帝王院高等学校
黄昏は燦々と輝く黄金めいた緋色と
「若、そろそろ」

あの日は日が傾くのが早かった。
暑さに負けたのか静かだった蝉が、いつの間にか合唱を奏でている。

「もう?」
「宮田がまた腰をヤらかしました」
「脇坂が蹴ったボールが当たったんです」
「仰る通りなんですが、若からもとっととイボ取れって言って貰えますか。良い歳して病院が怖いなんざほざきやがる」
「注射怖い?僕、平気です」
「若の爪の垢を煎じて飲ませたいもんですよ」

夜から会合があるからと、申し訳なく言った大人は腕時計をチラチラ。だから警護など要らないとは、子供の我儘ではなく気遣いだ。
腰と言うより尻を抑え、仲間から抱えられる様に連れていかれる組員の背中を見つめた高坂日向は、息を吐く。今度6歳になる日向の家には今、同世代の来客が二人。その内の一人は従兄弟同士だが、優しげな顔立ちに反して性格は盛大に曲がっており、日向は出来るだけ顔を合わしたくないのだ。

好き嫌いが多い日向は、何でも食べる甥を嬉しそうに誉める母親を見る度に、もやもやした気持ちになる。
何でも良く食べる二葉に反し、興味があるものしか食べないもう一人に関しては、厳つい組員ですら他人行儀に接していて、組長の息子である日向よりも特別扱いされている様に思えた。羨ましいとは思わないが、話し掛けても面白い相手ではないので、下手すれば二葉以上に苦手意識がある気がしないでもない。

日向が暮らす屋敷の近所には余り幼い子供はいないが、子供は基本的に保育園や幼稚園などに通っている。2歳になった頃に誘拐された事のある日向は、怒り狂った祖父の命令で家からは出して貰えない日々が続いた。

こうして外へ出掛けられる様になったのは、二葉達がやってくる事になってからだ。兄弟がいない日向にとって、二葉は弟の様なものだと聞かされていた。然し現実はあちらの方が兄面をしている。
初日はまだ良かった。サッカーを知らないと言う神威が日向の相手を買って出た事もあり、三人で外に繰り出せば、日向は何度も練習したリフティングを神威はほんの数分でマスターし、二葉はほんの30分で腹減ったと宣った。

『肉だ肉、ンな糞暑い中ボールなんざ蹴ってられるか。血が滴るくらい赤いのが美味ぇんだよ。お子様には判らないだろうがな』

人の捌き方を教えてやろうかと宣った二葉は、飛び上がった組員らにシッシッと手で払われ、怯えている日向を嘲笑いながら消えた。何処へ行ったのかと思えば近場のスーパーで、言葉通り肉の塊を買ってきたと言う。
その頃にはリフティングもヘディングもオーバーヘッドキックも物にしていた神威は、キーパーに興味を見出だし、冗談なのか本気なのか、

『そなたら、一人ずつシュートをしてくれるか』

そう言った為、冗談ではないと青褪めたヤクザは揃って首を振り、それを期にサッカーへの興味はなくなった様だ。以降、暇そうな神威を気遣った日向が何度誘っても、付き合ってくれない。

それでも数日は家で大人しくしているかと思えば、唐突に早朝から出掛ける様になったり、コンビニに行く経験が初めてだったと、近所のコンビニを制覇来た時は、大量のコンビニスイーツを見せつけられたものだ。
見せつけてくるだけで特にくれる訳ではないので、育ちの良い日向が欲しがる事はなかったが、遠慮と言う礼儀を知らない二葉は勝手に神威のコレクションを食い漁り、神威にバレると笑顔で日向の所為にしたきた。これで日向が二葉を嫌わない理由がない事は、お判り頂けるものだろう。

いつの間にか、二葉に引けを取らないほど性悪な近所の悪餓鬼が二葉に張りつく様になった。二葉は相変わらず面倒臭そうに対応しているが、本当に嫌なら相手にはしないだろう。嫌そうな癖に毎日毎日いつものベンチに座り、雑談したり蝉の脱け殻を並べて眺めていたり絵本を読んでいたりするのだから、もう訳が判らない。最近では、悪餓鬼の名前を二葉の怒鳴り声で知った程だ。

真顔で追い掛けてきたかと思えば、日向を見るなり満面の笑顔で泥団子やら蝉の脱け殻やらをで投げつけてくる子供と言えば、日向が組員らと帰途に着く時間より少し早い時間帯に、母親らしき女性が迎えに来て帰っていく。
昔ながらの付き合いがある近所の年寄りや、繁華街のケバい男女ならともかく、日中の子連れの親は良い顔をしない高坂組の面々は、日向の警護と称した子守りの時は一応気遣ってかくれていて、それなりに地味なスーツを着てくれているが、スーツの大人が白昼堂々サッカーボールを蹴っているのは、どう見ても変だ。

日向がそれを知ったのは、二葉に言われてからだった。
成程、組員の中でも高坂向日葵に並ぶ男前の脇坂に対しては視線が集まる事もあるが、高坂組の次代副組長が有力視されているだけに、脇坂が日向の子守りとしてやってくる頻度は稀だ。
脇坂が居ない時の日向は遠巻きにされていて、夏休み期間中だと言うのに、公園へやってくる顔触れは変化の兆しがない。どや顔でヤクザの跡取り息子に泥団子を投げつけ、厳ついヤクザに何度叱られても全くめげないある意味最強の男らしさを誇る悪餓鬼だけは、スペシャルだと言えるだろう。

その母親に至っても、毎日ヤクザの跡取りが遊びに来ると噂になっているだろう公園に『逆に安全だわ』との表情で幼子を置いていくのだから、幼い日向は判らずとも、当時から大人びていた二葉は何か思う所があったのかも知れない。
いや、二葉の事だから暇潰しと言う理由も払拭出来ない、が。

その日もアキと言う名の悪餓鬼は、彼より一回り小さい弟の手を引いて、迎えに来た母親と帰っていった。見送った二葉はいつもの様に姿を消したので、神威と共に帰ってくるのだろう。二人の帰宅時間はまちまちだ。神威が飽きるまで出掛けている様だが、流石に一晩中帰って来なかった時はアリアドネの説教を浴びたので、以降は夕食までには帰ってくる様になった。

高坂の屋敷の夕食は基本的に7時頃で、夕方まで屋敷の小川を挟んで向かいにある道場で剣道の稽古をつけているアリアドネは、数時間懸けて日向や向日葵、何十人も控えている組員の夕食を用意している。お子様味覚の向日葵に合わせたおかずから、年配の組員やその家族も食べられる優しい味付けのものまで、様々だ。
母親が家事を一切しない女だった為に、幼い頃から菓子が食事代わりだったと言う向日葵は、未だに食事の場にお菓子が並んでいないと落ち着かないらしい。

日向が産まれて間もなく高坂組長を引退し、現在は光華会会長の肩書きだけを担っている高坂豊幸が、向日葵の悪癖を正そうとしないまま現在に至っている。
一人息子とペットの猫達を果てしなく甘やかす向日葵は、日向が離乳食デビューした瞬間から膝に乗せ甲斐甲斐しく世話してきた事もあり、日向は物心つく頃にはご飯とポテトチップスの相性に目覚めた。
向日葵の悪癖を若干継いでしまったものの、毎朝リズミカルな包丁の音と、沸々と煮える出汁の香りに誘われて目覚めた時、必ず台所に母親の背中がある環境で育っている為、日向の味覚は若年寄りだ。

ヨーロッパ各地に留学経験がある日向の母親が自炊を始めたのは、諸般の事情があるが、和食を覚えたのは兄嫁の残した手書きのレシピ手帳からだと言う。
だからか、東京の男らには薄味だと言う。二葉の様にガツガツと遠慮なく貪る人間が今まで居なかった事から、アリアドネの二葉に対する扱いはほんの少し優しい気がした。然し郷土とは言え京料理が二葉の口に合った訳ではない事を、日向は知っている。基本的に二葉は『食えたら何でも良い』のだ。

二葉の父親は、二葉が産まれる三年前に亡くなったらしい。
アリアドネが初来日し、間もなくだったそうだ。容態が悪い事を聞きつけたアリアドネは、高校在学時に来日し、そこで出会った向日葵に数年に渡って口説かれた末に、日向を妊娠し豊幸の力添えあって日本へ帰化する決意を固めた。
聡明なアリアドネはすぐに日本語を覚え、難なく漢字の読み書きも覚えた。ヴィーゼンバーグの一件で、完全に実家に見切りをつけたアリアドネは養母であるセシル=ヴィーゼンバーグに銃口を突きつけ、二度はないとはっきり吐き捨てた為、わざわざ帰化せずともヴィーゼンバーグとの縁は切れたも同然だろう。

然し叶一門が秘匿した二葉の存在に、時同じくして勘づいた公爵家は、日向から二葉へターゲットを変えた。即座に気づいた叶冬臣の指示で中国へ渡った二葉は、叶の元ではなく大河の元で鍛え上げられ、遺伝子に受け継がれた家系の身体能力を武器に、とうとうグレアムへ忍び込む事に成功する。日向の時とは違い、気安く近づく事も出来ないヴィーゼンバーグは虎視眈々と時期を伺っている様だ。

然し数年前に、二葉の兄である文仁の元に双子の娘が出来た事から、跡取り候補として双子のどちらかを寄越せと言う打診が届いているそうだ。
にこにこしているだけの冬臣とは真逆に、傍若無人を絵に描いた様な文仁が従う要素は皆無で、帝王院の屋敷を譲り受けた叶の怒りを下手に買えば、ヴィーゼンバーグにとっても得策ではない為、睨み合いは均衡している。
日向の時の様な二の舞は、高坂は勿論叶にとっても、あってはならない。

「何処のどいつだ、道場の箒を出しっぱなしにして。ったく、姐さんの手を煩わせやがる。すいません若、片付けついでに閉めてきますので、ついてきて下さいますか」

現状は、公爵家も叶も、高坂ですら持て余しているグレアムの跡取りの機嫌を損ねてはならないと、打算は一極集中している。
二葉と共に帝王院神威を名乗る子供が高坂の屋敷へやって来た日、会合以外では縁側で日本酒を舐めているだけの豊幸は、日向が初めて見る表情を晒した。『帝王院、だと?』と腹の底から絞り出す様な声音に対し、向日葵ですら怪訝そうだった事を覚えている。

「一人で帰れます」
「ですが若、」
「うち、そこ」

以降、高坂の屋敷は何かに怯えているかの如く、静かだ。騒がしいのは蝉の鳴き声くらいで、祖父豊幸は盆が理由なのか否か、連日墓参りに出掛けては日が落ちるまで帰ってこない。早くに妻を亡くしている豊幸の盆行事は毎年欠かさないとは言え、例年なら、日向の誕生日が近いと嬉しそうに何度も『今年は何が欲しい?』と尋ねてくる頃だ。

「僕6歳です」
「こいつぁすいません。じゃ、何かあったら大きな声で呼んで下さい。絶対ですよ」
「ん」
「絶対ですよ」
「脇坂、しつこい」

日向の周囲には過保護な大人ばかりだ。
母親であるアリアドネこそ男なのではないかと思えるほどに凛々しいが、流石に日向を一人にして目を離す様な事はない。必ず日向の傍に誰かがいる事を確認しないと、傍を離れない程だ。
幹部の中でも比較的若い脇坂は、高坂家族以外には二葉にすら適当な扱いをする。神威に対しては当たり障りなく他人行儀な態度だが、その反動か、日向に対しては果てしなく甘い。

「何かあってからじゃ遅いんですよ、若は可愛いんですから。そりゃもう!昔の親父より何倍も!」
「舐めた口叩きやがると咬み殺すぞ?」
「っ、そこで首を傾げたら駄目です若、でも今のメンチの切り方は親父の血ですか!くっ。いかん、歳を取ると涙脆くなりやがる…」
「脇坂、煩い」
「すいません、脇坂は迸る涙が止まるまで雑巾掛けしてから戻ります…!」

プライベートより仕事が口癖なだけに、モテるわりには結婚する気配もなく、曰く子供好きではないそうだが、急用がない時は誘わないでも公園へついてくるので、言うほどではない気がする。それ所か、暇さえあれば日向の写真を携帯で撮影しては、父親の様な表情で『うちの子、妖精』などと宣っていた。今も、小川を挟んでいるとは言え真向かいにある道場へ向かう脇坂は、後ろ髪を引かれたかの如く何度も何度も振り返っている。
道場の何倍も広い高坂の屋敷は、表門からぐるりと生け垣や石垣で囲まれているので、竹柵で簡単に囲んだだけの道場とは違って、何処からでも入れる作りではない。国道から県道に入って間もなく見えてくる道場を通り抜け、川に掛かる橋を渡ってやっと、表門が見えてくるのだ。向かいにあるかと言えど距離はそこそこあるが、子供の足でも大した距離ではなかった。
脇坂の言う様に大声を出せば、道場にも屋敷にも聞こえる。

5時を回ったばかりにしては、空は鮮やかな赤のグラデーションに染められていた。夏の日落ちはもう少し遅い筈だが、道場の敷地に消えていった脇坂から目を逸らした日向はボールを抱えたまま空を見上げ、少し感傷的になったのかも知れない。



「赤…」

いつか何処かで、こんな色を見た様な気がする。
けれど何処だったかは思い出したくない。それが真実だ。

「…あ」

暮れなずむ盆、足が生えた胡瓜と茄子が橋の入り口に飾られている。あれは日向が作った精霊馬を、組長の誰かが飾ったのだろう。

近所の老人が小川を覗いている。つられて橋の手前で川を覗けば、ゆらゆら小さな灯籠が流れているのが見えた。

鼓膜を震わせるのは川のせせらぎ、蝉の歌。
ミーンミーンと、飽きもせず歌っている。
死ぬ為だけに産まれた訳ではないと叫ぶ為に、例えば勝手な人間から耳障りだと謗られても、嘲笑われても。


「What is this? Think so funny.(何だこれ、訳判んねぇ)」

蝉の鳴き声が消えた瞬間。川の水面を眺めている背中が、欄干の危なげな足場の上に見えた。
ひらひら、ゆらゆら。流れていく灯籠はささやかな風と、アブラゼミの鳴き声に抱かれて。そよぐのは草や水面だけではなく、夕焼けに染まる町並みに負けない、紅蓮の髪だと気づく。

「小さい船に火を着けて川に…何で?」

まるで巨大な曼珠沙華の様な、深紅だ。

「Watch out, you will fall down!(危ない、落ちるよ!)」
「あ?」

ひらりと、危なげな足場の上で振り向いたそれは、零れんばかりに目を丸めた。
抱えていたサッカーボールを放り出し、捕まえようと駆け出せば、ふわっと飛んだ爪先が紅蓮を靡かせ、とんっと軽い足音を発てて舞い降りてくる。

「Why? Ah just right. Cross a shallow river as if it were deep, don't you?(何?あ、判った。浅いからこそ油断して足元を取られるって事?)」
「う、ぇ?」
「Hey, do you know my bro?(ねぇ、兄様知らない?)」

笑みを描いた双眸は、夕焼けに染められて黒く見えたが、目の前ではっきりと見つめれば、深い藍色だと判った。心底ひねくれた従弟とも、何を考えているのか皆目判らない真っ白な谷とも違う。

「拾った猫が区画保全部に連れてかれた。きっと怒ってる」

判る様で判らない。言葉は判るのに、意味が。

「日本語間違ってる?」
「ブラザー」
「通じてるじゃん。ジジイに撃たれてムカついたから、飛行機の中で寝ながら邦楽聞いたんだ。日本語って単純」

日本語よりも英語の方が判るのに、組員の大半は英語が喋れないからずっと、英語は使わない様にしてきた。何も言わないものの、母親も頑ななまでに英語を使いたがらないのできっと、日向もそうした方が良いと思ったからだ。

「義兄様は初めから喋れたんだ」
「にいさま」
「誰にも言わずに居なくなったから、きっと探せって事なんだ。また新しい遊び。ネイキッドが不味いって言って捨てたスイカを猫が溶かした所為で、技術班は責任問題を問われてる。誰が義兄様の命を狙ったんだろ、殺してやるのに」

天使だ。
そう、天使に似ている。全てが。ありとあらゆる全てが。

「あの猫を殺したんだ。待ても出来ない馬鹿なのに、鋭い爪で義兄様を傷つけようとするから」
「殺し、た?」
「清掃員に引き渡した。区画保全部なんて掃除するだけだもん。サボってばっかで、腐った林檎を持ってくるんだ」

英語、日本語、英語、気が向いたらまた、日本語。
自由自在に言葉を変えるそれは、ダークサファイアに笑みを浮かべている。例えば人が足元の蟻を見つめる様な眼差しで、日向を見つめたまま。

「そこ、大きな猫が住んでるって聞いたから来たけど、義兄様もネイキッドも居ないんだ。あ、でも面倒臭そうな奴がいた。こんな早く気づかれたのは初めて」

例えば稀に、公園で知り合った友達と遊ぶ事もあった。結局、最終的にはヤクザの子供だからと言って離れていく。人間なんて皆、嫌いだ。

「ライオン知ってる?」
「知ってる、よ」
「ライオンは雌が狩りをするんだ。雄は気が向いた時しか手を出さない。最低だろ?」

赤は。
その日、その瞬間まで、好きではなかった。寧ろ嫌っていたのではなかったか。だから、深紅の眼差しを持つ銀髪の子供があんなにも、苦手だったのではないか。

「右頬を叩かれたら左頬を差し出せって本に書いてた。変なの。叩かれたら叩き返せば良いんだ。撃たれたら撃ち返すのは当然の権利、柘榴みたいにぶちまけた人間は大人しくなる」
「Pomegranate?(柘榴?)」
「腹が減ってもナイフが使えない自分が悪い。恨むなんてお門違い。動かなくなったシスターが悪いんじゃない。全部、自分の所為」
「…」
「恨む前に奪い返すんだ」

あの日、獰猛な深紅の天使はまだ、日本語が下手だった。
少なくとも日向よりはずっと大人びていたものの、台詞の意味が判っていない日向の様子には気づかなかった様だ。それとも単に、独り言の様なものだったのか。

「アートよりずっと綺麗な英語」
「…へ?」
「良いものあげる」

鮮やかなほど強く、赤が咲き綻んだ夏の最中。(天使と悪魔の明確な違いはあるか)

「こいつがジジイの命を救ったんだ」

無邪気な笑みを覚えている。忘れる筈がない。(どちらも人を殺す存在だろう?)

「あ、カラス。黒い羽根、目立つね。翼だっけ?」
「好き?」
「黒いから好き」

それは舞い降りてきた。あの緋色の黄昏からだ。
いつからだったかなど覚えていない。赤は嫌いで、視界にも入れたくなかった。

「ふふ。お前、変な奴」

曼珠沙華よりも艶やかに毒々しく微笑む赤い唇を目にするまでは、確かに。




























ひらひらと。
舞い落ちる桜に祝福されて、生徒は地下から外の世界へと飛び立った。
それはまるで蝉が孵化する様に、初等部・中等部の9年を経て、初めて羽根を広げるかの如く。

「先程の雑音は誰だ?」

記憶から忽ち消えようとしている他人は、擦れ違う通行人と何ら代わり映えしない。白と桃色の淡いグラデーションの隙間から容赦なく差し込む日差しを横目に、今朝から帝王院神威を再び名乗る事になった感慨など、その時些かでもあったのかは、誰も知らない事だ。

「雑音って、一応同期ですよ?」

へらへら目だけで笑う他人同然の同級生は、今にも逃げ出したいと言わんばかり。どうして自分が案内役などしなければならないのだと、その全身から微塵たりとも隠していない。

「帝王院グループ関係者は記憶している。顔を見ればその都度思い出す努力はするが、先程のあれは視界に入れていない」
「初めてンな台詞聞いたなぁ。初対面の相手にタッチのエース呼ばわりされた癖に…って、来日されたばかりだっけ。日本の漫画に興味は?」
「ない」
「失礼しました〜」

ナンバーは十。
八番目で途切れた筈の灰の男爵は、正しく十字を切るルークの銘を得た。歴代を幾ら遡ろうと、グレアムに漢字の名を持つ当主は居ない。その名すら、ほんの最近までは忘れたも同然だったものだ。

「中等部在籍中からジュニアユースに選ばれて、今日から高等部バスケ部で主将が決まってる、一年Dクラスの加賀城昌人。ま、悪い奴ではない。アンタ様には関係ないけどね〜」
「竹林倭」
「まさかのフルネーム!」
「語源は日本からか?」
「それ以外に何だと?素直にヤマトの方が俺としては良かった〜」

初日が重要だの何だの、「全く陛下は私が居ないと何も出来ないんですから。致し方ありませんねぇ、私が懇切丁寧に学園内を案内して差し上げますよ」と随分上から目線で宣っていた腹黒猫は、高等部入学式典の開始が9時過ぎである事を大義名分に、8時半には授業が始まる中等部進学科エリアに寝起き間もなく飛んでいったきり、戻ってこない。

「従伯父と面識はあるのか」
「へ?」
「母親の再従兄の事だ」
「ないない。元ヤン両親は未成年でくっついたんで、うちの母ちゃんは実家とは絶縁状態ですわ。人ん家のプライバシー聞いてどうすんの?」
「一人、珍しい読みの名を知っていただけの話だ」
「そ」

それでこそ叶二葉だ。あれほど己の発言に責任を持たない男も居ないだろうと、いっそ褒めてやりたくなる程ではある。

「ま、そっくりそのままニホンよりマシと思ってるよ〜。昔、加賀城から一歩でもニホなんて変だって馬鹿にされた事なんかすっかり忘れるほど、今やあっちのが馬鹿なんで」
「記憶に留める必要性はない様だ」
「懸命なご判断。さっきスルーしてたけど、初めに駄目だって言っておかないと今後ずっと『かっちゃん』だべ?」
「何を意図した発言か仔細は知らんが、Dクラスの生徒と私が今後接触する可能性はどの程度か、セカンドに確率を計算させるか」
「あー、お断り。名前に数字が入る相手はシカトしろって親から言われてるんで」

それにしても面白い男だ。
警戒しているのは辛うじて窺えるが、だからと言って怯えている様子はない。

「面白い事を言う」
「自慢の父ちゃんなんで」
「そなたの入学願書には母子家庭の記述があった様に記憶しているが、変更があったか?」
「うわ、全校生徒覚えてんスか会長。アンタ気色悪いね?」
「実に聞き慣れた賛辞だ」
「あちゃー、褒めてないんだけど〜。人様のプライバシーに踏み込んでる暇があるなら、俺の貴重な朝の隙間時間を踏みにじってくれた光王子に宜しくお伝え下さい。ABSOLUTELYに脅迫されて言いなりになったなんてバレたら、お母様からぶっ殺されるんで」
「勇ましい母上だ」
「会長もお母様が怖いんスか」
「私に母は居ない」
「俺と会話する気ないだろアンタ。竹林さんは最後に一言言っちゃいますよ」
「そなたは己に敬称をつける趣味があるのか」
「言っときますけど俺のパパやばい奴だから。唐揚げ見せると凶暴化するんスからね!」

別れの挨拶にしては脈絡がない。

朝食代わりのコーヒーが冷めても戻ってこない二葉を待つ事に飽きて、式典の最終チェックで駆けずり回っているのかと思えば朝っぱらから親衛隊に覆い被さっていた薄情な副会長の首根っこを掴み、初めての登校日の朝8時。
アメリカからの業務報告を一通り聞き流した男爵は、昨晩の二葉を真似て宣った。誰にと言われれば当然、ノックもなく三階の窓を外からガラリと開いた先、リブラ寮に点在している多目的ルームの一室で繋がっていた男二人に、だ。

『全く、そなたは私が居らねば腰を振る事しか出来んのか。それほど暇を持て余しておるのであれば学園内を案内せよベルハーツ=ヴィーゼンバーグ、初日が肝心だ』
『今程アンタを殺してぇと思った事はねぇ、失せろ』

これだ。
どうも中央委員会役員の血の色は赤ではないらしい。
朝の営みを堂々と邪魔されて睨んできた親衛隊を真っ向から見つめ返してみたが、ルーク=フェイン=ノア=グレアムの感想は一言、

『オーガズムは千差万別あろうが、良くその程度の人間に。暫く眺めてみたが、私にそなたの真似は出来ん』
『テメェ、それで褒めてるつもりか』
『褒めた覚えはないが、感心はしている』

日向の気の長さは偉大だ。
口では何と言おうと、彼が激怒する所など見た事がない。旧風紀委員長はその珍しい光景を見たのだから、我が身を以て思い知っただろう。

英国公爵の恐ろしさなど、彼らの導火線に火をつけた側にしか理解出来ない事だ。

「一通り案内はしたんで大丈夫でしょ?このまま校舎に向かって貰えます?光王子が待ってるんで」
「空蝉の端くれとは思えん態度だが、大儀だ一年Eクラス竹林倭」

誰よりも目映い絹糸の如き銀糸を靡かせ、白銀の仮面で顔を覆い隠し、唯一は目元の覗き穴から、真紅とも黄金とも思える幻想的な色合いの双眸を覗かせて。

「宮様、悪いんだけど母親はまだ死んだ親父の籍に残ってんスよ、俺は竹林以外の何者でもないんで。つーか、その下らない話を松木竜にもしたら、流石の竹林さんも怒るからね〜」
「その生徒はEクラスだろう。Sクラスの私と接点はあるか?」
「ないね〜」
「案じるまでもない話だ」
「その言葉、信じますよ?アンタが帝王院だろうがそれ以外の何者だろうが、俺に迷惑を描けなきゃ、ね」

表面は微笑んでいる。地下の人間とはまるで違う様なのに、良く似ている。内心は笑ってなどいないだろうに。

ああ、そうか。


「間違えた、俺達だ。迷惑掛けないでね?」
「覚えておこう」

蝉とは七年も地中に埋まっている生き物だ。



「…久しい気配だ」

空は穏やかな黄昏へと染まり行く。
去っていく蝉を横目に、鋭い視線を感じて振り返れば、黄昏の下、深紅に燃える髪を靡かせたそれは立っていた。

「健勝そうで何よりだ、ファースト」
「…何してやがる」
「私の来日に関しては報告が届いておったろう。昨日今日の話ではない」
「とっととマントルに埋まれ」

吊り上がった深紅の眼差しはあの日、ダークサファイアだった。あの忌々しいキングと同じ、海の様に夜の様に深い、濃紺だった筈だ。

「そなたがサブマスターに指名したアンドロイドと同じく、私にもそなたの報告は逐一届いている。カルマ、だったな」
「っ」
「ゼロはクラウンと共にABSOLUTELYを押しつけてきた。父上がお作りになられた親衛隊と言うものだと言うが、実情は中央委員会役員を指すらしい。ならば書記であるそなたは、学園内外問わず我が従者と言う事だ」
「ぶっ殺されてぇのか。誰がテメーなんざに従うかタコ、禿げろミミズ野郎が」
「地を這うと言うのであれば、私もそなたも同じだろう」
「Fuck you, my name is phenix.(冗談抜かせ、俺は不死鳥だ)」
「That’s very funny. People always say, the sky is the limit.(面白い事を言う。人は常々そこに見える空までが限界だと宣うが)」

暫く見なければ、あの幼子も成長するらしい。
あの頃は少なくとも今よりは賢かった。それが世俗にまみれた証拠ならば、寧ろ褒めてやるべきだろうか。

「己を鳥と謳うか」
「は。盲目な土竜には理解出来ねぇだけだ」

黄昏の使者の目は、燦々と煌めいている。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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