帝王院高等学校
それでは終わりのない演奏会を始めましょう。
「すまんが、下げてくれるか」

並べられた食事へ殆ど手をつけず呟いた男の声は、掠れている。
下げられていく料理は冷めてはいたが、どれも食欲をそそられるものではあった。この数年で目に見えて食が細くなった主人にとっては、何ら効果を示さなかった様だ。

「お加減が悪いんじゃありません?」
「いや、何ともない。そう見えるか?」
「お願いです。一度、お医者様に診て頂いた方が」

未だ肌寒い早春、カーディガンを肩に羽織った帝王院隆子が心配げに首を傾げているが、幾らか目尻を指で揉んだ男は、妻の台詞に同じく首を傾げた。控え目に佇んでいる従者や秘書らも内心では隆子の意見に賛成と言わんばかりだったが、彼らの気持ちを見てみぬ振りでやり過ごす様な男であれば、そもそも心配される事などなかった筈だ。

暫し妻と部下の顔を見つめた帝王院駿河は、降参だとばかりに息を吐いた。

「そうだな。暫く疎遠だった龍一郎兄さんの所へ、顔を出すか」
「約束ですよ貴方、絶対ですよ」
「随分と念を押すな。私がお前に嘘を吐いた事があったか、隆子」
「お仕事にのめり込むとお食事も忘れる様な旦那様では、そうもなります」
「すまんな、お前にはいつも心配ばかり掛ける」

普段は従順で慈悲深い妻の唇が尖っている様子を認め、駿河は苦笑いを零す。
素直に謝罪と共に感謝を述べれば、怒っていた訳ではなく心配していた妻の機嫌はすぐに直ったが、駿河の目が窓の外に向けられている事に気づくなり、隆子は困った様に眉を寄せた。

「そろそろ桜の時期にしては、寒い…」
「今年は冬が長いので、山桃の開花が遅かったんですよ」
「そうか。叱られるのも無理はない、気づかなかった」
「ご自分の学園でしょう?貴方のお勤めは何ですか」
「くっく。今日はとことん刺がある」
「たまには言わせて下さいませ。結納時の約束を覚えてらっしゃいますか、駿河さん。貴方は私より先に逝かないで下さい」
「…」
「そう約束して下さったから私は、輿入れする覚悟を固めました」

一人息子だ。
たった一人、それでも出産時のリスクを訥々と語ったいつかの医師の言葉を、今でも強く覚えている。愛し合って結婚したのだから当然は望んで、けれど本心では諦めてすらいた子供を、頑なに産むと決めたのは妻の方だった。

今でこそ当時より肉体的には強くなった女は然し、生後間もなく二十歳まで生きられる確証はないと宣告された過去がある。駿河はその全てを受け入れてプロポーズしたが、一度目は断られた。

丁度その頃、余命幾ばくもないと宣告されたばかりだった駿河の父である帝王院鳳凰は、然し崩御するまでの病床にある間、それを悟らせない様に学園長として生徒の前に在り続けた男だ。
帝王院の後継者として短い期間で成長しなければならなかった駿河が、縋る様に隆子へ結婚を申し込んだ事を何処で知ったのか、鳳凰は間もなく死ぬとは思えない表情で笑い飛ばすと、

『帝王院鳳凰の子が、一度や二度や百度断られたくらいで落ち込むとは。良かろう、尻拭いは任せておけ。駿河、隆子ちゃんを襲って来なさい』
『犯罪です父上』
『案じるな。高森の家は既に爵位返上し、一般の民に紛れた家だ。あれほど喧しかった糸遊が呆気なく死んでしまい、高森も後を追う様に逝った』

懐かしむ様な声で、笑っていただろうか。

『妻に先立たれた男は永くないぞ。それでも俺は、舞子を残して逝く様な真似をせずに済んだ事だけは、神仏に感謝している』

思い出とは時の経過と共に色褪せ、補うが如く脚色されるものだ。だから駿河の記憶が全て正しいとは言えないにしても、死ぬ間際の帝王院鳳凰は、名の如く不死鳥の翼を失ったかの如く、燃えかすの様だった覚えがある。
少なくとも、母である舞子が存命だった頃の快活さは、微塵もなかったのは間違いない。

『残されるのは辛くないのですか?』
『例えば死んだ後、残した愛しい者が嘆いていたとして、この腕は宥める事が出来ん。ならば俺は、残すより残される側を望む』
『…母上は笑ったまま亡くなりました』
『ああ。目を閉じれば昨日の事の様に思い浮かぶ、天女の如き笑顔が』
『母上、は』
『駿河』

咎める様な父の声に、駿河は口を閉ざした。
大人の誰もがどれほど隠していても、気づかない筈がない。帝王院舞子の死後、静岡の加賀城本家は分解し、養女の智子は嫁入りした先の姓を名乗り、除籍となった。
舞子が亡くなる寸前に加賀城方の祖父母は亡くなっていた為、分家筋の誰かが加賀城の姓を名乗る事になり、山梨で暮らしているらしい。

『私もそう長くはない。若いお前に役を負わせる真似をするが、許せ』

引き換えに、加賀城の宗家は一族全てが南下した。
若い駿河ですら、その異常さには気づいている。理由こそ定かではなかったが、母の親友でもあり妹の様でもあった嵯峨崎可憐が、母の前で見せた穏やかな笑顔を一切失い、加賀城宗家を目の敵にするのだから、仮説を立てるのは難しい事ではない。

雲隠最後の当主にして、駿河の曾祖母である雲隠火霧には娘が二人、息子が一人いた。これは帝王院の後継者として勉強を始めた駿河が、最近知った事だ。
火霧の長女は桐火、駿河の祖母に当たる女だった。次女は短命にして忠実な忍らしく名が残っていないが、彼女が生んだ双子の兄妹が陽炎と糸遊で間違いない。同じく「焔」と言う名だけ辛うじて残っていた長男の行方は、まるで隠されたかの如く残っていなかった。

そこまで綺麗に消されていると言う事は、降格したのだろう。
つまりは、叶芙蓉が片眼を差し出してまで帝王院雲雀の警護に志願し、間もなく行方不明になったと言われていた時代より些か遡る、明治初期だ。

『では、他の質問をしても良いですか』
『ん?』
『雲隠焔は十口に降りたのでは?』
『焔は鍛練の最中幼くして片腕を失い、間もなく叶へと下された。自らを「不要」と名乗り、戒めの如く嫡男にその銘を押し付けたと聞いている』
『不忠小父さんのお父上』
『焔の妻は、芙蓉が消えた当時40歳を越えていた為、叶の年寄り共はこぞって妾を宛がった。焔は渋ったが、恋女房に懇願されては否は言えんかったろう』

雲隠焔の妻は榛原の分家筋に当たる娘だった。嫡男以外は叶に下るのが常だった榛原の子は、長男以外が。その嫡男である芙蓉が雲雀と共に行方を眩ませた為、叶のみならず榛原も険しい立場にあったと思われる。
当代だった榛原晴空が一切の容赦なく、己の身内が嫁いだ叶を罰したのは、皇たる空蝉の内部分裂を避ける為だったと鳳凰は考えている様だ。

『芙蓉は18歳の折りに姉上と行方を眩まし、同時に私が生まれた。榛原の血を繋ぐ芙蓉が失態を犯した事で、冬月と肩を並べていた明神の末席、神坂の反感を買うのは必至。故に焔の二人目の妻は、明神から下った娘が選ばれた』
『そこで新たに冬月の娘を宛がっていれば、別の揉め事が起きかねないからですか』
『我が祖母は冬月の娘だ。故に、我が父の従兄弟に当たる冬月鶻は雲隠火霧を除いて、別格の扱いを受けていたと聞いている。然し我が母、雲隠桐火は生後間もなく雲隠の血が強く出た為、長く見積もっても30歳までに死ぬと判断された』
『お祖母様が?』
『母は13歳で秀之に嫁げと沙汰を出されたが、実に三年以上逆らい続け、秀之を嫡男に望んでいた鶻の反感を買ったそうだ。然し知っての通り、俊秀が妻として桐火を迎えた事で収束する』
『お祖父様は何故そんな真似を…』
『確か、初対面で裸を見られたから、とか言ったか』
『…は?』
『生後間もなく目には見えない何かと会話したと言われる父は、神子とも忌み子とも呼ばれた』

陰陽師の血筋なのか、恐らくは始祖である帝王院天元を彷彿とさせる俊秀の存在に、実父である帝王院寿明は震えた。いつか神仏の元に連れていかれ、神隠しにでも遭うのではないかと真しやかに囁かれ、俊秀は幼い頃から誰にも関わらないよう、屋敷の奥に隠されたまま育ったそうだ。

『龍の宮だったか。今や叶の屋敷である京都の帝王院本宅には、幽世の宮と呼ばれた天守閣があった。東西南北の四方を屋敷に守られ、その中央に設えられた箱庭に築かれた小さな東屋の様なものだ』
『かくりよ』
『新月の晩に産まれた父への皮肉か、常夜の宮とも呼ばれた様だ。…お前を京都に連れていった事はなかったな。桔梗が産まれた沙汰は受けたが、舞子の具合が悪かった』

呟く様な鳳凰の声に、駿河は頷いた。
何よりも妻を愛し大切にしていた鳳凰にとっては、めでたいと心から祝福する事は難しかったに違いない。複雑な気持ちで祝福する事こそ無礼であると、己に妥協を許さない鳳凰は判断したのだ。

『家は、続けば続いただけ軋んでいく』
『はい』
『私は己の我儘で蝉の殻を割った。…父上が在りし日、鳥居を砕いた様に』
『鳥居?』
『父上には見えていたと言うが、果たしてどの程度の信憑性があったものか、今となっては確かめる術もない』

くつくつと、鳳凰は久し振りに笑った。
駿河の記憶にある俊秀は寡黙だが優しい男で、一番初めの記憶には、駿河を撫でながら真顔の俊秀が「俺がお前を産んだ祖父だぞ」と囁いた光景がある。当時は疑問にも思わなかったが、彼なりに結婚が遅かった息子の行く末を案じていたのだろうか。

『お祖父様は度々予言じみた事を仰っていたと、晴空小父様から伺った事があります』
『目に見えんものが見えるなど、俺は信じていない』
『父上らしい』
『ともすれば、不忠は私が産まれた後に産まれたから、芙蓉とは実に20歳近く離れている。結局、不忠を産んだ女は間もなく外界へ解放された』
『焔は妻以外に側室を持たなかった、と?』
『焔が下るまで、叶に雲隠の血が混ざる事がなかった事が、恐らくは最たる理由だろう。忌まわしき不死鳥の血、幾度業火の如き血に穢れようと生き延びる妖怪とまで謳われた血を混ぜる事は、十口の隆盛、延いては帝王院の利になる』
『…下劣な』
『ふ、若いな。誰が言ったか空蝉、どれほど宣うと私にとっては大切な家族だった』

父は家族を愛していた。父親に関して最も強く覚えているのは、その事実だ。

『忌まわしき金糸雀、歌う声は呪術として魂を奪うと謳われた榛原の血は、宗家の嫡男にしか継承されないと言われている。代々榛原に子が少ない事も理由の一端だろうが…』
『その程度の理由で呪われているとは、時代錯誤はいつまで経ても枚挙にいとまがない』
『いや。強すぎる力には制約が課されくらいで丁度良いのだと、仰った』
『誰の言葉ですか?』
『父だ』
『お祖父様?』
『我が祖父、寿明がふと話した事があったか。親でありながら我が子の考えが判らない己を恥じると、一度きり』

父はまるで、その場の思いつきの様に学校を作った。娘を失い、二度と家族を失わないとばかりに仕事に精を出した俊秀の背は追わず、舞子と駿河だけを手元に残し、全ての戒めを解いたのだ。

『鶻従伯父は、父上を帝王院の系譜から解き放ちたかった』
『お祖父様を?』
『世間知らずの父上には、お前の言う通り「下劣」な軋みを背負わせたくはなかった様だ。俊秀の代わりに金儲けは俺がすると、我が祖父に何度も食って掛かった』
『大叔父様を嫡男に進言したのは、お祖父様を自由にしたかったと?』
『そうなるな。残念ながら、俊秀は普段は毛虫の様な男だが、一度堪忍袋の緒が切れると誰の言葉も耳に入らん男だった。桐火を娶ると言った時、鶻が最後まで反対した事に激怒し、とうとう言ってはならん言葉を口にした』

冬の月は、鱗を剥がすが如く地に落ちる。

『冬月龍流の名にある龍の鱗は剥がれ、冬月は幕を閉じた。駿河よ、お前はこれを聞いて何を思う?』

父の幼馴染みは、唯一と言って過言ではなかった親友の亡き後、その志を継いで必ずや病院を作ると口癖の様に言ったそうだが、夢半ばで急逝した。

『特に何も』
『くぇっ』
『…その笑い声を聞く度に、お祖父様が「何とも切ない」と仰った事を思い出します』
『龍流の友は、夜の王と呼ぶには心優しい人だった。空襲の最中も患者を優先し、国の犠牲となったそうだ。その息子は子犬を救い俺を救い舞子をも救おうとしたが、己の力足らずだったと今も尚、恐らく悔いている』

鳳凰は、家族たる皇がまるで灰の如く灰皇院と呼ばれる忌み名のまま、次から次に儚く散っていくのを見送り続けて。とうとう最後は自らその楔を解放し、最後の最後、何を思ったのか。駿河には判らない。

『父上の遺言だ』
『お祖父様の?』

祖父よりもずっと、父の方が預言者じみていたのではないか。

『私が解き放った皇を再び統べる子』

例えばあの日。
誰に何と謗られようと、母親としては余りにも幼かった、然し誰よりも全てに愛を与えた舞子がまだ、生きていたとすれば。

『皇子たる孫。延いてはお前の息子の名は、…秀皇』

鳳凰の遺言じみたその囁きを、在りし日の様に微笑んで聞いたのだろうか。

『ご冗談を』
『孫をこの手で抱くと言う夢は綺麗さっぱり諦めているが、いずれお前が私の後を継ぎ我が校を益々改築した暁には、夜の王の悔しがる面を肴に、極楽浄土から舞子と共に笑ってやろうと思っている』
『遠野さんの?』
『帝王院は昔、陰陽師だった。俺は陰陽師ではなく教師を選んだが、我が父は道化師だと思っていた時期がある』

鳳凰の枕元には分厚い聖書と、その厚みに負けないほど分厚いモノクロの写真。事ある毎に家族写真を撮りたがった鳳凰は、駿河が本が欲しいと言うと「読書とか暗い真似はよせ」などとケチる癖に、本よりずっと高価な写真には金に糸目をつけなかった。
いよいよ写真屋に行くのが面倒になり、お抱えのカメラマンを雇うほどには。

『例えるなら、刺しても死にそうになかった垂れ目が死んだ時に』
『垂れ目』
『落ちた鱗は羽根に代わり、落ちた龍は鳥に生まれ変わる、だったか。父上の言葉はその大半が判らなかった。然し聖書に記された通り、隣人に等しい父をも慈しむべきだと、それは気を遣ったぞ』

曰く。
鳳凰は生後間もなく物心ついて以降、父親の事を変な人だと思っていた。見た事もない姉に対して、幸せに過ごしているだろうかと思う事はあっても、娘の写真一枚ないと死ぬまで悔やみ続けた俊秀の二の舞にはなるまいと、婚約した直後から舞子の写真を連写しまくった。その本音は、俊秀に対しての「やーいやーい羨ましいか」だ。
遠回しな語り口調でぼかす父の台詞に、駿河の表情は引き締まった。言葉を変えれば、無表情に染まったとも言えるだろう。早い話が心底呆れたのだ。

『他人事とは思えない話、痛み入ります』
『お父さんを雑に扱うとバチが当たるぞ』
『何故父上にバチが当たらなかったのか多少疑問です』
『率直に言わんか』

無表情の駿河は、稀代の男前と謳われた鳳凰より静観な顔立ちをしている為に、その切れ長の双眸が年齢にそぐわない貫禄を醸している。
日本人にしてはぱっちり二重な鳳凰はいつまでも若々しく、白髪がなければ40代で通用しただろう。医師からは余命宣告に等しい診断を受けている駿河ですら、「あ、コイツはまだ死なねぇわ」とぼんやり考えている程だ。

実際の鳳凰は、これから間もなく亡くなった。駿河が母親を亡くしてから、二回目の春を迎える頃だ。

『お前には血も涙もないのか。鳳凰ちゃんの臍のゴマを煎じて飲みなさい、鳳凰ちゃんがチーンした後に』
『縁起でもない。そもそも煎じて飲むのは、爪の垢です』
『俺の十の指と何なら十一番目の股間の指は、舞子のものでな』
『ちっ』
『成程、老い先短い父の枕元で舌を打つか。帝王院駿河、お前には人としての教育が足りん様だ。そんなんだから隆子ちゃんにプロポーズ一つ出来んのだ馬鹿め、訳の判らん御婦人の誘いばかり受けて、この助平』
『童貞は結婚した後に大分困ると仰ったのは父上でしょうが、永…ゴホン、少しお休み下さい』
『永遠に休めと言い掛けたな?』
『耳が遠くなったとは。70過ぎれば無理もない、お悔やみを』
『もうお前とは縁を切る。良いのか、校長が縁を切っちゃうぞ中央委員会会長よ』
『大変心苦しい限りですが、父上のご命令とあらば否はない。俺も18になります、どうぞご自由に』

鳳凰が人生最後に放った舌打ちに対し、駿河は人生何万回目かの愛想笑いを浮かべた。嵯峨崎に嫁いで行った雲隠陽炎曰く「殿の前の宮様は能面のよう」だそうだが、高森に嫁いで行った糸遊曰くは、「父親だからと言って大殿を甘やかしてはなりません、頼りは貴方だけですよ宮様」だ。

『期待に応えられなかった愚息など忘れて』
『率直に言わんか駿河』
『帝王院には嫁げないそうです』
『うーむ。何と奥ゆかしい』
『所が、東雲には空蝉から零れた者も紛れている事を知りました』
『俊秀の時代に屋敷を東京に移した頃、四家から何人かが散ったと聞いている。明神では宍戸、神坂がそれに当たる。父上の義妹、樹子叔母は14歳で神木の妻になった』
『大叔母様は曽祖父様の義妹の子でしたね』
『我が大叔母は曽祖父天明の忘れ形見である末女だったが、産後の肥立ちが悪く間もなく亡くなった。故に伯父に当たる寿明が娘として引き取り、側室の元に産まれた秀之と共に兄妹として育てた様だ』

先に言った通り、帝王院嫡男の俊秀だけが、隔離されたまま育った事になる。
己もまた似たような育ちである鳳凰は他人事の様に話したが、鳳凰の元には陽炎が常に側におり、成人まで一人だった俊秀よりは救いがあったのかも知れない。

『樹子大叔母様の父親は、』
『糸遊の夫、高森絢一の再従兄、隆弘だ。知っての通り、樹子叔母が亡くなった後、隆弘氏は再婚した。帝王院に忠誠を誓った隆弘は高森の名を捨て、東雲と改名し、後に爵位を返上した高森の末裔は終戦直後に東雲へ下った』
『そうでしたか。宗家が隆弘様で、本家が高森の小父様』
『順としてはそうなる。隆弘氏の元には、幼い頃から彼を慕っていた隆乃が嫁いだ。私の妹同然の糸遊が産んだ娘なれば、姪も同然だったが、如何せん糸遊以上に気性の激しい娘だ。とうとう隠居していた俊秀に懇願し、我が父ながら阿呆だったが故に、後先考えず隆弘氏に「隆乃を貰ってくれ」と宣った』
『寧ろお祖父様が隆乃さんに脅されたのでは?』
『隆乃はまだ16歳だったんだ。それを糞親父、俺が新婚気分で舞子とちょっとチュッチュしてる間に、隆弘が義理の叔父同然だからと…!ええい、帝王院の風上にも置けん父上だ。人様の恋愛に口を挟むとは!』
『落ち着いて下さい父上。結局の所、東雲には帝王院のお墨付きがあるも同然と言う事ですか』
『隆弘の母親が東雲の血筋でな。帝王院に並び名のある宮司の家だったが、嫡男に恵まれん世代に戦争が始まった事があり、断絶寸前に陥った。隆弘が東雲の籍に落ち着いたのはそんな理由もあっただろう。お陰様で他人同然の分家が大きな顔をする様になった様だがな』
『隆弘様の立場が弱かったんですか?』
『伯爵家の分家の末子ながら、帝王院の娘を娶ったが数年で死別したとあっては。言ったろう、家は続くほど軋む。東雲は、その家名に誇りを持っていた』

冬月に負けず劣らず、金や富の亡者だらけだと言う事だ。

『糸魚さんは冬月に嫁いで、隆乃姉さんも栄姉さんも東雲に嫁いだ訳ですか』
『仲の良い姉妹だから判らんでもないが、隆乃が隆弘に惚れた理由は、名前の一字が同じだからだ』
『…は?』

駿河は開いた口が塞がらなかった。流石は雲隠、糸遊もとんでもないがその娘もまたろくでもない。

『お前の言わんとする所は判った。大方、体の弱い隆子ではなく元気が有り余っている栄子を娶れと、口喧しい輩がおるのだろう』
『流石に頭に来ました』
『家督を継ぐなり東雲を潰す、と』
『寧ろ今すぐ力ずくで黙らせたい』
『帝王院駿河、お前が初めて喋った言葉は「ちち」だったぞ。それが私を呼ぶのか舞子のお乳上を呼ぶのかは定かではないが、そんな初々しかったお前は一体何処に出家したのだ』
『耐えられない。東雲栄子だけは何がどうなろうと絶対に嫌なんだ、俺は…』
『確かにパパも栄子はいかんと思う。あれは女ではない、爆撃機だ。既に糸遊の若い頃より強いぞ、あれは…』

ただの化物だ。

『幸いな事に絢子さんの息子にして東雲の嫡男に推挙された幸村が、何をとち狂ったのか栄子になついているので、俺としては彼に犠牲になって貰おうかと…』
『父は止めません、帝王院はお前が継いだんです。但し、結婚するつもりがない御婦人とチュッチュする時はこっそりだぞ。舞子の様に笑顔で愛人を作れと勧めてくる女性は、一般的に少ないんだからな』
『肝に命じます』
『父親の下半身がだらしないと産まれてくる子供が悲しむから、パパの様に慎ましくあれ』
『畏れながら父上の何処が慎ましかったのか、とんと記憶にございませんが?』
『気持ちは童貞、体はプロであれ。パパは春画と言うエロスなる本で学んだつもりだったが、気持ちはプロでも体が50過ぎたお子様だったが故に、初夜で興奮し過ぎて舞子とお布団を鼻血で染めてしまったのだ。帝王院鳳凰一生の不覚!』
『また途方もない話をなさる。少しお休み下さい、何なら永遠に』
『朝と夜が交わる時、我が帝王院が課せられた「天神」は分かつだろう。…父上の言葉の意味は今を以ても理解に苦しむが』

恐らくは。

『駿河。大切なものは決して手離してはならんぞ』

あれは鳳凰の真の意味での遺言だった。

『お前は残念ながら、我が父上にそっくりな気性の持ち主だ。つまり私に似た』
『は?』
『地獄に落ちるのは我らだけで良い。父からの教えを守れなかった俺の様にだけは、なってくれるなよ』

けれどその言葉の意味を理解していなかった。
自分は失敗など決してしないと、手放しで過信していた訳ではなく。けれど結果的に事態だけを冷静に有り体に述べれば、現実派なんとも無慈悲にして冷酷だ。





「桜が花開いた頃、あの子は産まれた」

大切なものであれば手離してはならない。

「父上が囚われた塔。真紅のそれは鳳凰の血か炎か、私達の初孫の双眸はまるで鳳凰の如き紅だった」
「…」
「秀皇には微塵も似ていない事など、舞い上がっていた私には見えもしなかった」

その通りだ。けれどどうだろう、日本の王だとまで謳われたこの手は、息子を抱く事も出来やしない。

「桜を見る度に腹の底から暗い怒りの炎が燻る己を、いつまで圧し殺せるか私には自信がない。愚かだと嗤うか、隆子」
「貴方…」
「秀皇は何故、神威を残して消えたのか。何故私に何の相談もなかったのか。…幾度考えても判らん俺は、父親の器がなかったのだろう。ああ、これでは曾祖父の遺したそれと同じではないか」

悔しいとは少し違う。憎むのはお門違いだ。
けれど言葉にするとどうしても、後悔と言う熟語に辿り着いてしまう。望んでいた癖に諦めた振りをして、それでも神から与えられた人生最大の宝物、それを一人息子だと恥じらいなく宣うのであれば。

いつか夢見た事もあっただろうか。
海を渡り、広大な大陸から小さな島国へとやって来た金色の使者が、世界に覇者たる皇帝でありながら、悉く矮小な男を『義父』と呼んだいつかに。


『お前と秀皇が我が家を共に支えてくれる日も、近いだろう。近頃そんな事を考えてはにやけてしまってな、とうとう幸村から小言を喰らったぞ帝都』

小さな庭園を作った。
校舎の中に一つ、寮の中にあるサニタリー代わりの庭園とは比べ物にもならない広さだが、高々1フロアの半分以上を改築した程度、楽園と呼ぶにはささやかな、それは空中に浮かんでいるかの様に錯覚する一面硝子張りの庭園だ。
孫が出来た。触れれば壊れかねない、余すところなく真っ白な子供の名は、神威。秀皇に十代爵位を譲っても良いなどと、悪ふざけが過ぎる冗談を宣った皇帝を誰よりも信頼していた秀皇が、己に与えられた『X』のナンバーから名付けた名前に対して、駿河に異論は勿論ない。

『帝都。お前には、秀皇の名の由来を話した事があったか』

けれど時々。
そう、誰にも内緒にしていた父親の遺言じみた言葉を思い出した。妻にさえ話していない事だ。

『我が父、帝王院鳳凰が解き放った鳥籠の鎖を、秀皇の子が再び紡ぐそうだ』
『鳥籠』
『空へと還っていった蝉達を縛る事など、私には考えもつかん』

幼い頃に数回話した事がある程度の、物静かで異様に威厳があった祖父の眼差しを思い出す。宮司の立場でありながら社を壊し、失った娘の代わりに息子を鎖で繋いだ、愚かにして脆い男の眼差しを。

『才知に愛された、我が家をいずれ統べるだろう子の名を、我が祖父である俊秀は予見していたらしい。…然し所詮はとうに死んだ男の戯れ言だ、斯様な事が起こり得る筈もないな』
『俊秀公が秀皇の子の名を予知していたと仰っておいでか。帝王院には神風を起こす日本特有の不思議な力があると、度々口にする者は存じておりますが』
『くっく、畏れ多くもステルシリートラスト会長に聞かせる様な話ではないと言いたいのだろう。然しその意見には私も同意しよう。この世に、想像を越える事など起きはせん』
『遺言は何と?』
『つまらない戯れ言だと言ったろう』
『秀皇の名の由来に関係がおありで?』
『…父の言葉だ。皇を解き放った鳳凰曰く、皇は火を得て星を凌駕する如く煌めくだろう。俊秀の意思に従い家紋の星を分かつ時、秀の名を得た子は黎明に抱かれ産まれ落ち、軈て大空を統べる王となる』
『大空を統べる王とは、仰々しい』
『引き換えに、一切に光なき夜に産み落ちる子があらば、陰陽道が落とした仏の落胤たらんや』

薄紅色の花びらが舞う、春の穏やかな日差しの元に産まれた子供は、日差しの下では生きられず俊秀が作った真紅の鳥籠の中。純白の肌に唯一生気を感じさせる真紅の双眸を白い包帯で覆い隠し、繋ぎ止める事でその命を保護するしかなかった。

『裁く者は才知、叡知に恵まれ』

自由であれよ、自由であれよ、と。
例えば幾ら願っても、俊秀が鳳凰を繋ぎ止めた様に自分は、矮小にして脆弱な自分には、何も。

『朝と夜の狭間に立つ』

守る事など。
(まして悔いる事すら)(つまりは憎む権利さえ)





「…貴方は立派なお父様ですよ」
「曾祖父の気持ちが今頃になって判る。紡がれた教訓を何故、俺はしかりと理解しなかったのか。判った振りをしてその実…」
「旦那様?」

ああ、何故か目が霞む。
まさかまた雪でも降っているのだろうか。3月だろうと山奥は下界より冷える。

「決して手離してはならん、と」
「駿河さん…?どうなさったの、貴方!」

珍しく声を荒らげる妻を怪訝に思って手を伸ばしたが、白濁したと思っていた視界は間もなく、黒く塗り潰されたのだ。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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