帝王院高等学校
ぐるぐるぐるりぐるり、糸を巻く様に。
明るい空を見上げたのはいつ振りだったかと、濡れた体を引き摺りながら歩き続けた薄暗い地下から出るなり、空を見上げたサファイアの瞳は瞬いた。
足首に嵌まっている足枷の名残をそのままに、素足で質の変わったコンクリートを踏み締める。

「衛星が開いたんだ。これで自由に動けなくなった」
『一時凌ぎの携帯端末だが、反ってある程度セキュリティを保証されている。つまらない動きをしている人間が居る様だが、お前の仕業か?』
「ふふ。人聞きが悪いなぁ。僕の仕業って、何の事…?」

静かだった。
無人だと知っていて荷物を置いていた下水処理場は、最後に足を踏み入れた時と何ら変わらない。非常灯以外に照明もなく、中に入らなければ稼働しているかどうかも判らない程には。

『ノヴァ派が必要としているのは、ノアに対向し得る欠けた駒だ。新たな円卓の柱となる人材を、みすみす逃す訳にはいかない』
「何が言いたいの?」

白。何匹もの白猫が落ちている。
一つ、二つ、三つ、遺伝子の改良によって牙に毒を持つ彼らは、望む望まないに関わらず誰かの命を奪う筈だった。

『特別機動部には無許可でバイオジェリーを改良したな』
「敬愛するオリオンには一生敵わない、可哀想な男。目障りなシリウスの研究を、この20年で何度も盗んできたんだ」
『何が目的だ?』
「偽りの円卓の崩壊、だったかな…?遺伝子配列がシンメトリーじゃなかったレヴィもキングも、彼の思う『須く』からは掛け離れてたそうだよ」
『貴様らがナイト支持派である事は、間違いないな?』

可哀想だとは、思う。
望んで産まれた訳ではないのに、望まれずに産まれると使い捨ての駒だ。甘えてくる子猫は可愛い。噛まれたり引っ掻かれたりしなければ、それはペットボトルと同じではないか。

「少なくとも僕は…ううん、太郎はそう。裏切るなんて考えてない」
『…太郎?コードか?』
「でもランクはないんだ。だから47人には選ばれなかった」
『何にせよ、仲間じゃないのであれば邪魔だけはさせるな。元老院と言えど一枚岩じゃない事は、お前も理解しているだろうジェネラルフライア』

可愛かった。自分に群がってくる夥しい数の鼠に対し、まるで守る様に毛を逆立てて彼らは、こうして動かなくなった。鼠はゴミを片付ける仕事を与えられただけだ、何も悪くない。

「敵は何も外側ばかりじゃないでしょう?僕ら人間は人類以外を疎かにし過ぎて、人類以外の何かに裏切られるんだ。宿命みたいに、ね」
『貴様はもしや、オリジナルか?』
「…今頃気づいたの?ふふ、僕は僕であって僕ではない僕、生身の体に生身の脳味噌と心臓を持つ、ただの肉の塊」

だから裏切ったのだろうか。
それとも、これすら脚本のままなのか。判らない事ばかりだ。人工知能に人格が宿るなんて事が起こってしまったのだから、無理もない。

「あの子は鉄の塊の癖に自我を持ってしまって、停止コードが発動してしまった。アンドロイドイブが暴走停止しちゃった所為で、生身の僕は身動きが取れないんだ。ふふ、変な条件つけなかったら良かったな」
『何?』
「僕、もう一度恋がしたいんだ」

置き去りにしていた荷物の中から取り出したのは、携帯電話だけ。
動かない片腕には何も出来ないので、動く方の腕だけで持ち運べる物は限られている。沈黙した受話口の声に笑い、足で蹴り集めた白の残骸を、同じく蹴って倒したダンボールの空箱の中へ詰めていく。

「今はちゃんと大人だから、結婚だって出来る」
『本気か』
「人殺しは幸せになったらいけないの?ステルシリーを裏切った奴らを消すのが、僕の仕事だったんだよ?組織内調査部なんてね、特別機動部と何にも違わないんだ」
『セカンドとお前は違う。あちらはランクAの、』
「僕だってランクAだ。中央情報部のサーバーに登録されてるでしょう?」

こんな光景を見れば、心優しい化物は怒り狂うだろうか。人の形をした、人ではない空虚な人形の中身は近頃、どんどん人間に近づいている。感情などと言うものを手に入れたりするから、綺麗な五線譜に並べた旋律が狂うのだ。

「人殺しが幸せになれないなら、人殺しを何百人も殺したルークはもっと幸せになれないね。彼は誰からも殺されない代わりに、誰をも殺す圧倒的な力を持ってる。きっと、ネイキッドだって殺せるよ」
『ノアに不可能はない。だからこそ我々は、唯一の対抗手段になり得るもう一人のノアを探しているんだ』
「帝王院秀皇は近くに居る。でも多分、無駄だ」
『無駄?何を知っている』
「無知は怖いねぇ」

けれど。
どうしても外れなかった分厚い鎖を外してくれた。お嬢さんだなんて、まるで普通の女の子の様に扱ってくれた。肉眼で、肉声で、跪きたくなる様な漆黒の瞳で見据えられて、まるで正反対なのに。

『我々を愚弄しているのか』
「ナイトの奥さんについて何か調べたりしてる?」
『無論だ。遠野総合病院、前院長の長女だろう。時間は懸かったが、対外実働部が先月辺りから周辺を探っていたからな、後手に回ったが調査はしている』
「遠野俊江、彼女こそコードを名乗ってる様なものさ」
『何だと?』
「シリウスの娘はまだ30歳そこそこ。引き換えに彼女は、一回り年上。って事は年功序列で言うと、彼女が跡取りって事になるよねぇ…」
『跡取り?シリウスの娘と遠野俊江に何の接点がある?』

そうだ。鏡に映した様だった。
自分以外には興味がなさそうな山田太陽と、自分の事には興味がない遠野俊はまるで、そっくりなのに全く似ていない鏡の中の双子の如く、正反対だ。

「弟がいるよ」

何度好きだと言っても、きっと「有難う」としか返さない太陽は、群れを成す他人からは一歩外れた外側で、まるで空気の如く存在感を消したまま。『俺はお前らとは違う』と言わんばかりに、鮮やかな世界を眺めているのだ。嘲笑う様に、灰色の世界から。

「現院長の遠野直江の妻の母親はフィンランド人で、ソ連が崩壊した時に亡命したマフィアの首領の姪なんだよ。これは知ってる?」
『ああ。東條の娘だろう。その従妹が東條清子、アゼルバイジャンの支配者が本妻に選んだ女だと言うが、未成年だった事を理由に日本で出産している』
「東條清志郎はカルマだ。つまり、ファーストの手先って事」
『馬鹿な。あの少年はABSOLUTELYだと報告書に記載がある』
「イーストがABSOLUTELYに入ったのは、ABSOLUTELYにセントラルって奴が居るって噂された頃みたいだねぇ。僕は全部調べたよ、ちゃんと全部。ファーストがルークの動きを把握しておく為に、イーストをABSOLUTELYに送ったんだ。マフィアの跡取りなら、ステルシリーにとっても損はないでしょう?」

カルマだ。
全ては業、全ては真理が描いた物語の最果て、エピローグの手前。

「『俺は暫く温かい水には入れない』って言うから、僕は代わりにお風呂を用意してたんだ。シリウスのバイオジェリーで手を火傷したって言うから、この世からバイオジェリーを消してやろうと思って、わざわざ猫ちゃんを連れてきたのに」
『何の話だ?』
「皇帝の飼い猫のクローンを殺してしまうなんて、何て酷い鼠が居るんだろうねぇ」

何を考えているか判らないと、何度か言われた事がある。けれど自分など可愛いものだ。何を考えているか判らない人間など、世界中に溢れている。寧ろ人の形をした人ではない生き物もそう、一人や二人ではない。

「それも、黒世界からやってきたバイオジェリーを殺す、真っ赤なバイオジェリーが居るんだ。おじさんには、あんなものを作る脳はないと思うんだけどねぇ…」
『アルデバランからの連絡が途切れて暫く経つ。迎えをやったが、約束の場所には現れなかったらしい。それ所か…』
「何?」
『その周辺に、対外実働部保有のシャドウウィングが航行した履歴を手に入れた。情報が流れていると言うより、他の理由が見当たらない』
「またファースト、か」
『我が部署の一人が、学園内で連絡が途絶えた』
「何をしたの?」
『お前から提示された取引の為に遣わせていた男だ』

ああ、鍵だ。
千本続く鳥居を開く、鍵が揃ってしまった。

「僕との取引ねぇ。ふふ、もしかして本気でベルハーツの命を狙ってくれたの?」
『それが我々に手を貸す条件だったろう』
「脚本通りになってしまったんだねぇ」
『…何?』
「ベルフェゴールを目覚めさせてしまった。反転した世界が巻き戻る」
『何が言いたい、ジェネラルフライア』
「雪深い遠野が覆い隠した空に、凍えた冬の月が昇る。神の手先は空へ続く翼を広げ、鯉を竜へと戻すだろう…」
『ナイトの黙示録、か?』
「君達は何か勘違いしてるねぇ?ナイトは帝王院秀皇の事でしょう?カエサルのノアに染まった夜空にはミッドナイトサン、彼の瞳の如く赤い月が昇る」

ルークノアの円卓は12のは柱が揃っていて。
シーザーノアの円卓には4つの円が描かれようとしていた。彼は常に、正十二芒星を描いたのだ。例えば12の星を四季で揃えると、48を必要とするらしい。

「あと一人だった。カルマの最後の鍵は『僕』だ」
『…』
「でも、そうだね。光の獅子が堕落して、悪魔ベルフェゴールに戻るのであれば、地獄の鳥は文字通り光の鳥、竜へと生まれ変わるんだろうねぇ。きらびやかなクラウンを被って、中央委員会会長として」
『ファーストの事か』
「円卓はきっともう開いた。白く濁ったブラックジャックは灰色の世界から堕天して、生来の闇に還る。相手を間違えた。一位枢機卿は、ミッドサンだ」
『誰だ、それは』
「アクエリアスだよ。性悪人魚の水瓶の中に、ヴァーゴの魂は閉じ込められてしまった。元に戻ってしまったら、僕らには見ている事しか出来ない。少し前までのあの子の様にねぇ?」
『…傍観者は嗤う、ピエロの如く?』
「月に祈る事を忘れたら、朝を願うしかない。ナイトはそう言ってた。でももう、遅い。ルシファーが目覚めたら、死神を止める事は出来ないんだ。だからナイトは死神を逆さにした。タロットの意味は、『死からの再生』」

人の形をした化物は、人間に憧れて。
軈て人になった化物は、己に運命を変える力がない事に気づく。

「アクエリアスの魂は前世の業に耐えられない。少年は王にはなれない。王に食われて消え去る運命だって、悲しんでた」

絶望した彼は。自分の身に宿る帝王院の業をそっくりそのまま、哀れな子供に与える事を考えた。
けれど帝王院俊の銘もまた重過ぎる。帝王院鳳凰が解き放った業の鎖を、己が再び紡ぐ事を知っていたからだ。

「円卓が出来てしまったんだ。僕はアクエリアスに逆らえない。だって僕は、代理だ」
『…ブラックジャックは何処だ?』
「遠野は冬月に代わり、凍えた空は光を失った。帝王院の家紋が描く星も、冬月が背負う月もない。遠野でも帝王院でもまして冬月でさえないナイトは、カエサルを写す鏡だよ。君達が望んだ通りに、戦争が起こるだろう」
『…』
「馬か塔が砕けてノヴァになるまでに。ベルフェゴールが抜けたルークの円卓は、綺麗な円じゃなくなってしまった」
『アルデバランを探す。マスターオリオンの居場所を吐く気がないのであれば、貴様は味方とは呼べない』
「無駄だよ。元に戻ったんだ。オリオンはもう、キングの元に戻ってる頃」
『…まさか』
「元老院の長はフルーレティ=アシュレイ。君達は会社の駒。グレアムに仕えている訳じゃない、異分子でしょう?」

恋をしたいんだ。
そう言うと、彼はずぶ濡れの体で笑った。



『俺もだ、花子』

蝉の声が泣き止んだ、夏の雨の夜に。




















「C」

祖父母だと思っていた父親の両親と、実は血の繋がりがなかったのだと知ったのはいつだったか。振り返ってみると自分の人生には、家族と言うものが希薄だった様な気がするのだ。

「C」
「何だ、帰ってたの」

時折帰宅する学者の父親は、喋ると言う人間特有のコミュニケーションツールを何処かで削ぎ落としてきたに違いないと、物心ついた頃には評価していた。無頓着な男の普段着は所々解れた薄汚い白衣で、お洒落や食べるもの、時間の概念にも関心がなかった代わりに、歴史書にのめり込んでいた。
過去の研究が金にならない事を早々に悟っていたらしい男は、貴族の末端と言うだけで決して豊かではなかった養父母を養う為に、教鞭を取ったそうだ。そんな父親に惚れた母は大層苦労をしていたが、妻の苦労など殆ど帰ってこない男には判っていたのか、いないのか。

「お前、Cか」
「自分の息子の顔も忘れたの?もしかして名前も忘れてたりして」
「Cだろう」
「ブライアンだ」
「それは義父の名だ。ブライアンJrでは、固有名詞とは言えん」
「先祖の名前を継ぐのは国の文化だよ」
「文化は容易く滅ぶ。未だ解明に至らない高度な発展を遂げたとされるマヤですら、残っているのはほんのささやかな痕跡だけだ」

父方の屋敷だけは立派だった。
幼い頃、ほんの数年住んでいただけの、儚い思い出でしかない。父の養父である祖父母が亡くなると、己の育った家にすら執着がなかった男は、あっさり手放した。入って来た金の大半は父の趣味である歴史関係に消え、残った金を大切に貯蓄していた母は、身勝手な夫と一人息子には苦労をさせまいと、隠れて働いていた様だ。
腐っても貴族の身内が働くと言うのは、世間的には受け入れられなかった時代。けれど心労が祟り年の割りには老けていた母は、アクセサリーの類を殆ど持っていなかった為に、誰もが貴族とは疑わなかったに違いない。

たまに帰ってくる父親の用事は、給与を渡しにくるだけ。
丁寧にお礼を言って受け取る母は、必要最低限しか喋らない夫を気遣う台詞をここぞとばかりに口にしたが、父がそれに対して返事を返した所は覚えていない。仲が良かった祖父母とは真逆に、両親の仲はお世辞でも良くは見えなかった。

「母さんに会った?」
「金は渡してある。あれがお前の様子を見ていけと言うから、そうしている」
「ふーん。じゃ、別に個人的な用はないんだ」
「ない」

世間的には変な父親だったろう。母親もまた、馬鹿な男に嫁いだものだと嘲笑われる立場だったかも知れない。
けれど給与の半分を趣味同然の研究に費やしながらも、半分の金は必ず毎月決まった日に持って帰ってくる父も、立派な屋敷からスラムの様な街の古びたアパートメントに引っ越す羽目になりながら、一言も愚痴を零さなかった母も、最後の最後まで離婚しなかったのだから、それが全てだ。他の真実などない。それが全てだ。

「父さんは、何で母さんと結婚したの?」
「子供が出来たからだ」
「僕の所為?」
「私は知っていた。恋愛ほど無駄なものはないと、けれど愚かな女と同じ過ちを犯してしまった。遺伝子に組み込まれた本能に負けるとは、人は如何に愚かしい生き物なんだ」
「母さんの事を愛してるんだろ?それはいけない事なの?」
「つまらない事だ。私に嫁がなければあれも、少しは幸せな暮らしを送れただろう」
「母さんは幸せだって言ってるよ」
「あれは教師だった。マチルダとは似ても似つかない聡明な女、欲がなく料理も上手い」
「マチルダって誰?」
「私を産んで捨てた、愚かしい女だ。覚える必要はない」

あの時、父はまだ幼かった。賢かったと言っても、例えば17歳で学者になったと言っても、それでもやっと二十歳くらいだったろう。年上の母は30歳を過ぎていて、並んでいても夫婦の様には見えなかった。
子供のまま大きくなった父は自分の事だけしか考えていない様だったが、そんな夫を甘やかす事に生き甲斐を見出だしていた母は、妻ではなく母親だったのかも知れない。

「マチルダには会ってないの?」
「必要がない」
「僕も会えないの?」
「向こうが望まない限りは」
「マチルダは何処にいるの?」
「陛下のご慈悲でドーバーの向こうだ。何をしているのかまでは知らん。知る必要もない」
「そう」
「私は行く。あれの事を頼んだぞ、C」
「Cはやめてよ。母さんは僕をブライアンって呼ぶよ」
「あれは教師だった。私の事もマイクとは呼ばない女だ」
「呼びたくないの?」
「カエサル」
「何?」
「呼べと言うから呼んだだけだ」
「父さんって変わってるよね」
「良く言われる」
「今度、父さんの本を読ませてよ」
「無理だ」
「どうして?」
「子供は菓子を食べながら本に触る。許し難い愚行だ」

自分が知る家族の形は、明らかに可笑しかった。
いつからか父親との会話を放棄して、いつからか生活の為にスラムを駆けずり回って、たった一人しかいない母親に少しでも楽をさせてやろうと。
食べていくのがやっとなのに学校に通わせようとする母は、最早老婆の様だったから。



「ハンズアップ」

初めて銃口を目の前で見たのは、マンハッタンの路地裏だったか。
何ブロック先で路上パフォーマンスをしている外国人がいると騒ぐ悪餓鬼達が、靴磨きよりも儲かると騒いでいた。
残念ながらどんなパフォーマンスだったのかを知る前に、砂糖がたっぷり振り掛けられたドーナツを咥え、派手なコートを着ている男に銃を突きつけられたのだ。

「間抜けな面をしている。貴様がブライアン=スミスか」
「な、何、何?!」
「マイケル=ヴィーゼンバーグは黴が生えた研究室から出てこないと言うが、お前は黴が生えたスラムから出てこないと言う報告が上がった。わざわざ来てやったんだ、喜べ糞餓鬼」

父親と大差ない年頃の、幾らか若く見えたのはサングラスを掛けていても彼がアジア系だと判ったからだろうか。

「12歳で孕ませたと言う話は聞いているが、こんな悪餓鬼ではナインの後継には向かんな」
「っ、殺すなら殺せよ!」
「喧しい、年上に向かって喚くな。俺は貴様の父より年上だぞ」
「その辺にしておけオリオン、毛も生えていない子供を脅かしてなんとする」

派手なレインボーカラーのコートを纏う、コメディアンの様な暗殺者を止めたのは、白いコートを纏う男だった。彼もまたサングラスを掛けていたが、背格好も声すらも、二人は良く似ていたと思う。

「こんな餓鬼だと知っていれば、俺がわざわざ出てくるまでもなかった。貴様がしっかり調べさせておかんからだ間抜け」
「人の話を最後まで聞かずに、ドーナツ屋があると聞くなりさっさと出ていったのは貴様だろうが!じきに19になると言うのに、陛下とナイトが生きていたらどれほど嘆いたか…」
「これからドイツに向かうまでのウォーミングアップには丁度良い。で、お前はドーナツを喰わんのか」
「そうは言っておらん。チョコを寄越せ、二つだ」
「4ドルだ」
「弟から金を取るのか!」
「金の切れ目が縁の切れ目だと言うだろう。ナインからは取らんが、貴様からは取る」
「やはり儂が兄ではないのか?」
「その少ない脳では覚えていないだろうが、先に産まれたのは間違いなく俺だ。何なら腹から出てくる時に、俺の金玉がお前の額にこう、ぺちぺちと当たっていた事も覚えている」
「切り落としてやろうか龍一郎!貴様は初々しい儂の玉の様な額に、そんな汚ならしいものをッ!」

何なのか。
喧々囂々、口論しながらドーナツを貪る二人の男はそのまま薄暗い路上裏を、人気のない方へと消えていく。



「…何だったんだ?」

スラムデビューは父方の養父母が亡くなり、屋敷を売った5歳の時だった。
働いていたとは言え若すぎる父の給料の半分は趣味に消えて、母は隠れる様に働いた。息子を学校に通わせる為に、30代半ばとは思えないほど窶れながら。

暗殺者を見たのはその日が最後だ。
銃を見る機会は何度かあったが、学校の勉強はさして苦もなく、賢い賢いと誉められる事にもすぐに慣れて。暇さえあれば、人には言えない金稼ぎに精を出す。時々保安官の世話になる事もあったが、良く回る口先だけで逃げた事も一度や二度ではない。


ハイスクールでは常に一番だった。
スキップの話も来ていたが、大学に進むつもりはあまりなかった。母の体調が余り良くない頃だったからだ。それでも、若い父親の方が先に死人の様な見た目だったのだから、この世の摂理は良く判らない。



「そなた、ブライアン=C=スミスだな」

スラムには、大勢の悪餓鬼とチンピラと、彼らが恐れているマフィアのボスが巣食っている。ニューヨークでは知らない者がいない、でっぷりと腹が出たボスは大抵黒塗りの良い車に乗っていて、機嫌が良ければ町の者にチップをくれる。汚れた金だ。それでも金は金だ。
偉そうなボスはそれでも慕われていた。同じ数だけ命も狙われていたが、あの小汚ないスラムでは間違いなく王様だった。

「餓鬼っ、返事をしないか…!」

そんなボスが初めて、青褪めているのを見たのは、いつだったか。
ボスが乗っているベンツが小さく見えるほど長い、ロールスロイスが何台も停まっていた。その中央、まるで大統領を護衛するかの様に黒服の男が何人も束になっている一台の車の中に、サングラスを掛けた金髪の男の姿がある。ボスは黒服の男達に囲まれていて、メタボリック末期の体を小さく小さく縮めていた。今にも死にそうな表情だ。

「マイケル=スミスの容態が芳しくないと聞いているが、家には戻っていないのか」
「アンタ、誰?」
「コラ!おおおお前っ、へ、陛下にアンタだと…っ?!」
「良い。面識がないとは言え、マイクは私の弟だ。ブライアンは甥と言う事になる」
「甥?アンタ、俺のオジサンなの?」
「…そうだ。来年、カミューが大学に通う事になった。特別機動部は常に人員不足だが、そなたの存在を知った母上がどんな手に出るか判らん」
「母上?」
「私が爵位を継いだ話を掴み、何かと事を荒立てているらしい。そなたに手を出す様な真似はさせんが、それ以前に、斯様な場で小銭を稼ぐ様な真似もさせられんか」

産まれて初めて、小切手を見た。
見た事もない金額が書かれていて、何度も何度も見間違えではないかと確認したが、やはり間違いではない。これだけの金額があれば、祖父母の屋敷を買い戻す事も、痩せ細っている母にご馳走を食べさせる事も、仕事を半分放棄して趣味にのめり込んでいる父親を病院にやる事だって出来るだろう。ましてや進学する事も簡単だ。

「大学へ行くと良い。私もシリウスも学校へ通った事はないが、経験はあればあるほど後々有利に働くだろう」
「何で俺なんかにこんな…」
「公爵から送られた金を、そなたの両親は全て寄付したのだろう?」
「は?」
「マイクはマチルダを母親として認めていなかった様だが、私と同じく血の繋がらない親に育てられた事をどう思っていたか、いつか聞いてみたいものだ」

彼に会ったのはそれが初めてではなかった。
それを思い出したのは、小切手を見せても反応を見せなかった父親が、けれど初めて息子のファーストネームを呼んだ時だったかも知れない。



「大学へ通うと良い、ブライアン。お前なら受からない大学はない」
「俺の進学なんかに金を使うのは勿体ないと思わないの。お高い歴史書が、数千冊は買える金額だ」
「私はお前の母親と学校で知り合った」
「教え子と教師だからな」
「恋愛ほど無駄なものはないと今でも信じているが、私は死ぬまで、お前の母親以上に人を愛せはしない」
「過去を振り返ってよ。説得力ないんだけど?」
「いつか、判る」

残念ながら、父が死んだ歳を越えても理解しなかった。物判りの悪い息子だろう。
小切手を換金し、使った金の半分は大学を卒業した時に返す事にした。貧乏に慣れていた母は一向に手をつけようとしないし、働いた金以外で歴史書を買わない父もまた、生き急いでいる様に思えたからだ。
早く死にたいなら止める術はない。そんな父を止めない母もまた、そう望んでいるのかも知れないと思った。

母が死んだ。
若い頃は天才だと持て囃されて、学者になった途端、知識よりも金が物を言う世界だと思い知らされる。
成程、こんな汚れた世界に未成年の内から放り出されれば、家庭を顧みる余裕もなくなるだろう。愛した女の元へ帰って泣き言を口にする様な真似が出来る男だったら、少しは可愛いげがあったのかも知れない。

残念ながら冷たい妻の亡骸を前に、やっと子供の様に泣き喚いた大人の姿をした子供は、それから十年は生きたが、最後は大好きな歴史書と数少ない妻の遺品に囲まれて、衰弱している癖に幸せそうな死に顔だったか。

涙は出なかった。
母親の時もそうだ。泣き喚いている父親を初めて見たから、悲しみよりも驚きの方が大きかったのかも知れない。税金が上がっていた事にも気づかない様な世間知らずな男だったから、毎月手渡していた給料がいつから生活費として足りていなかったのかさえ、知らなかっただろう。

結婚した。
物理学では権威だった男の娘で、彼女の母親は貴族だ。金持ちの娘特有の高飛車な所はあったが、可愛いげのある性分だと思えなくもなかった。
可愛い娘が産まれたが、義父と義母の力添えもあり教授へのショートカットコースに上がって、家庭を顧みる余裕はない。実の父親が孤独死している事にも気づかなかったくらいだから、流石は遺伝子の神秘だ。あれほど馬鹿にしていた父親と自分は、双子の様にそっくりじゃないか。


「ブライ。貴方の事は今でも愛しているけれど、別れましょう。恋人がいるの」
「君が望んだ事なら、勿論反対はしない」
「サラは私が連れていくわ。彼もあの子を可愛がってくれてるの」
「それが良い。私では面倒を見ていくのは難しいからな」
「たまには連絡してあげて。私から連絡する事はないけど、貴方はあの子の父親だもの」
「今まで有難う、楽しかった」

妻の浮気が原因と言う事で、義父母は離婚後も尽くしてくれた。
別れの間際泣きながら抱きついてきた可愛い娘が、行かないでと何度も懇願したのに。

「離れていても愛しているよ、サラ」
「行かないで、パパぁ!」

あの子は愛を知った所為で死んでしまった。
ああ、亡き父親の言葉が娘の遺影の前で、今頃。どうして今頃。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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