帝王院高等学校
汝、眼鏡の底から平凡を愛しましょう。
「カルマだ」

初めて名前がついた時の事を、あの場に居た誰もが覚えているだろう。
出会い方は千差万別、生まれも育ちもそれぞれ違う他人同士が、けれど群れを作った理由は共通していた。

「聞かれたらそう答えろ」

たった一人の男の背に描かれたその力強い翼に、導かれるかの如く従う事を決意したその瞬間から、彼らは気高い狼だったのだろう。

「規則なんざ面倒事を言うつもりはねぇが、たった一つだけ。守れねぇ奴はカルマに必要ない」

人を小馬鹿にする様な笑みを浮かべる男だった。
我こそは勝者と言わんばかりの自信に満ちた眼差しは、幾らか刺々しさが和らいでいた様に思えなくもなかったが、人はそう簡単に変わらないものだ。少なくとも彼は、その群れの中で最も優れた、長たるべき風格を放っていた。

「敵に背を向けるな。胸を張れ」

侍の如く宣言した男の前で、プライドを覚えた狼達は吠える。
地獄の底で光を見つけたかの様に。生ける炎の如き真紅に忠誠を誓うかの如く、名前を得た彼らはその日、その瞬間、血より強い絆で結ばれたのだと思われた。


「…カルマとしてのプライドを忘れんな」

けれどその言葉を発した男について、彼の元に集う誰もが恐らく、殆ど知らない。








(地下から解放された日)
(例えば初めて飛行機に乗った日)
(職員から手渡されたパスポートには日本と書いてあった)
(その国へ行くのは二回目だった)


「一度は目は黒塗りのメルセデス」
「今度は純白の翼」
「珍しくも何ともない、ボーイングっスよ」

こんな話を文句一つ言わずに聞いていた男が笑う様を認め、つられる様に笑った。揶揄めいた言葉遊びは静かな夜に、大抵二人きりで。

「ファーストクラスの意味を良く理解してなかった。俺と同じ名前の席だと思った。社長の息子として出迎えてきた日本人は、自棄に甲斐甲斐しい」
「日本が世界に誇る航空会社の従業員は、日本人のおもてなしの心を最大限披露してくれる」
「他人行儀の最上級って事でしょ」
「見解の相違だな」
「俺の心が汚れてるだけ」
「本当に汚れていたら、口には出ない」

過去を振り返ったのは、その時が恐らく、日本で暮らす様になってから初めての事ではなかっただろうか。自分の名前がローマ字から漢字に変化して何年経ったか、気づいたら他人に囲まれて、それを仲間と呼ぶ様になった。
楽しいのかと聞かれればイエスでもノーでもなく、責任感を感じるかと言われれば多分イエス、路頭に迷う野良犬の様な子供を囲う内に、格好つける事ばかり覚えていく事には気づいていたのだと思う。

だから正直、楽だった。
目の前には髪も瞳も黒い純日本人が一人。この国では珍しくない彼に皇帝の名を押しつけて、カルマの名と共に、群れをそっくりそのまま委ねた。
肩肘を張るのは、至極疲れる。

「酷く空が青く見えた」
「快晴か」
「海の上に分厚い雲が見える」
「大平洋は嵐の様だ」
「暫く続いた大海原の上の雲海が途切れると、見えてきたのは緑色の陸地だった」
「飛び立つ時に見た混沌とした大陸とはまるで似ていない」

飼い主は時折、的確に人の心を読む。

「見てきた様な事を言いますね、兄貴」
「ああ。お前の事はずっと見ていた」
「兄貴を先に見つけたのは俺でしょ」
「そうだったか?可笑しいな、俺はお前が生まれる前からお前の事を見守ってたのに」
「ふは。嘘つき、それがマジだったら嬉しいけど」

恐ろしくないかと聞かれれば間違いなくイエスだったが、反して、肩肘を張る必要がないのは慈悲にも思えた。外聞や己を守る為の嘘を無効化する絶対的な存在の前では、服を纏うだけの人間は獣と大差ない。丸裸だ。

「操縦士がマイク越しに言ったんス。間もなく着陸体制に入ります、何でわざわざンな事放送すんだって思った。変な話、落ちる時は浮遊感を感じるんスよ。シートベルトなんざつけて堪るかと思った俺が間違ってた」
「乗務員が恭しくつけてくれなければ、お前は天井で頭を打っていたかも知れないな」
「そう。重力に従って、空飛ぶ機体が傾いでいく。反対に俺の尻は座席から離れそうになった」
「日本は目の前だ。どう思った?」

期待も不安もない。
無機質だった。涙も出ない。白々しい程に晴れ渡る空は滑稽だった。余りにも。神の子の皮膚を焼いた、悍しいほど強い紫外線が窓の向こうに見える。毒々しいまでの灼熱が輝く青い空の下、滑走路を滑ったホイールは間もなく停止した。

「お疲れ様でした。半日乗った飛行機から降りる時に言われた台詞に対して、疲れてないって思ったのは覚えてるっス。大平洋の上を航行してる時に、大半寝てたんで」
「万一墜落していたら、正に眠る様に死んでいただろうな」
「溺れる時には流石に起きるでしょ。肺に水が入る苦しさで、阿鼻叫喚だ」
「海の藻屑、人魚姫みたいだな」
「ああ、確かに」

狭い島国に住まう人間が犇めくロビーを抜けて、白々しい愛想笑いを張り付けた大人達が待ち構えるエントランスの向こう側。
果たして、その日、鏡の中以外で初めて目にした真紅のそれは、声を交わす前から予測がついた。ぼんやりと輪郭が見える程度の距離でも、誰だか判る。出来れば会いたくなかったが、会わない訳にはいかない事は判っていた。


一歩。
嫌に重い足並みを、けれど逃げる事を許さないプライドだけで止めたりはしない。
一歩。
それへと確かに近づいていく。一歩。二歩。真っ赤な髪の男の顔がやっと網膜に映し出された時、目まで鮮やかな赤である事に気づいた。紅鏡の様だと讃えられた自分よりずっと、太陽の様な男だ。



「…いらっしゃい。一ヶ月振りね、元気だったかしら」

気づかなかった振りで通りすぎようと考えていた訳ではない。けれどこちらから話し掛けるつもりはなかった。それを見抜いていたかの様に、何とも言えない表情で呟いた男は、不格好な笑みを浮かべたのだ。

「本当ならあっちまで迎えに行くべきだったのに、行けなくてごめんなさい。クリス…シスターテレジアは、何か言ってたかしら?」
「Hey jerk, You Just stop harassing me.(おい粗チン野郎、臭ぇ息撒き散らしてんじゃねぇ)」
「ご挨拶が過ぎるわよファースト」
「Oops! Sorry, You are not jerk but bitch.(ああ、間違えた。テメーは粗チンじゃなくて尻軽だったな)」

どれほど吠えた所で意味はない。
八つ当たりにすらならない負け犬の遠吠え、なんて惨めなのだろう。

引き留めて欲しかった?(駆け引きのつもりで)
本当は知っていた癖に?(つまりは逃げ出しただけ)
(嫌われていた)(そう、自分がそうだった様に)(いつかは受け入れて貰えると期待した)(そう、自分がそうだった様に)(だけど違う)(あの真紅の瞳に自分など映ってはいなかったのだ)(知っていた)(けれど自分なら出来るのだと)(まるで選ばれた主人公の如く信じて疑わなかったいつか)(結局、逃げ出したのだ)

「それだけ憎まれ口が叩ければ上等よ。ついてきなさい、家に案内するわ」

怖くはない。きっと。
不安もない。ただ、全てがどうでも良かっただけだ。
生きながら凍んでいた大陸とは違い、狭い島国の地上では新たな名前を押しつけられた。生きていく上で最低限必要な国籍に、記された名前にはまだ慣れない。

「…嵯峨崎佑壱、か」
「何、気に入らない?」
「別に。どうでも良い」
「そう」

飛べない車は地面を這い続けた。
血が繋がっているだけの他人に等しかった車内で、傍らに座っていた男の肌を盗み見る。その度に自分が異質な様に思えて、どう感じただろうか。

「残念だけど、ゼロはいないの。週末になったら帰ってくると思うけど、話がしたかったら後で電話する?」
「しない」
「あら、そ。追い追いで構わないから、二人きりの兄弟、仲良くなさい」
「は。早速父親面かよ」
「あのねぇ、」
「女孕ませてそれっきり知らん顔貫いてた無責任野郎が、捨てた筈の餓鬼に押し掛けられたとあっちゃ、普通は面倒だろ。世話は必要ねぇ。迷惑掛けるつもりもねぇ。俺の事は、今まで通り放っとけ」
「…佑壱。アンタがどう思っていようと、私はアンタの父親なのよ。余計だと思われても世話は焼くわ。アンタには無条件でそれを受け入れる権利がある」
「は。義務の間違いだろ、うぜぇ」

穏やかさなど欠片もない。
腫れ物に触る様な互いの会話は溜息混じりに、見えてきた門の中へと滑り込む車内から見るともなしに外を眺めた。

「着いたわ。私達の家よ」

その言葉には余りにも説得力がなかった。
家と言うのは、こんなにも落ち着かないものだろうか。






「以上が、俺が今まで誰にもしなかった話の全てです。退屈な話だったでしょ、総長」
「いや、有意義な時間だった」

14歳の誕生日は、舎弟らに囲まれて賑やかに。
それから数日後、カルマと言う名をつけて一年後に偶々街中で見掛けた酷く印象的だった学ラン姿の男は今、佑壱が入れたアイスコーヒーと佑壱が焼いたビスケットを何ら躊躇いなく口へと運びながら、風呂上がりの髪を大人しくドライヤーで乾かさせている。

「髪、サラサラっスね」
「イチのリンスを使ったからじゃないか?」
「コンディショナーっスよ」

無防備だった。生まれたばかりの赤子の如く、警戒心など欠片もない。
為すがまま、為されるがままに抵抗しない男のうなじが見えた。手で掬った襟足にドライヤーの風を当てながら、今なら殺せる様な気がしたけれど、恐ろく錯覚だろう。
目の前の男は背中を向けている。それなのに何故、ライオンに喰われる間際の野うさぎの様な畏怖を自分は感じているのか。嵯峨崎佑壱の人生の中で、ここまでの威圧感を持つ人間は、過去に一人も存在しなかった。

「兄貴を、たまに伯父貴と間違えそうになるんス」
「そうか」
「でも、あっちは人間じゃねぇ」
「そうか」
「総長。またレッドスクリプトを書いてるんスか?」

髪を乾かし終えると、俊は持ち上げた右手の人差し指で空中に文字を描く。
カルマの総長が描く文字は深紅であると、言い始めたのは誰だったか。

「緋の系譜がやって来る」
「え?」
「名に導かれるまま、空の眷属は揃うだろう。光、影、その狭間」
「光、影、狭間」
「次元の起こした奇跡の全て」
「…?」
「イチ、お前の元に鳥がやって来る。その時やっと、お前は人を信頼する意味を知るだろう」

ほら、やはり。
レッドスクリプト、カルマ以外の誰もが恐れるそれは、カルマの犬にとっては意味が違った。飼い主の描く文字は予言、音のない五線譜、楽器はカルマ。

「お前が剥いだ鱗は嵐の中でさえ煌めき、それはまるで星の様だった」
「俺が剥いだ、鱗」
「煩悩とは感情の形だった。絶望に染まり希望を失ったお前の心は命を産み出した。お前はそれを、一つずつ掻き集める」
「…」
「一人では難しいけれど、お前は一人じゃない。朝を捨てて夜に逃げれば星が、緋の元に集うだろう」
「兄貴のレッドスクリプトは、相変わらず難しいっス」
「そうか」
「俺の所に鳥が来る、か」
「けど、判らないかも知れないな」
「え?」
「鳥は鳥の名を持っていない。光は影に、星は月に、目に見えるものに真実は一つとしてない。だから俺は、目印をつけておいたよ」
「目印」
「翼が見つからなければ、羽根を探してごらん」

例えば。
その威圧感を伴って神々しい笑みを惜しまず向けてくる男の眼差しは、いつも優しかった。恐ろしくないかと聞かれれば間違いなくイエスだ、佑壱には理解出来る気がしない。

「総長は何で、んな優しいんスか。俺なんかに優しくしたって、何の利益にもなんねぇのに」
「そうか?」
「そうっス」
「だってお前は、俺のワンコだろう?」

犬だと言われる度に、此処に居ても良いのだと許されている気がした。
何処へでも飛び立てと、いつか何の感慨もなく囁いた男を覚えている。まるで正反対だと思った。

「眠たいのか、イチ。目がとろけてるぞ」
「にいさま、だっこ」
「ん。おいで」

その腕に抱かれる度に泣きたくなったのはきっと、そうやって甘やかされたかったからだと、知っていた癖に。

「にいさま…」
「うん」
「だいすき」
「俺も大好きだぞ。いつもお前の事を考えていた」




(憎むとはつまり、愛している証だった)
(無条件に信頼する事はつまり、無関心と何ら変わらない)







「だからもう、絶望して嘆くだけの輪廻は終わりにしよう」
「終…わり…」
「光が犯した罪を反転する。空から地へ落ちたお前が再び命を得た様に、繰り返される時を歪めれば輪廻は正常に崩壊するだろう。心配しなくてイイ、俺はずっとお前の味方だ」
「…ん」
「お休み、俺の可愛い犬。お前達が揃えば新たな時は回る。それまでささやかな、つまらない幸せを噛み締めていろ」






Red script from daybreak.
Don't look back in the karma.

葬送曲第2番
「真紅の鎮魂歌」















「夢すら見ない永久の眠りこそが唯一の幸福だと、俺は初めから知っていた」
























帝王院学園高等部進学科一年、皆さんご存じの一年Sクラスの中でも、平凡中の平凡と言えば、セントラルゾーンこと中道拓央を於いて存在するまい。
彼は身長こそすらりと高く、目立つ顔立ちではないが整っており、控え目な性格故に口数が少ない為、昨年度までは『そう言えばあんな奴も居たな』と言われるランキングがあれば、ぶっちぎりで一位だっただろう。

セントラルゾーンの席順は22番だった。
30人の中でも降格範囲内と呼ばれる位置にあるが、実は山田太陽の後ろの席に座っていた。始業式典当日までは。

嵐の如く現れた帝君が、始業式典翌朝のHRで日直制度の導入と席替えシステムの構築を担任に申し入れなければ、セントラルゾーンはあのままクラスで最も小さい…失礼、クラスで最も小柄な太陽の後ろで、身を縮めて過ごしていただろう。
中等部時代、セントラルゾーンより大きかったクラスメートは神崎隼人を於いて他に存在しなかった。
大きいイコール視界に入ると言う理由で、高野健吾・大河朱雀と言う所謂リア充に目をつけられ、セントラルゾーンは精神的にグレーゾーンだった事もあっただろうか。派手なオレンジ頭の健吾からは目が合う度に手を振られ、その誰にでも同じ態度で接しますよスキルに何度怯えた事か。隼人と並ぶ程に横暴だった朱雀に至っては、中道を視界に映す度に『邪魔だ死ね』と怒鳴ってくる。その度にチワワの如く震えた中道をさりげなく助けてくれたのが、何を隠そう当時から21番席を独占していた太陽だ。

『あはは、大河君、挨拶代わりに死ねは駄目だよー』
『うぜぇ。文句は青蘭に言え、一発ヤらせろっつったら「即座に死ね」っつったぞ。あれは駄目じゃねぇのか』
『んー、俺には判断が難しい所だねー』
『まぁ、こうなりゃお前でも良い。後ろ向いてケツ貸せ、顔見なけりゃヤれそうな気がする』
『あ、お構いなく』
『んだと?テメェ、俺のサライを断るっつーのか』
『そんな24時間テレビみたいな。断るんじゃないよ、俺じゃ大河君にとって役不足かなーって、思って』

にこにこ。
中等部一年までの太陽は、いつも当たらず障らずの穏やかな笑みを浮かべていたものだ。中国出身の朱雀が日本語力に些か難がある事を知らない同級生は、まず存在しなかった。

『良く判ってんじゃねぇかチビ。まぁ良い、俺に抱かれたけりゃ精々ケツ磨いとけ』
『あはは。そうだね、お風呂に入る時は大体全身磨いてるけど、もっと気をつけるよ』

中道はあの時、心から感動したものだ。
終始無毒そうな愛想笑いを完璧に貼り付けたまま、とうとう暴君に「俺はお前には勿体ない」と吐き捨てた事を毛程も悟らせず、寧ろ若干良い気分にさせて争う事なく危機を回避した太陽は、ある意味普通ではなかった。

繰り返そう。
一年Sクラスで誰が一番平凡かと尋ねられると中々難しいが、中道はそこそこ上位に食い込むだろう、極々平凡な生徒だ。クラスの中では確実に影が薄い。
初等部時代、錦織要と同じクラスになった四年生の時には「どん臭い」と睨まれた事もあるし、藤倉裕也と同じクラスになった六年生の時には「オレの視界を妨げたら泣かすぜ」と凄まじい笑顔で蹴られた事もある。中等部に進学すれば、分校から昇校したばかりの帝君に擦れ違い様、「あは。短足だねえ」と鼻で笑われた事すらあった。

あちらはテレビコマーシャルで連日お茶の間の女子を悶えさせているモデル体型、こちらは一般的な日本人体型のまま背が少しばかり高いだけだ。比べられては困る。

そんな中道に、開口一番「セントラルゾーンでしたかァ!」と大声で宣った外部生帝君は、中道の知るリア充部門の誰とも違い、今まで関わってきた誰とも全く違った。見つめあった瞬間「貴方がセントラルゾーンでしたかァ!」などと突如叫ばれたら、中道でなくとも驚く筈だ。

帝君にスクリーントーンなる画材をそっと手渡され、懇切丁寧に使い方まで教わった挙げ句、放課後寮に帰るなり夕食に誘われ、宿題のレポートもそこそこに、目の前には黒縁眼鏡を妖しく曇らせたオタクが二人。

「ささ、憎き数学のあんちくしょうを片付けた所でご相談が」
「あんちくしょう?」
「セントラルゾーン隊長、次号の一年S組はこんな感じで構想してるにょ。ここにカイちゃんが、特集の『らめぇ!部長の竹刀が僕の鞘にごメン下さいませェイ!』なカットを描く予定なので、セントラルゾーンはアシスタントを宜しくお願いしま」
「え?俺が灰皇院君のアシスタント、って?」
「何卒よしなに」

中道の唯一の取り柄は『地道に頑張る』と言う、余りにも平凡で、だからこそ天才でもなく凡人でもない実直さだけだ。
趣味と言う趣味もなく、放課後にやる事と言えば予習と復習。Sクラスの極々平凡な生徒はその日、目の前に天才と評されるべき帝君を二人並べたまま、ひたすらカッターナイフで地道にスクリーントーンを削った。

「流石は平凡中の平凡、あらゆる数値が円グラフの中心で丸を描くセントラルゾーン隊長!良すぎる事もなく悪すぎる事もない、アシスタントの鑑!よっ、憎いね色男っ。ヒューヒュー!」
「天の君、もしかしてそれって俺の事を褒めてます?」

国会で野党が飛ばす様なノリの何とも言えない野次だったが、帝王院学園以外の世間を知らない中道にとって、遠野俊は全てが新鮮だったものだ。

「勿論なり!胸を張るにょ、セントラルゾーン隊長!平凡の尊さよ、嗚呼!平凡と言う言葉で一体何万人の腐女子腐男子が心の路頭に迷う事か!罪深い!」
「えっと…有難うございま、す?」
「それに引き換え、カイちゃんが一人で原稿を完成させると商業ばりに綺麗過ぎて、学級日誌のほのぼの感が損なわれるんざます。完璧が尊いとは限らないからこそ、オタク道は奥深いにょ!」
「面目ない」

中道はこの時、人生で初めて平凡さを讃えられた。
極々平凡な田舎の旅館を経営している中道の実家には、取り立てて珍しい家族は居ないが、お客様の為に地道におもてなしをしようと頑張っている両親、祖父母、親戚がいる。
そんな普通の家族の中で唯一、帝王院学園の初等部入試で合格した中道は親族の希望を一身に背負っていたが、中等部で進学科に入れた喜びは、現在に至るまでの降格圏内継続でいつの間にか薄れていた。稀に休みがあっても、自室で予習と復習、単位補助の課外授業を受講する為に実家へ帰省する暇もない。

けれど、中道のそれは決して珍しい話ではなかった。
進学科の生徒は基本的に、誰もが似た様な生活を送る者ばかりだ。選定考査で降格になる事を恐れる中道の様な生徒もいれば、学年上位の生徒になれば、誰もが帝君の頂を一度は志すだろう。
中道の知る帝君とは、絶対王者だった。神の君、紅蓮の君、星河の君、その誰もが尊敬と羨望と嫉妬を一身に集めている。けれど彼らは一様に、他人を視界に入れていなかった。

「タイヨーはベタを任せると、律儀なA型故にか、関係ない所まで全部塗り潰しちゃうんざます。トーンを貼らせる為にカッターを握らせれば、何だか命の危険を感じずにはいられない有様な僕!」
「えっ?時の君が天の君の命を危険に?そんな、まさか」
「ヒロアーキは侮れん男だ。奴はゲーム以外に集中力が持続しない不治の病に冒されている」

それがどうだろう。
あらゆる意味で始業式典以降目立ちまくっている帝君ペアは、片や顔よりデカい赤色のガマグチ財布を大抵ショルダーバッグの如く携帯し、

「パヤティーとカナタはカイちゃんの原稿を手伝ってくれなくて、桜餅は背景の雰囲気トーン&効果の奥深さにハマりつつある所なので、今はそっとしておくべきでしょん?」
「あ、でも高野君と藤倉君は?星河の君よりは協力してくれるんじゃ?」
「ふぅ。あの二人に絵心はないにょ。消しゴムを掛けさせれば、片や原稿用紙をしわしわにする、片や途中で寝落ちして原稿を涎でしわくちゃにする。こうなったら原稿の文字入れをやらせようとパソコンの前に座らせたら、ケンゴンは原稿の隅に落書きしやがって!ユーヤンに至っては、平成生まれの十代の癖に、パソコンをネット検索でしか使った事がないと仰る有様!僕はっ、僕は眼鏡の底から絶望したにょ!」
「確かに、中等部の授業じゃ貸し出されてたタブレットは使ってたけど、パソコンに触れる機会は余りなかったな。近頃はエクセルやワードの需要もクラウドシェアソフトの普及で落ち着いてきてるから…」
「そんな平凡なご意見をあざっす!オタクはとことんデジタルアナログ派!タッチだのスワイプだの喧しいんじゃア!僕は永遠のWindows派閥!まだ見ぬBLの窓の向こうに、萌えはきっと、ある!」

セントラルゾーンはイマイチBLが良く判らなかった。
判らなかったが、男子校育ち故にホモに抵抗もなかった。極めて平凡な帝王院学園の生徒である。

「あ、出来ました。こんな感じで良いですか?」
「セントラルゾーン隊長。この絶妙なモアレ、好きです」
「…あっ。重ねて貼る時は気をつけなきゃいけないって言われてたのに、ごめんなさい!」
「これはこれで味わい深いにょ。隊長、アシスタントのお礼に明日の小テストのヤマを詳細に張り巡らせた、メイドインイチのカンニング予想ペーパーを差し上げますん」
「メイドインイチ?カンニング予想ペーパー?」
「ふ、これを読むだけで急にフランス語が喋れる様になる代物ですァ。僕が命懸けで入手したものです、どうぞ!」
「そんな…!命懸けで手に入れたものを俺にくれるんですか?!」
「はい」

中道は感動した。
感動したが、手渡されたメモにみっちり刻まれていた夥しい数の文字量に、目から火花が散った。文末には、『これで満点取れない奴は袋叩きに処す』と書かれている。最後の署名には、あの恐ろしい二年帝君の名前があった。

何と言う恐ろしいものを手に入れてしまったのか。
心で密やかに涙を零した中道は、一人で抱えるには大きすぎる恐怖に負けて、みっちり文字が並ぶメモを数枚コピーすると、フランス語が苦手な降格圏内仲間にそっと配った。中道は極々平凡な生徒だ。特技は地道な努力、だからと言って聖人君子では決してない。

哀れ、道ずれにされた降格圏内の愉快な仲間達は、その晩、死に物狂いでメモを熟読した。うっかり寝落ちすると、夢の中で嵯峨崎佑壱が『袋叩きに処す』と微笑んでくれる。
色々な意味で飛び起き、結局、翌日の小テストは過去に類を見ないほど平均点が上がったらしい。


「え?天の君だけ0点だった?俺にくれた紅蓮の君のヤマを見た筈なのに、何で…」
「何か、テスト中に烈火の君を見て息が荒くなり過ぎて、フランス語のテストに関西弁で回答してしまったんだって。グルメの訳を『ほんま舌が肥えてはる』って書いてたみたいで、星河の君は笑い転げて呼吸困難起こして、紅蓮の君は烈火の君に『あってるじゃねぇか、採点やり直せ!』って怒鳴り込んだってよ」
「うーん。流石は天の君、やっぱり帝君が考えている事は俺ら凡人には判らないんだな…」
「そんな事より中道、俺久し振りに満点取れて超幸せだよ。死ぬほど眠いけど、挫けずに頑張って良かった」
「うん、俺もそう思う。今回、紅蓮の君のメモを見て効率の良い勉強の仕方が少し判った気がするんだ。江崎君、お互い頑張ろう」
「おう!それにしても、天の君って見掛けによらず良い人だよな。俺らに優しくしたって、何も良い事ないのに」

だから中道はその時、ほんの一瞬だけ思ったのだ。努力以外には何の取り柄もない極々平凡な人間だからこそ、まるで天命を受けたかの如く、

「…無条件に優しいって、何だか無関心だって言われてるみたいだ」
「は?」
「俺なんか視界にも入らないって、さ。大人が子供に優しくする感じって言うか…ごめん、何か空気読めてない事言ってるかも」

何故だかその時、そう思ったのだ。

←いやん(*)(#)ばかん→
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