帝王院高等学校
地獄の沙汰もラブ次第?!
「ハッピバースデートゥーユー♪」
「そーめんのつーゆー♪」
「ハッピバースデー、ディア、デリシャスボスー♪」
「「「ハッピバースデートゥーユー♪」」」

聖歌隊宜しく、真夏にも関わらずケープを羽織り帽子を被っていた少年らは、ピアノの余韻が消えるまで息を吐ききると、やり遂げた表情で胸元からクラッカーを取り出した。
唯一、真っ赤なシャツと黒のサロンを纏っている怪しげなバーテン風の男は、真っ赤な髪を頭の頂上で一纏めにしたポニーテール姿で、真っ黒な液体が注がれたシャンパングラスを持ち上げたのだ。

「8月18日はシーザーの誕生日だ。今日だけは産まれてきた事に感謝し、色々思う所もあるだろうが、テメーらの両親に感謝しろ」

額の汗を拭いながら、ピアノの鍵盤から指を離した男は短い青色の髪を耳に掛け、万感の表情で頷いている。
片や、クリスマスでゴスペルを歌う聖歌隊宜しくずらりと並ぶ少年らの中からは、期待と感動で実に様々な表情が見られたが、その誰もが酷く嬉しそうだった。

「どんな家庭環境であれ、どんな生い立ちであれ、俺らは今日此処にこうして集まり、総長の誕生日を祝福する事が出来た。…ぐすっ。いかん、近頃どうも涙脆くなってきやがった…」
「ユウさん、アンタまだ16歳でしょ?何で年寄り振ってんのお?」
「ハヤト!今日は両親に感謝しろって言われたっしょ?!(´;ω;`)」
「ママ〜、俺らを産んでくれてありがと〜♪」
「ママ〜、バキバキに割れた腹筋で産んでくれてありがと〜♪」
「ママ〜、ウェディングケーキばりにデカいケーキが溶ける前に乾杯しよ〜♪」

オレンジのケープを羽織った高野健吾とその愉快な仲間達は、目頭を押さえている赤毛のバーテンを取り囲んだ。
緑地に黒のストライプが入った、どう見ても西瓜にしか見えないケープを羽織った藤倉裕也に関しては、帽子が赤地に黒のドットが入っており、完全にクリスマスカラーを装ったただの西瓜コスである。

「母ちゃん、オレを産んでくれてありがとな。感謝してるぜ?」

真顔で笑いを取ろうとしている裕也は、もう一杯一杯な嵯峨崎佑壱の肩をそっと叩くと、珍しく笑みを零したのだ。
こうなるともう駄目だった。カルマが誇る無敵の筋肉、副総長は肩を震わせ顔を覆い、ぶるぶると震える右手に携えたシャンパングラスの中で気泡が弾ける。黒い液体は何を隠そう、ダイエットコーラだった。

「えー、この様に副長もといお母さんが喋れなくなりましたので、乾杯の音頭はこの高野健吾が務めさせて頂くぞぃ(*´`*)」
「ブーブー、引っ込めボケ〜」
「ブーブー、全身オレンジ野郎は正月の炬燵に帰れ〜」
「クーラーが皆の熱気で効いてない気がするんだけど〜。ケーキがマジで溶けてるんですけど〜」

チャラ三匹の一人、笑顔で巨大なケーキを押さえている梅森の台詞で聖歌隊数名が慌てて飛んでいく。佑壱の涙で貰い泣きしているピアニストは、肩と耳につけたピアスを小刻みに震わせており、最早使い物にならない状況だ。

「えっと、総長、ユーさんがちょっと大変なんで、乾杯して貰えませんか?」
「…ん?ああ、獅楼か。どうした?」

さりとて、本来8月18日は昨日の事だった。
主役が来なかった所為で翌日に持ち越されたバースデーパーティーは、然し佑壱が「今日が8月18日だ」と無茶ぶりを宣った事で、一日ずれた悲しみを忘れようと皆が異様に盛り上がっている。
このノリにまだ慣れていない加賀城獅楼は、丸二年費やして漸くカルマ入隊試験に合格したばかりだ。

「ユーさんが乾杯出来なくて、総長にお願いしたいっス」
「ああ、そうか。判った、今から行く」

佑壱に憧れてカルマを目指した獅楼にとって、この熱気の中で一人だけ涼やかに本を読んでいるシーザーは異様なものに見えた。
収拾がつかない幹部陣を横目に、恐る恐るカウンターの中央に座る背中へ話し掛ければ、足を組んで本を読んでいた男はバイオレットのサングラスを片手で外し、目元を指で押さえている。泣いているのかと思ったが、そう思ったのは獅楼だけではなかった様だ。

「そーちょー!!!」
「ん?」

四六時中飼い主の事を考えていると断言するだろうオカンは、態度も体もデカすぎるむさい子供達に囲まれたまま、ぶわっと涙を迸らせた。

「俺、俺、幸せ過ぎて…!ぐわぁあん、ぐあぁあん!!!」
「あは。…ママの泣き声やばいよねえ、獣の唸り声みたい」
「ハヤト、俺もそれ思ったけど、あんま言ってやんな(;´Д⊂)」
「母ちゃん、キノコとアボカドのキッシュ焼いてくれてありがとな。オレの腹の音が獣の唸り声みてーになってるぜ?」
「ユウさん…!いえ、お母さん!俺はもう涙で前が見えません!錦織要、喜びの曲を弾きます!聴いて下さい、『ラブユー総長』!」

佑壱は泣きながら床に崩れ落ち、隼人は仕方なく佑壱の背中を撫でてやりながらも笑いを耐えており、暑くなってケープを脱いだ健吾は佑壱の握ったグラスを奪って喉の乾きを潤そうか悩んでいる様だが、腹ペコの裕也はとにかくキッシュが食べたくてそわそわしている。
要に至ってはやはりもう駄目だった。無駄に凄まじいスキルを披露し、即興の曲を弾いているが、聴いている誰もが心を折ってしまいそうなおどろおどろしい曲だ。
魔王でも乗り込んできそうな曲を無表情で「名曲」と呟いた川南北緯は、佑壱の大作である五段重ねのバースデーケーキにプスプスと蝋燭を刺し、チャッカーマンを今か今かと構えている。

「カナタ、俺みたいな地味で平凡でウジ虫男にそんな名曲は勿体ない。全く…お前は健気受けだな」
「ボス、カナメは健気なんかじゃないよ?横暴だよお?」
「健気受けって何?最近は健気な奴がウケんの?健気漫才ってどんなん?(・ω・ )」
「キッシュを前に大人しく涎を我慢してるオレみてーな奴の事かよ?あんま笑えねーぜ?」

優雅に佑壱の元までやってきた男は、崩れ落ちた佑壱をひょいっと片腕で抱き上げると、その腕力に若干怯えているワンコらを一望し、佑壱を抱えたまま裸眼を眇めた。
あ、これ殺される、と。大半の犬が俊の双眸に見据えられ死を覚悟したが、俊の目付きの悪さはただのデフォルトだ。いきなり大量殺人を始める様な事は、それほどない。繰り返す様で何だが、それほど、だ。稀に何の前触れもなく殴り掛かっていく様な事はあるので、油断出来ないと言えるだろう。

「俺の為に祝ってくれて有難う。皆、お母さんの料理を堪能してくれ。乾杯」

主役の挨拶は余りにも短かった。
若干の物足りなさを感じながらも、カルマ一同は思い思いに料理へと飛びついていく。育ち盛りの彼らにとって、佑壱が一年で最も腕を奮うシーザーバースデーは、一大フェスティバルだ。盆と正月と冠婚葬祭が一辺に訪れたかの如く、カフェカルマには所狭しと料理が並べられていた。

俊が来なかった18日当日の前夜から店に泊まり込み、佑壱と共に料理の仕込みを行っていた榊政孝は厨房で仮眠を取っており、パイプ椅子に座って足を組んだまま目を閉じている。
つい先程まで頑張って起きていた様だが、カウンターに座って読書をしていた俊が珍しく飲み物のお代わりを告げなかったので、手持ち無沙汰の余り気絶した様だ。昨日から今日に至るまで一睡もしていないのだから、無理もない。

「ボスー、このケーキやっばいよお!超美味しーの。昨日のケーキも美味しかったけど、今日の方が気合い入ってるってゆーかあ」
「そうか」
「総長!このポテトサラダを食べてみて下さい!俺が皮を剥いた馬鈴薯が入っているんです!それと俺がスライサーでスライスした胡瓜と、俺がミキサーで作ったマヨネーズも入ってます!どうぞ召し上がって下さい、総長!」

それは作ったと言えるのか。
単純作業を手伝っただけと自ら宣言している事にも気づかず、要は山の様に盛りつけたポテトサラダを俊の前へ差し出した。西瓜を冷やす様なサイズのタライに、馬鈴薯10キロ分のポテトサラダが盛りつけられているが、余りの大きさにテーブルに運ぶのも命懸けだった代物だ。

「総長、キッシュの可能性知ってるっスか。女子力上がりそーでやべーっスよ、ガチで」
「そうか」
「総長はオレの父ちゃんだから、一切れ分けてやるぜ。キッシュがオレらを駄目にするんだ、オレは悪くない」
「そうだな」
「昨日のカナッペもうまかったけど、今日のキッシュのがもっとうめー感じだぜ?エリンギとブナしめじが乗ってて、ヘルシーな感じなんスよ」
「そうか」
「だから総長は今日来て良かった感じだぜ。昨日はキッシュなかったからよ」
「そうだな」

その他にも、豆腐に大葉とチーズを挟んで厨房で揚げた揚げ出し豆腐風カツは、豆腐をおかずとは思えないと宣う少年の心を鷲掴みにしたのか、同じく鶏胸肉に大葉とチーズを挟んで揚げたチキンカツと共に、凄まじいスピードでなくなっていく。
実に鍋三杯分の筑前煮も真っ先に肉からなくなっていき、マクワウリ代わりに西瓜の白皮部分を使って新鮮な海老とイカの刺身を合わせたマリネも、主に神崎隼人主体で消えていった。

「ワンコ攻め、ワンコ攻め、ワンコ攻め…」
「総長?」

もさもさとポテトサラダを貪りながら何事か呟いている俊に、獅楼は首を傾げた。佑壱と一緒に鍋三杯分作った豚汁を振る舞いつつ、新米は雑用に大忙しだ。
俊のグラスと言う名のビールジョッキが空いている事に気づいた獅楼は、丁度俊の呟きを聞いた。
然しぼんやり店内を眺めている裸眼の俊は、銀髪のウィッグの下、ポテトサラダをさらっと完食すると、マヨネーズで汚れた唇を舌で舐めながら、微かに微笑んだ。

「っ」

シーザーの神スマイルの話は聞いている。
知っていても、免疫のなかった獅楼には凄まじいダメージだ。至近距離で目撃してしまった獅楼は、注いでいたコーラを幾らか零してしまい、通り掛かった健吾から尻を蹴られてスッ転んだ。

「ったく、何してんだシロップ。総長の皿が空いてんだろ?(°ω°)」
「あ、はい、スいません!」
「ケンティー」
「ん?どしたん総長、あんま食べてねぇけど元気ない?もしかしてさっき何か食べたん?(*´`*)」
「さっき歌ってなかったな」
「へ?」
「ああ、気づいていないならイイ。お前はそのままでいなさい」

健吾は首を傾げた。
餓えた野犬の如く料理に飛びつきながらも、俊に色々とおかずを持ってくるワンコ達は、誰の目で見ても楽しそうだ。俊は静かにそれを見つめたまま、皆が持ってくる紙皿を次から次に受け取っている。

「総長、流石にそんな食えねぇって言っても良いっしょ(・∀・) ふんふん受け取ると、アイツら馬鹿だから際限なく持ってくるべ?(ヾノ・ω・`)」
「ああ、楽しそうだ」
「ん?総長は?楽しくない?(°ω°`)」
「楽しいぞ」
「うひゃひゃ、変なの(・∀・) 早く行かねーと飯なくなるよぃ?あ、ハヤトがケーキを食べちまうのが先かも。アイツの前に甘いもん出したら駄目なんだよなぁ、満腹中枢がイカれてっから(´Д`*)」
「ああ、そうだな。良し、唐揚げを頂こう」

健吾にとって、その日の俊はいつもと大分違った。
獅楼にとって、その日の俊はいつもとどう違うのか判らなかった。
佑壱にとっては、どうだったのか。

「…兄貴?」
「どうした、イチ。疲れた顔をしているな。寝てないのか?」
「や、平気です」
「そうか」

それを知る者はない。

「なァ、イチ」
「はい?」
「人が燃え上がる時、何が必要だと思う?」
「何って、何スか?」
「判らないならイイ。ただ俺は、根底を揺るがしかねない出逢いを果たした…それだけの事だ」

ゆったりと、嵯峨崎佑壱の前でそれは微笑んだ。
いつもより口数の少ない飼い主を前に、訝しむ事はなかった。

「イチ」
「はい?」
「お前の呪いは俺が食べてしまった」
「は?」
「でもお前は、それを知らないままでいなさい」
「あの…」
「返事は?」
「っス。はい、総長」
「…イイ子だな」

その日の俊は、日が暮れる前に帰っていった。
お盆の時期だから仕方ないと誰かが寂しげに呟いた台詞を、恐らく誰もが覚えている。


「総長には家族が居るんだもん、しょーがないよね」

だったら自分達は、などと。
思っていても口にする者は、なかった。



























楽しい事が好きだ。
そう言うと、それを聞いていた男は平坦な声で『そうか』と囁いた。

廊下の窓の外はしんと静まり返っている。雪こそ降ってはいないが、山間部の冬は盆地より幾らか長い。

「楽しくない事は全部嫌ぇだ。折角毎日楽しいのに、俺を怒らせて何がしてぇの?」
「ほう、怒っておるのか。笑っておる様に見えるが」
「うひゃ。笑えるほどムカついてんの、判んねぇ?」

楽しい事が好きだ。
楽しくない事は、この広い世界の中、自分と言う狭い視界に存在してはならない。

「アンタの飼い猫、どうにかしろし」
「生憎、飼い慣らした猫は一匹ではない。どれを指しているのか、判断に悩むな」
「叶二葉。…いや、ネイキッド=ディアブロだっけ?」
「ああ、セカンドの事だったか」

どれだけのものを大切に思うかは、その人間の器に由来するものだ。
少なくとも高野健吾の人生に於いて、その時、その瞬間に最も興味があるものが最優先だった。最後の最後まで笑っていられれば、そこにどんな筋書きが用意されていようと、然程重要ではない。

「俺、ドイツで産まれたんだ。第二の故郷って奴っしょ。つっても、物心ついた時に居たのはオーストリアで、一番記憶に残ってんのはイタリア。音楽のある国ってのは、大体誰もがいつも、笑ってんだよ」
「そうか」
「オメーらみてぇな面白味のねぇ奴らなんざ、一人も居ねぇ。なぁ、マジで何しに来た訳?」

言外、とっとと失せろと本音を滲ませれば、健吾がこの世で最も恐怖を感じている男に良く似た威圧感を滲ませる男は、冷たい白銀で顔を覆ったまま小首を傾げた。

「特に何も」
「…何も?ンな訳ねーぺ、こうして来日してんだからよ。何で今更、中学生の真似事してんの?マジで正当な理由がねぇなら、」
「父上の言いつけ、と言えば、満足に値するか」

ネイビーグレー。
中等部の生徒であれば誰もが、誇らしげに羽織るブレザーは濃い青だ。遠目では黒にも見えない事もない、彩度の低い青は濃灰が混ざっている。
私服で登校したがる者は居なかった。社会へ出る前にネクタイをフォーマルの練習だと言わんばかりに、誰もがスーツ同様の制服を着たがるからだ。

例え、ネクタイをつけずシャツのボタンも留めていない、正に健吾の様な着崩れをしていたとしても。
目の前の男の様に、中央委員会会長に用意された正装を普段着の如く纏う人間は、明らかに少ない。前会長の嵯峨崎零人もそうだ、基本的に最上学部へ上がる前は毎日白のブレザーを着ていた。
続投を表明した高坂日向もそうだ。彼は常に、正しい制服着用例と言わんばかりに、ビシッとネクタイを絞めている。とは言え堅苦しく見えないのは、洒落たベルトに、キーチェーンやウォレットチェーンをさりげなくつけているからだろう。彼が歩くと、微かにちゃりちゃりと鎖が擦れる音がする。

「まだ二月じゃん」
「そうだな」
「三年は授業があんだろ?」
「その様だ」
「なんでアンタ、制服着てねぇの?親父の命令で日本までのこのこやって来た割りに、真面目に勉強する気はないんだろ?何か面白い理由とかある訳?」

努めて下らない話を、まるで先制攻撃の如く。
目の前の男が来日していると聞きつけ、漸く探し出した人の気配がない図書館の禁書エリアに居たのは、分厚い本を抱えた全身白い男が一人。
図書館の入口に黒服のバトラーが数名立っていたが、それを見たからこそ、健吾は図書館の中に男爵その人が居るのだろうと気づいたのだ。
力ずくで面会させて貰おうと足を踏み入れても、バトラー達は健吾を止めなかった。どうやら、警護として図書館の前に居た訳ではないらしい。

「愉快か否かは定かではないが、そなたが纏う制服を私が好まぬ理由ついては、単に興味がないからだ」
「興味がない?」
「高等部のブレザーならば、一度袖を通す価値があるやも知れんな」
「何それ、色が気に喰わねぇって事かよ」
「父上が見せて下さった事がある」
「あ?高等部の制服?」
「そうだ」

どうも、まともに会話が出来る人間ではないらしい。言葉が足りないだけか、目を落としている本に気を削がれているからか。
然し健吾には、目の前の男がただの貴族には見えなかった。恐ろしい組織のトップに君臨する様な悍しい人間にも見えなかったが、例え今、先手必勝とばかりに殴り掛かっても、勝てそうな気はしない。二人目、いや、三人目だ。

一人目は嵯峨崎佑壱だった。
あの誰ともつるまない錦織要が近づいた男だと聞いて、相棒の『やめとけ』と言う言葉を笑って流したものだ。けれど、裕也の台詞は正しかったらしい。およそ一歳違いとは思えないほど成熟した雄の体は、要と並ぶと親子の様だった。勝てる勝てないのレベルではない。初等部の頃から、佑壱の握力は100kgをマークしていたからだ。

二人目はその佑壱を負かしたと言う、極々普通そうな男だった。
それが普通から明らかに掛け離れている事を思い知ったのは、幾らかの時を過ごしてからだ。一見した所では、ヤクザと大差ない目付きと言うだけで、身長こそ佑壱とほぼ変わらなかったが、佑壱の様な自信過剰にも思える強気な表情などない。見れば見るほどぼやっとしている男は、然し怒らせると手がつけられなかった。

『困ったな、商店街の駐車場は反対側なのに』

そう囁きながら、片腕で不法駐車のバイクを持ち上げた所を見た時、どうしてこんな化け物に喧嘩を売ったのだろうと、健吾は佑壱の潔い怖いもの知らずさに感動した事がある。
最早カルマのシーザーに一人で喧嘩を売ってくる者は居ない。最後の勇者は、近頃健吾と食料争奪戦を繰り広げている、神崎隼人だった。とは言え、あの隼人ですら俊の前では仔犬をあやす様なものだったのだろう。

結局、俊は暴れまわる隼人を荷物の様に抱えて、カルマへと連れて帰ってしまった。

健吾にとって、戦う前から負けを認める人間はそれほど少なくない。
醜態を晒すくらいなら笑っとけ、と言うのが健吾の座右の銘の一つであり、日頃の健吾を良く知る者であれば、今此処でルーク=フェインと言う神にも等しい男と対峙している健吾は、いつもとは別人の様だろう。

「だったら四月から来れば良かったじゃんか、意味判んねぇ」
「初めて外の世界を見たのは、丁度今頃の季節だった」
「は?」
「…そなたの話を聞こう。退屈凌ぎの読書が終わった所だ」

ぱたりと、男は本を閉じた。
カルマには読書家と言える様な人間はいない。週刊漫画やら単行本やらを読んでいる事はあっても、貸出禁止に制定されている様な専門書をわざわざ読みたがる人間など、居よう筈もない。
無駄に何でも知っている俊だったら、さらりと読めてしまうのだろうか。凶器じみた分厚い本を本棚へ戻した男は、長い銀糸の髪を優雅に掻き上げている。

「セカンドに話があるのであれば、呼び出してやろう。ただそなたが私を探していたのであれば、セカンドに聞かせるまでもないか」
「藤倉裕也、知ってんだろ」
「ああ、実に良く知っている。ネルヴァの一人息子だ」
「ユーヤを毎週何処に連れてってんだ、テメーら」
「成程、それでセカンドか」

つかつかと、禁書エリアから出ていく背中に、健吾は小走りでついていった。逃がしてなるものかと思ったが、どうやら外へ出ただけらしい。図書館のソファに腰掛けた男は、計った様にバトラーが運んできたコーヒーを優雅に傾けていた。

「禁書とは大多数の人間に於いて、道徳、倫理の観念を根底から揺るがしかねない、思想的な書を指す。著名な所であれば、アドルフ=ヒトラーの書いた我が闘争が挙げられるだろう」
「そんな話求めてないんだけど?」
「人の道徳、倫理、思想の中に委ねられる固定概念を統一し、少数派を淘汰する事で人間社会は円滑に回っている」
「政治かよ」
「判らんか」
「は?」

短い溜息が鼓膜を震わせる。何故判らないのかと、馬鹿にされている気がしたが、恐らくそれは正しいだろう。

「そなたの良く知る、ファーストから始まる話だ」
「ファースト?」
「全ては一から始まるもの」

平坦な声音だ。
まるで仕方なく赤子をあやしている様な、やる気のなさすら感じさせる。ゆったりとコーヒーを啜った男は、バトラーが抱えているトレーにカップを置いた。その他に用意されていたサンドイッチやスコーンへは見向きもせず、片手を上げる。
教育の行き届いたバトラーはぞろぞろと退室していき、先程の様に図書館の入口で待機しているのだろう。

「今から遡る事、9年程前の事だ。嵯峨崎佑壱のDNAに重大な損傷が見られた」
「なんで、ユウさんの名前が出んだよ」
「そなたは知らんか、ファーストは嵯峨崎を名乗る前、グレアムを名乗っておった。立場上、私の従弟に当たる」

知らなかった訳ではない。知ろうとしなかっただけだ。
楽しくない事から悉く目を逸らし、楽しい事ばかり掻き集めて来たから。この話がおよそ楽しい事ではないと気づいていて、今更逃げ出したくなっても、遅すぎる。

「あれの最たる損傷は、人より幾らか皮膚が弱く、心臓が小さい事だ。単純に説明すれば、血の巡りが悪い。機能そのものに欠陥はないが、体が成長するにつれて不具合は出よう」
「…で?」
「最たる利点はメラニン量の多さ、細胞分裂の早さだ」
「は?」
「折れた骨が人の十倍の速度で元に戻る。砕けた細胞が人の十倍の速度で元に戻る。何か気づいた事はあるか、不死鳥の子」

久し振りに聞いた皮肉だった。
一度死んだと言われても自覚はないが、こうして生きていると言う事は、そう言う事だ。殆ど忘れ掛けているが、四歳の頃に世界中のメディアが詰め掛けてきた事がある。それが嫌で日本へ逃げた事もまた、不愉快だが、忘れてはいない。

「そなたがあの時起こした奇跡を、ファーストは日常的に繰り返している。但しあれの心臓は、調査した限り恐らく六歳で成長を止めただろう。体を動かすエンジンにも等しい心臓が軽自動車の様だと仮定すれば、14歳のファーストの体は今、ハイオクを必要とするセダンの様なものだ」
「だから何だっつーんだよ、アンタ」
「ファーストは産まれて間もなく、皮膚が酸化した。大気に微量に含まれた紫外線に対し、防衛本能が過剰に働いたものだろう」
「なぁ、俺の話聞いてた?だから何だって言ってんの」
「過剰とは善ではない。アルビノに酷似した反応だが、体が起こす全ての症状に於いて、必ず心臓を必要とする」
「…」
「例えば、怪我をしたとしよう。ハイオク車で高速道路を走行する。通常、エンジンは2000cc前後になる。引き換えに、ファーストの心臓は例えれば660ccだ。恵まれたスペックに対し、馬力が間に合っていないと言う事になろう」

ああ、やはり、楽しくない。

「器が足りない訳だ。過剰に発熱した心臓は、気づかぬ内に劣化していくだろう。技術班の提示した算段では、ファーストの心臓の寿命は、恐らく二十歳を待たず全うする」
「っ、ざけんなや!ユウさんが死ぬ訳ねぇだろうが!」
「我らとて、簡単にあれを死なすつもりはない。技術班に不可能はないからだ」
「何だよ、それを先に言えって!そんじゃ、ユウさんは大丈夫なんだな?」
「心臓移植を提示した。だが、ファーストの血液はファースト以外の細胞に過剰反応を起こした。輸血もそうだ、ファーストの体内にファースト以外の血は存在出来ない。免疫が過剰に反応し、恐らく逆効果を招くだろう」
「どう言う事だよ。アンタ今、不可能はないって言っただろうが」
「唯一の例外が現れたからだ」
「例外?」
「ファーストの過剰反応、つまり利点でもある細胞分裂速度を抑える血が見つかった。奇跡的に同じO型で、奇跡的に全く違うO型。片や細胞分裂が早すぎる所為で心臓に負担を掛けているとすれば、片方は人より細胞分裂が遅い為、人より成長が遅い。著しい程ではないが、利点はその寿命の長さだろう」
「それって誰の事だよ」
「悪魔だ」

会話はやはり、まともに続かない様だ。
苛立ち紛れに舌打ちを零した健吾は、向かい側のソファにどさっと腰を下ろし、足を組む。

「哀れな悪魔は哀れな子供を天使と謳う。そなたが大切に思うファーストの命運は正に悪魔の手に委ねられ、それを知る藤倉裕也は我らがそなたに手を出す前に先手を投じた」
「どう言う事だよ、それ…」
「そなたに起きた奇跡が奇跡でなくなれば、ファーストの生存に望みが出来よう。例えるなら、そなたがモルモットになるのであれば、ファーストは救われるやも知れん」
「何で俺…」
「ファーストの心臓を取り出し、一度破壊したとして。あれと同じ修復力を持つ遺伝子で培養すれば、恐らくファーストの心臓は瞬く間に復元される。いつかそなたの崩れた内臓が、奇跡的に修復された様に」

嫌な予感がした。

「折れた骨は、完治すると以前より太くなるとされている。ならば心臓はどうだ?繰り返しダメージを与えられれば、修復の度に肥大化するのでは?例えば、成長の度に細胞分裂を起こす人の体の如く」
「何、馬鹿げた事言って…」
「高野健吾。そなたを中心に全ては巡るだろう。錦織要はファーストを監視し、無駄な怪我を回避する為に警護に当たっている」
「カナメが?!」
「無論、ファーストの肉体が抱える不具合については、機密事項だ。祭青蘭は勿論、私とセカンドを除いて知る者はない。…自ら私の元へやって来た勇ましいそなたは、例外だ」

自分はきっと、この後に提示されるであろう交換条件を、断る事が出来ないだろう。

「カルマと言ったか。万一そなたが技術班の実験に手を貸すと言うのであれば、自らの体をファーストの心臓を受け入れる器として差し出した光の眷属を、見守る術をやろう」
「光の眷属?」
「藤倉裕也は悪魔の血液を毎週一定量体に受け入れている。予定では5年、5年あれば、細胞の隅々まで悪魔の眷属へと生まれ変わる」

やめさせなければ。
ああ、けれど、そうする権利を自分は持っていない。そうする事が出来たかも知れない権利を、自分は。


『触りたい』

あの時、笑って手離したではないか。

←いやん(*)(#)ばかん→
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