帝王院高等学校
恐れるなと、怯える勇者は繰り返すのです。
「えー」

景色が凄まじい早さで後ろへ後ろへ流れていく光景を、果たして帝王院学園が全く誇っていない左席委員会副会長は、帝王院学園が誇っている中央委員会会計の肩に担がれたまま、ほぼ無抵抗で眺めていた。

「あのゴム風船を割るなんて、人外魔境過ぎやしないかなー」

早い早い、短距離ならそれなりに自信がある山田太陽とて、自分の体感スピードと人に担がれて感じるスピードでは、比べる事は出来ない。
驚き過ぎて表情がついていかないのか、それとも徹夜明けで意識がそろそろ限界なのか、一度も速度を緩めない叶二葉の肩に乗ったまま遠ざかる部活棟を見送っていた太陽は、靡くと言うよりは荒れ狂っている自分の前髪が額や目を攻撃してくるので、仕方なく目を閉じた。

「おーい、この辺で良くないですか二葉先輩?」
「…」
「あれ?聞こえてないのかなー。おーい、二葉さんやーい」
「聞こえています。まだ駄目です、陛下がその気になれば半径1Km以上を焦土と化す事が可能ですから」

冗談っぽさが少しもない二葉の声に、太陽はパチパチと瞬いた。
ゲーマーの心を絶大に擽る単語が聞こえた様な気もするが、焦土と言う言葉を現実に当てはめてみると、少しも笑えない。基本的に真面目な優等生の振りをして、中身は全く違う二葉が本音を語る方が稀だと思わなくもないが、今の台詞が嘘だとして、二葉には何の得もないだろう。
少なくとも太陽が知る白百合と言う人間は、冗談の様な発言を度々口にする割りに、無駄な事はそれほどしない。他人を痛め付ける時には手を変え品を変え手を尽くすが、今の状況ではそれはない筈だ。

「それってもしかして、俊がやばい?」
「他人の心配より我が身です。陛下が何に気を害したか判らない内は、隠れて様子を見ましょう」
「ん?」

二葉の背中にしがみついている太陽の視界は、二葉とは反対方向にある。
然し通い慣れた学園であるからにして、二葉が目指している方向に心当たりがなくもなかった。

「もしかして先輩、アンダーラインに逃げるつもりですか?アンダーラインって水没したんじゃなかったっけ?」
「安心なさいハニー、アンダーラインに降りさえすれば、最も安全な場所を知っています」
「え?何それ、シェルターみたいな所があったりするのかい?なーんて」
「ええ。核ミサイルにも耐えられるシャドウウィング格納庫があります」
「か」
「ファントムウィングでは機動力が落ちるので、様子を見てシャドウウィングで離脱しましょう。それまでは車内で待たせる事になりますが、退屈はさせません」

さわさわ。
何故か尻を撫でられながら、二葉の声にほんのり艶めいたものを感じつつ、左席副会長は暗い所へ降りていく光景を瞬き一つせずに見つめたまま、

「格納庫だってー?!」

地下へ地下へと進んでいく男の肩の上で、興奮した様に叫んだのである。
山田太陽に危機感などと言うものは彼の細い毛程もなかったが、太陽を抱えたままバスローブ越しに尻を揉んでいた男にもまた、言うほどの危機感などないに違いなかった。






















「…これはどう言う事だ?」
「見たまんまじゃん?下手なハイドアンドシークじゃないなら、事件性十分って事」
「何がかくれんぼだ。真面目にやれ」

帝王院学園の制服を纏う生徒達が、まるでヘンゼルとグレーテル兄妹が道なりに落としていったパンくずの如く、薄暗いアンダーラインの廊下に点在している。

「酷いな、もー。俺はいつだって真面目な男だよ。神様はきっと見てる、だから俺の元に高野省吾を遣わしたんだ」
「私はああ言う、古式を馬鹿にした音楽は好みじゃない」

踏まない様にひょいひょいと避けている金髪を横間に、一人一人の呼吸を確かめていく濃い肌の男は、倒れている少年らの喉仏に触りつつ、クールな顔立ちを崩さない。流石はベーシックステルスだと口笛一つ、社内では知らない社員がいない超有名人を里親に持つ白い肌の男は眉を跳ねた。

「ノンノン、基本がちゃんと出来てるからアレンジが出来るんだ。君が聴いてる根暗クラシックばかりが伝統じゃないよ。重厚な音が聞きたいだけなら、古びたホラーハウスのドアを蹴り開ければ良い」
「アルバイトのゴーストを怯えさせる様な礼儀知らずな真似は、教養のないお前にしか出来ん」
「さては俺が言ってる意味が判ってないな、紳士の国の妖精ちゃん?」
「誰が妖精だ。殺すぞ」
「対外実働部北半球特派員ロバート、すぐにナイフ出そうとするのやめようか?」

濃褐色の肌に生える白目の中心、赤味掛かったブラウンの瞳を眇めた男は幾らか警戒した様子で辺りを見回しているが、十人十色の体勢で沈黙している生徒らは幸いにも呼吸はある様だ。ただ、ピクリともしない。
光の早さで取り出したナイフを鮮やかに奪われた男は、舌打ちを噛み殺すかの様に一瞬唇を噛んだが、手入れを施している護身具を粗末に扱われては堪らないと、無言で手を差し出した。

「気づいてるかアート。ファーストのクラスの生徒が紛れている」

きちんとナイフを返してくれた同僚に問えば、とっくに気づいていたらしい男は肩を竦めた。南アメリカ産まれの割りに色素の薄い肌は、北欧人に比べればやや黄味掛かっているものの、日本人よりは明らかに白い。

「こりゃ鮮やかなお手並みだ。外傷もないみたいだし、薬で眠らされちゃったかな〜♪」
「感心してる場合か。これだから教養のないメキシカンは…」
「だからアルゼンチン産まれだっつーの。任せとけ、エッチはかなり上手い方だって言われてる。心は情熱のキューバ人だ♪」
「同じ事だ!」
「全然違うっつーの、何でそんなに俺を嫌うんだよ〜。拾ってきた野良ちゃん達に向ける様な顔をさぁ、たまには見せてくれても良くない?」
「黙れ白人!もう貴様とは話したくない!」
「えー、俺と一緒に人種差別撤廃しようよー」

カルシウムが足りてないにも程があると、呆れた様に金髪を掻き上げた男は、薄暗い廊下でもはっきりと視界に写る日本人よりは白い己の腕を見やり、暗さに若干同化している同僚を見た。
白人か黒人かと言われれば明らかに自分は黒人ではないだろうが、顔も知らない両親はフランス人とイタリア人だったそうだ。実際の所は、実父の出張先のアルゼンチンで産まれ暫く暮らし、2歳になる頃にテロに巻き込まれて自分だけが生き残ったらしい。

「俺だってさー、こう見えて色んな苦労してるんだよ〜?流石に三十路を迎えると自分なりに消化してる訳で、こうやって毎日楽しんでるんだけどね〜♪」
「…」
「あら嫌だ、この子ってば本気で同僚を無視するのね?これが良く聞くパワハラって奴なんだわ、アタシみたいに出来る男は嫌われちゃうのねッ!」
「…それはマスターの真似のつもりか?」
「ちょっと受けただろ。笑いたいなら笑っちまえよロバート、お前の笑顔はきっと可愛いぜ?」
「死ね」
「ギブミースイート!」

その後どんな経緯があったのか、ジャグリングとダンスを生業にしていたキューバ人の一家に拾われて、当時の養父的存在だった団長からは、お前は捨てられていたんだと聞かされていた。
メキシコからのオファーで仕事にやって来た際、そんな彼らの半数が偽造国籍の容疑を掛けられて強制送還され、仕事はどうなるんだと仲間内で話題になっていた頃、団長とその妻がスラムの外れで殺された。
新聞にはテロの被害者として掲載されており、当時はそれを信じるしかなかったが、成人し就職したばかりの頃に個人的に調べてみると、皆を率いていた団長には色々と後ろ暗いネタがあったのだと知ったのだ。

「こっち方面って、さっき俺らが居た辺りの真上になるんじゃないか?」
「先程までバタバタした気配があったが、今は静かなものだ。当然、あの頭の悪さが滲み出ていた慌ただしい足音の元は、彼らだろう」
「騒がない子供なんて子供じゃないって」

殺される理由も判っていて、犯人にも目星はついていたが、そもそも実の両親をテロに見せ掛けて殺した犯人こそ、団長一座だった事は養父がとっくに調べ上げていた。旅先で度々強盗の様な真似をしていた彼らは、各地で目撃者を消していたらしい。
彼らを殺した犯人も、彼らに家族を奪われた被害者の一人だった様だ。

「私は物静かな子供だった。両親に恥を掻かせた事は一度もない」
「…そうですか。俺はパパにバイアグラだって嘘ついて、排水溝から掬った泥水を飲ませた事があるよ」
「貴様、それはまさかライオネル卿の事では?!」
「本当にごめん。心から反省してるから、すぐピストル出すのはやめよ?ね?話し合いで解決しよう?」

当時物心つかなかった子供を生かして連れ帰った理由は、単にタダ働き同然で使える団員が欲しかっただけと言うのが、真実だと思われる。正直、それを知った時はすぐに納得出来なかったが、時間が薬と言った所だろう。今になって思い返すと、疑わしい所は幾らでもあった。
但し、子が親を嫌うのは中々難しい。意地悪な事を言うわりに手放しで可愛がってくれたライオネル=レイとは比べるべくもなく別人だが、音楽とダンスの素晴らしさを教えてくれたのは間違いなく、一座の皆だ。

「ロバート、知ってるかい?」
「何をだ。犯人に心当たりがあるのか?」
「我らがマイペースマスターが最近書いてるBL小説って、男と男が凄い事になってる内容だって」
「…はぁ?それがどうした。気高きファーストの為さる事に関して、私はその全てに異を唱えるつもりはないが?」
「うんうん。イギリス産まれイギリス育ちなのに祖父さんからの覚醒遺伝で見た目完全にアフリカンなお前は、見た目サーファーなのに筋肉がつき過ぎて実は水泳が得意じゃないファーストに、そりゃあ心酔してるもんな〜」
「何が言いたい」

彫りの深い顔立ちに苛立ちを滲ませた仲間を見やり、やっと人間らしい表情が見えたと自称メキシカンはほくそ笑む。

「顰めっ面の同僚なんてお断りって事。お前って、前は人事部に居たんだろ?その悪い癖はいつ直るんだって、マスターレイからも言われてたろ」
「…お前やマスターの様に、騒げない性格なんだ。合わないなら無理に絡むな、放っておけば良いだろう」
「前のマスターはインポ、今のマスターはオカマ。本当のマスターはまだ高校生だってのに、これ以上笑える材料が揃った部署は中々ないと思わない?」
「…」

成程、自分でも判っているのか。
不器用な性格を直したいとは思っている様だと、唇を尖らせて黙り込んだ仲間を横目に、すんっと息を吸い込む。

「あら?なぁ、この匂いって技術班から支給されてる睡眠ガスに似てないか?」
「何、匂いなんてするか?…ああ、気づかなかった。確かにこれは、」
「颯人ぉおおおおお!!!」

空間諸共、大気を裂く様な悲鳴が進行方向から聞こえてきた。
何だ?と、目を丸めている内に駆け出している褐色の肌を見やり、対外実働部員で唯一、カルマ疾風三重奏のSNSアカウントを知っている男もまた、駆け出す。

「さっすが妖精ちゃん、危険を省みない勇敢な所が好きだぞ♪」
「気色悪い事を抜かすな!諸々片付けた後に、お前も片付けてやる!」
「ヒュー、猛烈ぅ♪」

何だかんだ人情味溢れた人間ばかりなのが、対外実働部の売りなのだ。
何せ現部長は、早朝から米を研ぎ始める様な、母親の心を持つ男である。多少ゴツくて気質が荒すぎる所に目を閉じれば、真っ赤な髪が目に痛いくらいで非の打ち所はない。
























「何が、起きてやがる」

随分、あどけない表情だと思った。
常日頃は他人を見下している様な、恐らくは多分に個人的感情が含まれた評価ではあるが、己に自信がある人間とは得てしてそう言う目をしているものだ。見下していると言うよりは、相手にしていない、そんな目を。

「…あ?」
「真っ赤、だ」

ああ、確かに赤い。
例えばその琥珀色の眼差しに映る自分も、抉り出した銃弾を崇めるが如く持ち上げた指先も、いつもは隠されている、実は鋭い犬歯で噛み締められた他人の唇すら、赤い。
ガコンガコンと、きっと働き者の工業科が半壊状態の部活棟を応急措置している音が聞こえてくる。世界はいつも、意識すると大抵は賑やかだ。

「んだよ、まさか血が怖ぇとか言わねぇだろ?」
「…」
「血だ。結局そこで振り回される、いつもそればっかだ」

こんな非日常的な状況ですら空は青く、雲は白く、乾いた山あいの空気は澄んでいる。
不格好な膝枕だ。頭ではなく太股が敷いている高坂日向の膝は、当然ながら固い。麻痺した体、比例して上がった眼圧は眼球を熱で浮かせ、潤ませている。わざわざ自分が何を踏んでいるのか確かめずとも、嵯峨崎佑壱には判った。だから、不格好な膝枕だと言ったのだ。

「特別機動部からシリウスが消えたのは、15年前だった。俺がセントラルに呼ばれた時には居なかった癖に、俺が日本に来てから暫く経って、戻ってきたって報告があったんだ。呼び戻したのはキングだってのは調べるまでもねぇ、だが一位枢機卿のネルヴァはオリオン側の人間だ。だから特別機動部のマスターを継いだ」

肩を抱えられ背中を他人に包まれて、例えばこれが、女性だったり、百歩譲って日向の周囲にいつも蔓延っている親衛隊の誰かなら、少しは絵になるのだろう。

「こそこそ、ネルヴァがシリウスとつるんでるっつーんだ。ンな筈がねぇってな、俺はネクサスの報告を笑い飛ばした。ネルヴァ卿がシリウス卿と犬猿の仲だって事は、セントラルじゃ有名な話だったからな」

残念ながら誰がどう見ても雄でしかない自分よりは、鑑賞に値した筈だ。血塗れの男を甲斐甲斐しく介抱してやれるだけの器があるなら、老若男女問わずモテるだろう。

「そのシリウスが帝王院学園にノコノコ姿を現した。日本は聖地だ。ルークに爵位が移って暫くは相談役として円卓に残ったが、事実上は叶の部下としてでしかない。伯父貴の秘書だったネルヴァを自分の円卓に残さなかったルークが、特別機動部マスター…つまり副社長として任命したのは叶だ。当然、血液重視派の連中は良い顔をしねぇわな」
「…」
「伯父貴にそっくりな面を頑なに隠した所で、ルークがキングのリカバリーだって事は疑いようもなかった。技術班の奴らはシンフォニアだの何だのほざいてやがったか、俺が三年懸かりで覚えた知識をたったの数ヶ月で越された時は、神の血って奴を恨んだっけな。今となりゃ、グレアムだけが選ばれた人類じゃないって事は、判ってる。俺に言わせてみれば、帝王院も化物しかいねぇ」

己に自信がある人間は目で判る。
例えば遠野秀隆、遠野俊江、どちらもそうだ。一目見ただけで近寄ってはいけない人間だと、本能で判った。それなのにどうして、最も近寄ってはいけない人間にこそ、その本能は働かないのか。最も近寄ってはいけない人間にこそ、わさわざ戦いを挑んでしまうのか。

「…良いなぁ。叶も山田も、役職があって」

例えばいつか、二歳の頃に。
同年代の子供を見つけた喜びを上手く表現出来ず、また突然現れた癖に神の子だと崇められている子供が羨ましくて、喧嘩を吹っ掛けた。結果的に大して痛くもない平手打ちを浴び、凪いだ海の如く静かなディープブラッドの双眸に見下されただけだ。

例えばいつか、14歳になったばかりの頃に。
ただ毎日苛々していて、何に苛立っているのかも理解していないまま、偶々視界に入ってきたいやに威圧感のある学ラン姿の男へ殴り掛かり、簡単に投げ飛ばされた。大の字で空を見上げたのは二回目だった。一度目は金髪に、髪より幾らか色が濃い琥珀色の瞳を忌々しげに細めた、可愛らしい顔立ちのネイビーブルーだった。二度目は髪も瞳も学ランさえも余す所なく黒い、週刊漫画を小脇に挟んだ男だった。

「権利にはいつだって、相当の義務が課されるんだ。俺にはない」

神威も日向も共通していたのは、全身で『寄るな』と拒絶していた所だろうか。
唯一の例外は、たった今しがた投げ飛ばしたばかりの相手に右手を差し出し、凪いだ夜空よりも静かな眼差しで、『ごめん』と宣った俊だけだ。身に覚えがない理由で喧嘩を売られ、殴られそうになっておきながら、正当防衛で投げ飛ばした相手にわざわざ謝って手を貸そうとする人間を、佑壱は初めて見た。

「血も繋がってねぇ癖に、叶はセカンドで、山田はクロノス。ファーストでクラウンでランクAなのに、俺には何の権利もねぇ」

第一印象は『コイツ馬鹿じゃねぇの』、だ。
あの頃、俊は佑壱よりほんの少し背が高かった。日本人の平均身長程だったろうが、あの大人びた無表情と眼差しで年上に違いないと思い込み、最近まで疑いもしなかったのだから、馬鹿はやはり自分の方なのだ。
けれど、何処の世にホストでバイトする中学生がいるのか。帝王院の長きに渡る家系図をどれほど遡ろうとも、ホストでバイトして酔っ払ったヤクザを本気で殴り潰し、あわや警察に連れていかれそうになる様な恐ろしい中学生が、何処に存在するのか。

「心配ばっかだ」

真っ白なスーツを赤褐色の汚れで染め、途方に暮れた表情で佑壱のマンションに現れた男を見た時、佑壱は使えるコネは何でも使おうと考えた。なので翌朝には元気良く卵かけご飯をラーメン丼で8杯食べた俊に、おやつの唐揚げとサンドイッチを2斤分残し、買い物に行くと告げてバイクをかっ飛ばし、私服で帝王院学園を全力疾走した上で、親衛隊に囲まれていた日向の胸ぐらを掴み、トイレの個室に連れ込んだのだ。それまで少なくとも学園内で佑壱は、日向に近寄る事はなかった。

「ネルヴァが嫌いなシリウスにわざわざ近づく理由なんざ、考えなくても判るだろうに。少なくともまともな人間だったら、予測はついた」

その一件が人々の噂に上り、いつからか犬猿の仲だと言われる様になったのだ。特に佑壱が高等部に進級してからと言うもの、苦手な理数科目だけは真面目に出席しているので基本的に平日は登校する為、日向と顔を合わせる機会が増えていた。
一年間も顔を合わせる度に口論から始まり殴り合っていれば、犬猿の仲であると認識されても致し方ない。

「…俺ぁ、まともじゃねぇんだろうなぁ」

俊が何処ぞのヤクザを瀕死まで痛めつけた話は、たった数時間後の麗らかな午前中を過ごしていた日向は無論、知らなかった。
万一にも俊が痛めつけたのが高坂組の人間で、報復など考えようものならこの俺が黙っておかないと唸った佑壱に対し、携帯を取り出して組に連絡を入れた日向は、猫撫で声で応答した父親、つまり日本中の極道が怯える偉大な組長に対し、佑壱以上に低い声で『テメェ糞ジジイ、下っ端の躾が甘ぇんだよ咬み殺すぞ』と唸ったのである。

俊は無論無傷で、轟音ばりの腹の音と共に起きてから間もなく2升の米と20個の卵を腹に納め、まるで妊婦の如く膨れた腹を撫でながら『まだまだ入る』と凛々しい表情で宣い、おやつの唐揚げを2kg所望する程度には心身共に元気だったが、佑壱は少々話を盛って、俊が心に傷を負ったと言う話を作り上げた。此処に後のBL小説作家に至る片鱗が見えるだろう。
話をまるっと鵜呑みにした日向に俊の居場所を吐けと凄まれたが、居場所を吐けば唐揚げとサンドイッチを腹に納めた臨月の妊婦を見られてしまうではないか。カルマの総長が双子を妊娠した妊婦の有様では、佑壱は受け入れられるとしても、日向には無理だろう。そんな理由を捏ねたものの、本音は俊の前に日向を連れていきたくなかっただけだ。余りに日向がしつこいので、トイレの個室から出る間際、佑壱は素直に本音を捨て台詞として日向に投げつけておいた。

「家族を大事にしてたつもりだったけど、受け取り拒否したカプセルが店のカウンターに毎週届いてるのを見て、疑うまで知らなかったんだ。違ぇな。知ろうとしなかった」

お陰様で次に顔を合わせた時、根に持っていた日向から口喧嘩を吹っ掛けられ、売られた喧嘩は全財産はたいてでも買えが信条の佑壱は律儀に購入、それを繰り返している内に、今では挨拶代わりに殴り合う有様だ。
山田太陽と言う、平凡な癖に開き直ると突如として行動力を放つ阿呆が、自棄に凛々しい表情で叶二葉にハニートラップを仕掛けると宣った時、佑壱だけではなく隼人も要も健吾も裕也も「絶対無理」と答えた。太陽に二葉が落とせるなら佑壱に日向が落とせると言ったのは誰だったか、売られた喧嘩は買う律儀な馬鹿は、出来ないとは言えない空気に包まれている事を、残念ながら嗅ぎ取ったのだ。

「健吾は左手の指に目立たない傷と、胸から鳩尾までデケー傷があって、初めて会った時は皆と風呂に入りたがらねぇんだよ。んで、修学旅行の風呂が大浴場かどうか聞いてきやがった」

何故、太陽は自信に満ちていたのか。
いやいや、何故、太陽は二葉が鼠径部を撫でられると興奮する事を知っていたのか。この世には難しい事が多すぎる。余りにも。

「体の外に怪我があれば、見せるのを嫌がるのも無理はねぇ。その傷が要を庇って負ったものなら尚更、少なくとも要には見せたくねぇって男心なんだ。さっき知ったばっかだがな」

何故、浴衣姿の二葉がバスローブ姿の太陽と共にファントムウィングに跨がり、運転していない癖にゴーグルは着けていた阿呆は、火炎放射機をロケットランチャーの如く肩に担いでいたのか。この世には謎が多い。
あと、さりげなく二葉が太陽をハニーと呼んでいなかったか。あの魔王とまで謳われ、人格と性格に多大な傷を負った人間として瀕死の男が、言うに事欠いてあのド平凡を語尾にハートが散ってそうな声音で、ハニー、と。

「裕也は骨盤の辺りだった。健吾を直撃した爆発で砕けた石像の破片が、腎臓を辛うじて避けた位置に刺さった。上手い具合に刺さって出血がなかった事、事態の驚きで痛みが麻痺した事、あらゆる状況が裏目に出た。命に別状がなかったとは言え、処置が遅れたからだ」

思い出すだに寒気がする。
この寒気で痛みを忘れられそうだ。

「ステルスに血統重視の人間は少ねぇ。居なくもねぇが、ノアの証は統率符だ。だからこそ、銘の有り無しが重要視される。俺の祖父様、レヴィ=グレアムには与えられなかったものだ。長子継承だったグレアムのイレギュラーはそこから始まった」

7代、ナハト=キング=グレアムには複数の妻と子供があったが、若くして亡くなり、最初の妻が産んだ長男であるリヒト=キング=グレアムが家督を継いだ。間もなく亡くなった彼に子供はなく、けれどレヴィ=グレアムと共に生き残ったアシュレイを含めた数人は、リヒトの弟であるリヒャルトの妻が娘を出産したばかりだったと語り継いでいたそうだ。レヴィ=グレアムにとっては、姪に当たる赤子は然し、アメリカ大陸へは渡っていない。

「血、だ。きっと多分、血なんだ」

銘である統率符がないままノアを継いだレヴィ=ノアは、セントラル建設時に真っ先に教会を作った。亡き家族を慰霊する為に作られたその場で彼は三度結婚し、最後の結婚式は教会の中ではなく海底にひっそりと広がる湖の前で、一切の光を消した闇の中、最後のメア=グレアムとなるナイトに生涯の愛を告げたとされている。三人のクイーンには告げなかったそれを、唯一無二のナイトにだけ。

「シンフォニアは繋がる。きっとお前じゃねぇんだろ。例えば叶が先だった。キング伯父貴にはヴィーゼンバーグの血が流れてるとしても、祖父様にゃ流れてねぇ。グレアムはナハト時代までフランス貴族だったんだからな」

例えば、事、高坂日向に関して、彼の一斉考査の点数が毎回、覚えのある点数だとしても。指摘した所で勘違いだと嘲笑われるだけ、わざわざ口にはしない。

「理由はB型だからだ。多分、叶と裕也の遺伝子は遠すぎた。叶の事だ。どうせ要の血も調べてるに違いねぇ。鈍い要は気づきもしねぇだろうが、きっとそっちも駄目だった。A型とB型は輸血が出来ねぇ。理由は単純に、血にはそれぞれの型に合わせた抗原があるからだ。例外的に抗原が全くない血がある。俺やお前みたいなO型がそうなんだろ?」

ずっと押さえていた肩から力を抜くと、掌に溢れ出ようとする水圧を感じた。いやに静かな男に力が入らない体を預けたまま、遠くから聞こえてくる重機の音に負けじと喋り続けているが、そろそろ疲れてきた頃だ。日向は何の反応も示さない。聞いているのか、いないのか。振り返るのも億劫だ。

「だからって、自分の従兄まで実験に使おうだなんて、叶の奴は何を考えてんのか。幾らシリウスの頼みだろうと、特別機動部の権限はネルヴァじゃなく叶のもんだ。それだけの義務を負って、それだけの仕事をしてる」

日向はやはり、何も言わない。
誰かから口止めされているのか、単に言いたくないのか、それとも、佑壱の言葉が全て的外れだからだろうか。

「裕也にゃ、見えねぇ所に何らかの後遺症があんのか。んで、それを本人は知ってんのか。あのネルヴァが形振り構わず過去の権利に縋らなきゃならねぇ程の、何かが」
「…」
「ステルスにゃ無関係な筈の、叶冬臣のレントゲンデータまでサーバーに保存されてた。何度考えても判らねぇ、だから考えねぇ様にしてたのになぁ」

はらはらと、肩から滴る生温い水の感触。
揺れる地面、重機の音と、はらはらと落ちてくる緑色の葉っぱ。満開だった桜は既に散った。

「…つーか、何か喋れや。警備員まだ来ねぇのかよ」
「赤、は」
「ん?」

日向が全教科満点だったのは、彼が中等部一年で昇校してきた時の、昇校試験だけだ。外部入学生が一学年下に入ってきたと噂になった、佑壱が六年生の時だった。今になれば五年生で中途編入してきた生徒こそ山田太陽で、同時期に中等部へ昇校入学してきたのが日向だった。まるで、謀ったかの様ではないか。

「視界に入れたくない」
「…ぶふ。んだよ、そりゃ。嫌味かよ」
「Don't be」

鼓膜は今、



「Afraid.」

その声を言葉として、正しく認識したのか?

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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