、電話の頻度が増えている。
そろそろ本当に高野の二人が長くないのだろうと判ったが、彼らへの恩と親愛に近い感情を天秤に掛けてもまだ、その秤は傾かないままだ。

「オレがムカつくのはテメーだけじゃねー。佳子も省吾もムカつくがよ、青蘭にもリヒトにもムカついてる」
『う?』
「…ムカつく奴ばっかりだっつってんだよ。いつだって『守られる側』の奴らは全員、それが当たり前だと思ってやがる」

ああ。沈黙が夜の世界を包み込むと、微かな寝息が良く響く。
その寝息を子守唄にすれば良く眠れる事を知っていたが、近頃は逆効果へと変わりつつあった。だからこそ絶望的なまでに己の浅ましさを実感していく、今はその道中にある。

「じーさんにもばーさんにも悪いとは思ってるけどよ、お前が何回掛けてきても無駄だぜ。あの二人に何かあったら、真っ先にお前と省吾さんに連絡が行くだろ。ケンゴは最後で構わねー」
『な、んで』

目を逸らせ。
例えば乱反射する真昼の窓辺から逃れる様に、瞼を閉じて眠る様に。起きているから浅ましい事を考えるのだと思い至ってからは、明るい所の方が眠れる様になった。
けれど日中は活発に暴れ回る親友は、弾け飛ばんばかりの笑顔で無邪気に、あっちだこっちだと目覚ましの声を上げてくれる。容赦などない。

その命全てが音楽で作られている様な子供は、楽器を失っても体そのものが極彩色の五線譜だった。

「可哀想なのはテメーだろ」
『ぼ、く…?』
「どんなに喚き散らしてもお前の声がケンゴに届く事はねーよ」

可哀想に。
この世で一番言われたくない台詞を選ばなければならない時、選ぶのは恐ろしくこれだ。だから敢えて口にするのだろうか。可哀想に、他人へ押しつけた台詞の刃は諸刃の剣に成り得るのか。

「オレが片っ端から邪魔するからな。弱い癖に偉そうな奴と、約束を守らねー奴は嫌いだ。同情を引いて守られようとする奴なんざ死ねば良いって、わりかし本気で思ってる」
『っ』
「ケンゴに泣きついて同情誘って守られようとしてるオメーなんざ、じーさんとばーさんが死んだら生きてく価値、…ねーよな?」

待つだけだ。
物静かで博識で少し世間知らずな所があって悪戯好きで、面倒見は良い癖に自分が困っていても助けてくれとは絶対に言わない、そんな不器用な高野の祖父母は、自分にとって本当の祖父母よりずっと、家族だった。

「知ってるかよ。いっぺん怪我した所をもっかい怪我すると、治りが遅ぇんだぜ」
『知、らない』
「そうかよ」

一緒に暮らした僅かな日々を忘れる事など有り得ないだろう。だからこそ、彼らの最後の願いは決して破られない約束として、最後まで守り続けるだけ。ひたすらじっと、何も知らない顔で待つだけだ。その時が訪れ、逃れられない別れの時を受け入れる日を。

いつだって笑っていて、どんな時でも表情を変えない幼い頃から大人になる事を強要された、余りにも不幸な子供がこれ以上。
だから例えば、天才だと惜しまず称えられたいつかの神童が実は悪戯好きで、自覚していないだろうが小さくて弱々しいものが好きで、頼られると断れない所があって、変な所で正義感が強く、時々暴走する様に思われているけれどその実、同世代の誰より冷静な性分を健気に隠し続けているとするならば、だ。

「オメーにはいつか自分の家族って奴が作れる。ケンゴだけが家族じゃねー、判るかよ」
『ぼ…僕のか、かか、家族、は…』
「ケンゴが優しいのはオメーが弱いからだ。無駄なんだよ。端からオメーなんざ同等に扱われてる訳じゃねーって事だ、判れや」
『どーと…ぉ?』
「よっぽど猫嫌いかアレルギーでもなけりゃ、野良猫が寄ってきてわざわざ追い払う奴なんか居ねーって事だよ。オメーにケンゴが必要でも、ケンゴの方が必要になる事は絶対ない」
『っ。判ってる、ヨ!』
「判ってねーから、ンな時間に掛けて来たんだろーが。そろそろマジでこの世から消滅させんぞ」

大きな枕を抱えて、子猫の様に背を丸めて、身動ぎ一つしない眠り人は寝息すら子守唄を奏でているかの様だった。恐る恐る手を伸ばせば、癖のない固めの茶髪が指先に触れる。けれど手触りは、見た目以上に柔らかい。


「は。やっと切った、ビビりの癖に粘りやがって」

流石に脅し過ぎたのか、叩き切られた通話に息を吐いた。
何にせよ無駄だ。着信履歴は勿論、躊躇わずに一件消去しておく。中学生になったばかりの、義兄なのか甥なのか叔父なのかも判らない曖昧な身内に、健吾から連絡する事は絶対にない。
本校へ昇校するんだと宣った敬吾が内部受験で失敗した事を知っている健吾は、彼が入れなかった本校に在籍している自分が何を言っても、傷口に塩を塗る事になりかねないと思っている筈だ。空気が読めない振りをしている癖に、実は全くそうではない健吾は、時々面白いくらい的外れな事を考える。

「頭が良い奴は訳判んねーぜ。…オレが誰だか判ってる筈なのに知らねー振りしてるファーストも、謎だけどな」

健吾が新しい遊びを見つけた。いつもの事だ。
真っ赤な髪の、現在初等部で最も目立つ男と言っても過言ではない、中央委員会会長の弟。六年生の首席、帝君制度のない初等部で誰からも紅蓮の君と呼ばれている嵯峨崎佑壱の本名を、裕也は何年も前から知っていた。
エアフィールド=A=グレアム、ミドルネームのAはルーク=フェイン政権発足と同時に一位に選ばれた事によるABSOLUTEを指すのか、ニックネームだったとされているAngelを指すのか、良く判らない。

一説には、ステルシリーが内部犯罪者を裁く時に投獄すると言われている、元老院屋敷の地下にあるエイビスに唯一投獄されなかった事から、クライスト=アビスと言う皮肉が通称とされているアビス=レイが語源であるとも言われていた。

エイビスとは何だと裕也がいつか父に尋ねると、特別機動部と言うステルシリー最大最強部署のマスターから退いた男はエメラルドの瞳を細めて、『二度と戻れない懲罰棟みたいなものだよ』と笑った覚えがある。それほどの罪とは何だと思った事もあるが、前特別機動部長の息子と言えど、直接的にステルシリーを知る訳ではない裕也には知る方法はない。

クライストがキリストを示す言葉だと言う事は判る。
前男爵の妹がイブと呼ばれていた事も、何となく知っている。現在はマリア=テレジアと呼ばれている彼女の息子であれば、佑壱は紛れもなくキリストその人だ。
クライスト=アビス、キリストの深淵が佑壱の父親であるなら、彼がマリアを母にした事が罪であるのか。単に男爵の妹に手を出した事が罪なのか。

佑壱の兄である、彼と同じ様に燃える様な赤毛の中央委員会会長の母親が、フルーレティ=アシュレイの娘だったから、なのか。明確な答えはない。何故、嵯峨崎嶺一だけが罪を逃れたのか。内部を知らぬとは言え、ステルシリーが甘い組織ではない事は熟知している。
実際、裕也の母の命を奪った者達は、既にこの世には残っていない。

カラカラに渇いた血糊を拭いもせず、生前妻が愛した真っ赤な薔薇の花束を抱えて墓石の前に跪いた男が、真っ白に変色した髪に錆びた汚れをつけたまま、燃え尽きた様な表情で『終わったよ』と宣ったのを聞いたからだ。
帝王院学園へ入学する直前、入学の挨拶に行くぞと意気揚々に提案した高野の祖父母と健吾だったが、当時から体調に不安があった祖母が飛行機に乗るのは難しかった為に、結局は祖父と健吾の三人で一時帰省する事になった。が、そもそも飛行機に乗れないと言う大層な持病を持っていた高野の祖父は、口外無用と言う口約束一つで空飛ぶ車に乗せられ、パニックを起こしている間に人生で初めて海を渡る事になる。

けれど、世話になっている高野氏を持て成すべく、ドイツを案内すると言っていた父親の姿がない代わりに、部下と思われる大人らに出迎えられたのだ。
裕也の墓参りについてくると言っていた健吾と祖父は、万事抜かりないステルシリーの社員に丸め込まれ、空飛ぶ車で半日ほどパニックに陥っていた祖父を気遣った健吾と共に、町へ散策に向かった。裕也だけは別の大人らに連れられて、久し振りに見る母親の墓前で所在なげに佇んでいた父親の背中を見たのだ。


「何が無駄か教えてやるの忘れてたぜ、宝塚敬吾」

母親を殺した人間は消えた。
例え地下で暮らす外界から隔絶されたノアの国の住民だろうと、罪を犯せば裁きは下される。けれどどうして、アビス=レイは生きているのか。罪を犯した者は裁かれないといけない、それは地上の世界でも地下の世界でも同じ事だ。

「…オレとケンゴのケータイは、同じ機種なんだぜ。昼間すり替えとけばオメーがじーさんの目を盗んで何度掛けてきても、ケンゴは絶対に出ねー」

罪は消えない。消えてはならない。
母が父に嫁いだ所為で、母の腹違いの妹は母の代わりに政略結婚を強いられた。それまで一度として父親らしい事などしてくれなかった男への嫌悪と不信感から、彼女は家名を陥れつつ、アメリカ空軍の重鎮であろうと手出しが出来ない男の元へ嫁いだのだろう。
半分しか血が繋がっていないわりに、姉妹そっくりだ。片方はエテルバルド、片方は大河と言う、どちらにしても恐ろしい家へと嫁いだのだから。

伯爵家と言う華やかな屋敷の裏側で、醜い大人から苛められていた母はいつも、人を不幸にした分だけ裁かれていると言っていた。幼かった裕也が覚えているほんの数年間の母が、幾度か繰り返した言葉の一つだ。

『私達は殿様の末裔なんだぜ。忍者は堪え忍ぶから忍者って言うんだよ、試練は厳しくないと試練じゃない』
『殿と忍者?どっち?』
『ふふん!そこがスゲー所だぜ?母ちゃんの曾祖母ちゃんはお姫様で、曾祖父ちゃんは忍者だった!』
『何それ、変』
『変じゃねー、もっと自慢しても良いんだよ。でも内緒。忍者みたいに戦えるお姫様になるのが夢で軍に入ったけど、カミューが「戦えなくなっても君は私の大事なお姫様なのだよ」って言ってくれたから、でへへ、つーかあんな台詞って素面で言えちゃうもん?ぐふふ、ヨーロッパはアメリカと違って紳士の破壊力がパネー』
『母ちゃんの笑い方、化け物みてーだぜ?』
『お黙りやがれ泣かすぞガキ』
『子供を苛めるのは罪になんねーのかよ』
『そう言う口ばっか達者な所、カミューに似ましたね。頭が良すぎる男はモテないんだぞ☆』
『頭が悪い母ちゃんでも結婚しただろ』
『そうだね。でも何でかな、ほっぺが千切れるまでつねりたい気分だよひろにゃり』
『違う、裕也』

全ては過去に置いてきた。
今、目の前にあるのは流れていく現在だけだ。過去を何度思い出しても意味はない。けれど静かな夜、眠れずに意味もなく起きていると鼓膜は幻聴を呼び起こす。



「…家族なんかがあるから、面倒臭ぇ。初めからなかったら何も感じねー筈だ」

健やかな寝息が聞こえた。
その子守唄を聞けば良く眠れたけれど、それでも稀に飛び起きる事がある。悪夢を見たわけでもないのに、訳の判らない強迫観念に追いやられて、何かに追われている気分になった。

「判ってる。判れ。ケンゴには家族なんて無駄なもん、要らねーぜ。オレだってそうだ。誰にも邪魔はさせねー」

目の前に今がある。
それなのにどうして、後悔は目の前にはない。全てが終わった後に現れては、全てを手遅れにするのだろう。(まるで裁きの様に)(奈落へ落とされる)(エイビスは大層深く真っ暗で)(一つの光もない黒の底)


(ノアは神の代名詞だった)


犯罪者と聖母から生まれた赤毛の王子様は、犯罪者なのか神の子なのか。
弱いから守られた癖に、今では一人で生きていけると言わんばかりに強がっている青毛の子供は、罪なのか許されるのか。
全てを許し全てを受け入れては泣き言の一つも言わない、生命そのものが「神の楽器」と歌われた子供の隣でただ眺めている内に、時間の流れは加速していた。



「ユーヤ」
「おー」
「ユウさんって、何か面白ぇと思わね?」
「何が?」
「こないだルーで作るカレーっての食ったじゃんか」
「おー」
「初めて食った」
「オレも」
「学校抜け出すのも初めてだったけどよ」
「オレも」
「何かさ、何かさ、アレじゃんか」
「だから、何が?」
「何か、兄貴みたい。敬吾と全然違ぇんだもんよ」
「あー、KTな」
「KYみてぇな言い方やめろし。敬吾は良い奴だべ?」

互いに知らん顔をする。
マリアの息子とネルヴァの息子、何も知らない健吾だけは毎日が楽しそうだった。不服そうな要が、佑壱の前では借りてきた猫の様に大人しいから尚更だ。

「カナちゃんと久し振りに喋った」
「何でムカつかねーの」
「何でって?」
「アイツ、オレらの事ずっとシカトしてたろ」
「だからってムカついたりしねーっての」
「何なんだよオメーは」
「何が?」
「天使だったりすんのかよ」
「オメー、何か変なもん食ったべ?」
「ユウさんは兄貴じゃねーだろ。根っからの弟気質じゃねーの」
「そうなん?」
「頼られる事に慣れてねー感じすんだろ」
「あー、何か烈火の君のが優しそうだもんな。でも俺は、ユウさんのが面白いっしょ」
「面白いだけで選ぶんかよ」
「面白くねー方が良いんか?」
「あー、そりゃ面白い方が良いぜ?」
「だろーがよw」

鼻歌を歌う健吾は楽しそうだった。
その横顔を見るだけで触りたくなるのは何故だろうと考えたが、口にしてはいけないのだろうとは、思う。眺めているだけだ。

後悔はもう、したくない。


「ユーヤ」
「おー」
「総長が負けたんだってよ」
「らしーな」
「で、あの顔が怖い地味な奴が総長になんだって」
「ユウさんが決めた事だろ」
「皆、怒ってんな」
「アホ松とバカ梅が、集会終わった後に襲撃するとか言ってたぜ。クソ竹は相変わらず良く判んねー」
「オメーの舎弟だろーがよ、止めろし」
「止める必要あんのかよ。アイツがユウさんにガチで勝ったっつーなら、アイツらが何人束になっても勝てやしねー」
「そうだろうけどよ」
「何だよ」
「…別に?」
「顔が笑ってんじゃねーか」

時間はいつも、流れていくばかり。
我慢出来ずに触りたいと言えば、困った様な笑みを浮かべた男は『勘違い』だと言った。

例えば彼女を作れば忘れると言われて、お前が言うならそうなのだろうと、何の迷いもなくそれを実行したけれど。すぐに無理だと判った。他人は他人のままだ。所詮、家族になどなれない。
だから振られたと素直に言った。やっぱりお前なんか好きにはなれないと初めての彼女に言うと、派手に叩かれたけれど。痛いのは自分ではない。名前すら覚えて貰えなかった事を泣いて悲しんだ、名前も知らない女の子の方だ。

派手に腫れた頬を見た健吾は目を丸めて、その聡明な頭で何を考えたのだろう。例えば自分の所為でなどと、見当違いな事を考えたのだろうか。だからまるで父親の様に腕を広げて、勇ましく『慰めてやる』などと愚かな事を宣ったのか。


「もー、泣くなし。お前モテるんだからよ、また新しい彼女出来るって」

悲しんでなどいない。絶望しているだけだ。
彼女が出来れば忘れられると言われたのに、自分にはそれが出来ないのだと思い知ってしまったから、己の浅はかさに絶望しただけだ。
必要のない慰めを受けて単純に喜ぶ浅はかさが、情けなさで潤んだ目元を『飴玉が溶けてるみたい』などと笑いながら舐めてくる子犬の様な健吾が、胸元に黒一色の狼を描いたその日から、その狼が覆い隠した傷跡を知っているのは自分だけなのだと。

「で、また振られたらどうすんだよ」
「そん時はまた慰めてやっから」
「…ふーん」

暗い愉悦に浸る度に、自己嫌悪に襲われている。それだけだ。
振られた時に慰めて貰える、そのご褒美を手に入れる事を覚えた。パブロフの犬は繰り返す。



『可哀想なお人形さん。お前さんの心には、俺と同じ暗い火が灯ってしまったのかい』

浅はかに、愚かしい真似を、自己嫌悪の果てに、尚。








「さァ、オーケストラを始めようか。」


家族など必要ない。
他人を幾ら集めた所で他人でしかない。
弱い子供達をペットの様に見据えている漆黒の双眸が幾ら偽善を繰り返そうとも、例えばカルマと言う世界のノアはシーザーだった。行き場のない子供を犬として飼い慣らそうとしている。

「俺の可愛いワンコ達」

けれど所詮、他人だ。何処までも変わらない。


家族など要らなかった。
(望んで手に入れた訳じゃない)
(産まれた時には目の前にあっただけだ)
(なのになくすと、いつまで経っても忘れられない)

(まるで毒のよう)





「帝王院俊」

犯罪者は裁かれるべきだ。
(裁判官は平等たれと)(例えば人間の悉くを犬か猫の様に扱える)(人の姿をした人ではない何かであるべきなのだと)(冷静に職務を果たす忍者の如く)(冷静に忍の命を使い捨てにする、殿様の如く)

「ナイト=T=ノア」

裁きは下される。
例えば帝王院学園に於ける中央委員会会長でさえ、左席委員会と言う天敵が居るそうだ。

「…そうかよ。ABSOLUTELYランクB、セントラルの頭文字はCだ」

家族など必要なかった。
それなのにどうしてあの子を飼い慣らしてしまったのか。それなのにどうして、あの子に飼い慣らされてしまったのか。後悔は常に、気づいた時に目の前にある事を知る。例外はないらしい。

「CAESAR、身代わりのST。Silver transferなんかじゃねー、Single transferって事かよ」

神が入れ替わる瀬戸際。
地上と地下が入れ替わる。朝が夜に変わる様に。今まで裁かれなかった者が、裁かれるべき時が来るのだろう。

「…やっぱ、アンタ最高だぜ総長」

眠れない子守唄が終わるなら、確実に眠れるレクイエムを奏でてくれるのだろうか。
(神の楽器すら奏でようとする、ノアの国の指揮者ならば)

「暗黒皇帝の次が太陽王の時点で気づくべきだった」

ステルシリーが示す忍ぶ者の銘を打ち壊し、

「アンタはオレらを、」

他人の屍から溢れる真紅の体液でさえインク代わりに、五線譜を音符で埋め尽くせば良い。


「地を這う犬から、蝉に還らせるのか」

レッドスクリプトを完成させる為に。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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