帝王院高等学校
男だもの!勇ましくも優しくあれ!
ああ、暗い。
暗いと言う事は目の前が真っ暗だと言う事だ。瞼を閉じている、或いは世界から光が消えた、それとも全ての色が消失して無色透明に変化した。
理由はともかく、一切の色が存在しない世界は黒なのか透明なのかも判らない。

「一人で生きていける様になるのは、いつ?」

啜り泣く声が聞こえた気がする。
気の所為かと思ったが、余りにも寂しげに泣いているので無視する事が出来なかった。出来れば殴ってやりたい気分だが、こう気怠い時は指一本動かしたくない。

「寂しくなくなるのは、いつ?」

暗い。世界に一人きりなどと、馬鹿みたいな事を今でも考えている訳ではなかった。実際の所、一人で生きていける人間など存在しない事を知っている。

「…我ながら呆れます。また泣いているんですか、お前は」

メソメソと啜り泣く声は、腹立つ前に同情してしまう。
またいつかの自分が泣いているのかと溜息を零せば、気怠さが増した気がした。

「選んだんだ。きっと理解して貰えない」
「選んだ?」
「母親を捨てる事」

何の話だろうと瞼を開いた錦織要の瞳に、けれど映るものは何もない。何処から何処までが自分であるのかも判らない純粋な闇の中、伸ばした腕は何処にあるのか。

「誰の世話にもならないで生きてく方法、いっぱい考えた」
「それが何ですか」
「施設には行かない」
「…はぁ?」
「だって皆、馬鹿なんだもん」

もしかしたらこの声は、自分のものではないのかも知れない。けれどでは誰なのだと考えても、見えないままでは声だけで判断しなくてはいけないと言う事だ。現実逃避と言われれば否定は出来なかった。それでも、今の自分は昔の自分とは違うのだと。
(世界には時々優しさが存在して)(酷い人間ばかりではないのだ)(知ってから、何年経ったのか)

信じたかった、ただそれだけなのかも知れない。
この世で一人ぼっちの様な気になっていた昔と、今の自分は違うのだと。こんな自分にも、救いの手を差し伸べてくれる人間は居るのだと。

「探してるんだって」
「…何をですか」
「遥」
「ハルカ?」

考え事をしていると、啜り泣く様な幼い声が呟いた。話を聞き逃してしまったのだろうかと考えたが、その声はそんな事には構ってくれない。

「一人で生きていけるつもりだったんだ。馬鹿みたい。知ってるのは生きてた事だけ、その会社の社員には国籍がないから、本名かどうかも判らない」
「ステルシリーの事ですか?」
「普通になりたかった。普通の女の子。学校帰りに西海岸でウィンドウショッピング、セントラルに閉じ込められて死ぬなんて冗談じゃない。その為には馬鹿な振りをして目立たない様にするしかなかった。賢いとバレれば、閉じ込められてしまう」

ああ、この声は良く良く聞けば誰かに似ている気がする。けれど記憶しているあの男よりずっと幼い声音だ。それでも地声からトーンが高い彼は、もしかしたら殆ど声変わりをしていないのかも知れない。

「でもその所為で、権限がない事に気づいた。普通のハイスクールに入学して、平凡でつまらない普通の生活を知って、何でこんなものに憧れたのか考えても判んない。気づいた時には母親が『また』新しくなってた」
「また?」
「実在した人だって事は判ってる。自分を産んだ所為で死んでしまった事も知ってる。微かに覚えてる母親の記憶が、母親が新しくなる度に消えていく様な気がするんだって。だから、その人が生きてきた証が欲しかった」
「証、ですか」
「その国は、この国と戦争したんだって。ずっと、何年も」
「アメリカ?」
「お母さんが産まれた国」
「名前は神田詩織?」
「糸織。けど国籍を作る時に自分の好きな漢字に変えたんだ、勝手に。だから父親の顔が見れなくなった」
「…お前の母親はシリウスの娘でしたね、ハヤト」

正解なのだろうか。返事はなかった。
夢を見ている時、人は常に目を閉じている。要が幾らそれを認めなかったとしても、これが現実でなければ今見ている夢の続きとして片づけなければ、深く考えれば頭が痛くなるだけだ。

「何て事ですか、それではカルマは…」
「ユウさんを含めて、お前もユーヤも俺すらステルスだったって事。例外は多分、ケンゴだけ」

鳥肌が止まらない。誰と誰がそれを理解してたのだろうと考えて、吐き気がしてきた。平凡な学生に擬態して、誰も彼もが普通からは遠い存在だったのだろうか。帝王院学園で何年も暮らしておきながら、何も知らないままのうのうと、帝王院秀皇を追い出した穢れた男爵と理事長などと仰いで、つまりは。

「怒ってたのかなあ。本当なら帝王院はボスのものなのに、中央委員会会長だって、早い話がABSOLUTELYだってボスのものだった筈なのに」
「それ所か…」
「グレアムだって、ボスのものだったかも知れないねえ」
「いつから知ってたんですか?」
「さあ?知りたければ、後で聞けば?」
「お前が素直に教えてくれるとは思えませんが」

つまりは、遠野俊が得るべき全てを奪ったステルスは、許されざる業を負っているのではないか。カオスカルマ、暗黒皇帝がその血で描いたレッドスクリプトの宛先は、自分達だったのだろうか。そんな恐ろしい想像で怯えた所で、慰めてくれる人間は居ない。

「父親の車庫からファントムウィングを盗んだ。新しくなった母親と一緒に家を出た。途中、運転を覚えた頃に母親を海に捨てた。どうせ、バージョンアップの度に新しくなる機械だから、後で誰かが回収するに決まってる」

生きていく為だ。
殺されない為だ。
言い訳は幾つ必要だろう?
自分の平穏を必死で掻き集めて、誰からも守って貰えなかったナイトの子供は今、誰にも救いを求めない覇者として他人を見下している。俊がカルマで唯一の人だった。後は犬だけ、媚びては甘える動物だけ。

「社員証があれば母親の事を調べられたかも知れないのに、普通のハイスクールに通ってた女には何の権限もなくて。狭い狭いと聞いてた日本はとても広くて、自分と同じ黒髪の人間がいっぱい居たんだ」
「それはお前の記憶ではないんでしょう?」
「そうだよ。だって俺はそんな事知らないもん。手掛かりは冬月の家がなくなる時に逃げ延びた家政婦だけだった。冬月龍流に命を救われた若い家政婦は、龍流に恋をしたまま次男の流次と宰庄司に匿われて、表向きには死んだ事になった」

要は全く知らない話だ。けれど人一人を社会的に抹殺するだけの力を持っていたのは恐らく、帝王院関係だけだと言う事は嫌でも判る。

「目的の為なら何でもする。お母さんの味方はお母さんしか居なかった、日本語が喋れても日本人の文化までは判らないんだ。冬月が帝王院を裏切ったって事だけは理解したのかなあ」

そしてそんな汚れ役を戦前戦後問わず行っていたのは、叶に違いない。

「叶が家出娘の依頼を聞くなんて、珍しい事がありますね」
「17年前。判んない?」
「17年前?…もしかして、それは」
「叶二葉が産まれた年、叶の当主が死んだ年。叶冬臣が帝王院を卒業して東京大学に進学してからの四年間は、叶は当主不在に近かった」
「成程、その混乱に紛れて小遣い稼ぎで依頼を受けた人間がいた、と言う訳ですか…」
「そう。叶に依頼して見つけた家は、その家政婦が嫁いだ家。流次の子供を妊娠していた娘はそこで子供を産んで、産まれた長男にだけ『空の証』を残したんだって」
「空の証?」
「祖母の話を覚えていた西指宿竜翔は、お姫様に一目惚れした。結婚したばっかで、代議士秘書から政治家になったばっかで、妊娠したばかりの新妻に離婚を迫った。馬鹿みたいでしょ?当のお姫様は、母親の親戚を探す為だけにチョロそうな若手政治家に迫っただけだってのにねえ」
「お前の貞操観念は母親似ですか」

パズルの様だ。
一つ一つ、少しずつ少しずつ嵌まっていく。他人の人生が他の他人の人生へと、少しずつ。

「…ああ、判りました。総長もそうだったのかも知れない」

例えば作曲家が五線譜に音を紡いでいく様に、作家が物語を描く様に。断片的な他人の記憶を繋いでは奏でて、読む様に聴いていたのだろうか。他人の記憶が自分に繋がるまでの過去を全て編み上げて、例えばそれは、復讐する時の為に。

「空っぽなんだよ」
「空っぽ?」
「蝉は太い木に止まって鳴いてる。その太い木は神の樹で、きっと帝王院の事だった」
「…成程」
「その樹は燃え尽きた。この学園を作って、不死鳥の名のままに」
「創立者は、帝王院鳳凰学園長」
「鳥の王の名前」
「…そう、ですね」
「止まり木を失った蝉はどうなったのかなあ?」
「お前は総長の再従兄弟なんでしょう?俺とは違う」
「本当に?」
「…何が言いたいんですか?」
「田舎者は都会に憧れるんだ」

馬鹿にしているのかと言おうとしたが、海の波の音を聞いた様な気がしたので口を閉ざした。
寄せては返すその音は、砂利を滑らせる音と良く似ている。

「空蝉は脱け殻。冬月は穹、榛原は虚、明神は颯、雲隠は空」
「空ばかりじゃないですか」
「そして帝王院は天」
「だから、」
「天を失った蝉は何処に行ったんだろう。首輪が外れた犬は何処に行ったんだろう。探してくれたのかな。もう一度、甘い甘い楓の樹液に集まるカブトムシみたいに」
「…は?」
「呑まれたら終わりなんだよ。暴走した虚が天を覆い隠したんだって、判ったんだ」

ああ、暗い。
世界は真っ暗だ。光一つなく、色一つなく、熱さえ感じず、もしかしたら音も本当は、聞こえていなかったのだろうか。

「鳥は風がないと飛べなくて、月は空がないと輝けなくて、暴走した太陽は絶望の果てに炎を淘汰した。燃えてない太陽はきっと、他の星みたいに石ころですらない」
「どう言う意味ですか、それは」
「物語をねじ曲げた奴がいる。虚無が反転した世界で、虚は天になったんだ。天は理性と本能を分けた。それは多分、魂と業」
「…何が言いたいのか俺には判りません」
「風がないと飛べないんだよ。宇宙で鳥は、何処まで落ちていっちゃうんだろう」
「お前の話ですか?」
「見えない世界で役に立つのは、目?力?それとも、心?」

合理的な人間なのだろうか、自分は。
詩的な表現では何も理解出来ない。だからこそ、何ら悩まずに宣ったのだ。

「耳に決まってるでしょう。見えないなら聴けば良い。聴力には自信があるんです、俺は」
「…あは。だよねえ、だから小さい時に汚い大人の感情を聴きすぎて、聞こえない振りをしてるんだもん」
「は?」
「ねえ、弱虫を見つけて?翼が使えないなら、その羽根で」

ああ、だから言っただろう。暗いのだと。



「お父さんが言ってたんだ。幸せを連れてくる鳥は、」

最後に、笑う声がした様な気がする。
























ふと我に返り、抱えた膝に押しつけていた顔を上げる。


「ずずっ。…お腹空いた」

泣いている途中で寝てしまったらしい。
鼻は啜っても啜っても詰まったまま、泣き晴らした目尻は乾いてパリパリと音を発てている。鈴虫の鳴く声が聞こえる様な気がしたが、開いたばかりの視界は暗い。もう夜なのだろうか。

「おーい」
「おーい、誰か居たら返事せーい」
「そっちも居らんかったか?そろそろ暗くなってきた、儂らの目では山ん中は厳しいぞ」
「若い頃だったら屁でもなかったもんだ。いやはや、歳は取りたくないわい」

まただ。
複数の足音と、大人の声が聞こえてきた。

最後に聞いた時より近い気がしたが、今度は隠れる気力もない。雨風が幾らか凌げる程度の煉瓦と段ボールの建築物は、子供が一人入れば一杯一杯で、だからこそ台風の折りに折れていた葉がついたままの木の枝で少しばかり細工をすれば、すっぽりと隠れてしまう。
逃げ切れるなんて考えた訳ではなかった。ただ、今は誰からも、メソメソ泣いている所を見られたくなかっただけだ。

消防車か救急車かはたまたパトカーか、遠くからサイレンが聞こえてきた気がする。見つかったら逮捕されたりするのだろうかと、人知れず怯えた事は自分だけの秘密だ。
厳しい暑さを過ぎ去った晩夏の針葉樹林は、それでも密度が高い。幹の細いものもあれば、何百年何千年と育ち続けた立派な木も混ざっている。

人が暮らす領域から、道なき道を子供の足でも30分前後。一気に駆け抜けて、少しだけ開けた場所があった。
地域振興用の宣伝映像を撮影する為に空撮した時、新しい市長はこの場所に気づいたそうだ。それまで大人でこの場所を知る者はないと思っていた。


「見つけた」

がさりと、重い重い木の枝が音を発てるのと同時に、声が聞こえてくる。いつの間にか夜になっていると思っていたが、秘密基地を外から見えなくなる様に細工をした所為で、中に籠ると暗く感じただけなのかも知れない。

「きっと見つかりたくないんだろうなぁって思ったから、遠回りしちゃったよ。でもそろそろ日が沈む」

木々深い山の中、繁る葉っぱの隙間から群青が混ざる黄昏の空が見える。オレンジ色なのか紫色なのか判らない、不思議な色だ。
わざとらしくそっぽ向いて隙間の小さな空を見上げていると、背後に人の気配がした。がさがさと落ち葉を踏み締める音が幾らか響いて、座る様な音がする。

「迎えに来るのが遅くなってごめんね、隼人君」
「…来てなんて言ってない」
「うん、勝手に来ちゃったんだ。ごめんね」

どうして謝るんだと、若干腹立たしさを覚えて振り返れば、神崎隼人が人生で初めて建てた家の外、隼人が両手で持ち上げても重かった太い木の枝の隙間から、見慣れた大人の姿があった。けれどその出で立ちは、山の中では見慣れないものだ。

「何で今日は普通の服着てるわけ?気持ち悪いんだけど」
「市役所から真っ直ぐ来たんだ。背広だと山歩きは辛いんだね、僕ぁ汗だくだよ」
「デブだからじゃん」
「やっぱり痩せないとなぁ。選挙からこっち、25Kgも太っちゃってお医者様からも叱られちゃった」
「そんなんだからお嫁さんが来ないんだよねえ。不細工でデブとか最悪じゃん」

そんな事を本当に思った訳ではなかった。
見られたくない顔を見られてしまった焦りから、ぎゅっと膝を抱えて再び俯いて、願うのは一人にして欲しいとばかり。どうせ何処へも行けはしないのだから、どうせ帰った所で誰も待ってはいないのだから、言い訳を幾ら並べた所で無意味な事は幼いながら判っている。

「本当に横浜育ちなの?」
「産まれたのは横浜で、ちょっとだけ東京で暮らしてたけど、また戻ってきたんだ。はは、本当は学校の先生になりたかったんだけどね」

こんな風に八つ当たりじみた真似をしたくなかった。だから一人になりたかったのに、この町の大人はお節介な生き物だ。

「ごめんね、それは出来ないよ」
「何で?市長じゃんか。市長は市役所に居なきゃ駄目じゃん、サボったらクビになるよ。大人として駄目じゃん」
「そうだね。あ、でもたった今6時になった。勤務時間は6時までなんだ。市長が残業すると職員が気にして帰れなくなるんだって、副市長に小言を頂いてね」
「副市長は市長の事が嫌いなんだよ!余所者の癖に選ばれたから!」
「市長の仕事って何だと思う?お山の除草?町の再興?若者の誘致?道路整備?」
「…」
「どれも市民が豊かに暮らせる為にやるんだよ。だから僕の仕事は、市役所で書類とにらめっこしたり、出向先を見学する事も大事だけどね、一番重要なのは市民の安全を守る事なんだ」

きゅっと唇を引き結んだまま、軽く鼻で呼吸をしたつもりだったが、ずびりと大きめの音が響く。背は高くないが小太りの大人は、神崎隼人が一人で建設した秘密基地の外で、気長に隼人が出てくるのを待っている。大の大人が山の中で体育座りをしている様は、余りにも奇妙だった。

「町内会長も畠中養鶏の社長さんも、皆が支所に駆け込んできたんだ。隼人君が居なくなったって、商工会の青年団の皆も慌ててたよ?」
「…探してなんて、行ってないもん」
「でも探してる。今朝からずっとだよ」
「…」
「どうする?まだ隠れんぼするなら、僕は隼人君を見なかった事にしてもう一度探しにいくよ。ああ、でもこの時期は、冬眠前の熊が餌を探してるかも知れないね…」
「熊っ?嘘でしょ?!」
「熊は大きくて賢い動物だから、怖い大人には近寄ってこないと思うんだ。…でも隼人君はどうだろうね?小さくて柔らかそうだから、食べ易いかも…」

そんなの子供騙しの脅しだ、と。
笑い飛ばせなかったのは、祖父が熊を銃で仕留める光景を記憶していたからだ。生後八ヶ月の隼人から見たその動物は、余りにも巨大な生き物だった。恐らくあれは、隼人が生を受けて初めて覚えた恐怖だったと思う。

「ね、一緒に帰ろう?」

自分は賢いと自負していた。
周りの子供は自分よりずっと子供だと、恐らく無意識に見下していた。
大人と言えばお年寄りばかりで、海と山の絶妙な自然バランスで育ってきた誰もが穏やかで優しいから、余程酷い我儘でなければ受け入れてくれる。けれどそれを知ったのは随分後の事だ。

「…べ、弁護士が」
「うん?」
「じーちゃんの家なのに、う…売るって言ってた!うわぁん、ヘチマみたいな顔してる癖に馬鹿にしてたあ!」
「ちょ、ちょっと待って、そこで泣かないでとりあえず出ておいで!蚊に刺されちゃうよっ」
「タケちゃん市長がお仕置きしてきてよ!月に代わってさあ!」
「こ、こらこら!皆がまだ近くにいるかも知れないから、そんな大きな声で言わないで…!」
「帰るとこなんてないじゃん!じーちゃんもばーちゃんももう居ないんでしょ?知ってるもん、死んだら終わりなんだよ!」

賢い賢いと、生を受けて数年、誉められてきた。
けれどどうだ、炭化した遺体を見る事も出来なかった。優しい大人達が慰めてくれるけれど、それがとても辛い。子供を一人には出来ないと言う優しい大人の言葉が、見下してきた母親の雇った弁護士を思い起こさせる。

「うぇ、ひっく、うぇぇ、何でお家売ったりすんの?!」
「えっとね、お家って言うのは、住んでるだけでお金が懸かるんだよ。隼人君はまだ6歳だから、一人で暮らす事は出来ないんだ」
「ひっく。知ってる、お母さんって人の所に行くか、施設って所に行かなきゃ駄目なんでしょ…」
「うん、法律ではそうなるね。だけどお母さんは、施設には行かせたくないそうだよ。出来れば隼人君と一緒に、」
「絶対いや!」
「そっか」
「私立の学校に行けば一人で暮らして良い、って、言ってた」
「…そうだね。大丈夫、寮は怖い所じゃないよ。友達と一緒に暮らすんだ」
「何で知ってんの、タケちゃん市長」
「隼人君より先に産まれた分だけ、知ってる事があるんだよ」

おいで、と。
差し出された腕に渋々近寄れば、がばりと抱き上げられた。年配者に抱かれる経験はあったが、こんなに若い男に抱っこされたのは初めてで、驚きの余り涙が引っ込んだ事を覚えている。

「入学するまでは、僕の家で暮らせば良いよ。大丈夫、知ってる所だから」
「え?知ってるって、どこ?」
「ヒントは、新鮮な卵が食べ放題」
「畠中のおっちゃん?」
「畠中のおっちゃんには東京で暮らしてる息子夫婦に孫がいるんだ。それが僕」
「…そんな事知らないよ」
「そうだろうね。お祖父ちゃんと父さんは仲が悪いから。6年前、神崎先生が診療所を開く時に大喧嘩した事も知らない?」
「じーちゃんとおっちゃんが?」
「そうだよ。格好悪いからなかった事にしてるでしょ、だって『余所者の名字がムカついた』なんて理由でね。お祖母ちゃんから凄く叱られたんだ」
「名字がムカついたって、どーゆコトなの?」
「隼人君がもう少し大人になったら教えてあげる。あんまり格好悪いから、お祖父ちゃんも知られたくないだろ」

大人。大人とは何歳になればそう言われるのだろう。
選挙権を得てからか?それでは目の前の市長はどうして、町の大人達から『若造』だの『子供』だの言われているのだろう。

「タケちゃん市長って何歳なの?」
「30歳だよ」
「それって若い?子供?」
「そうだね、僕なんてまだまだひよっこさ。安請け合いして市長選挙なんかに出ちゃったから、自分の出来なさ加減が悔しくて、コスプレなんかしちゃう駄目な大人」

そうなのだろうか。
少なくとも隼人にとっては、あのいけすかない弁護士よりずっと、市長の方が立派に見える。

「私立の学校って何処にあるんだろ」
「帝王院学園の分校が鎌倉にあるんだ。そこなら近いから、お祖父ちゃんにも会いに行けるよ。寧ろ隼人君が来てくれたら喜ぶだろうね、さっきも町内会長とどっちが引き取るかで揉めてたから」
「…邪魔になんない?」
「まっさか!僕には意地悪な副市長だって、隼人君が居なくなったって聞いて消防隊と一緒に探し回ってるんだよ。神崎先生の所の隼人君と言えば、湘南のアイドルなんだから」
「当然じゃん」

腹が鳴った。
目を丸めた男が豪快に笑い、居なくなったと思っていた年寄り組がその声でわらわらと集まってくる。

スーツを泥だらけにした副市長から叱られて、スルメを噛りながら良かった良かったと祝いの宴を開いている年寄り達は、あっという間に酒臭くなった。どっちが隼人の養父になるかで、とうとう取っ組み合いの喧嘩に発展した老人に呆れた隼人は脱いだ靴を片方ずつペッペッと投げつけると、腰に手を当てたのだ。

「隼人君は誰のお世話にもなんないもんねえ!ま、どーしてもって言うなら、一週間交代で泊まりに行ってあげてもよいよっ」
「それなら儂の家に来い隼人、畠中の家は鳥臭くて寝られんぞ!」
「言ったなジジイ!お前ん所こそ加齢臭がキツくて寝られんだろうが!」
「待って下さい二人共!市民を守るのは市議の役目です!此処は一つ独身の私の家の方が…」
「「黙ってろ副市長!」」
「もー。喧嘩するなら副市長の家に泊まるけどお?」
「「喧嘩なんかしてないぞ!」」

市議会議員一筋数十年、婚期を逃した副市長は還暦間近で独身だった為、我の強い年寄り達に頑張って食い下がっていたが軽くあしらわれ悔しかったのか、年下の市長に八つ当たりの小言を吐いている。

「副市長、こないだ病院に来た弁護士が隼人君に意地悪言ったのお」
「何ですって?交番に通達して隼人君の警護につかせましょう。東京から来た弁護士だか何だか知りませんが、この神奈川で大きな顔をされては困ります」
「副市長ってタケちゃん市長より役に立つよねえ」
「そうでしょう」

大人は大抵チョロい。
自分の平穏の為なら何でもやってやる。大人になるまで、売られた家を取り返す為には、何だって。

「…所で副市長、査定では幾らくらいになりそうなんですか?」
「二束三文とは言え、山まるごと含まれていますから、相当の金額にはなるでしょう」
「参ったな、儲からない市長職が後1年残ってる」
「まさか辞任するつもりじゃないでしょうね?たたでさえ市民の期待を背負って当選しておきながらっ」
「は、はは、嫌だなぁ、辞めたりしませんよ。でも次の出馬はしません」
「アンタと言う男は…!」
「先行投資だと思いませんか、副市長。僕らのアイドルがいつか、日本のアイドルになったら?」
「…」
「観光客も寄ってこない湘南の外れに、本物のスターが産まれたら。これ以上ない、町の財産じゃないですか?」

隼人が私立の小学校に上がって暫くすると、市長選挙があったとニュースになった。当選したのは副市長で、それと同時に新市長の結婚が発表された事を覚えている。
休みの度に帰ってこいと言ってくれていた町内会長と養鶏場の社長は、それから数年後に立て続けに亡くなった。どちらも高齢だったので無理はないが、それを期に、隼人が里帰りする事はなくなったのだ。

そして、初等部6年の時に修学旅行先でスカウトされた。
一応形ばかり貰って帰った名刺は、そのままゴミ箱行きだろうと思っていたが、そうではなかったらしい。



「6年1組神崎隼人君、職員室へ」

旅行後間もなくの夏休み。担任に呼ばれた隼人はそこで、本校中等部への昇校試験の打診を受けたのだ。

「本校って…東京の?」
「東京本校ってくらいだからな。難しい試験だから受かるかどうかは判らないが、教育委員会からの推薦状も出てる。この前受けたテストを覚えてるか?」
「あのチョロい奴?」
「チョロいって…。あれでも中学受験レベルだぞ。うちは中等部がないから、このまま卒業したら市立中学に通う事になる」
「それって、入学願書とか書かなきゃ駄目って事?」
「まぁ…お母様に来て貰わないといけなくなるな。お前は今まで本校OBの推薦状もあったから授業参観免除になってたが」
「本校OBって、何?」
「知らなかったのか?何年か前に最年少市長で話題になった、畠中岳士市長を」
「え、タケちゃん市長って帝王院学園だったわけ?」
「初等部から高等部一年まで本校に通っていたそうだ。ご両親の事業が傾いて、働きながら夜間高校を卒業したそうだぞ。その心意気で初出馬初当選だって話だ」

あのずんぐりむっくりなメタボ市長は、市長を辞めてから何をしているのだろう。
近頃では思い出す事もなかったが、忘れた訳ではなかった。だからと言って何の感慨もない。

「ねえ、本校に昇校したら将来的に有利?」
「超有利。帝王院の関係企業に就職し易いぞ」
「本校は校則緩いんだっけ?バイトとかしてもよい訳?」
「寧ろ学内でアルバイトを募集してる程だ。子供の頃から社会を知る事が重要だと言う考えで、普通科も合わせて進学・就職率が100%に近い」
「ふうん」
「進学科に入れたら学費免除、万一首席だったら生活費まで免除だ」

断る理由はなかった。
数ヶ月後に合否が出ると学校中が引っくり返る騒ぎだったが、隼人にとっては当然の事。


「次はモデルデビュー、ってねえ?」

残ったのは、ゴミ箱行きだった筈の名刺だけ。

←いやん(*)
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