帝王院高等学校
スイート&スパイシーは相容れますか?
「さ…桜…」
「ぇ?」
「っ、そんなに乱れて…!」

寝苦しいのか、冷たさを感じる美貌に脂汗を滲ませている幼馴染みの呻き声を聞きつけ、運び込まれてきたクラスメートでごった返している保健室を駆け回っていた安部河桜は、何とも妙な寝言を宣ったかと思えば飛び起きた男と目が合うなり、きょとんと首を傾げた。

「おはょ、セイちゃん。桜はもぉ、散っちゃったょ?」
「…は?散った…?」
「もしかして寝惚けてる?」
「でも今、俺の下で満開………夢か…」

何の夢を見たのか、怪訝げな桜を認め絶望の表情に変わった東條清志郎と言えば、信じられないとばかりに顔を覆う。

「セイちゃん、痛ぃとこはない?脱がして怪我がないか見てあげられたらぁ、良かったんだけどねぇ。次から次に皆が運ばれてくるからぁ、後回しになっちゃって」
「脱がす…?桜が?!」
「ぇ?まだ脱がしてなぃょ?」
「そ、そうだな!」

どうやらあらゆるタイミングが悪かったらしい。
可愛らしい寝顔を晒している川南北斗から、抱き枕代わりにされている西指宿麻飛を隣に見つけたが、その光景で冷静さを取り戻したのか、押さえていた目元から手を離す。

とても口には出せない夢を見ていた覚えがある東條は、然し清廉の君と謳われるロシアンビューティーの精悍な顔を引き締め、北斗に抱き潰されてうんうん魘されている麻飛の顔に、顔を覆っている左手ではなく持て余していた右手で、ぽふっと枕を叩きつけた。

「よ〜し、中道も野上君も怪我はな〜ぃ。良かったぁ」

まったり喜びの声を挙げている幼馴染みの、腹の面積に比べると小さい背中を見やれば、普段まったりしている性格の癖に変に男らしい桜は、ぽてぽてとクラスメートに近寄るなりガバッと服を剥ぎ取り、一人一人の怪我の具合を確かめている様だ。

「保険医の姿が見えないが、お前一人で介抱してるのか?」
「警備の人も手伝ってくれてるよぅ?部活棟の応急処置をしてくれてる工業科の皆さんも怪我したり色々あって、人手が足りなぃんだってぇ」
「見た所、ウエストとノーサは無傷じゃないか。叩き起こして手伝わせよう」
「ぁはは。川南先輩はさっきまで風紀で走り回ってらしたからぁ、疲れてるんだよぅ。王呀の君を起こしちゃうと動けないはっくんが大変そぅだもん」

確かに、倫理観のなさは西指宿も東條も大差ない。
腹違いの弟だろうと手を出しかねない馬鹿自治会長を起こした所で、叶二葉の目がない今、サボりの天才が真面目に働くだろうか。比較的真面目な北斗ですら、この様だ。

「次はぁ、東宮君と宰庄司君〜」
「俺も手伝える事はないか、桜」

何とも羨ましい光景に涎が出そうになった図書委員長は、艶やかなエメラルドブルーの瞳を眇めつつ、ミイラの様な有様で転がっている後輩を見つけた。寝返りでも打ったのか、ベッドの上で横向きに眠っているそれはどう見ても前左席委員会長代理だが、包帯で脇腹をぐるぐる巻かれている以外に、何故か目元にまで包帯を巻かれつつある。

「…書記、それは何の真似だ?」
「あ、お疲れ様です東條君。人手が足りなくて君や王呀の君を探してたら担ぎ込まれてくる星河の君を見掛けてしまって、つい」
「つい?」
「大した事じゃないよ。…それにしても、どうして攻め顔って包帯が似合うのかな。ハァハァ」

高等部自治会三役が、図らずも揃っていた。ABSOLUTELYランクBも揃っていると言えるだろう。ウエスト、イースト、ノースサウスを除く最後の一人は、事実上存在しないも同然だ。
然しながら、満面の笑みで西指宿の頭を抱き潰そうとしている北斗が本当は狸寝入りではないのかなどと疑うよりも、存在感がまるで空気の様な自治会役員仲間であるクラスメートが、にこにこと神崎隼人の顔に包帯を巻いている意味が判らない。いや、知らない方が良いのだろうか。

「東條君、君はたまにお忙しい中央委員会執行部の皆様に代わって、式典の挨拶を代行してるでしょう…?」
「…それがどうした?」

廊下の外にまで運び込まれてきた皆が転がっている様で、機敏とは言わないまでも休みなく動き回っている桜の姿が廊下へ消えた途端、隼人の目元から外した包帯をちみちみ巻き直し始めた書記は、呟いた。
式典では正装が義務づけられている中央委員会三役は、会長を除いて仮面の着用義務もある。式典正装の始まりは、洋風文化を取り入れようとした創始者、帝王院鳳凰が社交パーティーを模したものだと語り継がれていた。

「今年の陛下挨拶は、光王子の声真似だった?」
「鋭いな」
「君は光王子閣下に変装したんだ」

第一期中央委員会会長だった帝王院駿河に誂えられたのは、同時では珍しかったビロード製のチェスターフィールドコートだったそうだ。モダンな黒地に金の刺繍が入った当時の衣装は、日中解放されているスコーピオ一階廊下に飾られている。

代を重ねるに連れ、金持ちの息子が多い事から、徐々に衣装が奇抜になっていった。生徒の自主性を重んじる学園はこれを容認し、いつからか仮面の着用までが正装に含まれる様になったそうだ。
娯楽の少ない学園内に於いて、中央委員会は全本校生徒の模範でもありアイドルでもある。崇拝したがる生徒達の夢を叶えるかの如く、現在の歴代最上級と謳われる御三家の代で、会長までもが仮面を着用する様になった。

つまりは、壇上に上がっている彼らが本人であるのかは、仮面を外さなければ判らない事だ。現会長の帝王院神威が壇上に上がったのは、彼が編入を果たした高等部入学式典での、中央委員会会長就任挨拶だけだと東條は知っている。
入学式典に比べて参加生徒の少ない卒業式典挨拶には出席するが、初めて目にする中央委員会役員に対して悲鳴を上げたがる新入生らは、神帝にとって『雑音』でしかない。

だからと言って生徒代表が式典欠席では話にならないので、近頃は声真似が異常に上手い日向が神威の出で立ちを真似て、壇上に上がっている。日向の身長が低かった頃までは、ABSOLUTELYに召し抱えられたばかりの東條が扮装し、マイクを通した声だけ日向が吹き込んだ音声を流していた事もある。
即興で会長挨拶が出来るあの器用さは、流石に東條にも真似出来ない。

「姿形を偽ると、殆どの人間は騙されるんだよね…」
「何が言いたい?」
「天の君は校庭で猫ちゃんを追い掛けてたけど、ふふふ。本当はワンコが好きなんじゃないかなって、思ってね?」

廊下からまた、安部河桜の『よ〜し』と言う声が聞こえてきた。
微笑んでいる影の薄いクラスメート兼自治会書記を前に、東條清志郎はその鋭利な眼差しを一度瞬かせると、務めて冷静に怪訝な表情を装ったのだ。

「何が言いたいのか良く判らないな」
「僕、将来教師になりたいんだ。出来れば帝王院系列の、もっと言えばちょっと田舎の方が良いって思ってる」
「そうか、君の成績なら苦はないだろう」
「でも、帝王院学園がなくなったら意味ないけれど…」

にっこり。
2年Sクラス4番の微笑みを前に、2年Sクラス3番である東條清志郎はその言葉の意味を探り続けた。薄く瞳を開いている北斗に気づいたが、同位4番席に座っている彼には謎めいた台詞の意味が、判ったのだろうか。

「ねぇ、君はカルマって知ってる?」

東條は今ほど、己の表情が『堅い』と評される事を善しと思った事はなかった。北斗の眼差しが真っ直ぐ東條を見上げている事に気づいた所で、何の意味もない。

「僕の推しは勿論総長なんだけど、君達の推しカルメンは誰?」

そう言えば、Sクラスにはまともな生徒がいないそうだ。























さくりと、足元で軽快な音がした。
新雪を踏んだ様な気持ち良さに瞬いて、目映く色のない白い世界でまた一歩、足を踏み締める。

さくり。
さくり。
その内その音が雪より響く事に気づけば、そよそよと、真冬とは違う穏やかな風の音が聞き分けられる様になったのだ。何故だか酷く、空気が新鮮な気もしてくる。


「何だかマイナスイオンを感じる様な…」

目映い世界で瞼を閉じたまま、鼓膜を震わせる全ての音を五線譜へと刻み込む。美しい自然の音楽を奏でる事など、人間には出来ない事を知っている。

いつだったか、夏休みに無人島へ慰安旅行に行った時に、人の手で犯されていない原生林を散策した。名目は探検、中身は殆ど肝試しの様なものだったろう。あの時、先頭を歩く背中を追い掛けていると、日が落ちる前にも関わらず暗い森の中、先を行く背中が囁く様に言った言葉を覚えている。

空気が美味しいな、と。
独り言の様な台詞にあの時、何と答えたのだったか。

「…空気は窒素と酸素と二酸化炭素とアルゴンの混合物で、味はしない。地殻の半数は酸素によって形成され、地球の中心には酸素とケイ素が多く含まれていて、心肺が取り込めるのは2割に満たない酸素だけ。然しあらゆる生物は酸素により酸化し、酸素がなければ生きていけない代わりに、酸素があるが故に老化するものだ」

理論的には判る言葉を、恐らく自分は今尚、理解している訳ではない。マイナスイオンだのα波だの、測定器の上でしか確認出来ない事を実感しているかと問われて、頷く事は虚偽に当たる。つまりは判らない。

「目に見えないものは…」

目に見えないものの存在に怯える必要はない、と。いつかあの人は言った。
絆は目に見えるだろう、だから疑う必要はないのだと。そうだ。確かにその言葉を聞いた。ただ、意味を理解していなかっただけ。

声が聞こえる。
喋っていないのに、その不特定多数の声は聞こえた。いつか、大人に怯えていた幼い日の話だ。言葉が通じない相手に縋らなければ不安だった、余りにも弱い己を恥じていた時の。
埃臭くていつも鬱蒼としている屋根裏部屋には西向きの窓だけ、朝日が上っても気づかない代わりに、夕日が沈んでいくのは良く見える部屋だった。剥き出しの太い梁には蜘蛛の巣が垂れ下がっていて、ベニヤ板の屋根の裏側には雨漏りの跡が大きく滲んでいる。
あの部屋のあの匂いがカビによるものだと知ったのは、部屋を去ってからだ。

物置部屋同然だった所の半分はゴミの様なものが詰まれていて、お情け程度のラグを敷いた上に幾らか破れた蕎麦殻枕と、年中薄っぺらい毛布だけ。その部屋で暮らす様になってから間もなくの冬、寒さに震えていると、こっそりやってきた老女が子供用の半纏を持ってきてくれたのだ。
それを着るととても温かくて良く眠れた事を、何故だか今もはっきり覚えている。幼い頃の記憶などそんなものだ。どうでも良い事ばかり良く覚えている。

「ピアノとオルガンは全然違った。鍵盤が固くて、シフトペダルに足が届かない」

バイオリンに初めて触れたのはいつだったか。
思い出せない記憶の方がずっと多い癖に、調律の悪いオルガンで得意気になっていた子供は、本物の天才が奏でる本物の音を知ったその時に、自分は選ばれなかったのだと思い知る。痛いほど。

痛くて痛くて悲しいのにずっと聴いていたくなるほど、それは素晴らしい音だった。あれを人の指が奏でている事が不思議でならなかった。目の前で見ているにも関わらず、鼓膜を通じて目の前に広がった光景は、余りにも浮世離れしていただろう。



『ピアノ弾けるんだ?』
『…うん』
『じゃあさ、じゃあさ、今度弾いてくんない?』
『やだ』
『え、何で?!』

ああ、つまらない事を思い出した。

『やだから、やなの』
『え?え?何で?何か怒ってる?あ、判った、お腹空いてんだろ?』
『…』
『お、俺、うまいケーキあんの知ってるから持ってきてやるよ。あのケーキに乗ってるメロンと苺がマジで、すんげーうまいから!』

凄く恥ずかしい事を思い出した、そんな気分だ。

『おい』
『…んだよ、あんま見んな』
『何で?』
『何でって、何なん?さっきまで俺の事なんか無視してた癖に、演奏した後から態度変わってね?しっしっ、くっついてくんな!』
『メロンのケーキ』
『食いたいならオメーは自分で取ってこいよ』
『何で?』
『うっせーな!でっけー緑の目で見んな、つーか近いって!あんま近寄んなし!』

けれど罪悪感や苛立ちはない。
昨日までの自分とは少し、違う気がする。何処が違うのかは残念ながら判らない。自分を肉眼で見る事など出来ないからだ。目で見えないものは理解する事がとても難しい。

思い出に浸る為に目を閉じた訳ではない。単に眩しいからだ。視界が閉ざされると聴覚が増す。誰もいない所では、普段は煩わしい音が明瞭化された。空気が奏でる微かな音ですら心地好い。


「久し振りの協和音…」

完璧な音だ。
あの日、天才と呼ばれた少年が奏でた幾つもの楽器もそうだった。
あの日、太陽が核融合と共に巻き起こす炎の如く雄々しい人からその座を奪い、抱く黒を以て日食を起こした異邦人が、軈て見えない指揮棒を振り上げ、地を這う犬をオーケストラの一員へと塗り替えた時も、そうだった。

高野健吾はその十本の指で無機物の楽器に命を吹き込み、遠野俊はその号令一つで人を犬にも楽器にも変え、五線譜を完全協和音程で埋め尽くす。不安など欠片もなかった。何処までも心地好い、祝福された音の暴力だ。

『蝉の鳴き声は不快です』
『蝉が嫌いなのか』
『油蝉や蜩はそうでもないんですけど、…熊蝉とミンミン蝉の合唱は不愉快だと思いませんか?』
『求愛してるんだ。もし俺達が蝉の雌だったら、受ける印象が違ったかも知れないぞ』
『孔雀の求愛も不愉快だと思います。そうだ、猫の発情期なんて最上級ですよ。求愛するなとは言いませんが、もう少し静かに繁殖すれば良いのに』

世界には不協和音の方が多い。聞きたくない音の方がずっと多い。

『それでも世界から全ての音が聞こえたら、寂しくないか?』
『そうですか?俺には判りません』
『そうか、残念だな』
『残念?…そう、ですね』

大なり小なり色んな音が当然の如く重なりあった奇跡の音は、軈て閉ざされた瞼の裏側に、くっきりと森を描いていった。
ゆっくりと瞼を開けば、眩しいと感じたのはキラキラと万華鏡の様に瞬いている、木々の隙間を零れた木漏れ日だったのだと、まず真っ先に理解する。そよそよと靡く風が大気を震わせて、木漏れ日がまた、瞬いた。光が当たっている所以外はコントラストが高く、色の濃さと同じく暗い。

静かだ。
目を閉じていると艶やかなまでに自然が奏でる音が聞こえたけれど、瞼を開くと途端にミュートが掛かる。掌を開くと木漏れ日がキラキラと肌の色を斑にして、握り締めると折り曲げた指の関節と関節の隙間を踊った。
光は握り締める事など出来ない。知っている、捕まえられそうに思ったのは錯覚だ。


「ふん、また山の中ですか。先程とは違う景色ですが、今度は何処なのか」
「いった!」

ガンッ、と言う音に続いて聞き慣れた声が聞こえてきた。
弾かれた様に瞼を開いた錦織要の視界には、緑に赤が混ざる紅葉に囲まれた樹海のやや開けた所に、紅葉より赤みの薄いダンボールや煉瓦で組まれた小さな建物がある。そこから飛び出ている無駄に長い足と、まるで猫か彪の様に晒されている尻が見えた。

「あちゃー。判ってたけどやっぱ入んないかあ。あたた、狭すぎてデコ打っちゃった…」
「…」
「つーかこの態勢ってかなりきついんだけどお。火災報知器の中に潜り込んでたカナメってば何なの、前世で軟体動物だったりして」
「誰がタコですって?」
「あだ!」

やはり聞き慣れた声だと眉を潜めた要は、古代の遺跡か竈の様な建物から飛び出ている四つん這いの尻を躊躇わず右足で踏みつけ、ぐしゃっと崩れ落ちた男が地面に伏せたままずりずりと這い出てくるのを見守った。
擦り剥いたらしい高い鼻を押さえながら、少しばかり赤く染まっている額の下にある垂れ目に涙を滲ませた神崎隼人が、唸りながら忌々しげに見上げてくる。

「出たな、悪の手先めえ…」
「犯してくれと言わんばかりに尻を振っているから、お望みのモノをぶち込んでやったまでですよ」
「誘ってねーっつーの!そっちこそ男の癖に細い腰してさあ、ドライバーで猫踏んじゃった弾きながらお尻フリフリしてたよねえ?!」

ぱたぱたと顔の土を払いながら起き上がった隼人の頭に、ヒラヒラと落ちてきた斑な色合いの紅葉が音もなく乗った。まるで童話の銀狐が人間に化ける時の様だと、反射的に思い至った要は素早く口元を手で覆ったが、憤っている隼人は頭に黄色を帯びた赤い葉を乗せたまま、ぷりぷり頬を膨らます。

「壁に穴開けてる尻にこっちが穴開けてやろうかと思ったけどお、隼人君はカナメと違ってお育ちのよいジェントルマンだから我慢してあげたのにさあ!何でカナメは我慢出来ない子なの?!何でバイオレンスコミュニケーションしか取れないの?!」
「…」
「ちょっと、聞いてんの?!幾ら太平洋よりおおらかな隼人君だってさあ、こんな事されたら怒るんだからねえ?!蛇の脱け殻見つけてもあげないんだからあ、ばかー!」

ぐっと身を乗り出した隼人の頭からひらりと葉が落ち、吊り上がろうとしていた灰色の垂れ目が今気づいたとばかりに落ちてきた紅葉を見送ったのを見た要は、もう無理だとばかりに吹き出しながら屈み込んだ。
幾ら油断していたからと言って、喚いた台詞はおよそ人気モデルのものとは思えない。

「く…!狐なのは顔だけだと思ってたの、に…!くっくっ」
「はあ?何、すんごい失礼な事考えてない?何で失笑してんの?殴ってもよい?」
「お前だって俺の尻を踏んだ事があるでしょう。忘れたとは言わせませんよ、入学式典の朝です」
「入学式典?…ああ、何か探してるとか何とか言って、ゴミ箱覗き込んで死んでた時でしょ?」

笑い始めると止まらなくなる病を拗らせている高野健吾とは違い、腹を抱えるほど笑える事態でも即座に復活し冷静に戻れる要は、すぐに背を正した。もうないのに頭を手で撫でている隼人の、いつもはそれなりにセットされている髪が蛇の様にうねっている。
頬を何かが掠めた様な気配に、また落ち葉かと右手で左頬を撫でれば、俊から貰ったリング型ピアスの羽根が掠めただけだった様だ。
指先にチクリと羽根骨の部分が触って、そろそろ手入れをしなければならない時期かと息を吐く。

「腹が減ったと言う総長を中庭で待たせて、アンダーラインのベーカリーショップへ買い出しに言ったほんの数分の間に、居なくなってたんです。念のためジュースを6本与えておいたのに…」
「ボスにその場を動くなってさあ、デパートで三歳児にじっとしてろって言ってる様なもんだよねえ」
「総長の身体能力ならセキュリティなどあってない様なものだと思ったので、お前の偽造リングを借りに行ったんです」
「あーね。そう言えばあの時の借りってさあ、いつ返ってくんの?」
「は?金を貸せと言うからすんなり貸してやったでしょうが」
「はい?日本語が変ですよカナメちゃん、それとこれとは別じゃない?」
「男の癖に小さい事を言いますね。仕方ない、今まで俺はお前に散々恩を売ってきた覚えしかありませんが、そのツケをチャラにしてあげます」
「どーゆー事?!そんなもん売られた覚えないんだけどお?!」
「まずはカルマに入るなりインフルエンザを貰ってきた何処かの馬鹿の所為で、ユウさんや俺達まで移ってしまった時」
「ぐ」

一つ目とばかりに指を立てた要が、笑っていない眼差しの下、唇をそっと吊り上げた。まさかそんな過去の話を持ち出されるとは思っていなかった隼人は、過去の浮気を追及される旦那の様な表情で眉を寄せる。

「全く何ともなかったのは総長だけで、お優しい総長が作って下さった不思議な色合いのお粥を食べた俺達の半数は、軽い食中毒で更に苦しみました」

要とは全く違う意味で炊事能力がない某オタクが腕を奮った、数少ないミステリアス料理にお粥がある。

「カナメちゃんとユーヤはさあ、すぐに熱も下がって食中りもしなかったじゃん」
「その所為で風邪を拗らせたお前の看病を押しつけられるんです。ユウさんのマンションならともかく、寮に戻ってきたら俺が隣の部屋だからって、いつもいつも」
「うう」

俊の前では甲斐甲斐しく世話をしてやる振りをする誰もが、俊から目が離れる学園内では本性を隠さない。例えば、入学式典以降禁煙していた要も俊が総長になってからは、集会で吸った事はなかった。良く言うではないか、親の目が離れると子供は何をしているか判らないものだと。

「何か探してたんでしょう?」
「へ?」

居たたまれないのか、毎年新型インフルエンザを律儀に頂いてくる男は、色素の薄い瞳を俯かせている。
例えば先月までの話だ。俊の目がなければ、学年が違うとは言えあの佑壱ですら、寮内で隼人の面倒を見たりなどしなかった。殆ど隼人が一方的に毛嫌いしている健吾や、判り易く隼人と仲の悪い裕也が隼人の世話をする筈がなく、また隼人が二人を自分の部屋に入れる事もない。

「こんな訳の判らないものに潜り込むなんて、らしくない事をするので驚きました」

そもそも去年まで、隼人に与えられた帝君部屋はほぼ無人に等しかった。授業免除でロケなどに出掛けていく隼人は、少なくとも体調が良い時には外で泊まってくる。それこそ自称モテキングの名を欲しいまま、およそ誉められた所業ではないだろうが、器用なのか佑壱の様に恨まれて刺される様な真似はしていない様だ。
ただ、体調が悪い時だけ真っ直ぐ帰ってくる。いつか誰かが浮気性の旦那が妻の元に戻ってくる様だと嘯いていたが、恐らく、弱っている所を他人に見られたくないのだろうと要は考えた。その気持ちは判らない事もなかったからだ。

「らしくないって、カナメちゃんが知ってる俺の事なんてさあ、ほーんのちょっぴりでしょーが」
「頭で計算していない本音を言う時の一人称が『俺』になる事は、何となく理解してますが?」
「いやー!何コイツ、デリカシーないよねえ!」

隼人に両親がいない事は何となく知っていた。
まさか実の父親が西指宿とは思いもしなかったが、知った所でお互い様だ。愛人の子供と言う一点では自分と何ら変わらない。義兄がいると言う所ですら、まるで双子の様にお揃いではないか。

「弱いと思われたくなくて肩を張る気持ちも、まぁ、判りますがね。お前の尻の穴まで見ている俺に格好つけるだけ無駄ですよ」
「はあ?!何で、」
「一度、インフルエンザが治ってないのに平気な素振りで学園に帰った事があったでしょう?お前の強がりなんてお見通しだったユウさんに座薬を渡された俺は、夜中に熱が上がっている様ならぶち込めと言われて、仕方なく気づかれない様に見張ってました」
「ちょっとお待ちなさいカナメさん、君は何を言っちゃってんのかなあ?」
「叶二葉に隠密を叩き込まれた俺にとっては、李ほどではないにせよ、ハヤトの部屋に忍び込む事なんて朝飯前なんです」
「どんだけセキュリティ敷いてると思ってんの?!部屋で神帝飼ってる様なボス程じゃないけど、隼人君のセキュリティって我ながらエグいんだけど?!」
「エグいと言うのは、床下や天井裏にまで何らかのセキュリティを敷いてから言いなさい。ドアと玄関先に気をつける程度では、命が幾つあっても足りません」
「…」
「今、俺の事をエグいと思いましたか?」
「それってさあ、…そんなよい笑顔で聞く事なのお?」

他人から何を言われても、今では誉め言葉だ。
恐れられる事は心地好い。下手に下心を持って寄ってくる人間より、警戒して近づいてこない人間の方が賢いと思える。どちらにせよ他人は他人、鬱陶しいだけ。

「山田とお前は初めから気に食わないだけで、目障りだから消そうと思った事は今の所まだない」
「へえ、眼鏡のひとを懐柔した21番君を呼びに捨てにするなんて…」
「では聞きますけど、あの洋蘭の鼠径部をどうやって晒すんですか?晒した後に撫でろと?それとも舐めろと?どちらにせよそんな真似をするくらいなら、死を選びます」
「白百合を舐めたい人なんてえ、いっぱいいるけどねえ」
「お前みたいなマゾだけでしょ」
「誰がマゾだっつーの!苛められて喜ぶ変態と、この神をも恐れぬスーパーモデルを一緒にするなんて、バチが当たるんだからあ!」
「甲高い声で喚くな、煩い」

要より10cm近く大きい男のネクタイを鷲掴み、チクチクと頬や首筋を刺す羽根の痛みに眉を跳ねながら、垂れっぱなしの目とは真逆に良く吊り上げる唇を睨み付けた。
何だか柔らかそうだ、なんて思った訳ではない。

そう言えば、昔シャンメリーだと嘯いた隼人からシャンパンを飲まされて悪酔いした挙げ句、服を剥かれて押し倒された事がある。いや、あの時は自分から脱いだんだったか。
仰向けに倒れた体勢で他人を見上げたのは初めてだった。あの時の苛立ちを覚えている。そうだ、あの時は確か、『腹を晒すのはお前だろうが』と、何故か異常に腹立たしくて、にまにましている男を押し倒し返した。結果的に暴れた隼人に急所を膝蹴りされて、痛み分けだ。

「嗤嗤、丑八怪(は、変な顔)」

噛みついた唇をべろりと舐めてやれば、想定の範囲を軽々飛び越えたらしい男は間抜けな表情で瞬きさえ忘れて、動きを止めている。

「キ、キス…した?!」
「黙らせただけです。初めてでもないでしょうが」
「カナメちゃんとすんのは初めてだもん!」
「そうでしたか?早く歯を磨かないと虫歯が移る」
「そっちからした癖に、ばかー!虫歯なんてあるかあ、あほー!」

全く煩い男だ。
女子供の様に喚くなと耳を塞げば、赤いのか青いのか判らない顔色でゴシゴシと唇を拭っている隼人の手に、黒いものが見えたのだ。

「…なしなし、今のなんてチューした内に入んないやつ。お子様なカナメちゃんはろくにチューの仕方も知らないなんて、可哀想だねえ!可哀想だから、隼人君が大人のチューを教えてあげてもよいよ!」
「それ、鴉の羽根ですか?」

酷く立派な、一片の。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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