帝王院高等学校
アブソルートなアラベスク日和
それはふと気づいた時にはもう、普遍的な日常の一部だった。
それは気づいた瞬間に違和感へと変化した。けれどそれまでは疑問にすら思わなかった理由は、未だ明確ではない。

「Rank absolute CODE:X, Please come over to in the center of the Round.(ランクA、コード:イクス。どうぞ円卓の中央へ)」

春。
ああ、そう、あれは春のとある日の、ほんの少しだけ不自由な思いをしたと言う、それほど大した事ではない話だ。ほんの半日だけランクAだった、つまらない日の。

「You will be the tenth King. As freely as God:noir has given me life, We join my life with yours. Wherever you go, We will go, for better or for worse, for richer or for poorer, in sickness and in health, We take you as my SINGLE, and will give myself to no other.(間もなく十代皇帝となられる閣下へ、慈悲深きノアの名の元に宣誓申し上げます。我ら黒に仕える全ての下僕は、日々の善し悪しに関わらず、富める時、貧しい時、また健やかなる時にも病める時にも、須く唯一神に忠誠を誓い、命ある限り御身の御膝にあるでしょう)」

退屈な日常の退屈なイレギュラー。

「それ即ち、唯一神の威光を知らしめんが為に」

漆黒の布で顔を覆っている皇帝はまるで未亡人の様で、プラチナの仮面を纏ういつも通りの自分はその時、ならばどうだったのだろうか。春先にはいつも、色んな出来事が起きる。例えば自分が産まれた瞬間も、世界的に見れば些細な出来事だ。

黒い糸で織られたベールを纏う男は、黒いマントを靡かせて立ち上がる。



「…中央情報部副部長、前に」

密やかに蔓延る、アンダーステルスの中で唯一、黒を名乗る事が許されたノア。
漆黒の王たる彼が玉座から立ち上がればもう、二度とその椅子に腰を下ろす事はないだろう。

「Rank BYSTANDER, CODE: X I am here.(ランクB、コード:イクス此処に)」

まるで未亡人の様な姿の男が、そのベール越しに命じるまま円卓の中央に立てば、能面じみた顔で背を正している12人の枢機卿は、一体何人がその内側を闇で染めていたのか。

「Sorry, wrong. My rank is absolute.(失敬。ランクAでしたか)」

少なくとも表情には出ないだけ、流石は神の忠実な人柱だ。

「我が名は今宵まで、ナインキング=ノアだった。そなたは間もなく、大時計が零時を告げると同時にノヴァと化した我が身に代わり、新たな地の宇宙となる。今宵、最後にそなたの名を宣誓せよ」
「我が名は中央情報部サブマスター、ルーク=フェイン」

かちり、かちりと。
エイプリルフールの夜が終わりへと向かうカウントダウンは、残り三秒。

「…只今を以て、我が名はキング=ノヴァへと塗り変わった。新たな皇帝よ、我が玉座を埋めると同時に、皆にその銘を宣誓するが良い」

立ち上がった未亡人と入れ換えに、空いた玉座を眺めた。それもほんの一瞬の事だ。
ゴーンゴーン・と、低く鈍い音で日付が変わった事を告げる鐘の音を聴いた。腰掛けた玉座から見た円卓には、時計の文字盤の如く12人の。能面じみた表情の枢機卿達が、最後の役目を果たす瞬間を待っている。


「我が名は、イクスルーク=ノア=グレアム」

仮面を外せ、と。囁いたのはつい先程まで皇帝だった男だったか。

「誰に口を聞いている」
「な!畏れながらマスタールーク、陛下に何と言う無礼な態度を!」
「…静粛に。直ちにお下がりを、前中央情報部マスター、コード:クルーザー」
「ですが議長!」
「陛下…キング=ノヴァの御前なのだよ、堪えてくれるかクルーザー」

従うのは昨日が最後だ。
仮面を外すのと同時に投げつけてやれば、一位席の男が弾かれた様に立ち上がり前皇帝へ当たる前に仮面を受け止めた様だったが、そのエメラルドの瞳が苦々しく歪んだのを見ても、何の感慨もない。
つい先程まで上司だった男が忌々しげに背を向けるのを横目に、能面じみた顔で佇む議長を見やる。流石は中立を謳う元老院の一人だ、内心は微塵も表には出さない。

「マジェスティキングの後退により、元老院の傘下に収まる役員への開示は後日の選定を以て、特別機動部長の裁量により執り行うものとする」

やはり、円卓が僅かにざわめいた。静粛を促す議長の声は冷静で、鐘の音が鳴り止めば再び静寂が訪れる。

「諸君ら、今まで誠に大儀だった。前円卓は超新星爆発(ノヴァ)の銘の元に崩壊し、現時刻を以て新たなプラネットを産み出すものとするが、異論はあるか?」
「ノヴァである私に異論などあろう筈もない。今後の円卓は須く、そなたの意思を反映する鏡となろう」

キングの言葉を合図に、忌々しげに頭を下げた11人が立ち上がり、円卓が無人になる光景を見送った。最後の一人はディスプレイでの参加である為、無惨の座席に置かれたモニタはそのままだ。

「それでは、十代ステルシリーソーシャルプラネットジェネラルプラントの、新たな円卓を指名する。一位、対外実働部。指名するマスターコードはファースト」

ざわめきはまるで、そうまるで、寄せては返す小波の様ではないか。
正気かと言わんばかりに小声でどよめく12人の中、眉間に皺を寄せる赤毛の男がディスプレイに映り込んでいる。海を渡る事を禁じられたパイロットは今、日本で航空業を営んでいるそうだ。

「クライスト卿。不服があるなら聞こう」

皮肉を多分に滲ませて囁けば、唯一生身で議会に参加出来ない男は諦めた様に首を振った。無言を貫いている所を鑑みるに、ノヴァへと昇華したばかりの皇帝に負い目があるのだろう。
レヴィ=グレアム時代に、会長を身を呈して庇った事でマリアとまで謳われたテレジアと言う女が、密かに育てていた娘はキング=ノヴァの妹として公表されているが、実際の所はクローンの失敗作に等しい。監禁状態だった筈の娘は、密かに懐妊し、極秘裏に出産した。
レヴィ=グレアムが最後の結婚式を挙げて以降、独身を貫いているキング時代には一度も使われなかった場所であり、ナイト=メア=グレアムが好んで立ち寄った場所と言われている。西海岸の真下にあるとされる、忘れ去られた小さな教会の事だ。

生きる事を許された以外に、何の権限も与えられなかった女は、愛した男の命を守る為に従順を装った。駆け落ちが失敗に終わった嵯峨崎嶺一は、彼を通報したエアリアス=アシュレイが自ら名乗り出た事もあり、セントラルへの立ち入りを未来永劫禁じられる。当時引退を考えていたライオネル=レイの口添えもあり、嶺一は対外実働部の預かりとなり、表向きは禁固を伴わない懲役刑として、対外実働部のマスター職を引き継ぐ決定が下された。
対外実働部の職務は基本的に外での仕事だ。本部に入れない事はネックにはならず、円卓に枢機卿として収めておく事で、二度とキング=ノアに逆らわないよう、絶対服従を強いる面でも効果はある。一部ではライオネル=レイの甘やかしであるとも噂されたが、アシュレイ伯爵家の人間でもあるライオネル=レイがただの好好爺ではない事は、誰もが知る所だった。

けれど、エアリアスと名目上は結婚したと言われていた嶺一が、どのようにしてかは定かではないが、体調を崩したエアリアスの余命が幾ばくもない事を監禁状態だったクリスティーナに伝えてしまったのだ。
それまでの数年間大人しくしていた事もあり監視が弱まっていたクリスティーナは、人目を盗んで日本へと渡ってしまう。盲目だったテレジアがクリスティーナの行動を咎められなかった事は致し方ないが、結局エアリアス=アシュレイの葬儀の場で捕らえられたクリスティーナは、再びセントラルへ戻ってきた。自分が勝手にした事だと、最後の最後まで嶺一を庇い続けた女は然し、それから間もなく妊娠が明らかになったのだ。

彼女は父親の名を決して言わなかった。
彼女の出産はすぐに議会の知る所となったが、キングが妹に対しての制裁を明らかにしなかった事もあり、そのまま放置されていたと言われている。当時を知る者に話を聞かねば詳細は不明だが、当時帝王院財閥に何らかの興味を得ていたとされているキングが、本国よりも日本に重きを置いていたのは想像に難くない。

産まれてきた子に、パイロットだった嵯峨崎嶺一を思わせるエアフィールドと名付けたが、己と同じく国籍のない私生児の名前など、あってない様なものだ。二歳になるまで放置されていた母子は、テレジアの死を切っ掛けにセントラルに招集された。
幾らクリスティーナが隠し続けようと、目が冷める程の赤毛とダークサファイアの瞳を持つ子供が、禁忌のキリストである事に気づかないものはない。

ライオネル=レイが仔細を知っていたのかは不明だが、エアフィールドと言う名を剥奪され、跡継ぎのいないキングの元へ一人目のバックアップとして招かれた事から、彼はファーストと言う通称で呼ばれる事になる。
とは言え、それもほんの数ヶ月の事だった。日本からベルセウス艦隊で連行されてきた二人目の子供、セントラルとしてはその誕生から監視対象として成長を見守ってきた帝王院神威と言うほんの3歳の子供が間もなく十代候補として認定されると、ルーク自ら傍に置く唯一の兵、ネイキッドがセカンドバックアップとして周知される。

「二位、特別機動部。現中央情報部ランクB、コード:ネイキッドの昇進を宣言する。現時刻を以てランクAコード:ディアブロへ塗り替え、特別機動部部長に任命する」
「有り難きお役目、喜んでお受け致しますマジェスティノア」

にこにこと何が愉快なのか相変わらず楽しげな男が、わざとらしい程の楽しげな声で宣った。年相応だと言わんばかりの慌ただしい小走りで円卓に近寄ると、椅子ではなくテーブルの上にひょいっと尻を乗せた。
咳払いと共に議長がその行為を咎めれば、きょとんと首を傾げた男は訳が判らないと言ったあざとい表情だ。

「降りろと言われましても、今まで他人が座っていた椅子に座るなんて気持ち悪いじゃないですか。ほんのり温かいに決まってますよ、ああ想像だに気色悪い。陛下、人は必ず椅子に座らないといけないのですか?人は必ずベッドで眠らないといけないのですか?何処から狙われているか判らないスイートルームよりも、誰が垂れ流した糞尿が流れているか判らない地下水道で寝転ぶ方が好きなんですよねぇ」
「そうか。そなたの好きにせよ」
「ほら、議長。陛下もこう仰ってますよ?それでもまだ椅子に座りなさいとおぼこい私を叱るんですか?はぁ、所詮ナイフとフォークの持ち方も怪しい子供ですからねぇ、大人の議長から見れば私なんて地べたに座っているのも烏滸がましい存在でしょうからねぇ…」

苦虫を噛み殺した表情で発言を撤回した議長は、か細い声で私語を慎む様にと釘を差した。テーブルの上に座って足を組んだ男は、左右色違いの瞳に笑みを描く。然しテーブルの上に投げ出した指先で、トントンとテーブルを叩いた。

「モールス信号か。成程、『私語が駄目ならこれならどうだ』とは、随分面映ゆい真似をする」

ロイヤルグリーンティーを持ってこいと、堂々とモールス信号でほざいた叶二葉に頭を抱えた議長は、諦めた様に側近に目配せをする。

「おめでとうございます、マジェスティ=ルーク=ノア。名実共に、セントラルノアキャッスルは貴方のものです」

にこにこと、カップに注がれた湯気を発てる緑茶を飲み干した男は数年間着け続けた眼帯を外すと、黒く濁った右目に笑みを描いた。二葉の右目の変化に今の今まで気づかなかったらしい前枢機卿の幾らかは驚きを露にしていたが、役目は終わったとばかりに足音もなく退出していくブロンドの皇帝に従うまま、彼らもまた一人ずつ消えていった。
残ったのは笑顔の二葉と、沈黙したままのモニタだけ。

「私の命を、子猫と呼ぶには獰猛すぎるファーストが聞くとは思えんが、拒否権は無論、ない」
「そうですよねぇ。キング=ノヴァ下でトラブルを起こして謹慎状態に等しかったクライスト卿の罪も、陛下には何の問題でもない事ですし?」
「クリスティーナ=グレアムには新たな戸籍を与え、二度とセントラルへは戻らないと言う念書と引き換えに解放した。…あれが僅かなりとも母親を慈しむ心があらば、」

いつか望んだ権力だ。
産まれた国から無理矢理連れ出した金色の神は、帝王院神威と言う僅か2歳数ヶ月の幼子の名を剥奪し、祖国を剥奪し、望まない銘を押しつけ、遂には何の魅力も感じられなくなった頃に、膨大な資産と共にその玉座を残し、自らが日本へと向かうらしい。

「押しつけられた『責任』とそれに付加された『権利』を、みすみす手離しはしまい」
「元老院を黙らせる道具にはなりますかねぇ。今の元老院はアシュレイ閣下が実質のトップでしょう?まさかあのライオネル=レイが、旅先で何処の馬の骨とも知れない阿呆に撃たれ、療養を名目に退役するとは思いませんでした」
「レイリー=アシュレイはその後どうしている」
「傷が元と言うよりは、寿命ですかねぇ。半年前に死にましたよ。実に偽善に満ちた彼には複数の養子が居ましたが、セントラルに引き入れられたのは一人だけ」
「ほう」
「去年成人したばかりだと思いましたが、そろそろランクBに認定されるんじゃないでしょうか。少しばかり使えるみたいですよ?」

馬鹿にされているのだろうかと考えたが、ノアたる神の銘を手にし、今日を以てノヴァとして光へ還った男からしてみれば、9歳の子供などやはり、わざわざ馬鹿にするまでもない脆弱な存在だろう。例えば自分が、目の前でニコニコ微笑んでいる二葉を見る様に、そこには何の感情もない。

「少しばかり、か。そなたが誉めるのは珍しい」
「ランクBのトップは今日までこの私でしたからねぇ、全く張り合いがない同期ばかりで困っていたんです。残念ながら、ランクSとなられた陛下の代わりにたった今からランクAとなってしまった私には、他人事同然です。誰が私に代わってランクBのトップになるんでしょう」
「退役したレイリーの子が、いずれ対外実働部を希望すると思うか」
「相応の責任を与えるには、それなりの義務が必要でしょう?」
「…成程、その通りだ」
「新たな円卓を描きましょう。抜けたノヴァズサークルの穴を繕って、全ての光を遮るんですよ。これからは、貴方がノアなのですから」

にこにこと、何が楽しいのか微笑んでいる他人の目は笑っていない。
ランクBと言う、命令がなければ地下から出られない立場だったなら安心出来たのだろうか。

「ねぇ、陛下」

例えば、自分こそが誰よりも『太陽』に焦がれながら、宵の宮で育った夜の眷属は。

「私が裏切ったら、泣いちゃいますか?」
「いや」
「そうでしょうねぇ。さくっと殺されるんですか、怖い怖い」
「そなたほど聡明な人間は少ない。殺すのは些か躊躇われるな」
「本気ですか?だったら一生監禁されたまま、仕事をさせられるんですかねぇ。怖い怖い」
「いや、そなたの代わりなど幾らでもいよう」

ああ、まただ。いや。今度は少し違うかも知れない。
にこりと満面の笑みで笑った目が、今度はちゃんと笑っている。

「うふふ。…だから愛しているんですよ、マジェスティ」
「そうか」
「他人の命だけでなく己の命さえも手駒だと思っている哀れな方、つまらない世界でつまらない命を精々生き永らえて下さいねぇ?」

鏡を見ているかの様だと、思っているのだろうか。



「世界がつまらなくなくなったら、殺して差し上げますよ。」

失った心臓に最も近い左側の対たるオリンピアグリーンは今、ノアに染めて何を見つめているのか。













「私の事を覚えてくれているかしら、ルーク」

また、春だ。
春は色々な出来事が起きる。

(他人の生死など知った事ではない)

いつか再会した品の良い女性を覚えていなかった時に、結局自分とはその程度の人間なのだと感じただろう?

「ご無沙汰しております、マダム」
「他人行儀な事を言うのね。秀皇の子である貴方は、私の孫なのよ?」

(車椅子に腰掛ける人を前に何も感じなかった時に)
(差し出された白く弱々しい手を取って跪いてさえ)

(祖母と呼んで下さいと言われても、尚)

実に12年振りに足を踏み入れた学園に、薔薇の如く咲き綻ぶ時計台の下。
迷い込んだ白い雄猫を見掛けたと気紛れに、ほんの世間話に折り込めば、目を輝かせた『祖母』は『それは素敵』と手を叩いた。

「白猫は幸福を運んでくれるのよ、ルーク」
「日本には幾つもの迷信があるそうですが、それは初めて窺いました」
「まぁ、見て。人懐こくて、とっても可愛らしい猫ちゃんよ。名前は貴方がつけてあげて」

幸せを招くと言われている場所が、例えば、ノアの巣食う大陸の地下帝国にもあった。西の外れ、サンフランシスコの海岸沿いの遥か大地の下に、忘れ去られた白く小さな無人の教会が。
現ノヴァ=グレアムは遂に一度として使わなかった、皇帝の結婚式で使われる場所だと言う。

「…私が?」
「貴方が見つけた猫だもの。名前がないと呼べないわ」

(自分は)
(恐らくそこへ足を運ぶ事は二度とないだろう)
(既に記憶した所だからだ)



「今日から私達の家族になってちょうだい、アダムちゃん」

家族。
そんな名前ばかりの脆い絆を何故、人はまるで尊いものの様に宣うのか。






(まるで他人事ではないか)
(私は貴方の息子の居場所を知っている)
(カンカンと鳴り響く小さな踏切を渡った先)
(古びたアパートの二階に)
(貴方の息子が選んだ女性と、恐らくは)



「あの日、榛原大空が『名前を考えろ』と言った子供と共に」



(ああ、けれど)
(微かな記憶を掘り返しつまらない計算式を立てた)
(計算が合わない)
(あの日)
(記憶が正しければ一歳半だった)

(あの人が居なくなったのは2歳になる間際の冬)
(6歳の時に見た男女は)
(鳴り響く踏切の向こう、古びたアパートの二階の部屋に消えて)



(鳴り響く踏切の遮断機に遮断されたノイズの中)
(陽炎の立ち上る灼熱のアスファルト)
(低周波に似た羽ばたきを残し頬の隣を飛び去っていく蝉)




「此処の踏切は長いんだ」

漆黒の袴を穿いた男は、水筒を肩に下げて。

「こんな暑い日は麦わら帽子の方がイイ」
「…何?」
「お面は暑いだろう」

差し出された水筒の蓋に並々と注がれたアンバーブラウン、芳ばしい香りが漂った。初めて嗅いだ匂いだ。

「何をしている」
「麦茶、飲んだ事がないのか?」
「…ない」
「そうか。暑い日は西瓜がうまい」

いつしかノイズは消えて、髪も瞳も袴までも黒いそれは横切るレールの上を足音もなく股越して行く。一口も口にしなかった茶色い液体を音もなく煽る後ろ姿をただ、見ていた。6歳になってほんの数ヶ月、8月の初め。
日本へ戻ってきたばかりの、暑い日。

「渡らないのか?」
「…興味がなくなった」
「何かを探していたのか」
「何も」
「そうか。ばいばい」

春はどうでも良い事が良く起きた。
夏は不思議な事ばかり起きる。

例えば初めて会った男が、躊躇いなく麦茶を差し出してきたり。例えば初めて会った男が、何故か踏切の向こう側でわざわざ振り返り、手を振ってきたり。

「俺には判らない事が多すぎるけれど、日が暮れるまではもう少し懸かるだろう。日焼けする前に帰った方がイイ」

見知らぬ女性と仲良く歩いていた彼は、決して振り返らなかった。
つまりは気づいてさえいなかった。
いつか捨てた望まなかった子供になどは、ただの一秒として。

「日焼けすると皮が剥けてヒリヒリするんだ」

夏は不思議な事ばかり起きる。
白い剣道着に黒い袴。
肩に下げた水筒がゆらゆらと揺れて、カンカンと。先程遮断機の向こう側でノイズが犇めいた世界で二人が上っていった古びた階段もカンカンと、恐らくは音を発てていただろう。


けれど上がった遮断機の向こう側、足音も階段が軋む音もなく二階へと上がっていくそれは、何処までも静かに。



ほら、まただ。
二階でひらひらと手を振ってきたそれは、廊下に並ぶ扉の一つをノックすると、内側から開いたそれへと消えていった。



「…」

まるで侍の様に。
騎士の様に。
レヴィ=グレアムの伴侶とは違う、NightではなくKnightそのものの様に。

「…西瓜、か。セカンドが生肉の様だと言った、瓜の一種だったな」

幻だ。
幻を見たに違いない。

『弟か妹が出来るんだよ、神威』
『それはなんですか、パパ上』
『小さくて可愛くて、守るべき家族の事だよ』

小さくもなく、守る必要さえない弟など、必要ないものだ。








(何故ならばあちらこそ)
(私など必要としていない事は、明らかだった)













春だ。
余りにも退屈な春がまた、やってきた。

18歳になったのね、と。世間一般の母親の如く微笑んだ祖母の手の甲に口づけて、漸く退屈な時間が終わるのかと考えた。着慣れたオフホワイト、毎朝ネクタイを絞める習慣も今年が終わるまでの話。ほんの、一年。12ヶ月。

すぐに過ぎ去るだろう。退屈な四季をただ、越えるだけで。


「…待つだけで良い。時はすぐに過ぎる」

皇帝たれと爵位を与えられた時の如く、生徒会長たれとクラウンを与えられた時の如く、後は夏と秋と冬を一つずつ過ごせば、在りし日の父が迎えられなかった卒業式典がやって来るだろう。
そうして歴代記念碑に名を刻んだ暁に、帝王院秀皇が残せなかった空白の中央委員会会長記念碑を建設し、偽りの帝王院帝都から奪い取った全ての帝王院財閥資産を駿河に返還すれば、日本に用はない。

「おはようございますマイルーラー、執務室に居られなかったので探しましたよ。楽しい入学式典ですね」
「忙しいそなたは、朝食の場に姿を現さなかったな。何をしていた?」
「いえ、ちょっと北寮を見回りしたり、セキュリティカメラをチェックしたり、まぁ、先程やっと陽が丘のバス停で目当てを見掛けたので休憩はしますけどねぇ、ええ」
「ほう、大儀な事だ」
「どうされましたか、いつも以上に退屈そうですねぇ?ああ、シーザーが見つからないまま春になってしまいましたから、ご機嫌斜めですか」
「久しく忘れておった話だ、そなたは記憶力が良い」

ヒラヒラと、舞い散る山桜が窓辺から吹き込んできた。
勇ましいものだ。遥か眼下から北寮最上階まで吹き込んでくるのだから、今朝は風が強いらしい。

「嵯峨崎君に対する嫌がらせにしては、少々本気の様でしたのでねぇ」
「あれが遊び回ってばかりおる所為で、ゼロから押しつけられた会長職に追われているではないか。本国からは再三に渡り、クラウンの会長ではなくステルスの会長に本腰を入れるよう上奏されている」
「向こうの時間に合わせて働くとどうしても睡眠時間がなくなるんですよねぇ、ふぅ。睡眠不足はお肌の天敵ですよ。ご覧下さい、私のしっとりもちもち肌が荒れ模様」
「そなたはいつもと変わらず美しい様だが?」
「当然ですよ、人は私を神をも恐れぬ美の化身と称えます」
「そうか」
「余りにも珍しい外部入学生が我が高等部にやって来るそうですが、案内役など必要でしょうか?念のためウエストに一言言っておきましたが、どうせサボると思いますがねぇ」
「必要あるまい。わざわざ案内をつけねば迷う様な帝君など、進学科には相応しくない」
「おやおや、中央委員会会長ともあろう御方がなんと手厳しい。本来なら陛下自ら出迎えて、手取り足取り教えて差し上げるべきでしょうに」
「面倒な役は高坂にやらせておけば良い。あれこそ暇を持て余しておろう、今期の仕事はそれほど差し迫ったものはないからな」
「我らが副会長に暇などありませんよ。中央委員会の仕事がない時は、体を持て余した親衛隊を慰めるお仕事がありますからねぇ」
「大儀な事だ」
「羨ましいですか?不能の陛下は随分とご無沙汰でしょう。まさか勃起しなくなるまでセックスを極めるとは想像だにしませんでしたが、ご結婚なされた暁には技術班の総力を挙げて、シンフォニアを発動しますよ。早い話が体外受精ですが」
「そなたの好きにせよ」

下らない世界に生きる下らない自分。
入学願書の一つに偶々見掛けた中学生は分厚い黒縁眼鏡を掛けた、極々平凡な日本人でしかなかった。

「…遠野俊」

さりとてそれが、人であるのか天神であるのかには興味がない。
例えば夏には不思議な事ばかり起きて、最後の夏の雨の日には初めて平手打ちを浴びた。8月18日の事だ。

地下で生まれ地を這う猫と大差ない癖に外の世界へと飛び立っていった愚かな子供が、今ではそれを主人として認めているらしい。確かに雑踏の民とは毛色の違う男だった。足音が静かで、そこに存在しているのに存在感は空虚な、それなのに威圧感だけはある、奇妙な人間。珍しかったのか、否か。


「帝王院の姓を望むか、ノアの銘を望むか。そなたの腹の底を見せてみるが良い」

人は須く欲深い生き物。例外など、ある筈がない。










「左席の活動費を稼がなきゃ!」
「金が欲しいのか?」
「ふぇ?お金より愛のほ〜が大事ょ、当然でしょん?」

例外など、ある筈が。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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