帝王院高等学校
スーパーモデルの自称パパは超マイペース
「そなたが通う事になる帝王院学園は、どんな所だ?」

キラキラ。
窓辺の椅子に腰かけて、優雅にコーヒーを嗜む男は、何処までも美しかった。

「お祖父様が作ったんだって。父上が継いで、日本で一番大きい学園になったんだ」
「そうか」
「お祖母様が好きだった素焼きの蒲鉾の様に白くて、綺麗なんだ」
「いずれ父の様に学ぶのか」
「父上みたいな立派な男になる。ママ…母上と約束したから」
「勇ましいな。そなたこそ真の武士たるか」
「うん。男は侍なんだ」

初めて見た時から、その人は世界の中心の様に思えただろうか。光も風も、その人を中心に踊っているかの様で、いつまで眺めていても飽きないとすら思えた。幼いながらに、まるで初恋の様にさえ。

「騎士は馬を好む」
「将軍も馬に乗ってるんだ。白馬だよ」
「ならばそなたは、ナイトだな」
「夜の事?」
「騎士だ。チェスでは馬の形をしている駒をそう呼ぶ」
「ふーん」
「不満か」
「良く判んない」
「明日、帰国するんだったな」

ゴロゴロと、すり寄ってくる子猫の様に彼の膝へすり寄れば、濃い海の様な不思議な色合いの瞳を細めた人は、躊躇いがちに撫でてくれる。もっともっととせがめば、やっと、その指先から躊躇いが消えるのが判った。

「帝王院会長は私を己より若いと思っている様だが、内緒話は内緒にしたおかねば楽しくない、だったな」
「そうだよ。忍び込んでる事がバレたら叱られる」

子供だった。
小学校入学を待つ、大人びているだけの幼子だった。世界の理など一つも知らない、無知で無垢な。

「ネルヴァにはバレているが、あれは口が固い。そなたの父の耳に入れなければ良いだけの事だ」
「ねぇ、何で駄目なの?一緒に日本に行こうよ。父上にお願いすれば、学園に入れてくれるよ。兄さんは学校に通った事がないんでしょ?」
「ああ。私の時代では、難しかった」
「何で?」
「盲目だったからだ」
「もーもく?」
「そなたが知る必要はない。今の私には、遠い昔の話だ」
「失礼致します陛下、お茶を」

困った顔で飲み物と茶菓子を運んでくるエメラルドの瞳の男は、内緒にしろと言う命令を律儀に守って、忍び込んでくる子供の事は見ない振りをしてくれる。それでも時々、何か言いたげな表情で見つめてくる事には気づいていた。

「今朝から姿が見えない様だったが、今度こそ口説き落として来たのか?」
「ご冗談を。用がございましたらお呼びつけ下さい、失礼致します」

ネルヴァと呼ばれている灰掛かった髪の彼は、最低限の用件以外では姿を現さない。基本的にはいつも命令を待っていて、恐らく父の秘書と同じ様な仕事をしているのだろうと思っていた。

「兄さん、ちょっと楽しい?」
「そなたには判るか。あの朴念仁が久し振りに色事に振り回されている様だ」
「いろごと?」
「この近くにNASAの基地がある事は知っていよう?」
「うん。父上は昨日、そこの視察に行ったんだ」

秘密のパーティーには大人しかいない。
研究員の様な大人達は誰もが慌ただしく、窓を開けば遥か地平線に聳え立つロケットが見えた。今回のパーティーは、あのロケットの打ち上げを祝福するものの様だ。

「ネルヴァは認めんが、新たな出会いがあった様だ」
「誰と?」
「知りたいか」
「あ、でも秘密は誰にも言ったら駄目なんだよ」
「そなたは誰にも言うまい?」
「指切りしよ!」
「ああ、またか。良かろう、小指だったな」

子供にとっては退屈なパーティーを抜け出して、夥しい数の警備員がまるでそこだけ騒がしい場所から切り取った様に守っている場所がある。無害な子供の小さな体を利用し、黒服達の目を掻い潜ると、そこにいたのは金髪の美丈夫だった。

「従業員の一人に、軍隊上がりの娘がいる。空軍将校の娘だが、何を考えたか陸軍を希望し、暫く内戦厳しい国に派遣されていたそうだ」
「出張って事?」
「そうだ。だが父親の手が回り、半ば無理矢理本国へ連れ戻された。反感からか、この基地への転属を希望したらしい」
「お父さんと喧嘩したって事?」
「その様に可愛らしいものでもあるまい。以前から親子仲は宜しくはなかったと報告が届いている。そなたにはまだ判らんだろうが、一つ二つ年下の腹違いの妹が居た事が火種だった様だ」
「腹違いって何?」
「母親が違う兄弟の事だ」
「良いな、俺も兄弟が欲しい。…あっ、俺って言ったら駄目なんだ。今の、父上と母上には内緒にして!」
「ああ、日本語には様々な一人称がある。子供には辛かろう」

帝王院駿河。
帝王院隆子。
素晴らしい両親から産まれ、何不自由なく6歳の誕生日を迎えようとしている帝王院秀皇にとって、不満は一つだけだった。一人っ子だと言う、その一つだけ。
幼馴染みではあるが、年に数回会う程度だった榛原大空は、初等部入学を控えての入寮準備を名目に、一週間前から帝王院の屋敷に泊まりに来ていた。たまに会う時にはした事もない喧嘩を初めてやったのは、つい最近の事だ。

「大空は悪くない。僕が悪いんだ」
「そうか」
「優しい榛原のおじさんから、凄く叱られてて可哀想だった。だって僕、父上に怒られた事なんてないもん」
「帝王院会長は優しいか」
「うん。兄さんの父上は?」
「父か。記憶している限り、聡明で穏やかな人だった」
「だった?」
「ああ。もう亡くなっている。随分、昔の話だ」
「…寂しくない?」
「ああ。こうして毎日、そなたがやって来てくれる」
「兄弟は?」
「もう居ない」
「へ?」
「一人は数年前に亡くなり、一人は随分前に居なくなり、一人は現実から目を逸らさんばかりに仕事浸けだ」

個別に学園から教師を派遣されている秀皇とは違い、都内の実家から幼稚園に通っている大空は、定期的にある長期の休みにしか遊べない。
幼稚園の話を聞いて羨ましくなった秀皇が不貞腐れた事から始まった子供の喧嘩は、秀皇に飛び蹴りを喰らわせた大空が両親から盛大に叱られて、大人達にはきっと、大空だけが悪い様に思われているだろう。

「私よりずっと、シリウスの方が寂しい思いをしているだろう。ネルヴァが己の浮き立つ心を隠さんとする気持ちも、判らなくもない」
「何で?」
「つい去年の話だ。シリウスの妻が難病であると診断された」
「難病って、病気?」
「そうだ。現時点の医学では最早、神の力でもなければ完治は不可能だろう」
「どんな病気?」
「膵臓癌と言う。手を尽くせば数年生き永らえるだろうが、彼女には最早、切除手術に耐えられる体力はない」
「判んないけど、死んじゃうの?」
「今現在、妊娠している」

甘い甘い、ミルクティーの香り。
コーヒーばかりを飲んでいる人にこうして、出来た秘書は手を変え品を変え、色んなお茶を運んでくるのだ。そのどれも、子供でも口に出来るものばかり。初めは花の香りがするお茶だったが、秀皇が好まないと知るや、一度として運ばれては来ない。

「彼女を救う手立てを模索し、頭を悩ませているのだろう。娶って早十数年になるが、病を宣告されたパートナーの最後の望みは、子を為す事だった。然し既に妊娠に適した年齢ではなく、加えて病魔に蝕まれている。…体外受精とは言え、容易ではあるまい」
「判んないけど、死んじゃうんだ」
「女は母になると強いそうだ。部下の世間話だが、残念ながら私の周囲には家族に恵まれた者はない。だが光を失って久しいテレジアが、近頃は随分楽しそうだと聞いている」
「兄さん、ケーキ食べる?取ってあげよっか」
「いや、私はコーヒーを貰おう。テレジアは以前、コーヒーを好んで淹れてくれたものだ」
「じゃ、僕が淹れてあげる。シリウスさんの奥さんの病気が治ると良いね」
「…我が兄弟と呼べるどれも、永く顔を見ていない」
「本当に寂しくないの?」
「ああ。血を分けた者のみを家族と呼ぶ訳ではないと、私は知っている」
「血が繋がってないのは他人だよ?あ!でも、そっか。兄さんは僕の兄さんだから、良いんだ♪」

飛行機の音がした。
窓辺から外へ顔を覗かせれば、鮮やかな緑の庭が少しだけ翳り、凄まじい音を響かせた大きな鉄の翼が空を遮っていく。ロケットが聳え立つ方向より、少しだけズレた空を真っ直ぐに。

「あんなにおっきな飛行機見たの、初めて」
「空軍専用機だろう。西海岸沿いに海軍のマザーシップが停船しているそうだ。小国の戦争を諌める為に、派遣されるのだろう」
「戦争は危険な事でしょ?やったら駄目なんだ」
「日本ではそうだろうが、世界的に見やれば争いの火種は何処にでもある。実の親子ですら有り得ない話ではない。日々、この星の各地で非情の炎は上がっている」
「止められないの?」
「人の欲に底がない限りは、神とて不可能だ」
「…何で喧嘩したりするんだろ。僕だって大空と喧嘩したけど、お土産持って帰って仲直りするつもりだもん」
「そなたが正しい」
「本当?」
「世界中の民がそなたの如く真っ直ぐであれば、戦争など起こらん」

食べなさいと、優しい眼差しで茶菓子を示した男は、色とりどりのお菓子から一粒のチョコレートだけを摘まんだ。甘いものが好きなのかと聞けば、そうではないらしい。癖の様なものだと、囁く様に。

「本当に日本に来ないの?どうしても駄目?」
「そなたの父が許すまい」
「大丈夫だって!俺…じゃない、僕がお願いしたら許してくれるよ!パパ…じゃない、父上は甘いんだって」
「ほう」
「えっと、可憐おばさんが言ってた。宮様は父親にそっくりだって。息子に甘いから教育には向いてないって、栄子おばさんも言ってた。父上は、絶対に駄目だって言わないんだ」
「ならば、頼んでおいてくれるか」
「本当?!」
「そなたの入学祝いに一つ、贈り物を届けよう」
「え?」

また、躊躇いがちに手が伸びてくる。
届く前に飛び込む様に、ぐりぐりと頭を擦り付けた。笑顔は見た事がないが、柔らかく細められたダークサファイアの瞳が、微笑んでいる様に見える。

「そなたが産まれた頃から建設中の校舎は、創設者の悲願だったそうだ」
「お祖父様?」
「帝王院鳳凰が誰から聞いたか知らんが、完成予定の図面に描かれた建物を、私は良く知っている。いや、そもそも学園の見取り図そのものがまるでセントラルの様だ。…些か惜しいのは、我々はあれをティアーズキャノンとは呼んでいない」

ナイト、と。
囁く様に呼んだその人は、キラキラと光を従えて。



「We calling to our nest. Cannon to Titania.(我々は己らの巣をこう呼ぶ。女王へ向ける砲台、と)」

争い事など、何一つ知らないとばかりに。

























「Enough of excuses.(言い訳は沢山だ)
 技術班のマスター代理がその様では、元老院のお歴々が何と仰るか」

話し声が聞こえてくる。
初めは気の所為だと思ったが、どうにも気になって耳を澄ませてみた。心優しい恋人は飲み物を買ってくると言って、現金が使えない自動販売機ではなく、少し離れた所にあるカフェテラスへと向かったばかりだ。

「暫く待機していろ、学園内で目立つ真似は出来ない。それより、ジェネラルフライアの場所は特定出来そうか?…仕方ない。我々は独自に動かせて貰う。リヴァイアサンは今のところ大人しく従っているが、君の見立て通り、彼らの忠誠など与えた疑問への手懸かりを前にはないも同然の様だ」

日本語だ。流暢だが、ネイティブの発音ではない。
明らかに母国語ではないだろうと言う事は判ったが、お陰様で違和感の謎はすぐに溶けた。人の固有名詞には相応しくない名詞が幾つか聞こえた瞬間、この場を離れるべきだと判断し、声の主が遠ざかるのを確かめてから立ち上がる。



「…信じらんない、何でこんな所に…」

努めて普通通りに、些かの違和感も与えず、視界に移る通行人に擬態する様に演じて。
息を乱してはならない。演じるのだ。風景に擬態するカメレオンの如く、この風景に同化したエキストラの様に、何一つ不自然なく。
暫く煉瓦道の脇、芝生の上を歩けば、賑わっているテラスの奥にある店内から出てきたばかりの男が見えた。目立つ容姿ではないが、見間違える筈もない。

変な気配はないか。
心の中では今にも爆発してしまいそうな焦燥感を抱いたまま、然り気無さを装ってカフェの周囲を見渡した。年上だがぽややんとしている恋人は、まだこちらに気づく様子はない。大切そうに携えた二つの紙コップを溢さない様にと、神経を使っているのが判った。

「I am so tired Osiri.(私はもう駄目だ、Osiri)」

恋人の鈍さに気が抜けるのと同時に、鼓膜を震わせた英語に息を呑む。
悟られない程度に見やれば、カフェテラスでスマホを眺めている外国人男性の姿が見えた。神経質そうな顔立ちの、学者風の男だ。同年代か、少し年上程度。
少なくとも見覚えはないと微かに息を吐く。大陸の地下に巣食う寄生虫に共通するのは、誰も彼もが基本的に日本語を喋ると言う点に尽きるからだ。

「絶望したよ。呪われてるとしか考えられない。5分以上歩けない体になっていた」
『運動不足以外の何物でもありません。このままでは貴方は教授としての威厳を著しく損なうでしょう』
「そこまでか…」
『その花束が枯れる頃、体力はない癖にしぶとい貴方の恋心も枯れてしまうのでしょうか』
「…そろそろ君をAIとは思えなくなってきた。何とでも評価してくれ、数学に必要なのは体力ではなく解明し続ける気力だ」

聞くともなしに聞こえてくる機械音声との会話に、一気に力が抜ける。
ステルシリーのコード持ちは、基本的に所属する部署からは出られない筈だ。対外実働部の行き来すら禁じられている日本は、聖地とされていると聞いていた。けれど先程、ヴァルゴ庭園周辺に植樹されている木々に紛れていた男は、明らかに一般人ではなかった。
わざわざ堂々と偽名が使える職業を選び、愛人紛いの真似までして手に入れた偽造戸籍があろうと、例えば中央情報クラスの社員なら知られていても可笑しくはない。

神田詩織。延いては神崎糸織、冬月糸織。
偉大な父親を持った、と。幼い頃、何度か顔を合わせた父親の職場の人間達は、お決まりの様にそう言った。お決まりの表情のない大人達、お決まりの台詞、生きているだけのマネキンかロボットかの様だった。そう、母親そっくりなロボットの方が余程人間らしく思える程には。

「岳士君、こっちだよ」
「へっ?しおちゃん、あっちで待っててくれて良かったのに」
「ん、何だか寂しくって」
「待たせちゃってごめんね、どれが美味しいのかメニューが良く判らなくてっ」
「あは。私も、カフェメニューって良く判んないんだよねえ。ハニーキャラメルラテなんて言われても、蜂蜜なのかキャラメルなのかカフェラテなのか、はっきりしてよって」
「ご、ごめん、ハニーキャラメルラテが良かったんだね?ちょっとだけ待ってて、今すぐ買い直してくるから…」
「良いってば!大丈夫だから先走らないで。何を選んでくれたの?」
「カ、カルピスティー?」
「へえ、珍しいのがあるんだねえ」
「カルピスなのか紅茶なのか良く判らなくてごめんね!僕は何でいつもこうなんだぁ!」

自虐的なまでに卑屈な恋人の大きな背中を叩いてやり、零れそうなカップを一つ奪う。愚鈍なまでに生真面目な男は、選ぶに選べないメニューからそれでも必死に頭を悩ませてくれたに違いない。

「あは、ありがと。私、本当は甘いもの大好きだよ」
「ん、知ってる。隼人君もそうだった」
「今はどうだか判んないけどね」
「僕の事なんて忘れてるだろうなぁ」
「…絶対忘れてないと思うけど」
「ん?」
「何でもない。それより聞いて、さっきiPhone相手に会話してる外国人が居たんだよ。ふふ、あんなのネタだと思ってた」

見渡す限り、自分達以外には興味がなさそうな他人ばかり。
なだらかな丘の上に聳え立つ白亜の校舎を見上げ、甘い紅茶を啜りながら無意識にヴァルゴ庭園側を見やった。

「どうしたの、しおちゃん」
「んー…」
「お腹空いた?」
「有り得る訳ないって可能性を排除しちゃうと後から痛い目に遭うって事は、判ってるつもりなんだよねえ…」
「はい?」

絶対にない、と言う言葉こそが絶対的に有り得ないのだと、左脳以外は働いていないのではないかと未だに疑っている父親が、口癖の様に繰り返した言葉だ。有り得ないと言う判断は、有り得ないに至る確証を揃えた後でなければならない。何の材料も揃っていないのに思い込む事は、恐ろしい事だ。

「私とした事が調べが甘かった…」
「えっ?」
「ねえ、前に話してくれたの覚えてる?岳士君が退学した頃に会長だった後輩が、失踪したとか言ってた…」
「あ、皇子の君の話?」
「そう。それ、帝王院財閥会長の一人息子だって言ったよね?」
「うん。僕も知ったのは随分後の事でね、物凄く聡明な方だったから初等部の頃から中央委員会入りは確実だって言われてて、当時の歴代最年少で会長になられたんだ。僕が家のゴタゴタで辞める事になった時まではお元気そうだったのに、聞いた話によると高等部には殆ど出席されないまま、卒業式典にも姿を現さなかった、って…」
「この学園の経営者の息子が卒業しないままなんて、絶対変だよ。理由は誰も知らないの?」
「僕も気になってはいたんだけど、ずっと普通科だった僕の当時の友人も普通科卒業の子ばかりで、色々規格外なSクラスに精通してる子なんて居ないんだ」
「あーもー、面倒なのね私立って。Sクラスってのはそんなに複雑なの?」
「勿論。学年上位30番ってだけでもとんでもないのに、首席帝君になれるのはたった一人なんだ。僕が知る限り、Sクラスの偏差値が80を割った事なんてないんじゃないかな…」

小心者の恋人がコップを両手で握ったまま声を潜めるのを見つめながら、決してそれが彼の性格による大袈裟な表現ではないのだろうと考えた。

「その天才しかいない進学科に、あの隼人はひょいっと選ばれた訳ね」
「小学校時代からオール5の成績だったから、ひょっとしてひょっとするかも知れないと思ってたんだけど、まさか昇校希望試験で帝君入りするなんて思ってなくて!僕はもう、連絡を貰った時は心臓が止まったよ…!」
「ふふ。その時よね、アポもないのに事務所に押し掛けてきたの。気弱な振りして、時々変に度胸があるんだもん。ストーカーと間違われて警察呼ばれなくて良かったね」
「そ、その節は皆様にご迷惑を…っ」
「私なんかより、岳士君の方がずっとあの子の保護者だった。本当に、あれがなかったらあの子がどうしてるかなんて、薄情な私は考えた事もないんだもん」
「し、しおちゃんは薄情じゃないよっ。その時はまだ凄く若くて、生きていく事で精一杯だっただけ!」
「庇わなくて良いのに。言ったでしょ、保険証がなかったから産婦人科に行けなかったんだって。産むつもりなんかなかった。…あの子だって、こんな親不孝な家出娘から産まれたくなかったでしょ」

つい不貞腐れた様に言ってしまったと口を押さえた瞬間、顔を真っ赤に染めた恋人が大抵八の字に下がっている眉と眉の間に、少しばかり皺を刻んでいるのが見えた。

これは蚊も殺せない平手打ちがペチッと来るなと覚悟すれば、


「コラ!アンタ女相手に何やってんだ!」

柔らかそうな猫毛の襟足をゴムで結った優男が、お世辞でも見目麗しいとは言えない男が軽く振り上げた右手を掴んでいる。哀れ、見た目はメタボ気味のアラフォーとは言え中身は乙女の様な男は、明らかに怒った表情の若者から覗き込む様に睨まれ、カチンと凍ってしまった。

「女に手を挙げるなんて、男が一番やっちゃいけない事だろうが!」
「えっ?あ、あの、ぼ、僕…っ」
「ナンパに失敗して逆上した口だろ?!アンタ鏡見た方が良いぞ、こんな綺麗なお姉さんがアンタなんか相手にすっかよ、ボケ!」
「ひっ」
「私の岳士君に向かって失礼な事言わないでよっ、糞餓鬼!」

怯えている恋人が掴まれている右手を引っ張りながら、恐らく助けてくれているのだろう若者へ振り上げた右手を躊躇いなく投げつける。

「あ、駄目っ、しおちゃ、」

バチーン!
と言う派手な男が響いたのと同時に、吹き飛んだのは今時の若者ではなく、スーツに着られている恋人その人だった。女の平手打ちと言うものは、振り上げた瞬間から炸裂するまで止まらないものだ。
例えば急に恋人が割り込んできても、一度見定めたルートを反らすのは中々に難しい。


「………は?」

ポカン、と目を丸めている青年は、叩かれた左頬を庇う前に持っていた紙コップを庇った男を暫し見つめてから、同じく呆然としている加害者へ目を向けた。

「ごっ、ごめんねえ、岳士君!やだあ、どうしよう!岳士君を叩いちゃうなんて最低っ、なんて事してくれんのよアンタ!」
「は?!えっ、何、俺が悪いの?!」
「悪いでしょうが!人の旦那様にナンパだの鏡見ろだの何様よ!大体ねえ、アンタこそ鏡見た事あるっ?!アンタよりうちの息子の方がナンボか見られるわよ、性格は最低だけどねっ」
「え、えっ、む、息子って言われても俺、お姉さんの子供知らねぇし…」
「胸糞悪いったらありゃしない!隼人にも劣ってる分際で、この私の可愛い岳士君にぃい…!」
「か、可愛い?!タケシって、このオッサンかよ!何処が可愛いんですか?!」
「はあ?!全部よ、全部っ!信じらんない、岳士君の可愛さが判んないなんてアンタ馬鹿あ?!」
「ヒィ」

今度こそ当てるとばかりに、半ば八つ当たりで右手を振り上げれば、やんわりと背後からその手を掴まれる気配。
人の気配などなかった筈だと振り返れば、こめかみ辺りの眼鏡のテンプルを片手で押さえている別の男の姿がある。見上げる程には背の高い、ただの通行人と言うには目立つ容姿の男だ。

「…武蔵野、お前は何で面倒の種に顔を突っ込みたがるんだ」
「榊ぃ、見てたろ!見てたろ?!何で助けたのに、俺が叩かれそうになってんのかな?!」
「馬に蹴られると言う奴だろう」
「馬?!待てよ、帝王院には乗馬クラブもあんのかよ?!」
「いや、そう言う意味じゃ…待てよ、確か乗馬クラブはある」
「金持ちパネェ!」

どうやら彼らは友人らしい。
すっかり毒気を抜かれた心境の所に、左頬を真っ赤に染めた心優しい小熊の様な恋人が困った様な表情で寄り添ってきた。

「ぼ、僕の所為でごめんね、しおちゃん。右手大丈夫?痛くない?」
「私の心配より、岳士君の方こそ大丈夫っ?ごめんね、力一杯叩いちゃった…っ」
「全然痛くないよ!」

誰がどう見ても痛そうだと真っ赤な頬を見ながら眉を寄せれば、こそこそと声が聞こえてくる。

「…ありゃ絶対痛ぇよな、榊」
「…3階から芝の上に落ちるのと、どっちが痛いと思う?」
「落ちた事あんのかよ」
「それより、お前がナンパ師扱いした男に見覚えがある」
「へ?」
「畠中岳士、元逗子市長」

違和感はあった。
例えば長く大陸の地下に巣食う、忍者よりも質が悪い男爵の従者は総じてマネキンの如く、まるで野生の獣の如く気配がない。唇は笑っていても目が笑っていない。流暢な日本語を喋っていても、何処かに違和感があるものだ。

そんな筈はないと即座に己の思考を打ち消した瞬間、右手に紙コップを大切そうに持ったままやはり痛いのか左手で頬を押さえた男は、小さめの丸い瞳を瞬かせた。

「あれ、いや違うか…あれ?でも、え?」
「岳士君?」
「そんな訳…いやいやでも、えっと、もしかして理事長…ですか?」

ぱちぱちと、寝起きの子供の様に瞬いた男は不思議そうに首を傾げ、その台詞につられて同じく首を傾げれば、眼鏡の男の笑っていない瞳が一瞬だけ眇められたのが見えたのだ。

「岳士君?理事長ってどう言う事?」
「え?…あ、す、すいません!やっぱり違いますよね、全然似てないし!何言ってるんですかね僕、はは…」

なんて呑気な人だろうと、今ばかりは眩暈がする。
一度見たものは忘れない。流し見た招待客用のパンフレットに、帝王院学園の理事長の表記は帝王院帝都と書かれていた。モノクロで印刷された小さい写真だったが、明らかに名前にそぐわない異国の顔立ちをしていた様に思う。

「あれ?って言うか、君が着てるTシャツはもしかして…」

思考の迷宮に陥っている間、恥を掻いた事ですっかり怯えを忘れたらしい人が呟いた。こんな時に何の話だと目を向ければ、カルマと言う文字が目に入る。

「…カルマ?隼人の馬鹿が事務所に事後承諾でローカル雑誌の表紙撮影をやったとか何とか言って問題になってた、あの?」
「しおちゃん、カルマのTシャツは毎年夏に完全数量限定で売り出されるレアグッズだよ。僕は2年連続隼人君モデルに応募してるけど、当たらないんだっ」
「そんなの買うつもり?」
「あのー?お姉さんもしかして、ハヤトの身内っスか?」

中身はともかく、外見はそっちこそナンパ師だろうと言いたくなる微妙にイタリア風な青年に問われ、身内も何も母親だが何となく言いたくなくてフンッとそっぽ向いた。

「あ、あの、か、神崎隼人君はっ、僕達の息子です!」
「えっ?オッサンがハヤトの親父?!嘘だろ、全然似てねぇじゃんか!」
「そうなんです!いやぁ、隼人君はしおちゃん似なので格好良くてスタイル抜群でその上賢くて、いやぁ、非の打ち所がない素晴らしい息子なんですよぉ」

きゃぴきゃぴと我が事の様に自慢しまくる男は、何処で火がついたのかそのまま神崎隼人15歳のあらゆる良い所を羅列し始め、遂には幼い頃の隼人がどれほど可愛らしく活発だったかを、誰も頼んでいないのに語り始めたのだ。
呆気に取られたオタクの師匠は完全に逃げ道を失い、逃げようとしたカフェカルマの店長の腕を目にも止まらない早さで掴む。一人にしないでくれと言う、無言の悲鳴が聞こえた。

「あ、すいません立ち話が長くなってしまって!」
「「…やっと終わった」」
「まだまだ話し足りないし、あっちのカフェでお茶しながら続けませんか?」

続けて堪るかと、気弱そうな癖に意味不明な押しの強さを発揮している男から逃げ出そうとした被害者らは、遠くの方から聞こえてきた破裂音の様なものに弾かれた様に振り返った。

「…花火?」
「今から何かイベントがあるのかな?」

溜息が三人分揃った気がするが、浮かれている自称隼人のパパだけは、元気そうだ。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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