帝王院高等学校
今日は明日の前の日です。
夜の月。
真円に最も近い満月は、昼日中で見る太陽とどう違うと言うのだろう。

「また来たんだ」
「…ご褒美くれ」

緋色だったのだ。
(恐らくその時に見たそれは)
まるで色鮮やかな(太陽の如く)(加えて日溜まりに咲く向日葵よりも濃く)血が透ける肌より艶かしい、サニーオレンジに見えた。
(の、かも知れない)(けれど結局は夢遊病の様に)(眠ったまま導かれた)(自分で歩いていった?)(いつも満月の夜だ)

(どうして?)(判らない)

枕にしては固い。
けれどささやかな不安も後悔も罪悪感も嫌悪も、そこへ辿り着けば綺麗に消えてしまう。まるで灼熱の炎に呑まれたかの如く、まるで混沌の闇に呑まれたかの如く、明るい夜空の下で、いつも。

「何、してんの」
「楽しい事」
「楽しい、事」

約束したから、だろうか。
お前は間違っていると言わんばかりの眼差しを覚えているか。勘違いしているだけだと、困った様に笑いながら囁いた唇を。

「彼女とのデートは楽しかったかい?」
「…ん。最高だったぜ」

ああ、そうか。始まりから間違っていたからだ・と、知っていた。
(思い出したからだ)(己の浅ましさを)(業を)(いつの間にか忘れた罪深さを)(裏切りを)(後悔を感じる前に飲み込んで)(咀嚼して)(忘れた振りをしたから)(きっと)(それに気づかれてしまった)(ずっとずっと前に)



「最高に、つまんねー」

口説く事もしない男を、一部の女は勝手に『誠実な人』として変換する。
例えばいつか『勘違い』だと宥められた時の台詞を、夢見がちな眼差しで見つめてくる女へ何の感慨もなく呟くと、彼女らは一人の例外なく咲き綻ぶ蕾の如く身を委ねてきた。

「触りたい、っつったら、どうぞ。餓鬼のしりとりみてーに、林檎で始まったらゴリラに続く様なもんだ」
「簡単だね」
「また、地獄が始まるのかよ…」
「地獄」
「ケータイが鳴ったら、お前、どっか行っちまうじゃねーか…」

ぎゅむりと、抱き締めた腕は何を掴んでいた?
優しい手(ともすれば仕事で仕方なく子供をあやすベビーシッターの如く儀礼的な善意にも似たそれ)に撫でられて、静かな夜を送るだけ。

「メールも電話も嫌いだもんね」
「…面倒臭ぇ」
「でも彼女からの連絡を嫌がったら、本末転倒じゃないか。約束したもんね」
「何で」
「ん?」
「お前に触りたいだけなのに、他人に触らなきゃなんねーの」
「現実はそんなもんさ。雌には貞淑観念があるけど、雄には妥協に甘えられる弱さがある」
「…妥協」

ならば、どうして妥協してくれないのだろう。
狭い狭い箱庭の様な世界の中、十年の歳月を共に暮らしてきたのだから、兄弟の様で(けれど何処までも他人のまま)愛情を淘汰した老夫婦の如く(妥協して)自分を選んでくれても、良いのではないか。

「眠たいのかい、お人形さん」
「…」
「心が疲れてるんだ。なのに体は充足してる。好きじゃなくても嫌いじゃなければ、男は誰かを抱けるんだ。君の腕の中で、穢れを知らない純白の花が綻ぶ瞬間は、楽しかったろう?」

満月の夜。決まっていつも、そう。
狭い狭い箱庭の中、たった数千人の人間を閉じ込めた学園の中でそれは、真夜中に現れる太陽の様な(けれど月の様な)(静かで)(無慈悲で)(優しい)(悪魔の様な)、…何だった?

「O型の血を探していた。いつか、君の良く知る組織が。理由は単に、『神の予備』を補完する為に」

夢遊病の様だろう。
抜け出した学園に忍び込み、帰る場所など何処にもない。今夜は彼女とデートだと、面白くもないのに笑って残した台詞は、自分から今夜の寝る場所を奪っていった。

「ファーストは…ベルハーツの血で血を薄められるんだ…って」
「誰が言ったんだい?」
「技術班…」
「特別機動部の」
「そ、う。ネイキッド=ヴォルフ、ディアブロ…」
「悪魔に知られてしまった。お前さんの大切なO型が、『神の予備の予備』になり得る事を」
「…ケンゴは、駄目だ」
「だからって、B型なのに毎週O型の輸血を受けるのは辛いだろう。でも仕方ないね、いつか神童と謳われた『不死鳥の如く生き返った』君の宝物は、ドイツの病院に血液サンプルを残してしまった」

一度死んだ子供が生き返った。
ニュースで報道された奇跡的な出来事は、数年経て意味を変える。

「彼の異常な回復力はあの時だけだったそうだよ。今の彼のDNAに、そんな奇跡を起こす力はない。でも何故、あの時、奇跡が起きたのか」

潰れた筈の臓器や骨が、奇跡的なスピードで修復されたそうだ。それはならそれでおめでとう、で、終わらないから人は欲深い。

「『月』が守ったのかも知れないね」
「つ、き?」
「彼はまるで太陽の様に明るくて、誰にでも平等で、まるでヒーローの様だったろう?」

神の慈悲などこの世にはない。
けれど例外的に神童と呼ばれる人間には、神の贔屓が与えられるそうだ。

「神から与えられた、地球をも楽器にしてしまうだろうと讃えられた神の子は、その十本の指を失う代わりに、天国の門前で現実へと戻された。いいね、素敵な物語だよ」
「…」
「それなのに、酷いね。お前さんのお友達は、未だにお礼を言ってくれないんだろう?」

酷いのは一体、誰なのか。
知っていた。藤倉裕也だけがずっと、知っていた。
錦織要に非はない。けれど八つ当たりの様に嫌悪するのは単に、自分の罪深さを忘れる為なのだ。

「…殺、す」
「誰を」
「狼を…」
「その為にABSOLUTELYに入ったのかい」
「違う…オレ、は…」
「でも駄目だよ」

満月の夜。
狼は遠く遠くへ吠え叫び、人は明るい夜に怯えて眠るのだろうか。



「君は狐、今はただの犬。狼は僕のものだからね?」

優しい手に撫でられながら、無機質な囁きを子守唄に。
心中を荒れ狂う非可逆的な負の感情は、何処で消化されるのだろうか、と。

















「そうか、それがお前の物語」

新月の夜。
世界を呑み込まんばかりの漆黒の夜に、それは現れる。

「大切な大切な『約束』を、誰かに知られてしまうのではないかと怯えていた」
「…口が軽そうな餓鬼だった」
「前触れなく木の上から降りてきた」
「秘密基地」
「豪邸の裏庭は子供だけの秘密の隠れ場所だった」
「馬鹿みてーな話だ」
「いや、続けて」

優しい手と言うのは、彼の手の事だ。
そう思うのは何故だろうと、いつか不思議に思った事がある。静かな夜、騒ぎ疲れた仲間達は死んだ様に転がって、明かりがついているのは厨房だけ。

零時へ向かう壁掛け時計の針の音が、嫌に耳についた。
ざぁざぁと水の音が聞こえてくるが遠く、窓を開け放した暗いテラスには全身真っ黒な男が一人。その足元に犬が一人。

「口が軽そうな餓鬼だったから、オレらの話をすぐに誰かに話すんじゃねーかと思った。誰もいない場所、『誰も寄りつかない』裏庭みたいな嘘っぱちじゃなくて、自分しかいない場所。餓鬼の馬鹿みてーな、ささやかでつまんねー願い事を理解してくれたのは、あの時、カナメだけだった」
「共通したのは、大人に虐げられた子供。得る価値観は酷似していただろう」
「家には敵の方が多かった。まともな奴は辞めていく。違ぇか、辞めさせられたのかも知れねー」
「執事とメイド長」
「執事は家に従順だっただけと言えなくもない。実際、酷かったのはメイド長のババアの方だった。母ちゃんのドレスや宝石を勝手に持ち出して、金に替えてた」
「そうか」

父親は忙しかった。いつも。
藤倉裕也の記憶の中には、父親の記憶は殆どない。母親と過ごした四年間よりも、母親を失ってからの方が長いと言うのに、変な話だ。

「オレがメイド長が持ってきた料理を食わせた所為で、犬が死んだんです。オレよりずっとデカいボルゾイだった。何故かその日だけ、オレが飯を食おうとすると、邪魔してくるんです」
「そうか」
「きっと、食うなって言ってたんだ。なのに馬鹿なオレは、欲しがってるんだと思った。何も疑わず、お座りもお手も出来る賢い奴に、どうぞって差し出した」

命令に逆らわない賢い犬はそうして、愚かな子供の代わりに息を引き取ったのだ。ゆるやかに、か細くなっていく呼吸が止まった光景を覚えている。たった三年の人生で、あれほど悲しかった事が他にあっただろうか?

「泣けなかった。死ぬって意味が良く判ってなかったんだと思う。泣いたのは、母ちゃんが死んだ後だった。ああ、またか。オレの所為でまた死んだ。いつも目の前で。オレには何も出来なかった、二回共」
「そうか」
「身体中の水分が吹っ飛ぶほど泣いて、鼻が詰まって、喉から血が出て、息が苦しくなって、オレもこのまま死ぬのかって思ったけど、親父を見たらまた泣けてきた。脱水症状で医者が慌てるくらいの状態なのに、涙は枯れたりしねーんですよ。どんどん出てくる。なのに親父は『泣かなくて良い』っつーんだ、理解出来なかった」
「お前まで失いたくなかったからでは?」
「糞親父は、母ちゃんが死んだのに泣かなかった様な最低な奴だぜ。そんな倫理観なんざ、ある筈がねー」
「どうしてそう思う」
「だって、奴は母ちゃんの葬式にも顔を出さなかった」

母親の葬式が終わると、執事が居なくなっていた。
嫌らしい笑みを浮かべて気色悪い猫撫で声を出すメイド長は、不慮の事故で亡くなったと聞いた。

屋敷には誰も居なくなった。
代わりに、黒塗りの車でやって来た双子の様な子供達は、『今日からリヒトの家族になるよ』と宣ったのだ。

「毎日毎日引っついてきて、何処に隠れても探し出される。面倒臭ぇと思った。だから、母ちゃんが育ててた薔薇の手入れをさせる事にしたんだ。それでも手入れが終わると引っついて来るから、不器用な母ちゃんが買うだけ買って放置してた、城のプラモデルを作らせようとした」
「そうか」
「なのに、母ちゃんの宝物は何処にもなかった。部屋にもクローゼットにも、納屋にも」
「そうか」
「メイド長のババアが死ぬ前に、売ったらしい。金遣いの荒いババアだったって近所の奴らが噂してた。死んで清々したって言ってた奴もいた。だけどオレは、どうでも良かったんス。ババアの所為で犬が死んで、母ちゃんの遺品なんか殆ど何も残ってなくて、だけどンな事より、母ちゃんに生き返って欲しかった」
「俺が」
「え?」
「その場にいたら、お前を此処まで悲しませたりしなかった」

優しい手で撫でてくる男は、外したサングラスを腹の上に投げたまま、テラスのデッキチェアに横たわり目を閉じている。テラスデッキの上に直接座っている裕也の頭を撫でながら、裕也の話を聞いていた男はそこで、緩やかに瞼を開いたのだ。

「すまない」

光一つない。
混ざりもの一つない、純粋な黒の双眸は畏怖を通り越して崇拝する程に、澄みきっている。洗い立てのシーツに墨汁を落とす様な罪深ささえ感じる眼差しで、彼は囁いた。

「何で、総長が謝るんスか」
「例えば、カルマを一つの城と例えるなら、お前達は忠実な臣下だ」
「…」
「人は言うだろう。俺の様な木偶の坊を、愚君、暗君と」
「言わねーっスよ。総長は何も悪くないじゃないっスか」
「俺はお前達の幸せそうな顔が見たいと思う。俺には祈る神もましてや願う仏も居ないが、だからこそ己にそのカルマを課したつもりだ」

例えば今、無防備に横たわる男の喉元に刃を向けたとして、彼は避けるだろうか。そんな事を考えた己に呆れた。そんな真似、世界が終わっても有り得ない話だ。

「だけど、現実はどうだ。『俺』は等しく全てを傍観しているだけだ。俺がどれだけ叫ぼうと、足掻こうと、願おうと、祈ろうと、きっと『俺』には何一つ響かない」
「…は?」
「俺は空っぽだ。紡いで呑み込んだつもりでけれど、何一つ手に入れられない。黒に幾らインクを落としても、黒以外には染まらないんだ。俺は誰の光にもなれない」
「総長?」
「悲しすぎて涙も出ない時、人は言うだろうか。無慈悲だ、人の悲しみが理解出来ない愚か者だ・と」

静かな眼差しだった。
言葉の意味を急速に理解した瞬間、一気にぼやけた視界はそれでも黒のまま、何も変化してはいない。

「俺はお前達の誰が欠けても泣くだろう。だけどそれは俺の話だ。その悲しみが涙として零れるかどうかは、俺にも判らない。俺には俺以外の感情を本当の意味で知る事が出来ないからだ」
「っ」
「泣いて過去が洗い流せるなら泣くだろう。泣いて神に縋れば救われるのであれば、形振り構わず泣くだろう。でもそれで、後に残るのは『泣いた記憶』だけだ。涙はすぐに蒸発する。雨の後に晴れる様に。それでも人は泣くだろう。笑うだろう。怒るだろう。喜ぶだろう。理由は様々でも、そうする事の意味なんか本当は何処にもない」

目尻を親指で撫でられた。
その指先が濡れている。すぐ近くでそれを見た。遠くから香ばしい匂いが漂ってくる。ああ、コーヒー豆を焙煎しているのか。

「だけど、笑っていても怒っている人はいるだろう。無意味と知っていても喜ぶ事を止められない人もいるだろう。全てが無意味だと言われても人は、悲しむ事を忘れる事はきっとない。愛していた事実が消えないからだ」
「う…」
「ただ、表現方法が違うだけ。お前は涙を零したかも知れない。でも俺は泣かない。とても悲しいけれど、お前の悲しみを知るのはお前だけだからだ。お前はそんな俺を、最低な男だと断罪するだろうか」
「…しない」
「そうか」
「っ。本当は、親父が母ちゃんの敵討ちした事を知ってた…。でも、そんな事よりオレは、母ちゃんの葬式で…っ」
「うん」
「母ちゃんに、母ちゃんの為だけに、みっともなく泣いて縋って欲しかった…!」

上体を起こした男が、肩に掛けていたジャケットを片手で押さえながら覆い被さってきた。胸元に埋まったまま肩を震わせれば、ぽんぽんと背を撫でられる。

「お母さん、ホットミルクにしてくれないか。その匂いはカフェオレだろう?」
「カフェラテっス。…いや、まぁ、その状況だと水のが良いかも知れませんね。長話になるならつまみ作ってくるんで、そいつあやしといて下さい、お父さん」
「任せておけ」

振り向けなかったのは、みっともない泣き顔を佑壱に見られたくなかったからだろうか。それとも単に、力強い腕に抱き締められているからだろうか。

「ぐすっ。…総長、ニンニク臭ぇ」
「焼き肉だったからなァ。消化したタレが俺の体臭として毛穴から放たれているのかも知れない」
「や、普通に服に匂いが移っただけじゃねーか」
「ファブっとこ。あ、間違えた。これ消毒用アルコールだ」

シュシュっと言う音が近くで響いたが、マイペースな男はめげなかった。寧ろ全身除菌しておこうと宣い、裸の上にジャケットを羽織っただけの姿で躊躇わずアルコール消毒しようとしている腕を掴み、裕也は首を振る。

「それ客が帰った後にテーブル拭く奴っス。人体に使ったら駄目だぜ」
「だって俺だぞ?除菌しておかないと、お前が汚染される畏れが…」
「ない。どんだけ自分を汚物扱いするんスか」
「だって俺だぞ」
「自信たっぷりに言われても困るっス」

呆れた裕也は鼻を啜りながらアルコールスプレーを店内へ持っていき、寝転がっている仲間達を横目に、ティッシュを数枚抜き取った。俊の胸元に派手に涙と鼻水をつけてしまったから、若干の罪悪感と共にテラスへ戻る。
当の総長と言えば、佑壱が運んできたトレーに乗っていたカフェラテを優雅に嗜みながら、星一つない夜空を眺めていた。ぐちゃぐちゃな胸元には無関心な様で、拭う気配もない。

「総長、流石に全身除菌する前にオレの鼻水を嫌がるべきだぜ」
「お前の鼻水は汚くないぞ?鼻水は涙や唾と殆ど同じ成分で、」
「成分は聞いてねー。それエビフライの尻尾とゴキブリの成分が大差ないっつーのとほぼほぼ同レベルの話だぜ?」
「パヤトは言ってたぞ。ラストサムライは見た目が気持ち悪いだけで、見た目がエビフライに似てたら飼育してもイイそうだ」
「どんな見た目でもゴキブリの飼い主にはなりたくねー」
「だがカナタが言っていた。アジアの各地にはラストサムライを食材とした料理がある、と…。俺はまだまだ修行が足りていないらしい」
「修行」
「俺に食べられないものはないと信じていた時もあった。シュールストレミングも美味しく頂いたし、くさやも美味しく頂いたが、糠漬けは俺を受け入れてくれない。ラストサムライもそうだ。俺は彼女を愛せない」
「雌かよ」
「広い世の中から見れば、俺は何とちっぽけな男だろう。この見窄らしい体が、俺の小ささを物語っている」

佑壱に引けを取らないほど鍛え抜かれた腹筋と胸板を夜風に晒しながら、優雅にカフェラテを啜った男は、裕也が拭いてやったティッシュをさらっと奪うと、裕也の鼻水で汚れたティッシュにも関わらず、ちーんと盛大に鼻をかむ。躊躇いと言うものがないらしい。

「いかんな、温かいものを飲むとその温もりで泣けてくる」
「鼻水が出ただけでしょ」
「そうか、お前には俺の気持ちが判ってくれるのか」
「そりゃ、見たまま言っただけっスから」
「目に見える真実はあったか?」
「は?」

俊の会話は脈絡がない。いつもだ。
けれどどんなに馬鹿げた台詞だろうと、全て一つに繋がっていた。いつもだ。一度の例外なく、俊の行動は全て、必ず一つの場所へと通じている。ローマの道の如く。

「口が軽そうな子供が秘密を喋ってしまわないか、お前は不安だった。不安は行動原理に十二分になり得る」

空いたカップがテーブルに下ろされた。
丸められたティッシュは未だ彼の手の中、優しい手に握られたまま。

「俺の立てた仮定はこうだ。英雄の様に他人を庇って重傷を追った子供は、当然病院に運ばれる。死ねば知られてしまった秘密は誰にも話されないままだろうが、もしも死ななかった場合、誰かに知られてしまう可能性があった。それはとても怖い事だ」
「総、長」
「近くだ。すぐ近くで目を光らせておく必要がある、家族が死ぬのは悲しいけれど、大抵の人間は他人の死に無関心でいられる。それはそうだ、世界中いつも何処かで命の灯火は消えている。毎日泣く体力は人間にはない。恐怖も絶望も麻痺して、それが日常に擦り変わる。無関心である事と無感動は、似て非なる別物だと俺は思う。お前は怖かった。出来れば死んで貰いたい、でも生きて貰いたい、居なくなってくれ、友達を助けてくれて有難う、お前の所為で怖い、オレの所為でごめん」

ああ。怖い。
優しいと怖いは表裏一体だ。裕也は初めから俊がとても怖かった。全てを見透かす様な漆黒の眼差しはきっと、その目に映る誰もの心を覗いているに違いない。

「…そうだよ、その通りです。オレはケンゴが誰かに話すんじゃねーかって疑った」
「じっとその時を待った。その時が来ない事を強く願いながら、だけどその時が来ない事は信じられない」
「そうだよ。オレにとって他人は敵だ。母ちゃんの口癖だった。家族以外は信じるな、屋敷の中で、仕事でいない親父はオレにとって他人同然だった。家族はボルゾイと母ちゃんだけだった。けど、そのどっちももう居ない」
「お前は待った。健吾がお前の秘密を大人に喋ってしまう日を、ただひたすら」
「…でも、言わねーんですよ。未だに」
「ああ」
「オレの前でも、だ。人の弱味を喜んで揶揄って来そうな癖に、一度も揶揄ったり馬鹿にしたりしねーんです。判らなくなった。オレは何でケンゴの傍にいるんだ。何の為に」
「友達との約束を守る為に」
「は。助けてくれたケンゴに礼一つ言わねー様な、カナメの為?」
「矛盾したのか。お前の中で他人とは敵だった。それは日常的な事で、麻痺してしまった。お前にとって家族とそれ以外、この世の枠組みはその二つだったが、いつしか一つしかなくなった。自分とそれ以外」
「確かに、麻痺してんでしょうね。オレの味方はオレしかいねー筈だった」
「母を亡くし、大人に虐げられていた要は自分を見ている様だった」
「…多分、そう」

丸裸だ。
俊の前では嘘が嘘として成立しない。建前も無駄だ、自分ですら認めていない様な赤裸々な本音だけが真実で、それ以外を口に出す事は出来ない。絶対的な威圧感からだろうか、それとも、お前は間違っていると言わずに聞いてくれるからだろうか。

「だけどケンゴは違う。優しいじーちゃんばーちゃんがいて、その二人が死んでも何も変わらなかった。看取ってやれなくてごめんなって言った。葬式で。泣いてたけど、オレみたいに死ぬほど喚いたりしなかった」
「そうか」
「もう、秘密なんざ秘密として成立してないんスよ。今更、誰に知られたって多分どうでも良い。だったらオレは、何で今もケンゴの傍に居るんだ」
「判らない?」
「…判ってる」
「認めたくない?」
「違う、認めて貰えなかった」
「悲しいな」
「死ぬほど泣ける餓鬼のまんまだったら、良かったんスけど」

甘い甘い、蜂蜜の香りがした。
すんと鼻を啜り、乾いてきた目尻を腕で擦る。何度も、何度も。

「いつまで泣いてやがる。とっとと喰え、糞餓鬼」

背中に凄まじい衝撃を受けた裕也は吹き飛んだが、俊の腕に捕まって難を逃れた。忌々しく振り返れば、片足を振り上げたままの赤毛が、両手にトレーを持っている。

「死ねば何も彼も終わりだろうがボケ、腹がはち切れるほど飯食って寝ちまえ。餓鬼がいつまで起きてやがる」
「明日は朝から商店街のゴミ拾いがあるからなァ。良し、腹が減っては安眠出来ない。裕也、寝る前のお代わりは5回までだぞ?」
「総長はお代わりなしっス。腹が減らないと起きねぇでしょうがアンタ、腹八分目で寝ろ」
「な。そんな、死んだ方がマシじゃないか…!余った焼き肉をレタスとチーズと共にワッフルでサンドした癖に、お代わりするなと言うのかァ!鬼嫁めぇえええ」

佑壱の拳骨で大人しくなった俊は、いつもよりちびちびワッフルサンドを貪った。
結果的に足りず裕也の分まで半分食べていたが、良い匂いに誘われて起きてきた隼人と健吾が大声で贔屓だと騒ぐので辟易していた佑壱は、それを見ていない。

























乾いた音が響いた。
炒めたポップコーンが弾ける様な音と共に、硝煙の臭いが鼻を霞める。

それとほぼ同時に視界が明るくなったのを感じたが、無意識で握り締めたルーターを何ら加減なく投げつけて牙を剥く。

「Fuck you, I don't want to waste my time. I can see you that ostrich policy! Shit!(馬鹿が時間を無駄にしやがって、居るのは判ってるっつーんだよ!)」
「おい、嵯峨崎…?」
「ちっ」

頭上から、日向のものではない舌打ちが聞こえてきた。
漆黒のバイクに跨がるヘルメットを被った人物は、上から降りてきた無人のバイクに気づくなり舌打ちを零した様だが、佑壱が投げつけたルーターによって目隠しのサンバイザーが割れたのか反応が遅れたらしい。

「ステルシリートワイライトヘルズ・オープン…!そこの糞野郎の脳天に電流ぶちかませコラァ!」
『マスターファーストを確認、一万ボルトを放出します』
「うわぁあああああ!!!」

ああ。
眩しい。空気中に放たれた青白い光が、真っ直ぐに水面へと落ちていく。それとほぼ同時に、バイクに跨がったままの男も落ちてきた。

「ふ、は!ざまぁみろ、俺以上にファントムウィングを乗りこなしてから出直せってんだ、暗殺者崩れが…!くっく」
「嵯峨崎、」

凄まじい飛沫が上がり、肩で息をしたまま右肩を押さえた佑壱は、振り掛かる水滴を避けようとしてたたらを踏み、ふらふらとよろける。

「あれ、今の、人員監査部のランクBだったな…。見たか高坂、ふ、ランクB如きがランクAを殺そうとするなんざ、はぁ、馬鹿にしてやがる…」
「お前、それ、見せてみろ」
「触んな、エッチ」

状況が把握出来ていないらしい日向のあどけない表情を横目に、痺れる様な痛みを放つ右肩を押さえたまま、佑壱は上がりきらない右腕を持ち上げた。

「プラ、イベートラ…イン・オープン」
『マスター、どちらにいらっしゃいますか』
「ネクサス、悪いしくじった、対外実働部全員に伝えろ。俺がくたばったら高坂を全員で守れ」

日向の腕を掴み、忙しなく瞬いている日向をバイクに乗せて、エネルギー残量表示を一瞥し、

「やべぇ、今のでバッテリーギリギリかも知れねぇ。振り落とされねぇ様にしっかり捕まってろ高坂、飛ぶぞ」
「おい!テメ、その肩…っ!」

ふわりと。
体が浮き上がる瞬間が好きだ。右肩の骨に銃弾が埋まっていても、神経を砕かれる電流じみた痛みも、この瞬間は忘れられる。

『マスターがくたばったら、ですか?』
「そうだ、くたばらなかったら今のは忘れろ!」
『了解。対外実働部総員に通達する、コード:ベルフェゴールを一級保護対象に暫定的に認定した。これにより人員監査部の総員が我が対外実働部に逆らうものと断定、殲滅コードは?』
「やんのかコラァに決まってる」

背中に日向の体温を感じた。
凄まじい重力が全身を押し潰しそうだが、喋る余裕もないらしい日向は佑壱の腹にしっかりと腕を回しているので、振り落とされる心配はない。

『ファーストに仇なす全てを排除せよ。繰り返す、人員監査部は現時点を以てマスターファーストに「軽い怪我」を負わせた犯罪者集団だ。殺すのは生温い、』

ああ。
敵ばかりだ。久し振りに殺されそうになる感覚を浴びて、皮膚が粟立っている。けれど嫌悪感などない。ともすればこれは、武者震いに良く似ている。



「死んだ方がマシだと思わせろ。」

そうまるで、身体中の血液が沸騰している様だった。

←いやん(*)(#)ばかん→
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