帝王院高等学校
ホットでレッドなお手紙を下さい!
大丈夫だ、勘違いなどしていない。
身の丈に合わない期待などしない。期待したければ、それに相応しい準備をするまでの事だ。
「ステルシリーが示す通り、Sとはステルスでありスペシャルであり、そしてまたシングルである」
世界がほんの少し、広がっただけだ。
古びたちっぽけな教会と、無駄に広大な海底湖とほんのささやかな、庭と言うには武骨な岩肌に苔むす僅かな植物と、常世の世界は暗い洞窟だけが出入口だった。自分は今、近づく事を許されなかったあの穴蔵から、漆黒のバイクによって連れ出されただけだ。たったそれだけの事、人生が変わる瞬間など言葉にしてしまえば大した事ではない。
「君は任命されたまま、コード:ファーストとなった。現在のランクはC、capital」
「Capital?(首都?)」
「『資本』だ。ランクCは最も数が多く、このセントラルに於いては最下層に属す一般的な社員である。役目は文字通り社の資本となり、神へ命の限り尽くす事のみ許される」
「他には」
「権利とは、それに見合った役職を得た者に与えられるもの。責任を帯びた義務の付加価値に過ぎない。理解出来るかね、ファースト」
「唯一神の、為に」
「須くとは、完全である事を指す。ステルスのもたらす森羅万象は必然でなければならない。世を統べる神に偶然が有り得ないと言う事は、判るかね」
「I see what you mean.(やっと判った)」
能面の様な人間ばかりだ。
イブの様にいつも暗い表情で泣き暮らす女も、動かなくなった盲目のシスターの様に、笑っているのか眠っているのか判らない曖昧な笑みを浮かべている老婆もいない、きらびやかな世界の青空の下、初めて見た巨大な建物はいつか怯えた暗い洞窟の入口よりもずっと、真っ黒だ。
「畏れながら陛下には後継者がいらっしゃらない」
「どうして?」
「マジェスティ=キング=ノアは神であらせられるからだ。気高い者は須く唯一であるからこそ、気高くあるもの」
「神様は二人も要らない?」
「理解が早く何よりですファースト。その調子で学び、いずれ陛下の元へ利益をもたらしましょう」
「アシュレイ」
「何ですか、ファースト」
「アシュレイはコードは?」
「7年前に円卓を離れた際、陛下へ返上した。元老院に籍を置いている我が身を示す銘は、アシュレイと言う家名のみ」
「名前は?」
「ファーストが知る必要はない事」
「アシュレイには家族は居るの?」
能面の様な人間しかいない世界に、能面の様な顔をした執事長は酷く溶け込んでいる。白髪混じりのブロンドはくすんでいて、エメラルドの瞳をしていたもう一人の白髪とは別の人間の様だった。彼の白髪も斑だったが、灰掛かったチャコールグレーの髪が混ざっていた覚えがある。あれは一般的に、銀髪と呼ぶのだろうか。
「…息子が二人」
「息子って何?」
「男の子供を示す代名詞」
「名前は?」
「ルーインとルシファー」
「破壊と堕落?どうしてそんな名前をつけたの?」
「此処は冥府の中枢、ステルシリー首都セントラルだが、理由を説明する必要はあろうか。先に聞いた会社概要を忘れたと?」
「…ごめんなさい」
「クリスティーナ嬢の子が簡単に頭を下げるものではない。その様な有様では、位の低い者からも見下される」
「どうしたら良いの」
「闇に呑まれる者は光を得ず、光に誘われる者は闇を得ない。ステルシリーに住まう神の姓であり、お前に与えられたグレアムの主はノアを名乗り、軈てノヴァを名乗る仕来たりがある」
ノアとは黒。
ノヴァとは星が放つ最後の光。
長い夜の果てに光と化した神は、そこで人に戻る。
能面じみた表情を微かに、ほんの僅かに曇らせた男はその時、何を考えたのか。
名は知らない。
彼が名乗るのは常に姓だけ。長くグレアムに忠誠を誓ってきたアシュレイ、女王に逆らったイギリス貴族は灰の首都ロンドンを捨てて、遥か過去に受けた恩を何世代にも渡り返し続けていた。そう、エアリアス=アシュレイと言う裏切り者が現れるまでは、ただの一度も。
「さて、無駄話は終わりだ。ファースト、まずは正しい英語を身につける必要がある。品性を疑うスラングは慎むよう」
例えば娘の存在を語らなかった男が、裏切り者の娘の父親と言う贖罪から名を捨てたのであれば。神の柱たる円卓から退き、己こそ己を罰したいと願いながら、命じられるまま禁忌の子供の教育係として派遣された時に。
「お前の血肉はマジェスティの為に存在するのだから」
憎しみだったのか。
(娘を誑した日本人の血を継いだ子供)(血の様な髪と共に)(娘が姿を消して数年後)(例えば囚われの姫様が妊娠した)(まるで出来損ないのマリア)(目が見えないテレジアは産まれた赤子が泣くまで知らなかった)
憐れみだったのか。
(エデンと書かれたベッドのヘッドレスト)(アダムの名は上から殴り書きで消えた)(エンジェルは冥府に存在してはならないものだと知ったのは、いつだったか)
「宜しいか、プリンス・ファースト」
イブのベッドの枕元。
見た事もない字で『佑壱』と書かれたメモがあるのを知っていた。
「見返りが欲しいのであれば」
「相応しい責任を」
「期待させる人間に育ってくれる事を期待する」
けれどたった二年の人生で、言葉を覚える教材は古びた本と古びたレコードだけだったのだ。
(母の様だったシスターは目が見えなかった)
(母親と言う呼び名すら知らなかったイブは自分の事しか見えなかった)
(初めて世界へ連れ出してくれた男の名はネルヴァ)
(それがただのコードだと知ったのは随分後の話だ)
「ネルヴァ閣下の為に頑張る」
盲目だった子供にはあの銀髪の男だけがあの時、能面だらけの世界で唯一の光だった・と。
…笑い話だろう?
Don't be afraid.
大丈夫。
思い違いなど、だからしていない。
『ちょっと佑壱!聞いてるの?!』
『聞いてんだろうが。何で来るなり怒鳴られてんだよ俺は、部屋に上がる前にシャワー浴びて化粧落とせっつってんだろ』
『さっきの女、何なの?アンタ、今度はあんなお子様に乗り換えるつもりじゃないでしょうね…!』
期待される人間になる為には、その権利を得なければならないのだ。何の役職も持たない人間は所詮、光にも闇にも容易く染まる。唯一にはなれない。
『訳の判らねぇ事をぐだぐだほざいてんじゃねぇ、おら。唾飛ばしまくってんだよテメー、口紅が混ざった唾が』
『ふん。アンタみたいに淡白な男、どうせ捨てられるわよ。中学生らしい恋愛なんかアンタに出来る訳ない』
『判った判った。何の勘違いでヒス起こしてんのか知らねぇが、これ以上部屋を散らかすなら外に出ろ。一発ヤれば落ち着くんだろ、どうせ』
『デリカシーって言葉知らないの?!本当にムカつく、この野郎…!』
子猫と囁いたきらびやかなプラチナから逃げて、信じてくれなかったブラックから逃げて、癇癪を起こした子供の振りで被害者を演じているだけだ。選ばれる人間ではなかったのは偏に、自分の力足らずで、責任転嫁甚だしい。
『ムカつくっつー事は、俺は嫌われたのか』
『き…嫌ってやるもんですか。愛してるのよ佑壱、良い子だから私の言う事を聞いて。国際線は私の夢だったの、フライトスケジュールの間は仕方ないって判ってるわ。でも本気になっちゃ駄目よ。あんな金髪の子供なんか、どうせ遊びでしょう?』
『だから何の話を…あ?金髪の餓鬼?もしかしてそれ、こんくらいのチビかよ』
愛されるのは簡単だが、嫌われるのも簡単だ。
昔から知っている。捨てられるのは慣れているだろう?
『ありゃ、男だぞ』
『アンタ、とうとう男にまで手を出したの…?』
『ンな訳あったか。言っとくけどな、カルマは浮気禁止なんだよ。総長命令だ』
『アンタが素直に人の言いなりになるなんて、信じらんない』
『化粧落とすつもりがねぇなら出ろ。その面じゃベッドには上がらせねぇからな』
『シャワー浴びさせたいなら、エスコートぐらいしなさいよ。何の努力もしないで愛される男なんか居ないわ』
『だから4本袖は愛されるってか』
『アンタもいつか、着るんでしょ?レイ会長の息子なんだから』
勘違いなどしない。
期待されて失望されるより、期待して失望する方がずっと、惨めだからだ。
『…さぁな』
喚く女を宥め賺して、降り注ぐシャワーの下で口づけの合間に愛していると囁かれる。火照った体をベッドに移し、柔らかな肉を割り開いて、縋る様にしがみついてくる体がまた、愛していると繰り返したけれど。
『I love you too.』
期待などしていない。
愛してくれるから、愛し返すのは当然ではないか。いつか捨てられるまでの通過儀礼、愛している人から愛された事がない自分に出来る事は、愛してくれる誰かを愛し返す事だけ。
捨てた事はない。それより先にどうせ捨てられる。
『…本当に、私を愛してるのよね?』
だって誰も、信じてくれなかった。
疑う様なピロートークで熱は冷める。何度も何度も、繰り返される。
『だからそうだって言ってんだろ』
だって結局は自分も、信じてなどいないかった。
「…は」
大丈夫だ。少し、自分の存在価値を履き違えてしまっただけ。
縋るもののない寂しい子供達を掻き集めて、兄の様だと母の様だと揶揄い半分持て囃されて、そう、ほんの少し、勘違いをしてしまっただけ。
「見ろ、取れた…」
自由などない。何処にも。
自由になりたいと思った事がない犬には、永遠に得られないものだ。
「バレットって金だっけ、銀だっけな」
誰からも必要とされず、常に誰かを必要とし続けてきた癖に、必要とされている様な錯覚を覚えて、自分を上等な何かと思い込んだ。惨めな勘違い。身の程知らずの顛末は言葉にするとやはり、大した事ではないのだろう。
17年間の人生、無知だった二年間の人生、15年過ぎても何も変わっていなかった。それだけ。
「これじゃ判らねぇな、高坂」
判っていたから涙など出やしない。
ノアでもノヴァでもましてカオスでもシルバーでもない犬の成れの果て、たった七日で死ぬ蝉の脱け殻の様に踏み潰されて消える脆弱な生き物だったら、後悔する前に眠れただろうか。
「真っ赤な銃弾なんざ初めて見た…」
大丈夫だ、と。
いつか誰かが繰り返し、背を撫でながら。ノイズに満たされた何処か、例えば嵐の中の如く。
そんな夢幻じみた妄想に縋る己の弱さがまた、笑えてならない。
『ファースト。二人もの「1」を逃がす訳にはいかない理由があるんだ、我々にも』
『そこ退け、ジジイ。元ランクAがランクCの餓鬼を連れ返す為だけにわざわざ出てきたのかよ、暇を持て余してやがる』
『ステルスの社訓に容赦はないと知っているだろう。我儘はやめて、セントラルへ戻れ。今ならネルヴァ卿もお許し下さる』
青い海を初めて見た日。
いつか遊び場だった海底水脈の塩辛い湖は、底まで透き通っていた。青い水を見たのも、本物の空を見たのも初めてだった。
『枢機卿の許可は貰ってる。ランクB、お優しいコード:イクスの銘はルーク。神に届くバベルの塔は、俺を空へと解き放ってくれた』
『交渉は決裂した、と言う事か。残念だよ、ファースト』
人の背に翼などありはしないから、人は空に憧れるのだと。書いていたのは何の本だった?
『残念でした、ライオネル・レイ』
肩甲骨を穿つ二発の弾丸、まるで翼をもぐかの様に。
初めから命を奪うつもりなどなかった事は、孤児を息子として育てている慈愛に満ちた男に確かめるまでもなく、判り切っていた事だ。
『選択肢は一つだけだった。俺を殺すには心臓を狙うしかない』
『…』
『やられたらやり返せ、ステルスの社訓だ。俺を恨むなよ、マスターレイ』
一発目は空に、二発目は背を向けない男の左胸に。
外しはしない。そう教育されたからだ。容赦はしない。人を赦せるのは常に、神にのみ与えられた権利だと教育されてきた。
『See ya, Sir Lionel.(バイバイ、ライオネル卿)』
赤。
褐色の肘から先、滴る赤に構わず真っ赤な何かを摘まんだ指先もまた、赤い。
「やっべぇ」
赤い、紅い、それ以外の色は何処に消えたのか。
視界が深紅に染まった瞬間、己の意識は何処にあったのか。どさりと音を発てたそれをただ、抱き止めた。暖かいそれは何だっただろう。
「予想以上に痛ぇ。お陰で意識飛ばしてる余裕がなくなった」
赤。
あの時もそうだった。あの日の夕焼け空の、燃える様なグラデーションを覚えている。
夏の最中。蝉も人も茹だる様な暑さに晒されて、嵐が来ると連日報道するキャスターもまた、疲れた表情だったろうか。
「何が、起きてやがる」
「…あ?」
「真っ赤、だ」
気が早い彼岸花の蕾が綻ぶ庭先は、小川に掛かる橋を越えれば見えてくる筈だった。
いつもは顔を合わせると泥団子を投げつけてくる近所の悪餓鬼は、その日は一度も近寄って来なかった様に記憶している。平和な一日だった。
(違う)(それは今じゃない)(それなのに、今)(目の前の光景が塗り潰されていった)
「ざけんな、よ」
「高坂?」
真っ赤だ。
(笑う声が聞こえる)
(いつかの浅はかな男が)
(いつかの悪餓鬼が)
「ナイフの次は弾だと?冗談じゃねぇ、お前が狙われてるならまだしも、俺が…俺の所為?ンな馬鹿な事が、」
「おい、高坂」
「赤、は」
伸びてきた赤に染まる指先が真っ赤な視界へ写り込む刹那、
「視界に入れたくねぇんだ」
心臓に最も近い左手に握り締めたのは、何だった?
Red script from xxx.
Give in without resistance always.
(あの日は奪った一丁のピストルだった)
(躊躇わず人差し指が手繰り寄せたのは)
(解放への鍵か)
(それとも他人の命を奪う)
(レッドスクリプト 、か?)
「入学おめでとう」
蝉が鳴いている。
星も月もない、真っ暗な夜だった。
「…ありがと、って、何やってんの?」
「散歩」
「へー、こんな時間に。お疲れ様」
「まだ零時は回ってない」
真っ暗な窓の向こうに、真っ黒なそれが浮いているのが見える。
その余りの現実味のなさに違和感を覚えなかったのはきっと、静かすぎる生活に麻痺していたからだろうか。
「退屈そうな顔をしてるな」
「退屈だって、急に思い出したからかも」
「小学校は楽しいかい」
「普通」
「普通?」
「普通にフツー」
6歳の子供には広すぎる部屋の片隅、照明を落としたベッドの上でコントローラーを握ったまま、部屋の主はテレビの画面へ視線を戻した。暑い夜だからか、単に冷房が苦手なのか、開け放した窓の外の来訪者には然程興味がないらしい。
「今夜は静かだ。光のない夜は、お前と俺の結びつきが強まる」
「こないだみたいに?」
「大学生活は退屈だったかい」
「あんな所に閉じ込められたあの子は、可哀想だね」
「連れ戻したかった?」
「どうせ無駄だろうけど、しゃらっぷ 」
「酷い発音だ」
面白くなさそうな横顔の下、胡座を掻いた足の上に投げ出した腕がポチポチとコントローラーを規則正しく弾いている。
「あんな国、ごめんさ。広いだけでつまんない」
「ゲームが?」
「形のないものを産み出す力は、日本人特有のスキルだって判ったから。もういい」
まるでサラリーマンが与えられた仕事をこなすかの様に、およそ楽しいゲームの時間には見えない。初々しい子供としての無邪気さなど、静かな眼差しには少しも滲んでいなかった。
「自分に合わないものは要らないんだよ、俺は」
「そうして、一つずつ淘汰していくのか。何も持っていない癖に」
「…何が言いたい訳?」
「一年見ない内にひねくれたか。いや、より人間らしくなったのか?」
「羨ましいのかい」
「成程、心を閉ざして俺に本音を見せない魂胆だと見える」
「勝負の最中に敵に腹を読まれたら、勝てるバトルも負けちゃうからねー」
「そうか。その通りだ」
「どうせ無駄だろうけど」
「まァ、そうだろうな」
勝利の文字が表示されているテレビ画面から一瞬目を離した子供が、一瞥してくる。笑い掛けたつもりだったが、軽く睨まれて顔を逸らされた。上手く笑えてなかったのだろうか。
「そのバイク、何?」
「太郎を運び出す為に、見よう見まねで作ってみたんだ」
「タロー?こないだはハナコを送ってくついでだって言ってなかった?」
「花子は弟が心配なんだ。優しい人だから」
「右手、動かないんだっけ。何で助けてあげないの?」
「ミッドサン、どうして俺が助けなければならない?」
「叶は皇の成れの果てだって、言ってたろ」
「皇の墓守りだ。空蝉が死ねば、全ての骨が叶の元に届く」
「まるで十字架みたいだね」
「神仏を憎んだ俊秀が社を壊した日、京都の屋敷を捨てたその瞬間から、帝王院は神に見放されている。緋の系譜でありながら、家紋は十二の星を模した」
「太陽だろ」
「昔の話だ。尤も、俺には関係ない」
「アメリカ人を主人にする事を認めろなんて、まだ言ってるのかい?」
ああ、まただ。
また、睨まれた。
「お前さんが名を偽るなら俺も同じだよ、宮様。俺は榛原じゃない」
「月隠に産まれた俺が天神を継ぐ方が可笑しいだろう?」
「今ほざいたろ。帝王院は星、夜の家だって」
「反転したからな」
「反転させた、だろ」
「化物が人になる為に」
「お前さんは人になんかなれないよ」
「意地悪だな」
「運命を握れる様な人間、存在する訳ない。ゲームじゃあるまいに」
「そうか。確かに、その通りだ」
「今度は何をさせるつもり?またハナコの記憶を消せって?それとも、タローだっけ?」
「いや、言っただろう。ただの散歩だ」
呆れたのか、再びコントローラーを規則的に弾き始めた瞳は、二度とこちらを見る事はなかった。
「楽しそうには見えないが、楽しいのか?」
「そっちこそ退屈そうだね、宮様」
「ゲームの途中はそうだろう?」
「ゲームはクリアするまでが楽しいんだよ」
「理解出来ない」
「俺もだよ」
「答えが判りきっている物語なのに」
「俺の勝ちだからねー」
静かな闇の中、泣き続ける蝉は誰を呼んでいるのだろう。
この騒々しさが聞こえないとばかりに、熱心にテレビを眺めている子供は相変わらず、退屈そうな表情だ。
「お前が王子様になるには、王様を倒す必要がある」
「訳の判らない人格を植えつけられて、訳の判らない賭けに巻き込まれて、いい迷惑さ」
「年明けに見た時はもう少し可愛いげがあったのに、この半年で何があったのか」
「小学校って所が退屈過ぎたからじゃない?周りが全員、馬鹿に見える」
「判り易いな。賢い人間が好きなんだろう、お前は」
「馬鹿とブスはすぐに見飽きるんだもん」
「緑茶が煎茶だっただけで即座に『帰る』、だったか。チェス愛好会のメンバーが随分しつこく止めていたのに」
「それとサバゲーサークル」
「お前の危険察知能力は獣並みらしいな。地雷には引っ掛からず、カラーボールは百発百中。俺も鼻が高かった」
「まーね、伊達に忍者の末裔じゃないからー。なーんて、野生のライオンすら逃げ出す様なお前さんに誉められても、嬉しくない」
「宍戸には神坂、つまり明神の血が混ざってるそうだ。通常、俺の様に他人の心の内が読める能力が育つ様だが、稀に世界の歪みが見える者がいるらしい」
「ふーん」
「高坂日向が話し掛けようとするお前から逃げた様に」
「いい加減出てってくんない?」
「部屋に入った覚えがないんだが?」
わきわきと、空いた左手が物欲しげに蠢くのが見える。
部屋の中でさえなければ恐らく、泥の塊がカラーボールの如く炸裂したのだろう。百発百中と名高い『真円』と化物、どちらが勝つのかは定かではない。
「宮様」
「共にアメリカ旅行を一週間も楽しんだ友人の名前を忘れてる様な冷たい男のお願いは、聞けないな」
「ふぁっきゅー」
「興味がないものに対する扱いが雑すぎるぞ」
「人の人生を脚色する奴なんて友達じゃない。お前さんはただの宮様の成れの果てさ、大体俺は命令されるのが大嫌いだよ」
「皇は命令されるのが好きらしいが」
「俺は嫌いだね。最初に言ったろ、責任転嫁した奴を主人とは思えない」
「お前の主人は俺じゃない」
「星と太陽は鏡じゃなかった?」
「俺は真っ黒だろう?煌めく星々からは程遠い存在だ」
「目的を果たす為なら他人を犠牲にしても構わないってのは、忍者の考え方だよ」
「仕方ないだろう。お前の考え方は、人から掛け離れてる」
光を灯していたディスプレイが闇に染まり、世界は黒で塗り潰された。
「もういいかい。寝るから」
「まだだ」
「叶が榛原に従うのは『当然』なんだろ?俺の声が言葉で縛るから普通じゃないんだろ?でも今は消えてる、お前さんと取引したからだ」
「そうだ。俺が鍵を掛けた」
「っ、ネイちゃんは戻って来なかった!俺を笑いに来たんだろ!」
「違う」
「嘘つき…!」
バタン、と。叩き閉められた窓。
途切れた蝉の音、静寂、黒の世界。
(いつか)
(愛に満ちていた魂よ)
(雪深い山の頂きを越えて)
(とうとう理の境すら踏み締めて)
(一度も振り向かず遠野の果てに彷徨い着いた、王たる人の子よ)
(深紅の鳥居は潜る度にその体を汚していった)
(滴る真紅の血は軈て変色していき)
(茶とも黒ともつかぬ煤けた錆となってお前の魂をも塗り潰したか)
可哀想に。
可哀想に。
恐らくまともな人間であれば、そう言って優しく慰めたのだろうか。
(神よ仏よとありもしない虚像に縋りお前は遂に)
(鼓動の止まった獣の骸を抱いて)
(鼓動の止まった体と塵と化した魂の成れの果て)
(剥き出しの業だけを惜しみなく晒した無様な姿で)
(いつか王だった人の子よ)
(お前はその時既に)
(王でも人でもまして命ですらなかった)
「嘘じゃない」
(そこは時の始まり)
(時の果て)
(愛に満ちていた魂よ)
(日出ずる国の太陽に愛された血肉よ)
(お前の形を消してしまわない為だけに)
(初めてやってきた命よ)
(お前を輪廻で縛りつけた時空の無慈悲を恨んでいるか)
「本当に違うんだ。お前の猫は狼の名で偽られてしまう。俺にはそれが見えたのに、俺はクラウンだから何一つ変えられない。俺は何も変えられない。あるがままの物語を、新しく書き加える事が出来ないんだ」
時。
時とは何だった?
時とはいつから存在した?
物語とは何だった?
物語を描いたのは、誰だった?
「俺が描いた、筈だ」
時折様子を見に行った。
父親の腕に抱かれて、親友の子供が産まれると連れていかれた新生児室の前。新生児よりは幾らか大きい自分は、並んでいる双子の片方に名前をつけた。そうするのが当然だと知っていたからだ。
「だったらどうして、俺は脚本を書き換える事が出来ない?」
赤い、赤い。
柔らかな皮膚の下には血液が流れているそうだ。ミィミィと子猫の様に泣いている片割れとは真逆に、子猫の様な瞳をぱっちりと開いた赤子はふてぶてしく、大の字で待ち構えている。誰かが自分の世話をしてくれる事が、判っているかの様に。
「俺がキャストだからか。駒に成り下がってしまったからか。騎士とは、馬を象る駒でしかない。そうだ、馬は馬のまま、何にも変われはしないと知っている。王が王のまま変われない事も、知っていただろう。だとすれば俺は、初めから間違えていたのか?」
人の血や肉の何処かに、心と言うものがあるそうだ。心と言うものはどの本にも良く出てくるフレーズだったが、それを目にした者はかつて一人として名乗り出ていない。人は時折目には見えない不確かなものをあると謳い、それに縋ろうとする。知っていた筈だ。
虚像を崇拝する事に空しさを覚え、偶像崇拝に縋る人の弱さを。
その哀れにして脆弱な命が、纏う目には見えない衣は何を守る為に?
「俺は、誰も救えないただの、キャスト?」
例えば、心を。
さようなら
さようなら
追い掛ける意気地もない癖に、
未練がましく想い続ける過ぎ去りし日々よ。
さようなら
さようなら
いつか輪廻の針が巡ったら、
世界は息吹を思い出すのだろうか。
(所詮は繰り返される普遍なる時流を私は待つ)
(それを輪廻と名付ければ)
(終わらない絶望を受け入れる覚悟がいつか)
(いつか…)
さようなら
さようなら
昨日聴いた歌を今日歌う。
明日もし誰かの歌を聴いたなら、今度は誰と歌うでしょう。
さようなら
メビウスにもしも果てがあるなら、
(…さようなら)
(これが最後の別れになるのだろうか)
←いやん(*) (#)ばかん→
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