帝王院高等学校
恐れるなと、怯える子供へ繰り返すのです。
「あーあーあー」
「黙って歩くんだわ」
「つーか、そろそろ本気で重い。今すぐ痩せろ乳デブ」
「失礼な事を言うんじゃないんだわ、このクソ男」

長い長い階段の、これは何度目の踊り場なのか。
世界を股に掛ける世界的音楽家の愛想笑いも錆び付いてくる頃だと、あっちこっち伝線しているストッキングを穿いた女の足から脇腹を踵で蹴られた男は、愛想笑いを益々凍らせた。

「お、奥様、お口が悪いですよ…」
「この小林、奥様の手より先に毒が出るご性分を今更改善出来るとは思っておりませんが、せめて太陽坊っちゃんの通う学校内くらいはおしとやかになさって下さいませ。聡明にして気高くお優しくもありまた慎ましくもあられる太陽坊っちゃんが、まかり間違って非行の道に走ってしまわれたら小林は…小林は!」
「それは流石に飛躍し過ぎと言うか…。でも専務の意見は一理あります奥様、夕陽坊っちゃんは聡明ですが、残念ながら奥様と社長の悪い所を多々受け継いでしまわれています。この一ノ瀬、暇さえあればテレビゲームに興じる以外に手が懸からない太陽坊っちゃんがこのまますくすく育ってくれる事を、何よりも願っているのです」

ワラショク取締役に共通するのは、口を開けばデレなしツンドラの山田夕陽とは見た目も性格も違う、若年寄りな長男が期待の跡取りと言う一点である。
現在では、定年を迎えた創立時取締役の一人である村井和彰が最高顧問の立場で、定期的に行われている本社会議や株主総会に顔を出すのが、現在の彼の主な仕事だ。実業家としてはまだまだ若い山田大空を未だ指導し、本社社員からの尊敬と畏怖を集めている和彰こそ、ワラショクで最も孫を評価している。

「期待するのは勝手だけど、太陽にやる気がなけりゃ押しつけがましいだけなんだわ。近頃じゃ、お医者ですら子供に継がせるのはナンセンスだって言ってるそうだし」

初孫にして跡取りである長男に対しての評価は、それこそ某中央委員会会計に引けを取らない。

「父さんや大空が会社で何て言ってるかは知らないけど、アキにしろヤスにしろ、やりたい事があるなら、私としてはそれぞれの自由にさせたいんだわ。ニートじゃ困るけど、今のままだと就職先も進学先も選び放題ってなもんでしょ」
「ふーん。乳に栄養持ってかれたノータリンかと思や、親みたいな事言ってら」
「指揮棒振ってオーケストラは従えられても、妻の一人も従えられないノータリンに言われるなんて。ふ、ちゃんちゃら可笑しいんだわ」

日本人のお手本と言うくらいに平凡な少年が、将来的に社長になるかゲーム廃人になるのかは、本人のみぞ知る所だ。旦那が何を考えているにせよ、母親としては子供の自主性に任せたいと思うのは変ではない。
然しそんな慈悲深い母の想いも、子供が居ない所ではハリボテだ。小学生レベルの口論を繰り返す指揮者と魔女の口論は、誰の目に見ても明らかに男の方が劣勢だった。

「アンタ元々ピアノやってたんだって?そんな繊細な男には見えないけど、どうせ猫踏んじゃったくらいしか弾けないんじゃないの?」
「市民栄誉賞取ってから言えブス。俺のラ・カンパネラを聴いたら『抱いてぇ』ってなるぞマジで」
「良く判んない曲名出されても判りませーん。もっと有名なの言いなさいよ、判ってない男なんだわ」
「オメーの無能さを人の所為にするな!リストだリスト、イケメンピアニストの!」
「あーね、クラシックはゴッホしか知らないんだわ」
「バッハと言え!ゴッホは絵描きじゃねぇか!」
「へー、そうなの?」

怒鳴る高野省吾に対して、山田陽子の態度は素っ気ない。
ほじほじと耳を小指でほじり、「だから何?」と言わんばかりだ。流石は歴代帝王院学園入学生のトップ5には入るだろう、ドSの権化を夫に持つだけの事はある。山田家ドSランキングがあれば、間違いなく陽子が首位独占だ。

「もー、千明ぃ、アイツ何処に行ったんだ。大人げなく恨むぞ本気で…」
「ぐずぐず言ってる暇があったら早く歩け」

女と言う生き物には、繊細な男の気持ちが判らないらしい。繊細な男の中でも更に繊細な音楽家の感性なんてものは、ワゴンセールで度々殺し合うと言われているアマゾネスの前では微々たるものだ。
あの嵯峨崎佑壱ですら、ワラショクのタイムセールでマダムの狩り場に挑み、命からがら逃げ帰った経験がある。特売の鳥肉は結局のところゲット出来ないままだった。

「…この乳デブ女、俺は揉む時に腱鞘炎になりかねないサイズの女は好みじゃないんだ。畜生が、お前絶対にろくな死に方しないからな」
「へー、アンタ死ぬ時の事まで考えて日々生活してんの?大した暇人なんだわ、お気の毒に」
「態度がデケェ女め、口から先に産まれた様な所は佳子に似てるのか。デカイのは乳だけにしとけブス」
「はいはい、ペラペラ喋る男はモテないんだわ」
「お前なんかにモテるよりマシだ」

お姫様抱っこをする男とされる女。
美しい光景なのに何故、二人の間には甘いムードではなく殺伐としたムードが漂っているのか。下りたがる女と下ろしたがる男は然し、糸で縫いつけられたかの如く離れられない様だ。
さっさと先に行った高坂向日葵は賢いと言えるだろう。どうにもニヤニヤ見つめてくる陽子の視線が苦手だったらしく、極道とは思えないへっぴり腰で逃げていった。

「アンタなんかに触られるピアノと女は可哀想だわ。やだやだ、良い年したオッサンが若作りしてんのってダサいっつーの」
「30過ぎた女も所詮可愛いげを失ったババアだろうが。今度どんどん萎れていくだけだ、肌も乳も」
「あっそ。今の台詞、佳子姉ちゃんにメールしとこ」
「情け容赦ねぇのかオメーには!」
「奥様、あんまり足をバタバタなさっては…」
「夕陽坊っちゃんがいらっしゃらないからと言って、アラフォー女性がパンチラなさるのはおやめなさいませ。この小林、この場に毛糸があれば奥様のパンツを編みましたのに…」

ワラショク最高幹部らの呟きは、さっさと非常階段を上っていってしまった理事長らには届いているのか、居ないのか。ただでさえ慢性的な運動不足である高野の腕の中、極々平均的な身長の陽子はすっぽり収まっている。
どちらも歪み合っているのに離れられない、まるで呪いを掛けられた様だ。

「奥様、高野さん。場所が場所なだけに、つまらない喧嘩はやめませんか?」
「ほら見ろ、馬鹿女。若いのに白髪が多い常務さんが呆れてるぞ」
「一ノ瀬常務は真面目な事を言うのが仕事だからだわ。昔の常務の貞操のなさは凄かったって話よ」
「奥様ー!」
「マジか」

もうどうしてくれよう。
崩れ落ちそうなワラショク常務は、口が裂けても『そんな事はない』と否定出来ない己の過去を悔やんだが、哀れみの眼差しを注いでくる夫に肩を叩かれて目頭を押さえた。お前か、お前が魔女の耳に入れたのかとパートナーを恨んだ所で、嘘がつけないワラショク専務に今更デリカシーは産まれない。

「確かに昔の俺は馬鹿だったよ。だからって…だからって守義さん、俺はあと何十年責められ続けるんだろう?頼むから後で一発殴らせて」
「お前の男癖が悪かった事をバラしたのは私ではありません、和彰さんと深酒し過ぎてベロンベロンだった社長です」
「榛原かぁあああ!!!」

信じてたのに裏切られた気分だ。
それでも社長は殴れないので、常務は迷わず専務の頬を平手打ちする。吹っ飛んだ老眼鏡を空中でキャッチした男は、叩かれた頬を膨らませた。

「どうして私が叩かれるんですか?」
「その場に居たなら止めるか否定してくれても良いだろ!」
「幾ら酒の席であろうと嘘はいけません、嘘は」

二発目の平手打ちが炸裂した様だ。
二回共避けなかった男はやはり空中で老眼鏡をキャッチし、やれやれと掛け直した眼鏡を押し上げる。

「おい、良いのか。何か険悪な雰囲気だぞ」
「はいはい。あれは犬も食わないって奴だから、放っとけば良いんだわ」
「あー、そう言う関係ですか…」

大人げない男女の下らない口論の所為で関係が悪化した夫婦を見やり、魔女と戦う指揮者は呟いた。

「何よ、クソ男の癖に差別すんなら握り潰すけど?」
「しないっての。お前みたいな乳だけオバケに気安く握らせるか、剥げ掛けてる厚化粧塗り直して出直してこい」
「やだやだ、モテない男は女の口説き方も知らないってね。その貧困なボキャブラリーで、良くも一回り離れた子に手をつけられたんだわ。はいはい、芸術家なんて頭のネジが弛いくらいじゃないとやってらんないんだったわね、お気の毒様」
「がー!ムカつく!何だこのババア、かっわいくねぇっしょ!」
「こっちこそアンタなんかに可愛いなんて思われたくないっての!口説いてきたら即座に訴えてやるんだわ、高野省吾!」
「誰がお前みてぇなブスを口説くか!そんな物好きが居るんならさっさと連れて来いっつーの山田陽子!」
「だからその物好きを見せてやるからとっとと登れっつってんでしょうがよ!」
「そうだった!」

年甲斐なく怒鳴りあった二人が肩で息しながら、同時にそっぽ向いた。
離れられないから仕方ないとばかりに、苛立ちを足並みに乗せた指揮者は勢い良く階段を上って行ったが、すぐに勢いは下降する。幾ら見た目が若く見えても50絡みの男の体力だ。

「あー、もー、座りたい。大体、最上階って何階なんだ」
「エレベーターが使えなかったんだから仕方ないんだわ。理事長がたったの18階だって言ってたでしょ」

蚊が鳴く様なぼやきに対し、魔女の言葉は随分辛辣である。
辛辣を通り越して悪辣ですらある妻は、夫との会話を何年も放棄しておいて、一体他人に何を何処まで曝け出しているのだろう。などと八つ当たり紛れに考えた所で、事態の半分以上自分の所為だった。

「…たったの何だって?パンピーには判らないだろうが、芸術家に体力はないんだ。5分や十分タクトを振れるのも、音に酔って一種のトランス状態になるからであって、せめて抱いてるのが色っぽい美人だったら、俺だって…」
「女遊びばっかやってるから衰えるのよ」
「馬鹿抜かせ、嫁に相手にして貰えなくて運動不足なだけだ。俺は若い頃に死ぬほどモテたから浮気なんかしないんだ、覚えとけ欲求不満女」
「はいはい、一人で言ってろ馬鹿男。アンタが前の女に産ませた娘から孫を押しつけられた事だって、こっちはとっくに聞いてんだから」
「だーから、誤解だって言ってるだろう、しつこいぞ!敬吾は俺の孫じゃなくて義弟みたいなもんで…」
「は、男の癖に言い訳?みっともな」

互いの息子がこの光景を見たら、どうなるだろう。
健吾にしても太陽にしても笑い転げるか、はたまた見て見ぬ振りをするのか。水が要らない胃薬をポケットから取り出したワラショク常務は、ミント味のタブレットを頬張る様に胃薬を噛み砕く。
無表情でボリボリと胃薬を噛んでいるパートナーを横目に、人生で一度も胃を壊した事がないワラショク専務は眼鏡を押し上げた。

「ち!アンタの息子がこの学校に通ってるんなら、もっとマメに佳子ちゃんと連絡取り合っとくべきだったんだわ。アリーやクリスとは違うグループだったから、知ってれば紹介したのに…」
「そのスカパーだかスカトロだかで、互いの旦那の悪口言い合ってんのか。これだから近頃の女は…」
「陰口叩かれたくなけりゃ、言われない様にすれば?こっちだって立派な旦那だったら貶さないで自慢してるっつーの」
「待てよ、そいつは聞き捨てならんぞ。俺は自慢出来ない旦那なのか?」
「胸に手を当ててみれば良いんだわ」
「当てる手にデブスが収まってて無理」
「アンタ、好みじゃない女に片っ端からブスブス言ってんの?」
「馬鹿抜かせ、オメーだけだブス」
「その割りには言い慣れてんじゃない」

世界には実に色んな女がいるものだ。
左薬指に指輪をはめていても、国が違えば意味が違う。日本人ならそれが既婚の証だと理解して遠慮する者の方が過半数だろうが、それでも判っていて口説いてくる人間は少なくない。
なまじ名が売れているだけに、同業からは妬まれるかその逆か。

「…虫除けを掻い潜ろうとする業突くな蚊が嫌いってだけだ」
「ははーん」
「何だよ」
「初めて惚れて貰った若奥さんから浮気されて、浮気ってもんに嫉妬した訳?」

猫の目の様に瞳孔が小さい、目尻が吊り上がったアーモンドアイが嗤う。
見た目や言動に反して、やはり女だ。指摘されたくない所を躊躇いなく抉ってくる。重い足取りが再び止まれば、先を行く無言の同性夫婦もまた止まる気配。

「自分だって若い頃には似た様な事してたんじゃない?アンタの悪行なんて結婚前から知ってた姉ちゃんが、弾き慣れた譜面から音符が飛ぶくらい悩んで結婚したってのに、新婚ほやほやで旦那の隠し子が発覚したらどう思ったでしょうね」
「ま、待てや、音符が飛ぶって何だ。あの佳子が俺との結婚に乗り気じゃなかったってのか?え?」
「世間知らずの若い日本人なんて、国を離れたらどんな扱いを受けるか判んない?アンタらがどう思ってんのか知らないけど、私から見ればあんだけピアノが弾けりゃもう天才レベルだわ」
「確かに、純粋に感情を音に出せる佳子の演奏は、良くも悪くも才能はある。俺らが認識する天才とは掛け離れてるが…」
「ギスギスしてた?」
「は?」
「アンタが姉ちゃんを口説いた時、『折角美人なのに音がブスで勿体ない』っつったんでしょ?」

成程、女の世間話が長くなる訳だ。
最早ほぼ全てを知られていると思わなければなるまいと、高野省吾は表情を引き締めた。何を言っても無駄だ、事情は同じでも感じるものは人それぞれ違う。当事者の会話を片方だけ聞いているのであれば、第三者である陽子の心証は、どうしたって先に話を聞いた側に寄るだろう。
自分は全く悪くないとは流石に言わないが、これは分が悪い。

「佳子が馬鹿男共の食い物にされてたのは、…まぁ、知らなかった事もない。17年くらい前の話だ、俺も当時は今程の地位はなかった」
「何、アンタなりに助けようとした訳?今更偽善振ったって遅いっつーの」
「俺の師匠は、この業界で言うドンファン的な存在だったからな。俺のお手付きだと知れば、そこそこの奴らは佳子に手が出せなくなる」
「そ。同郷の誼って感じ?」
「まぁ、半分は。…つーか放っといたって寄ってくる女が居たんだこっちは、好みじゃなかったらわざわざ口説くかよ」
「やっと本音って訳。はー、面倒臭い男なんだわ」

だからと言って、こちらにもそれなりに言い分はある。言いたくない事だと雰囲気で悟ってくれても良いだろうに、言葉を容易く刃に変えるアマゾネスに懇願した所で、命乞い無用と切りつけられる筈だ。女は古今東西、そこらの暗殺者よりも恐ろしい。

「敬吾の事はまぁ、死んだ親父に色々思う所があったんだろ。音には感情を出す癖に顔にはあんま出さない佳子が、嫉妬してるのが何つーか…嬉しかったっつーか」
「で、ろくに説明もしないで放置したって?」
「だ、だってアイツが先に…」
「何よ。アンタ、言いたい事があるなら我慢しないで言えば?余計な事ばっかペラペラ喋る癖に」
「空気を読もうとしない女に言われたかない」
「読むだけ無駄な空気だって判って」
「腹の子供が俺の子じゃないなんて言うから…!」

ああ、全部だ。
もうこれで隠し続けてきた全てを、初めて会った余所様の嫁に吐き出してしまった。もうこれ以上恥ずかしい所などない。此処まで吐き出すくらいなら、尻の穴を見られる方がずっとマシではないか。

「は?そんな事、あの姉ちゃんが言ったの?」
「言ったんだよ…!俺だって売り言葉に買い言葉だと思おうとしてんのに、仕事に追われて敬吾の事を説明するのが遅れてた間に、俺に恨みがあった奴らが揃いも揃って佳子と寝たなんて言いやがる…!」
「それ、結婚前の話でしょ?アンタのお師匠の名前があってわざわざ手を出してくる馬鹿、居るの?」
「だよな!冷静に考えりゃそうだ、でもあの時の俺はもう、手当たり次第にレクイエムで鼓膜を破って殺してやりてぇってくらいには腹が立ったんだ!当の佳子は、俺に見せつけるみたいに他の男と飯食いに行ったりしやがるし!」
「人を嫉妬させて喜んでるから、同じ事やり返されんのよ。で、そこまで頭に来てる癖に離婚しなかった理由は?」
「………好きだったから…」
「何なのアンタ、ちょっと可愛く見えて来たんだわ」

鬼の目にも涙、魔女にも稀の優しさ。
呆れた様に頭を撫でられて、世界的指揮者はちょろりと涙を滲ませた。確かに陽子の言葉通りだ。人を呪わば穴二つ、クールな妻のヤキモチが嬉しくて先延ばしにしていたトラブルは、とうとう健吾が産まれた事で表向きには終結する。

「息子が産まれた頃までは幸せだったんだ。まさか親父が、敬吾を引き取るなんて思わなかった…」
「どんな事情があったにせよ、アンタは仕事とトラブルで首が回んなかっただけなのよね。男なんて女と違って同時に物事を考えられない不器用ばっか」

然し、現在に至るまで解決はしていない。
綺麗な身の上で結婚した訳ではない事を彼女なりに悩んでいた事は、その気配から感じていた。夫婦喧嘩にしては酷い台詞を吐いたのもきっと、彼女自身にそれを疑う材料があったからだろう。

「結婚したばっかの時に、アンタから女を奪ってやろうと企んだ奴らが姉ちゃんを騙して、何人かで乱暴したそうよ」
「…あ?」
「気丈な女だから、口が裂けても言わないでしょうね。あっちこっちから引っ張りだこの旦那に泣き言聞かせて煩わせるのも、馬鹿な男達に騙されたって知られる事も、有り得ないって思ったんじゃない?」
「判った。そいつら探し出して、殺してくる」

それで解決だと微笑めば、わしっと鼻を摘ままれた。

「もう遅い。そいつらはある意味もう死んでるわ」
「どう言う意味だよ」
「アンタのお師匠さんが死ぬ前に入院してた病院に行って、全部話したんだって」
「はぁ?!」
「『これからもっと知られていく人の汚点になりたくないから、何とか円満に離婚する様に促して欲しい』って頼んだら、こうやって鼻を摘まれて、『君の様に美しい人だからあの子は選んだんだ、何も恥じる事はない』って言われたって」
「そ…んな事、俺は…」
「お師匠さんが全員を業界から追い出して、知ってる奴らの口を黙らせたからなんだわ。アンタには絶対に知らせるなって事なんでしょ。アンタの為にも、今にも自殺しそうだった姉ちゃんの為にも」
「…」

道理で女が強いと言われる訳だ。
肛門を見せる以上に恥ずかしい事を、迂闊にも口に出してしまった自分と現在に至るまで頑なに黙り続けている女では、勝負の土台が違う。

「怖がって逃げてばっかりじゃ、ゴールなんてないんだわ。私は逃げないわよ。男を作って逃げた母親からも、そんな母親を叱れもしない父親からも、嫌われたくて浮気を繰り返したなんて平気でほざける馬鹿男からも」

果たして、女と言う性別を極めると、誰もが魔女になるのだろうか。
哀れな男をまるで幼子を見る様な眼差しで眺め、諭す様な声音で惜しまない語彙を投げつけてくる。圧倒的な、それは言葉の暴力だ。厳しさと優しさの中には、下心など微塵もない。

「佳子姉ちゃんだって、アンタに相談出来てれば少しは変われてたかもね。結局アンタらはどっちも子供だったんだわ。音楽一つに魅せられて、私から言わせて貰えば、それ以外には何も出来ないお子様。ただの拗らせた世間知らず」

返す言葉はなかった。

「お互いにお互いの為に、って御大層な理由くっつけていつまでも逃げてただけ。大抵の女は子供が出来たらそっちに目が向くもんだけど、アンタら夫婦はきっと逆なんだわ」
「逆?」
「女が子供を愛す理由は、自分が産んだからよ。好きな男の子供だからなんて綺麗事じゃない、自分がお腹を痛めて産んだから。骨盤が広がるまで苦しんで体の中で育て続けた数ヶ月があるから、だから大切に思える」

こんな女を妻に迎えたと言う男は、ある意味最強のマゾに違いない。但し、誰よりも幸せ者だろう。辛抱強く側にいて、真っ直ぐ間違いを正してくれる人間は何よりもの財産だ。

「だからその数ヶ月の間、ずっと怯えてた姉ちゃんは子供に対して愛情よりも、罪悪感のが強かったんだと思うんだわ」
「…」
「なのに肝心な旦那は仕事に隠し子騒ぎ、産休中の姉ちゃんは不安だったでしょうね。妊娠に気づいて中絶も考えたけど、もしアンタの子供だったら才能を潰す事になるなんて、もしかしたら考えたのかも。私と違って、惚れた男に尽くすタイプだから」
「お前も尽くしてそうだけど」
「は。男なんて星の数、今度は顔より体が良い若い男を捕まえるんだわ!カルマのシーザーみたいな、ね!」

その台詞に眉を跳ね、シーザーと言うのは健吾のリーダーではないのかと思い至る。つまり若いも若い、若者のカリスマではないかと。
15歳の息子を持つ身でありながら、そんな高すぎる目標があるとは恐れ入った。敵う筈がない。

「強ぇ、マジで女って何なん?ジャンヌダルク然り、クレオパトラ然り、全員魔女の末裔だろ…」
「で、産まれてきた子供は誰の子だった訳?アンタ、馬鹿素直に自分の子だって信じてる訳じゃないでしょ?なんやかんや調べたりしてんじゃない?」
「健吾は俺の子だ。輸血だってした」
「じゃ、何も問題ないんだわ。アンタらなんか幸せな内よ。大空なんか一切躊躇いなく何十人もの女と、」

その時、ボンッと凄まじい爆発音が響いた。
腕から落とし掛けた年下の魔女を何とか抱え直した男は、踊り場の窓辺から身を乗り出していた恐ろしい程の美貌が、完璧な無表情を崩す光景を見たのだ。













「…ネルヴァ。見違いでなければ今、三年Dクラス加賀城昌人が投げた地点にカイルークの姿があった様だ」

ぽつりと呟いた男の横顔を見やり、息子そっくりな然程動かない表情筋をわざとらしく弛めた男は、エメラルドの瞳に笑みを浮かべた。

「良くこの距離で見分けがつくものだよ。それが本当なら、落ちてきた裸の男が天の君である事を議論する前に、我らはノアから消されるかも知れない」
「私はカイルークに怒られるのか?」
「その前に殺されるのではないかね?」

珍しく眉間に薄く皺を刻んでいる美貌が、明らかに崩れている。何十年も見てきた男の完璧だった無表情は今、まるで化粧が剥がれたかの如く。

「私はナイトを助けようとしただけだ」
「その言い訳がマジェスティルークに通じるのであれば、陛下が復活させた円卓の半数が勝手に行動していると言う言い訳も、通じるのではないかね」
「元老院で我が意のままに動いてくれるのはフルーレティだけだ。クライスト=レイはレイリーの意思を継ぎ、中立であり続けるだろう」
「ライオネル卿はレヴィ陛下に忠誠を誓っておられた。後追いしかねない彼を現世に縛りつけたのはオリオンでしょう」
「カイルークには、私がとうとう得られなかった己の家族を与えてやりたい」

囁く様な声音はいつも通りだ。ただ、表情だけが。

「そんな綺麗事が通じる相手ではないのだよ。若きノアは天の君に御執心の様だ」
「…ナイトは秀皇の子だ。望む望まないに関わらず、その銘はカイルークの座を脅かす」
「貴方が蒔いた種だろう」
「私は去った秀皇を探さなかった。手放すと言うのであれば、与えた銘を取り消す事も出来たが、既にノヴァである私に決定権はない」
「つまり、ルーク=ノア自らナイトの銘を剥奪しなければならない、と?…そんな真似をするだろうかね、彼は」
「男同士では子供が出来ない。女相手でも子供が出来ない私とは違い、カイルークの生殖器は稼働しているのだろう」
「それは、レヴィ=ノヴァとナイト=メアを否定する言葉では?」

言わない方が良いとは思ったが、主従関係が消え失せた今、残った関係性を言葉で示すのであれば、友人関係だ。親戚関係と言う不確かな絆は、親兄弟でもなければ機能しない。他人と同じだ。

「…親不孝か。判っているが、龍一郎も龍人も結局は、家族とは違った。だから必死で龍一郎を探す龍人を止めもせず、私は傍観に徹したのだろう」
「それは…」
「そなたが血を分けた息子を愛でる気持ちが、恐らく私には理解出来ない。カイルークが父上と母上の遺伝子によるシンフォニアだろうが、それを世間では弟と呼ぶ存在だとしても。ロードを使い捨てた愚かしい私には、死ぬまで何一つ理解出来ないに違いない」
「自虐的な事を」
「父上がリリアの娘を見つけられた時も、私には喜びと言う感情は然程なかった。母子慎ましい生活が破綻し、心を病んだリサが父上が目を掛けていた男の元へ嫁いだと聞いても、ましてそなたが産まれた報せがあってもだ」
「…確かに、物心つかない私に会いに来たのはオリオンだったのだよ」
「私の生涯は、常に目まぐるしく過ぎていく車窓の内側にあった。私だけが動かないまま、景色だけが変わり続ける。一度は闇に染まった視界に光が戻っても、私が行動したのは70歳を迎えてからだ」

愚かな。
呟いた唇は寂しげに、一度窓の向こうを見つめたかと思えば、再び静かに階段を上り始めた。


「少々、つまらん事を聞かせ過ぎた。忘れてくれ」

珍しい光景を見たものだ。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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