帝王院高等学校
好きよ好きよは超大好きかもね!
仲良くしろ。
何をもってそれを証明するのだろうかと、帝王院学園高等部2年帝君はなけなしの眉を器用に跳ねると、じりっと中央委員会副会長へ近寄った。

するとどうだろう。
真っ暗な中、嵯峨崎佑壱の体など見えない筈の高坂日向が、同じだけずりっと遠ざかる気配が伝わってくる。まるで見えない棒で繋がっているかの如く、俊敏な反応ではないか。

「おい、何で逃げる」
「逃げてねぇ」
「今ちょっと後退っただろうが」
「あ?気の所為じゃねぇのか」
「だったら俺の腕に飛び込んでこい」
「意味判らん事をほざくな。何でテメェに飛びつかなならん」
「照れてんのか?」
「泣かすぞ」
「ったく、テメーと言う奴は良い加減にしろよ!ABSOLUTELYの副総帥だか何だか知らねぇがな、俺だってお前、カルマの副総長なんですからね!」
「訳の判らん琴線触れてんじゃねぇ。黙ってろ糞犬、耳障りだ」
「耳障り…」

ちょっと毒が多すぎるのではないか?
確かに佑壱は痺れるほど日向が嫌いだった。いや、苦手だったが正解だろう。
叶二葉ほど明らかに自己中心的な考え方であれば見下す事も出来るが、中央委員会の雑務の7割は日向が中心に取り纏めているものだ。思い返すも忌々しい従兄の命で、次期会長として速やかに仕事を覚えろと膨大な量の資料へ目を通した佑壱は、その大多数に副会長承認印が捺されている事をこの目で見た。

佑壱が見掛ける日向は大抵親衛隊の誰ぞやを従えていて、大抵何処ぞで不埒な真似をしている。
だから顔を合わせる度に『げ、また出やがった』と言う感情を露にしたものだが、佑壱の見ていない所で真面目に仕事をしていたなどと言う、後付け感満載な勤勉な面を突きつけられて、ほんの少し…そうちょっとだけ見直していたりしたのだ。

口は悪いが案外優しい所もなくもない。
いや、なくもないと言うより、モテる意味が判らなくもなかった。佑壱は自分の寝起きが宜しくない事を痛いほど知っているが、何をどう愚図ったのか、日向に抱かれて背を叩かれながら子守唄を聞かされていた時の事を思い出すと、墓穴を掘って永眠したい気持ちになる。
然し日向は、その時の事をわざわざ掘り起こして揶揄ってくる事はなかった。そこをつつかれたら何度死にたくなったか知れないが、今のところ日向がそうする気配はない。

かと思えば、日向の喉元に歯形を残してしまった時は何十回『駄犬』だの『早漏』だのと罵られた事か。己に噛み癖がある事など知らなかった佑壱は大人しく謝ったのに、素直に土下座までしたのに、どうも日向は未だに根に持っている気がする。そうでなければ幾ら何でも二人きりの状況で『耳障り』と言う言い方はないだろう、他に話し相手が居ないのに。

「カルシウムが足りてねぇから苛々してんじゃねぇの。良くそこまで背ぇ伸びたな、牛乳飲め。骨粗鬆症に泣くぞお前」
「…」
「小魚が手っ取り早いんじゃね?しらすをこう、どぱっと白飯の上にぶっ掛けて、叩いた梅肉と叩いた青じそを混ぜた甘めの醤油を垂らしてだな、」
「Shut up. You have to go to rest in peace.(黙れ、速やかに永眠しろ)」

悲しくなってきた。
いつもならその程度で泣いたりなど絶対にしないが、変な夢を見てしまったものだ。数年前までの小さい日向は大層愛らしかった。とんでもなくエロかったが、それはもう、蜂蜜をぶちまけたミルククレープより甘かった。
淡い蜂蜜色の髪の下、濃い蜂蜜色の瞳を丸めて『可愛い』と言われた時は呼吸を忘れたものだ。こんな所で呼吸停止している場合ではない、病人は日向の方だと佑壱は責任感に燃えたものだ。速やかに病院に連れていかなければなるまいと、本気で思った。

佑壱は自分の可愛らしさに少々自信がある。カルマの中だけと言う狭い世界観だが、それでも多少自信がある。何故ならばポニーテールが似合うからだ。自称だが。
ケチ…失礼、節約家の錦織要は、佑壱と出会うまで髪を自分で切っていたと言う事もあり、伸ばしたりはしない。今でこそカルマ初期メンバーだった男が理容師見習いをしている事もあって、髪を染め直したり切って欲しい時などは彼を頼っている様だ。

カルマメンバー曰く『カリスマ理容師(予定)』の他にも、工業科3年で最も目立つオレンジ三匹の内の一人、頻繁に髪型が変わる事で知られている疾風三重奏のブレーン(自称)竹林の両親が美容師だと言う事で、カルマ全員の派手な髪型は今に至るまで守られている。
生まれつきド派手な赤毛の佑壱を除いて、要が髪を青に染めたのは殆ど佑壱の所為だが、高野健吾と藤倉裕也はそれぞれ自分から染めてきた。裕也のエメラルドの瞳は父親譲りで、黒髪は母親譲りらしい。引き換えに天然茶髪だった健吾は、軽くブリーチを当てただけで今のオレンジに染めているのだ。

反して、川南北緯は佑壱がカルマへ誘うまでは黒髪黒目の極々平凡な少年だった。顔立ちが嫌に整っている以外は、川南北斗の双子の弟と言われなければ存在に気づかないほど大人しく、友達らしい友達も居ない。
存外口が悪いと言うパーソナリティーを知ったのは、初等科入学から実に8年経ってからだ。それまで佑壱の視界に、北緯は居る様で居なかった。

北緯がお洒落を意識し始めたのは、俊がおよそ凡人には理解出来ないファッションセンスをカルマに浸透させてからまで遡る。安かったと言う理由だけでバイオレットのサングラスを掛けていた俊は、それが嫌に似合っており、金額を聞いた要は曰く『負けた』そうだ。それもそうだろう、百円均一グッズだ。
レインボーとドドメ色の線引きが難しいジャケットに、どの角度から見ても学校指定のジャージにしか見えない黒のパンツを履いて現れた俊を初めて目にした時、カルマのほぼ全てが感動した。誰もその服を着こなせそうになかったからだ。

然し、俊のファッションセンスが可笑しいと指摘する勇者が現れた。遅れてやってきたスーパーモデル、神崎隼人だ。
安物のパーカーセットアップですら着こなしてしまうモデル体型は、ファッションセンスが乏しかったカルマに革命をもたらす。俊の色彩センスは残したまま、自分が撮影で使用した衣装を片っ端から買い取っては、

『ボスならボスらしい格好してくんないとさあ、困るんですけどー』

と言うツンデレを発揮し、何やかんやカルマに溶け込んだのである。
第一印象が最悪だっただけに、隼人のお洒落過ぎるファッションセンスに陶酔するものは多かった。
根が優しいのか、単にダサ過ぎるメンバーに呆れ果てたのか、熱心にそれぞれの服装をチェックしてやる隼人は撮影の度に髪色を変えていたが、生まれつき毛が細いので痛みすぎた事もあり、近頃はウィッグで仕事をこなしている。切れ毛も減ってきた様で、入隊時より若干髪も伸びてきた。それでもポニーテールには程遠い、結んでも雀の尻尾程度のテールだ。

そんな隼人の班に居ながら、隼人が幾ら言ってもお洒落に無頓着だった北緯は、隼人がロケで居ない時に偶然俊の私服を見た。レインボーに黒のクロスストライプが入った奇抜なパーカーに、黒のレザーパンツ姿のシーザーである。

『目から火花が出た』

と言うのは北緯の呟いた台詞で、その斬新過ぎるファッションセンスに目の前が真っ白になったらしい北緯は、その日の内に『髪を白にする』の宣ったのだ。極端な男だった。
流石に白はねーわと笑顔で吐き捨てた竹林倭は、ミルク多目のミルクティー色に北緯の髪を染めてやり、ついでに弛いパーマを当ててやる。誰が見ても素晴らしいお洒落ヘアーだった。
北緯は不満そうだったが、人の悪口を言わないシーザーはまったりとバケツに注がれたミルクセーキにストローを差して、ダイソン真っ青な吸引力を披露しながら一言、

『とても良く似合ってるぞ、俺のキィ』

これだ。
北緯はコロっと落とされた。似合ってるなら良いと頬を染め、カラコンにも手を出し、近頃ではTバックにも手を出しつつある様だ。

佑壱は同級生、隼人は後輩と言う事もあるのだろうが、北緯は基本的に人の意見を余り聞かない。かなりのマイペース男である。
兄の北斗はB型で北緯はO型と言うが、恐らく北斗の影響を強く受けているのだろうと思われた。
兄の北斗が人を食った性格をしている事は佑壱も熟知していたので、北緯には直接何かを指示する様な事はない。
隼人の人間性を鍛える上でも、扱い難い北緯は丁度良いだろうと隼人に押しつけた訳だが、お陰様で隼人と北緯は良く口喧嘩をしているが、二人の共通点は俊の言う事なら素直に聞く所だ。

仕事柄身なりを自由に出来ない隼人とは違い、俊に陶酔しまくっている北緯は髪の長さまで俊の真似をしている。
弛いパーマはそのままに、俊がデジカメを光らせれば北緯は祖父の形見である一眼レフを光らせる。俊が後輩だと知って尚、北緯のシーザーリスペクト精神は揺るがなかった。
インプリティングかも知れない。

中等部で佑壱に一目惚れ同然の憧れを抱いた加賀城獅楼に至っては、毎朝頼んでもいないのに佑壱の寮部屋の前で待機しており、どれほど無視してもめげずに毎朝毎朝やって来るので、とうとう根負けした佑壱は親衛隊の設立を容認した。
好きにしろ、但し俺を巻き込むなと言う塩梅だ。獅楼が佑壱をリスペクトする余り赤毛に染めている事は誰しも知る所だが、根っからのお坊っちゃまには専用のヘアメイクが居るそうで、獅楼だけはカルマの中でも明らかに浮いている。
長髪が似合うのはユーさんだけだと笑顔で宣う佑壱ストーカーは、自身は決して髪を伸ばさない。曰く、獅楼の世界は佑壱の存在する所であり、佑壱の存在しない世界には何の価値もないそうだ。

佑壱は思った。獅楼は敵に回すべきではないと。
誉められて悪い気がする人間はいないだろう。例に漏れず、幼い頃から何を取っても敵わない史上最強の従兄を見てきた佑壱は、自分が如何に平凡な人間かと痛感していた。だから他人から誉められると、慣れていない事もあって狼狽えるのだ。世界中の誰と比べても、帝王院神威に勝てる人間の方が少ないとは言え、佑壱の中での基本ボーダーは常に神威だった。


そんな佑壱が痺れ上がったのは、中等部3年の時である。
それまで兄の零人が務めていた中央委員会会長職が、零人の指名を以て来日直後の帝王院神威へ譲り渡された時の事だ。役員総辞職だろうと考えていた佑壱の睨みは、然し覆された。

二葉の続投は想定内だ。ルーク政権で、ネイキッド=ディアブロは魔王宰相と謳われる程の結果を残していた。日本で一介の高校生を気取るには血に染まり過ぎている気がしなくともなかったが、佑壱の目論見が外れたのは二葉ではなく日向の副会長続投だった事は説明するまでもないだろう。

何故。
あの全知全能がどうして、高々イギリス公爵家の跡取りと言うだけで日向を片腕に選んだのか。佑壱は余りにも信じられなかった。その頃の日向と言えば、抱かれたいランキングなる馬鹿げた投票で常に一位を突っ走っていた程の、中身はともかく見た目はお子様ランチだったのだ。

それはそれは可愛らしかった。
帰国した日向が昇校したばかりの時に見掛けた佑壱は、ポロっと女みたいだと呟いて蹴り飛ばされた事がある。あの時は油断していた。自分より小さい男に負けた事などなかったので、正に青天の霹靂だ。芝生に転がったまま見上げた空が、大層青かった。

「…おい」
「黙れ」
「ルーク直付きの側仕えに、Fクラスの餓鬼が居るだろ」
「聞こえなかったのか、黙れ」
「思い出したんだよ、お前がいつも一緒に居たクラスメート」

真っ暗だ。
何の光も見当たらない。例えばあの日、逆光に照らされた日向の表情は見えなかった。間抜けにも蹴り飛ばされた佑壱は青々と繁る芝生の上に転がって、瞬きを忘れたかの様に空を見上げたまま、…いや、負けた事実を思い知らされてすぐに逃げた様な覚えもある。どちらだったかなど、今は然程重要ではない。

「伊坂颯人」
「…黙れっつってんだろうが」
「Fクラスの名簿はその秘匿義務から理事会が保管してんだ。名簿公開権限は中央委員会会長にしかねぇ」
「…」
「お前、そいつの為に風紀潰したんだろ?もしかして、そいつの事が好きだったりしたのかよ」

返事はなかった。
代わりに、溜息の様なものが聞こえた様な気がする。
パラパラと何かが落ちてくる音と共に、慣れてきた振動が黒の世界を揺るがした。こんなに真っ暗な所に放り出されても恐怖を感じないのは、自分が地下で生まれたからだろうかと佑壱は考えた。
つまり、自分にはこんな真っ暗な世界こそが相応しいのではないか・と。

「そう言や、あの頃だ。お前が昇校してからすぐ、夏祭りだった。馬鹿が三人喧嘩に巻き込まれてて、初めてイカ焼きを喰った健吾が不機嫌になっちまってな。騒いでた連中の一人が健吾にぶつかってきて、食い掛けのイカが落ちた」

脈絡のない話だろう。
自分でもそう思うのだから、日向も感じている筈だ。それでも返事をしない所を見ると、黙らせるより相手にしない方が得策だと思ったのだろうか。何にせよ、今の日向は全く優しくない。仲良くしようと言う歩み寄りが、一切感じられないではないか。今までの関係性を鑑みても、無理はないが。

「喧嘩の中にすっ飛んでった健吾が暴れる前に、裕也の奴が珍しくぶち切れて手に終えなかった。カルマがカルマとしてやっと形になるかならんかの頃だから、総長は居ねぇ。祭りなんざ餓鬼臭ぇっつって、要も来なかった」

だったら、勝手に喋り続けるだけだ。
誰かを羨んだり憎んだりするのはとても疲れると言う事を、佑壱は思い知った。初めて俊を疑ったその瞬間の絶望感と空しさを、嫌と言うほど知っている。忘れられそうにない。つい最近の話だ。

例えば、俊が「戻っておいで」と一言くれていたら。
日向に監視されていたとは言え、西園寺学園との顔合わせの席でどうして自分は左席委員会側に座っていないのかと、凄まじく悔しかった事を覚えている。山田太陽は当然の様に俊の隣に居た。
けれど悔しかったのは左席委員会として名乗れなかった事だけで、あの時のあれが俊ではない事を佑壱は理解していたのだ。だから俊の隣が羨ましかった訳ではない。

「竹林だったか。テメーを一目見る為に、第一キャノンの屋上に上ったらしい。役員でもねぇ奴が屋上のゲートを潜れやしねぇから、外壁を上ったんだと。それまで奴は祭美月信者でな、祭と同じ帝君で入ってきたお前に反感があったんだろうよ」
「下らねぇ」
「だけど結局、どっかの誰かさんはそれ以降一度も帝君にはならなかった。帝君の授業免除権限でろくに出席しなかった祭とは違って、帝君の座を手放したイギリス貴族の王子様はマメに出席しやがる。ただでさえSクラスの大半は席順信者だ、二番とは言えお貴族様が手の届く範囲に居りゃあ、」
「つまり目に見えたトラブルを見逃した俺様の失態だって言いてぇんだろう。んな事は一々教えられるまでもねぇ、」
「変な奴だった」
「あ?」
「俺を見る度に、顔は怯えてる癖に手を振ってくる」
「…何だと?」
「隼人より細い、背が高い以外はひょろっとした何処にでも居そうな奴だ。だから覚えてた」

数える程だ。
あちらは中等部Sクラス、佑壱は初等部だった。6年生から成績が公開された為、学年一位だった佑壱はその頃から既に帝君扱いだったが、授業免除の制度はなかったので単位を計算して出席しなければならない。とは言え、病気でもない限り全寮制の初等部生徒は基本的に授業に出席する義務がある。

「でもすぐに忘れた」

初等部と中等部の活動エリアの大半はアンダーラインだった。
稀に擦れ違う事はあっても、カリキュラム数も授業時間も違えば、待ち合わせでもしない限り接点などないに等しい。寧ろ初等部の生徒は隔離されていた感がある為、中等部や高等部の先輩と会話する機会は皆無だ。

「昨日までは思い出しもしなかった」

だからこそ覚えている。佑壱を見掛ける度に、恐々と手を振ってきた男を。
その傍らには彼の胸元ほどに頭がある小柄な生徒がいつも一緒で、その両極端な凸凹コンビを佑壱は覚えていた。だからと言って、名前や学年も知らない先輩の一人二人でしかない。
それから間もなく、日向によって潰された風紀局の局長の名前を聞いても『誰だそれ』と鼻で笑った佑壱に、伊坂颯人と言う生徒の名前は真新しいものだった。だから日向が中央委員会副会長に就任すると同時に光炎親衛隊が発足しても、ほの隊長を見ても、佑壱は今の今まで思い出しもしなかったのだ。単に、対岸の火事だと思っていた、理由はそれだけ。

「俺は俺が関心のある事柄以外、何につけても無関心だったんだな。総長が俺に関心がないと悲しくて死にそうになるのに、俺は他人に平気で同じ事をしてきたんだ」

だから考えた。
罪悪感などではない。単に、人から忘れられた無価値な人間の末路はどれほどのものだろうかと。顔も知らなかった噂の中の被害者は、圧倒的な暴力を与えられてどれほど恐ろしかっただろうかと。

「良いな」
「…」
「ムカつく奴の話を黙って聞ける度量のある奴なんざ、中々居ねぇ。俺は段々テメーが好きになってきたぞ高坂」
「黙れ。テメェで勝手にほざいた恋人設定に絆されてるだけだろうが」

夢だ。
夢の中で佑壱は、日向と俊のどちらを選ぶのだと迫られた。選ぶも何もない。それは選択肢として成立していない様に思えたが、深層心理とは残酷だ。佑壱は約束した。日向を守ると口に出してしまった。けれどそれでは俊を捨てる事になるのだろうか。そんな馬鹿な事があってなるものかと、佑壱は選択肢を選択する事を放棄した。

「恋人じゃねぇっつーの、お前と結婚してお前の名字をちょっとばかり嵯峨崎に変えてやるだけだ。糞親父は重罪人だからなぁ、ヴィーゼンバーグの奴らはきっと肝を冷やすだろうよ」
「クライスト・アビス、か」
「グレアムの中でも格別に嫌われてる、キング政権唯一無二の反逆者の銘だ。だけど逆に、キング時代から唯一残ったルークの円卓の一人でもある」

けれど結果は、圧倒的な暴力で惨敗しただけ。
何度死んだか判らないぼろ切れの様な扱いを受けて、一切の抵抗が何の意味もなさず、最終的には神威が現れた瞬間に思い知らされた。勝てる筈がないと少しでも思った瞬間に、佑壱は負けたのだ。圧倒的な力の差に。戦うまでもなく、一瞬で。呼吸をする様に。

「ルークに逆らう奴は居ねぇ。だから女王は毎月セントラルに手紙を寄越す。ヴィーゼンバーグから嫁を取れってな。テメーの従妹だっか?」
「違ぇ、従姪だ。他人同然なお陰で、俺様の嫁候補にも名が上がってやがる。冗談じゃねぇ、誰があんなひねくれた女共を…」
「リン=ヴィーゼンバーグだっけか、確か姉の方がルークにぐいぐい迫ってんだったな。あ。つー事は、つまりあれか!」
「あ?」
「妹の方が俺のライバル」
「ぶっ」
「笑うなよ、失敬な奴だな」
「呆れてんだよ!馬鹿かテメェは…!」

良く怒る男だ。カルシウム以外にも色々と不足しているに違いない。

「俺は総長に勝てない。負けて従った瞬間に、だ。ルークと同じだった。自分を負かす存在に憧れた時点で、俺は見上げる事しか出来ない負け犬なんだ。幾ら背中に翼を彫ろうが、空を見上げるだけ。憧れた空が、その実、何にもない空っぽだと知らねぇ餓鬼みてぇに」
「で?」
「Sクラスの捻じ曲がった価値観に打ちのめされた奴が、Fクラスに堕ちて何を考えてるのか、興味がある。恐らく俺は気づいたんだ。始業式典、無人の執務室に乗り込んだ俺はアイツと擦れ違った。バトラー姿に擬態してる、いつも手を振ってきた奴」
「…」
「アイツをルークが拾ったなら、捨てられた俺より強い奴だからだ。きっと俺は無意識でそう思った。だから、証明しようと思ったんだろうな…」
「俺に近づいて、俺の親衛隊に制裁を受けて、伊坂と同じ目に遭いたかったっつーのか」
「流石の俺も、何十人に囲まれて手足縛りつけられて押しつけられりゃ、敵わねぇだろうからな」
「下らねぇ自殺願望を振りかざすな。テメェとアイツは違う」

やはり、聡明で健全な副会長には理解して貰えなかったらしい。
強者には弱者の気持ちが判らないからだ。日向にはきっと一生、佑壱の葛藤など理解出来ない。

「そりゃ、違うに決まってる。愛した誰からも振り向いて貰えない負け犬の気持ちなんか、誰からも愛される奴には」
「皮肉のつもりか。自虐は余所でやれと言っただろうが、糞が」
「伊坂は逃げなかった。俺とは違う。こんな巫山戯た学園で、息もしたくないだろうに、それでも逃げずに残ってやがる。俺が同じ目に遭ったら確実に逃げ出すだろうよ、ルークからもそうだった。総長からもそうだった。どうせ俺は逃げる。糞はいつまでも糞野郎のまんま、負けて負けて、無様におっ死ぬだろう」
「だから、」
「だからせめて、約束くらいは果たしてぇんだよ。悪いな高坂、」

乾いた音が響いた。



「やっぱ俺、そこまでお前の事嫌いじゃねぇっぽいわ。」
































「心臓がないのに生きていると言うのは、不思議な気分だ」

見上げれば青い空、白い雲は細く棚引いていて、天幕の青にグラデーションを描いている。
漆黒のバイクは大気に同化するかの如く色を変え、ともすれば浮いているかの様だ。

「愚かな孫よ。お前が愛した命の糸が私にも見える。お前が描いた筋書きの通りであれば、愛に満ちた我が子は黒の系譜へとお前を導くのだろう」
「…時計が零時に戻るまで、起きてるにょ」

黒い睫毛は伏せられたまま。

「哀れな子の系譜へ。文字通りお前は私の孫へと変貌するだろう、ナイトの銘を継ぐ為に」
「僕はただの高校生ょ」

閉じた瞼の下、唇だけが動いている。

「ルークは白銀の面で貌を隠し、お前は付け焼き刃の人格で本性を隠す。実に愉快だ。私の人生でお前ほど濁った人間を見た覚えはない」
「子守唄が聴こえるまでネンネはしないにょ」
「アンドロイドイブはシンフォニアイブ02の心を移し、鼓動を開始した。私が目覚めたのは単に、私達の鼓動が動いているからだ。…そうだろう、ケイオスインフィニティ。お前は常に、真なる闇の中に存在する者」
「僕は僕だって、言ってたにょ」
「ルークはお前など見ていない。気づいたのだろう、感情を淘汰した子に与えた暴力的な感情は、お前に触れた事で罪悪感を得てしまった」
「…」
「お前はルークが抱いた自殺願望を剥奪した。遠野俊としての人格を破壊せんばかりの暴力だ」
「僕は僕でイイって、カイちゃんが…」
「既に手遅れだ。シンフォニアアダムはアンドロイドアダムに収まらず、未だ姿を変えて生きている。慈悲深いオリオンはナインに『自分殺し』を許さなかった」

巻き戻り続けているのだろうか。この脆く小さな子供の体の中で、流れてきた15年の時間が、今も。そしてそれに抗う様に本能と理性は戦っている。空虚な時限の果て、精神だけで。

「お前の系譜は『空蝉』だった。帝王院鳳凰に従った忠実な蝉達は、今や地を這う犬として抗っているのだろう。お前を救う為に、或いは、お前を裏切る為に」
「…」
「お前が描いたカルマは、けれどお前によって塗り替えられた。始まりの物語は全ての系譜を手放す事だった筈だ」
「…」
「何事にも興味のないお前が、遠野俊を語る内に執着を覚えたのか。お前の覚えた執着は、だから暴力的な感情としてルークを凌辱したのか。けれどそれではいつまでもお前達は、鏡に映る偶像同士でしかない」
「僕、は。カイちゃんが幸せだったら、それで…」
「帝王院の全てを譲渡する為に。それではルークと何ら変わらない」

それでもまだ、願っているのだろうか。
平凡な人間であれば正常に抱くであろう微かな欲を抱き締めて、祈る様に望み続けているのだろうか。

「お前は確かに生まれ変わった。遠野俊と言う優しくも愚かな人間として、ルーク以外の執着を得た瞬間、お前は錯覚したんだろう?自分は輪廻に弄ばれない、主人公であるのだと。ともすれば、お前が描いた物語をお前が書き換える事が出来るのではないかとすら、錯覚した」
「…」
「けれど、ルークがお前の前に現れた瞬間、思い知った筈だ。お前は主人公でも、作家でもない。定められた物語を外れる事が出来ない、ただの駒だと」

可哀想に。
大切な『カルマ』の飼い主を気取っていた少年は、大切な『カルマ』を手放してただの高校生になる事を夢見たけれど、全てを手放して尚、定められたレールは少しも歪む事なく真っ直ぐに、それへと辿り着いてしまった。

「お前は間もなく、お前に呑まれてしまうよ。残念だが、ポーンにグレアムを譲るつもりはない」
「カイちゃんは、駄目。カイちゃんは…自由にならなきゃ…」
「既に呑まれている様だ。最早、遠野俊だったお前は正常な形を為していない。お休み、愚かで脆い孫よ」

寂しい闇は光を求めて。
寂しい光は闇の中でこそ輝くものであると、まるで、そう定められたかの如く。

「此処から眠ったままのお前の躰を落として尚、死ぬ事が出来なければ自由に征服すると良い」

靡く白銀の下、ダークサファイアの双眸に笑みを描いた男は抱えていた体をバイクから離すと、麗しい笑みを刻んだままに。



「遠野俊として死ぬ事が、私と同じくポーンだったお前の望みだろう?」

何ら躊躇いなく、宙へと手放したのだ。

←いやん(*)(#)ばかん→
[戻る]


あきゅろす。
無料HPエムペ!