帝王院高等学校
愛する者を襲う試練は連鎖式?
「取引…?」

震え上がるデスクの男は、校長と書かれたプレートを前に、その重責を背負っている年相応の男とは思えない顔色の悪さで、絞り出す様に呟いた。
一方、入室して以降、ただの一度として表情を変えない男は、漆黒の学生服を纏っている事が嘘の様に、およそ年相応の少年には見えない。どちらが冷静であるなど、誰が見ても明らかだ。

「取引の条件は、相互等価交換であるべきだと考えています。どちらか一方に不利があっては、快い取引は出来ない」
「じょ、条件は、な…何なんだ?!君に無礼を働いた教師なら既に地方へ飛ばす準備が整っている…っ。今更辞めると言われても、」
「退学はしません。校長先生が祖父に逆らえない事は、俺なりに理解しています」
「だったら…!」
「そちらに望むのは、卒業までの必要単位と公平な成績判定」

彼は取引を持ち掛けてきた。
入学以来、殆ど登校してこない生徒は新入生代表に相応しい優等生だったが、それは表向きの話だ。不登校同然の生徒に首席を許したと言う、在校生の不満は日々蓄積されている。
テスト期間だけ登校し、規定時間の間は真面目に受験するその生徒は、毎日考え抜いた授業を行っている教師らの自信を根刮ぎ奪っていく程には、採点で丸以外のものをつけられない優秀さだった。少なくとも学校としては非の付け所などない。

「青春、と言うものを味わってみたいと思いました。鳥にはなれない蝉が戻ってきたと思ったら、とっくに真っ赤な翼を生やしていたんです」
「な、んの話を…君は…」
「子猫の様にすり寄ってくるのは、可愛いと思う。でもそれは、猫じゃなくて犬だと気づきました。悪魔を討伐した慈悲深い犬から育てられた俺には、猫は永遠に寄ってこない」

著しく自尊心を傷つけられた教師の中には、彼を評価する者が圧倒的過半数だったが、稀に逆恨みの様な暴挙に出る者もいた。
街中で見掛けた彼に暴言を吐き殴り掛かった挙げ句、側にいた他校生から叩きのめされたクラス担任の一人は、そのまま辞表もなく姿を消している。その日の内に、大切な取引先の一つである遠野総合病院から抗議の書面を受け取った、東雲財閥傘下鷹翼学園理事会は緊急集会を開き、わざわざ足を運んできた東雲幸村会長に謝罪する羽目に陥ったのだ。

「テストには出席します。受けてもいないテストの点を偽装しろなんて愚かな事は、口が裂けても申し上げない。但し必要最低限の出席を容認して頂き、卒業まで在籍させて貰えないかと」
「せ、成績で最も重要視するのは確かに試験の点数だ。国公市立では重要視されている出席態度は、こちらで最低限手配する事は、出来なくもない…」
「そうですか」

けれどそれだけで済んだのは、ある意味僥倖だったろう。
喧嘩の現場を目撃していた一般人からの通報で、補導の話が出ていた少年らの内の一人が、帝王院学園在学中の嵯峨崎佑壱である事はすぐさま日本政府へ通達が入り、震え上がった要人らは口を揃えて、「グレアムには手を出すな」と念を押したらしい。

無論、その嵯峨崎と言う少年がその場に居ても居なくても、東雲財閥があらゆる手を使って鷹翼学園新入生代表の名を、抹消したに違いない。何故ならばその生徒こそが、神の手と謳われている遠野龍一郎の孫にして、灰皇院の全てが「宮様」と呼ぶべき、正統血統だからだ。

「俺が表舞台に立つ事を望んでいない方がいらっしゃる事は、重々承知しています」
「っ、そんな事は…!」
「国を怯えさせる様な真似はしません」
「っ」
「現帝王院財閥会長の初孫は、俺には想像もつかない立場の方の様だ。例えばそれを対外的に兄と呼ぶにしろ、一介のサラリーマンの息子でしかない俺では比べるまでもない相手だと承知しています」
「み、宮様…」
「加えて、俺は己が目立つ事を善しとしない。俺の全ては俺の影に、負った天神の業は、然るべき人材に与えたいと思っているんです。例えばそう、天の名に相応しい光の名を持つ、誰か」

例えば、朝日。例えば、日向。例えば、太陽。
歌う様に、けれど囁く様に彼は、己が通う学校長を怯えさせている事を知っているのかいないのか、立てた人差し指をくるくると回している。まるで、オーケストラの指揮者の様だ。

「学校としては、何の利益にもならない不登校生を擁護するだけの、相応しい対価が気になる所でしょう」
「…そ、そうだ、真面目に登校している生徒達の中で、君だけを理由なく特別扱いする事は、したくない」
「仰る通りです。なので、まず一つ目。卒業後の進路は、それなりに学校の利益になるであろう進学先を選びます」
「た、例えば、何処だねっ?」
「西園寺学園、東理付属、或いは、帝王院学園、本校」
「ま、さか!帝王院学園本校の外部入学は推薦以外では極めて難しい!中等部や最上学部ならともかく、高等部の一般入学に至っては、過去に一切例がないのだがね?!」
「勿論、知ってます。帝王院学園高等部の普通科は、他学部からの転籍や関係姉妹校からの転入を認めている代わりに、外部からの入学を認めていない」
「そ、その通りだ。東京本校高等部の一般入試が募っているのは、推薦入試による体育科、農業コース、商学コース、工業コース、っ、進学科!この中で推薦を伴わない受験で合否判定が下されるのは、進学科だけ…!」
「知ってます」
「例え君が誰であれ、その絶対率が崩れる事はないんだぞ?!」
「だから、選択肢の一つだと申し上げているだけです。受験するかまでは、現時点では考えていない」

泡を吹きながら叫んだ校長は、顔色一つ変えない12歳の少年を前に、わなわなと震えながら、軈て浮かしていた腰を椅子へと落とした。
ある意味、彼なら不可能も可能にしそうな説得力がある。確信はないが、偏差値60を越えている進学校が売りの鷹翼学園で、飄々と首席入学を果たした生徒だ。


「…もし、帝王院本校の外部入学が実現すれ、ば。我が校にとって…これ以上ないマーケティングになるのは、間違いない…」

諦めた様に呟いた校長は、滴る冷や汗を拭う。
過去に日本全国から何千何万の優等生が受験し、その悉くが不合格を期した高等部一般入試には幾つかの抜け穴があるが、提携姉妹校を一時的に受験し、合格後に内部推薦をもぎ取る事で本校へ昇校すると言うのが、最短ルートだ。
体育科や工業コースなどの技能学部に推薦入学を果たした所で、授業内容が全く違う為に、普通科への編入も難しいと言う。

極めて難関で唯一の例外が、偏差値90に届く年もあると噂されている進学科Sクラスだ。学年ごとに、日本中の姉妹校を合わせて数万の生徒の中から、たったの30人だけが選抜されている。
内部では辞退する者も居ると噂されているが、創設以降30人を徹底しているSクラスの生徒は、前期と後期で人間がガラッと変わる事も珍しい話ではない。

記念受験として毎年受験する者は居るが、合格者は一人としていない。
それが帝王院学園東京本校が、モンスター校最強のラスボスと言われる所以でもあった。

「出来る出来ないは、受験生になった頃の君の成績を見て判断するとしよう。…我が校としては、一人として不合格者を出したくないのが本音だ。すまないが、事情を察してくれたまえ…」
「重々」
「一つ目、と言ったな。他の提示条件は、何だね?」
「全国模試を受けます」
「…は?」
「日本中の高校生が受験する、夏季試験がある。勿論、偽名で受験します」
「君は何を言ってるんだ…?高校模試って、君ね、判ってるのか?君は中学生だぞ?」
「帝王院俊…じゃ、流石にバレるでしょうか」
「遠野君!」
「だったら一文字減らして、帝王院神。成績は全国に発表される。あれほど判り安い判断材料はない筈だ」
「ほ…本気かね…?」
「受験までの三年間、俺は高校生として受験します。校長先生のお力添えがあれば、偽名受験も難しい事ではないでしょう?」

あれは、子供ではなかった。
少なくとも何人もの生徒を教えてきた男にとっては、見た事も聞いた事もない、少年を装った他の何かだった。

「最終的に、先程校長先生が仰った通り、中学3年の夏に判断して下さい。俺が鷹翼学園にとって有利な駒なのか、ただの子供なのか」
「…」
「例えば全国一位を取り続ければ、帝王院学園の外部入学合格のハードルも幾らか下がりませんか」
「…幾らか所か、模試は進学科の生徒であれば日本全国から受験するだろう。そこで一位を取ると言う事は、現実的に不可能だ」
「そうですか」
「今年、帝王院が数年前に買収した廃校寸前だった地方の小学校から、内部編入で首席認定された生徒が居ると聞いている。斯くして、その小学校の今年の入学志願者数は去年の実に、30倍」
「広告塔としては申し分がないのでは?」
「その生徒は奇跡に等しいんだよ。話では芸能界なんてものに足を伸ばしているそうだが、どうせ後期には消えているだろう。片手間で持続し続けられるほど、進学科は簡単じゃない」
「俺は勉強よりも、青春の方が重要だと思っています」
「…君ね」
「父からそう教わりました」

動きを止めた校長は、暫く瞬きを忘れ、軈て歪んだ笑みを浮かべたのだ。

「判った。表沙汰には出来ない案件だが、学校長としてではなく、私個人として承認したいと思う」
「有難うございます」
「…今では定年を待つ老体だがね、私は帝王院学園一期卒業生なんだ」
「そうだったんですか?」
「鳳凰先生の教えの元、君の祖父君、駿河の宮様と卒業まで学舎を共にした。ああ、とは言え、今で言う普通科だった私と駿河会長では格が違う」

梅雨がやって来る。
明ければ間もなく全国模試は執り行われ、日本中の受験者が篩に掛けられるだろう。そうと決まれば一刻の猶予もないが、慌てるのは大人だけ。飄々と取引を持ち掛けてきた子供は、恐らくどんな時でも表情を崩さないのだろう。

「苦手だった俳句を毎日の様に学んで、コンクールで金賞を取ったあの方を見た時、私は感動したものだ」
「素晴らしいお話を伺わせて頂きました。お忙しい所、ご挨拶もなくお伺いした事をお詫びします」
「いや、こちらこそ。君が望む通りに手配出来るか答えられていない事は、理解しているつもりだ。それでも私は校長と言う立場にある以上、生徒は全て平等だと思っている」

それが例えば、同級生の一人息子がひっそりと育ててきた一粒種だとしても。
言外そう含ませれば、退出する間際に頭を下げた生徒は、見惚れる様な笑みを浮かべた。

「卒業までお世話になります、宰庄司校長先生」

自分が叶えられなかった淡い夢の一つに、帝王院学園の進学科で学びたかったと言うものが、鷹翼学園12代校長である男にはある。



「…こりゃ参った。笑った顔が、死んだ鳳凰校長先生にそっくりだ…」

甥が残した一人息子の学費を去年まで支援していた彼は、閉じた扉を眺めたまま、椅子へ背中を預けたのだ。

「もしあの子の外部入学が実現すれば、影虎が級友になるかも知れんと言う事か。…全く、因果と言うしかない」

それにしても恐ろしい存在感だった。
恐ろしいほど静かな声音だった。およそ12歳の少年とは思えない程の、静寂と慈悲に満たされた圧倒的に凪いだ声音からは、何の感情も感じる事は出来ないまま。



その夏、彼は言葉通り全国模試結果発表の最上段に『神』の名を以て君臨した。


「…はぁ。どう考えても龍一郎兄さんから睨まれる。勝手に帝王院の名を出してしまうなんて、大殿に何と説明すれば良いのか…」
「おーっほっほっ、宜しいではありませんか!勝手にも何も、俊の宮様は帝王院財閥の大切な大切な跡取りですもの!おーっほっほっ、ああ!村崎が教師になりたいなんて言い出した時は息の根を止めてやろうかと悩みましたが、生かしておいて良かったと言う事でしょうね!おーっほっほっ、おーっほっほっ!」

東雲財閥最高幹部会議の場は、東雲幸村の呆れ顔と、東雲関係者の誰もがマダムデビルと恐れる東雲栄子の珍しい笑い声で包まれたのだ。

「ああ、黙っているなんて私に出来るかしら!隆子さんに教えて差し上げたいわ!」
「だ、駄目だ栄子、こら、待ちなさい!誰か、誰かワラショク社長に連絡をつけろ!栄子のお口のチャックが壊れる前に!早くしろー!!!」

哀れ、最終的には喜びの余り社員を大量虐殺しかねないマダムデビルを力業で黙らせた東雲財閥会長は、その名声をひっそりと上げていた。



「聞いて下さいな、村崎さん。やっぱり貴方のお父様は素晴らしい方よ」
「恭!何やねんこれは、オカンが殴られたて聞いたんやけど?!」
「久し振り、兄さん。見ての通り、母さんは父さんから頬を殴られたんだ」
「そんで何でオトンがICUに入ってはるん?!」
「『肋骨だけで止められただけマシだ…後は頼む…』と言うのが、父さんの遺言」
「死んだらあかんで、オトンンンン!!!!!」

暴れた母を父が殴って止めたと報せを受けた東雲村崎は、殴られた頬を押さえて喜んでいる母親よりも、肋骨を二本折って緊急手術を受けた父親の身を案じ、お見舞いに駄菓子の詰め合わせを持っていったと言う。

「こう言う安っぽいお菓子って美味しいのだけれど、恥ずかしくて中々買えないのよね。あらやだ、貴方は食べたら駄目よ恭さん。こんなものを口にしたら村崎さんみたいなエセ関西人になってしまうわ」
「誰がエセ関西人やねん、ほんま怒るで然し」
「兄さん、外で兄さんの秘書だって言ってる人達が兄さんの喪服だって言い張ってアルマーニのスーツを広げて、婦長が困ってる」
「紫水の宮様、こちらのダブルがお似合いです!」
「いけません紫水の宮様、こちらのトリプルがお似合いです!」
「馬っ鹿、親父はまだ死んでへんっつってんだろうが!」

うんめー棒一本を残して、ほっぺに湿布を貼ったマダムデビルが食べたと言う噂が流れたが、真相は定かではない。






















「我が姫は機嫌が悪いらしい」

困った様に微笑む男の声が聞こえてくるなり、カーテンを巻きつけて簑虫の如く窓辺に張り付いていた塊が、もぞりと蠢いた。

「夕食の時間を過ぎても姿を現さないから、シリウスもテレジアもレイリーも心配している。昼食も食べなかったそうだな」
「…ハーヴィと龍一郎は?」
「二人なら、いつもより多くのポテトサラダが食べられたと、喜んでいた」
「っ、アイツらはァ!」

怒りを露に、しゅばっとカーテンから飛び出してきた人影を笑顔で抱き止めた男は、ダークサファイアの瞳を細め、穏やかな笑みを深める。それを目の当たりにした日本人は忙しなく瞬いたかと思えば、すぐにバタバタと暴れ始めたのだ。

「夫から逃げるつもりか」
「離せぇえええ!!!」
「落ち着きなさい、まるで私がお前を襲っているかの様に思われるだろう。まぁ、それもまた一種のスパイスにはなるだろうが」
「はァ?!」
「そんな真似をしなくても、こうやってキスをくれるだけで大丈夫だ。確かに若くはないが、まだまだ固さには自信がある。触ってみるか?」
「ンな所でスケベすんなァ!愚か者がァアアア!!!」

凄まじい怒声が鼓膜を貫いた。
羽交い締めに等しい状態で手も足も出ないからと言って、耳のすぐ側で絶叫を浴びせられたら、世界の皇帝と呼ばれ久しい男でもひとたまりもない。キンキン、ハウリングしている耳を押さえるに押さえられないまま、銀髪の男爵は懸命に腕の中の男を抱き締め続けた。

「お前が何処でも此処でも盛る所為で龍一郎から『喘ぎ声が煩い』って馬鹿にされた事もあるのに、とうとう庭で俺を玩具にするつもりかレヴィ!」
「いや、流石の私も此処でするつもりは…」
「畜生、皆して俺を馬鹿にして!どうせ笑ってたんだろアメリカン共めぇえええ!!!」

ああ、話が通じない。
こうなってしまってはもう駄目だ、

「…知っているだろう、私はロンドン生まれだ。大陸の地下を間借りしているだけで、アメリカ大陸に国籍はない」
「うわーん、何だよCEOとかCOOとか、もっと判り易い名前にすれば良いじゃねェか、アホー!」
「ああ、その通りだ。私の配慮が足りなかったな、許してくれないか」
「絶対許さん。龍一郎からまた馬鹿にされた!大人の癖に何年経っても英語が喋れない馬鹿野郎だって、アイツは俺を馬鹿にしてる…!」
「そんな事はないだろう。オリオンはナイトを尊敬している」
「だって…!」

遠野夜人、否、ナイト=グレアムが愚図る事は多々ある。
主にダークドラゴンと名高い冬月龍一郎との本気の殴り合い、または、ダークフォックスと名高い冬月龍人と本気のおやつ争奪戦が原因だが、此処まで拗ねているのは近頃では珍しかった。
夜人の拗ね具合を報告に来た部下曰く『今回のナイトは凄く面倒臭い』そうだが、腕の中でくしゃりと顔を歪めた伴侶を見るに、レヴィ=ノア=グレアムの冷静な美貌もやや翳る。

「本当に、何があったんだ?」
「…龍一郎が言った通りだ!俺みたいな馬鹿には、組織内調査部長なんて無理だったんだ…!俺の兄貴みたいな格好良くて頭も良くて優しい男じゃないと、無理なんだァ!」

また、これか。
何かにつけて故郷に残してきた兄の話を口にする夜人のそれが、純粋な兄弟愛とは少し違う事など、とうに判っている。然し、それを教えてやるつもりはなかった。わざわざホームシックを誘発してやる理由はないからだ。

「大丈夫だ。私が選んだお前なら、無理な筈がない」
「うっうっ、り、りば、りぶぁい…!」
「レヴィで良い」

残念ながら夫の名前も満足に発声出来ない男を抱き締めて、世界の覇者はゆったりと微笑んだ。



遠野夜刀と言う人間が永遠のライバルになりそうだと、ダークサファイアの瞳を幾らか細めてはいたが。


















「わっ、」
「いやぁ!」

背後から響いてきた微かな悲鳴に振り返った瞬間、外に比べると随分薄暗い廊下は、先程までと雰囲気を一変させた。

「皆…?!」
「どうしたんだ西尾、井坂!」
「駄目だゆうちゃん、こっちに!」
「何だぁ、お前らお子様がこんな所で何してんだ」

突然、訳の判らない催眠ガスの様なものを嗅がされた身になれば、今の台詞はこちらの台詞だと言いたい。
気丈にもハンカチで口元を覆いながら起き上がろうとした少年は、然し他人を冷たく見下す目でやって来た男が振り上げた足で背を踏まれ、容易く崩れ落ちた。

「こんの、何だはこっちの台詞だ…!僕が誰だか知っての振る舞いか!気安く触るなっ、汚い足を下ろせ…!」
「威勢の良い餓鬼だ。何だこのスキンヘッド、殺してやろうか」
「主任、ガーデンスクエアの照合が終わりました。主任が足蹴にしている生徒は3年Sクラス宮原雄次郎、もう一人は3年Fクラス伊坂颯人です」

二人だ。
いつ現れたのかは判らないが、光王子親衛隊の生徒だけではなく、神帝親衛隊の生徒らまでも倒れ込んでいる廊下に、長身の男女の姿がある。
ニヤニヤと笑う明るい髪色の男は、握っていたコンタクトレンズのケースをジャケットの胸元のポケットに突き刺すと、傍らに控えている茶髪の女性へ眉を跳ねて見せた。

「名前なんざどうでも良い。重要度は」
「主任が踏みつけている生徒はランクC相当かと」
「ふん。どう見てもナイトじゃねぇのは照合する前から判ってんだよ、ナイト以外は全員ランクDだ。…あ?」
「ゆうちゃんから、降りろ…!」

ヘラヘラと薄気味の悪い笑みを浮かべていた男の足首を、凄まじい握力が握り締めている。日本人にしては手足が長い長身のバトラーへ目を落とし、肩を竦めた男は胸元から黒いピストルを取り出した。

「っ、颯人…!」
「ゆうちゃ、動かないで…っ」
「おいおい、冗談だろファックジャパニーズ。テメェみてぇな薄汚い貧乏人が気安く触ってんじゃねぇっつーんだ。糞が、俺が誰だか判らねぇんだろ」
「主任、悪ふざけが過ぎます。その辺で」
「…あ?どいつもこいつも舐めやがって、邪魔するならお前も殺すぞ。部下の癖にこの俺を止められると、」
「伊坂颯人はクラウンセントラル専属のバトラーです。ランクはB相当かと。こちらのデータをご覧下さい」
「クラウンセントラル?…うぜぇ。中央委員会絡みか、誰の専属だ?ヴィーゼンバーグの坊っちゃんか?まさかファーストやセカンドじゃねぇだろう」
「会長直属の様ですが。ご覧下さい、クラウンマスター帝王院神威と記されています」

表情の変わらない能面の様な女が差し出すタブレットを一瞥し、ピストルを握った手でガリガリと後頭部を掻いた男は、くすんだ茶掛かった金髪には似合わない作り物めいた黒目を細めて、宮原を踏みつけていた足を下ろした。

「あーあー、ランクB…ランクBな。俺らトゥルーセントラルのランクBにマジェスティとの面会なんざ、上院総会でもない限り皆無だっつーのに」
「主任」
「わーってるよ、うっせーな。あーあー、せめてファースト専属だったら使い道があるってのに、…運がねぇ」

必死で意識を繋ぎ止めようとしている伊坂の手からはすぐに力が抜け、冷ややかな廊下の上へ落ちる。
わざとらしい笑みを浮かべ、黒い鉄の塊をジャケットの内側に引っ込めた男は、長い足を曲げて屈み込んだ。

「はは、冗談だって冗談。な、判るだろ?こんなん玩具だよ玩具。坊や、悪い事は言わねぇから神帝陛下に告げ口したりすんな。判ってくれるだろ?」
「巫山戯るな…!どんな言い分があってこんな真似をっ」
「うっせーな、お前。何だ、宮原雄次郎だっけ?」

恐らくガスの様なものを嗅がされたに違いないが、体格が恵まれている伊坂から守られる様に歩いていた宮原は、それほどガスを嗅がずに済んだ様だった。
落ちていく瞼を必死で持ち上げようとしている伊坂の、廊下に落ちた手を必死で握り締めた宮原は、柚子姫と持て囃された愛らしい美貌を激怒で染めて、気丈にも屈んでいる男を睨めつける。

「ふーん、あのプリンスヴィーゼンバーグの後ろの席か。そこそこ賢いじゃねぇか、やるなチビハゲ」
「主任、その生徒は光王子親衛隊隊長との記載が。写真とは少し髪型が違う様ですが」
「へー、マジかー。俺ってさぁ、貴族って大嫌いなんだよなぁ。特にイギリス人は駄目だ、どいつもこいつも人を馬鹿だと思ってやがる」
「触るな…っ」

剃ったばかりの宮原の頭を、何が楽しいのかグリグリと押しつける様に撫でている男は、吐き捨てられた宮原の台詞など意も介さず、傍らの女を見上げている。

「コーカサスの癖にアイリッシュだって言い張るロバートの糞野郎なんざ、アートが消えればいつでも殺してやれるのに。舐めてるよなぁ、養父がライオネル=レイなんて、スラムのゴミ野郎には恵まれ過ぎてる肩書きだ」
「主任、ウィリアム=アシュレイを敵視なさるのはお控えを。対外実働部を敵に回すのは」
「得策じゃねぇって言いたいんだろ。見てろ、階級なんざ今までの話だ。円卓が変われば、順位も変わる」
「ナイト=ノアの一位に選ばれる枢機卿は恐らくファーストです」
「良いよなぁ、カルマ。そんなのがあるって知ってたら、人事なんか辞めてジャパニーズヤンキーってのを楽しんでたのによ」
「28歳では不可能かと」
「殺すぞビッチ、女が偉そうな口を聞いてんじゃねぇ」

宮原から手を離した男は立ち上がり、無表情で女の頬を叩いた。
青褪めた宮原は男から猟奇的なものを感じて震えたが、平気そうな彼らとは違って起き上がる事も出来ない自分達では、逆らうのは得策ではない事だけは判る。少なくとも、落ちていく意識を健気に保とうと唇を噛み締めている伊坂は、お姫様から野獣と化した宮原に朝まで愛されていた事もあり、不慣れな行為で心身共に衰弱していた筈だ。

今更己の行いを悔やんだ所で意味はないと思うが、後悔が顔に出る事を止められるほと、高校三年生は大人ではない。

「何、面白い面してんなチビ。大切そうに手なんか繋いじゃってよ、お前らゲイかよ」
「っ」
「は。そっか、ゲイだよな。ヴィーゼンバーグの王子様に抱かれて、毎晩よがってたんだろ?ベルハーツの餓鬼はそんなに悦いのか?幾ら貰ってたんだ?貴族のセックスは凄いのか?え?」
「…っ」
「…る、さい!」

下品な問いかけに口を噤んだ宮原の代わりに、ぎゅっと手を握ってきた伊坂が珍しく声を荒らげる。普段の穏やかな性分である彼からは想像も出来ない恐ろしい表情で、床に倒れたまま顔を上げた彼は、怒りを露に血が滲む唇を一層噛み締めたのだ。

「ゆうちゃん、は、綺麗だ…!高坂君もっ、お金で動く様な人じゃない…!」
「…うぜぇな、マジェスティ専属だからって調子に乗ってると消しちまうぞ。餓鬼を一人消すくらい、訳ねぇんだよ」
「ああっ」
「颯人?!」

言葉通り、伊坂の顔を容赦なく一蹴りした男は、苛立った様にガリガリと頭を掻いて、ダンダンと廊下を蹴った。

「あー、糞、Shit!Fuck!」
「落ち着いて下さい、主任」
「Shout up foolish!…これだから餓鬼は嫌いなんだ!知るかもう、全員ぶっ殺してやる!」
「はっ、颯人ぉおおおおお!!!」

空間を劈く様な悲痛な叫びは、何処へ届いたのだろう。

←いやん(*)(#)ばかん→
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