帝王院高等学校
戦争より怖くて黒い地獄の門前っ
「親父」

酷く懐かしい呼び方だと気づいたのは、磨いていた日本刀の切っ先で親指を1センチ程切った事に気づいた後だった。名刀は木の葉の如く研ぎ澄まされており、何年何十年経とうと決して錆びつかないものらしい。痛みがやって来たのは、更にその後だった。

「先に詫びておく。親不孝な息子で申し訳ない」

どんな出来損ないだろうと、親にとって子供は可愛いものだ。
わざわざ口には出さないが、世界中の男親のどれを捕まえてみても、息子相手にデレデレと甘い顔をする親は少ない。筈だ。
こんな時に亡き父親の顔を思い出した。だからと言って何だと言う訳でもない。人生の終末に差し掛かり、己の命より大切なもののリストに『孫』が増えてからほんの二年、本来ならば今頃薔薇色の人生だ。今すぐ死んでも構わないと声高に叫んだ程に、目映い金髪の嫁が生んだ目映い金髪の孫は、それはもう愛らしかった。

「…俺様の記憶にある限り、テメェが親孝行だった試しがねぇな。やっと弁護士になる気になったか」
「弁護士にゃならねぇが、弁護士の世話になるかも知れねぇ」
「ほう。まぁ金積めば大抵の事ぁ任せておけば良い、弁当持ちなんざ情けねぇ真似はすんな。実刑打たれんなら、入って来やがれ」
「それで済めば良いがな」
「んだと?」
「抗争なんざ生温ぃと思わねぇか、先代」

全く、姿形は誰に似たのか。
顔はそっくりだと良く言われるが、似ているのは宜しくない目付きだけだ。上背の高い長身も、すっと伸びた高い鼻も、亡き父親と自分のどちらにも似ていない。明らかに日本人離れしている馬鹿息子が産まれた時の事を思い出しながら、血が滴る親指を咥えた。
そう言えば、息子の傍らで固い表情を晒しているもう一人の馬鹿息子は、珍しく整った顔立ちに皺を刻んでいる。こちらの息子とは血が繋がっていないが、実の息子より冷静な男だと評価していた。

「抗争じゃねぇなら、戦争でもやるつもりか?あ?」
「仰る通りです会長」

そちらに目をやって問い掛けたつもりだったが、背を正して両手の拳を畳に押し付けたのは実の息子の方だ。嫌に男前な面をしていると思ったが、やはり素直に口に出したりはしない。
血で汚れない様に敷いた布の上に寝かせた日本刀は、煌めく刃を静かに湛えている。今にも人の生き血を欲していると言わんばかりに、ささやかに、強く。

「俺は一人でも乗り込んで、奴らのタマぁ取るつもりだ」
「戦争ほど無駄なもんはこの世にはねぇってのが、馬鹿親父の口癖だった覚えがあるが、テメェの物覚えの悪ぃ頭でも、光華会の掟は覚えているだろうなぁ」
「一つ、身内で憎むべからず」
「一つ、私怨で殺すべからず」
「「一つ、身内を捨てるべからず」」

ああ。
流石は馬鹿がつく真面目な息子達だ。真っ直ぐ、ともすれば愛刀より鋭く射抜かんばかりに見据えてくる二対の双眸は、既にあらゆる覚悟を決めていた様だ。
血に餓えた目だと、ぞくりぞくり粟立つ肌を堪えたまま、高坂豊幸は広角を僅かに上げた。

「その通りだ。相手は」
「イギリス国家」
「成程、相手はデカけりゃデカいほど面白ぇってな。…単騎で乗り込むつもりじゃねぇだろうな」
「俺はそのつもりだがな、」
「俺ぁ、先代に叱られても親父についていきます。今までの恩を仇で返す様な真似をして、申し訳ありません」
「判った判った、頭上げろ脇坂。テメェは良くやってくれてるじゃねぇか、そこの馬鹿より余程稼いで来やがる。俺様が恵んでったはした金なんざ、とっくのとうに戻って来てやがらぁ」
「先代…」
「テメェらが男前を上げるっつーなら、止める理由はねぇ。但し、人一人殺すつもりなら、説明していけ。遺言なんざ、死んだ後にゃ出来ねぇ話だろうが」

例えばこんな時、妻が生きていたら何と言っただろう。
賢い女だった。余りにも。静かに見つめてくる女だった。まるで心の中を覗かれているかの様に思ったものだ、亡き父よりずっと、それが怖かった。いつか。

「日向を拐った相手が判った」
「…ほう、実に面白い話じゃねぇか。餓鬼共には?」
「この件を知ってるのは俺と脇坂だけだ」
「無難だろうなぁ、血の気の多い馬鹿共の耳に入れられるネタじゃねぇ。イギリスだかメリケンだか知らねぇが、乗り込むなら数は少ない方が良いに決まってる」
「…叶を敵に回す事になるかも知れねぇ」
「西の忍者崩れ共か。茶ぁしばいて平々凡々に暮らしてるそうじゃねぇか、幸せなこった。…ああ、いや、あそこの一人娘は死んだばっかだったか」
「祖父さんの言いつけを守れなくなる」
「テメェにンな話をした覚えはねぇ」
「知ってんだよ、俺は」
「餓鬼が親の話に口出すのは賢い真似とは言わねぇなぁ」
「祖父さんは帝王院の、」
「向日葵」

視線一つ。親子の会話などそれだけで良い。
畳の上に転がしていた湯呑みに、同じく畳の上に転がしていた日本酒の瓶を持ち上げ、未だに血が滲む指で栓を抜く。とぷりと注いだ酒が幾らか零れたが、目を吊り上げて怒る女は一足先に極楽浄土へ旅立った。何年も前の話だ。

「…死んで花実が咲くものか、ってな。葵の口癖だったが、正に極道なんざ蕾にもなれやしねぇ社会の塵の寄せ集めだ。親父はこの道に入った時に己を殺したらしいが、だったら宰庄司秀之なんざ何処にも存在しねぇんだよ。高坂組の初代は高坂秀幸、それ以外の誰でもねぇ」
「…親父」
「十口を敵に回そうが、帝王院を敵に回そうが、何なら国を敵に回す事になろうが・だ。日向の命と比べて重いもんなんざ、ある筈がねぇ」

煽った生温いアルコールは喉を焼く。
今にも泣きそうな餓鬼が二人、畳の目を数えていた。男はいつでも背を正せと言った筈だが、やはり出来損ないの馬鹿息子だ。

「支度しろ。丁度血に餓えたなまくらが主人に噛みついたばかりだ、礼儀を知らねぇ外人の血を啜らせてやるとしよう」
「待ってくれ、俺ぁ親父まで巻き込むつもりは…!」
「誰が『親父』だと、高坂向日葵」
「っ。ですが会長、アンタはもう」
「組を譲ってやったからって、テメェだけが極道面してんじゃねぇぞ馬鹿息子が。テメェなんざまだまだひよっこの子虎だ、黙って親の後ろをついてくれば良い。脇坂、葵が縫った着流し持ってこい」
「はい!直ちに!」

仕舞い込んでいた一張羅、死んで花実は咲かないだろうが、着るには丁度良い晴れ舞台ではないか。

「兵隊は少数精鋭で良い、ならず者が雁首揃えて乗り込んだとあっちゃ、国家を敵に回す前に空港の職員を殺す羽目にならぁな」
「すまねぇ、親父」
「糸引いてやがるのは、ヴィーゼンバーグか」
「…ああ」
「アレクには隠しとけ。っつっても、事が終わったらどっちに転んでもバレちまうだろうがな」
「その件だが…」
「私も連れていって下さい、父上」

馬鹿息子が慌ただしく開けていった襖が、スパンと吹き飛ぶ勢いで開いた。
成程、馬鹿息子は二人共『今にも死にそうな』面構えをしていたが、中々どうして、こちらは『今にも殺す』と言わんばかりの、恐ろしい表情ではないか。

「極道の金玉を睨みだけで潰すつもりか、馬鹿娘」
「ご冗談を。潰すタマはセシル=ヴィーゼンバーグただ一人」
「腐っても、義母を潰すなんざ宣うもんじゃねぇや。アリアドネ、テメェは大人しく留守番してろ」
「嫌です」
「…判らねぇか、女が男の花道を汚すなっつってんだ。何様のつもりだテメェ?」
「何と言われても引きません。邪魔だと仰るのであれば、」

白装束だ。
金髪碧眼の女が左前の白装束を着ている、着方を間違えたのかと笑うつもりはなかった。

「これで。私の首を落として頂いても一向に構いません」

日本刀を表情一つ変えず握った女のヘーゼルサファイアが、真っ直ぐ見上げてくる。その辺の極道より余程腹が据わっている様だと溜息一つ、眉間を押さえている息子の表情を横目に、空いた湯飲みを差し出した。

「この俺様と盃を交わすってんなら、テメェは今この時より、女扱いして貰えると思うな」
「…元より、ヴィーゼンバーグの嫡男に倣いアレクサンドリアとして育てられた身。今更どの口が女とほざきましょう」
「ったく、うちの女はどいつもこいつも据わってやがる」

恭しく両手で湯飲みを受け取った義娘は、溢れんばかりに注いだ日本酒を景気良く一口で煽ると、深々と頭を下げてくる。

「この命、如何様にもお使い下さい、親父」
「女に『親父』と言われる様になるたぁ、極道も地に落ちたもんだ」
「ご冗談を。極道とは道を極めると書くもの、『道』は地に据わっているものでしょう?」
「その通りだアレク、テメェは馬鹿息子じゃねぇな。テメェらの武器は俺様が用意してやろう、コネがある」
「コネ?」
「何が何処で間違ったか、死んだ親父の命より大切だった兄殿の所に、悪魔が巣食ってるそうだ」
「悪魔?」
「ヴィーゼンバーグにとっちゃ、ジャックオランタンより怖い悪魔じゃねぇか?」

首を傾げている新たな『息子』の隣、妻が飲み干した湯飲みを怖々持ち上げて匂いを嗅いでいる馬鹿息子は、匂いだけで酔ったのかくらりと目眩を覚え、畳に頭から突っ伏した。この酒の弱さは明らかに死んだ父親に似たのだろうが、これではヤクザとしての矜持がない。

「アレク、向日葵に酒の練習をさせておけと言っただろう。こん餓鬼ぁ、俺様の言う事は一つも聞きやしねぇ」
「ひまが呑めない事は組員の誰もが知っています。流石に外の付き合いでは、コーヒー牛乳をカルアミルクと言って対面を保っていますが」
「おま、高坂組の三代目がンな洒落たもん呑んでんじゃねぇ…!ちっ!日向にゃ子供の内から飲ませておくぞ、こんな情けねぇ餓鬼は向日葵一人で十分だ!」
「にゃーん」

襖の影から飼い猫が首を覗かせた。
その瞬間、でれっと鼻の下を伸ばしたのは畳に転がった馬鹿息子だけではないだろう。

「どうちたんでちゅか、アオたん。パパが刀のお手入れで構ってあげなかったから寂しかったんでちゅねぇえ?」
「先代、お待たせしましたぁ!」
「ふにゃっ、シャー!」

一張羅を抱えて走ってきた脇坂に怯んだ猫は、威嚇しながら逃げていった。
高坂豊幸の蕩けきった表情が一瞬で引き締まり、日本刀の切っ先が怪しく煌めく。

「…脇坂ぁ」
「はい?」
「テメェ、俺様とアオたんの仲を引き裂くたぁ、覚悟は出来てんだろうなぁ?」
「は、へ、え?!」
「親父ぃ、猫に死んだ嫁の名前つけて楽しいのかよ?ぎゃははは」
「コラ、ひま!」

呑んでもいないのに酔っ払っている高坂組三代目は、父親から無言で顔を踏まれても尚、無邪気に笑い転げていた。

「試し斬りでコイツやっちまうか…」
「お許し下さい先代!親父はあさりの酒蒸しでも酔っちまうんですぁ!親父をヤるならこの脇坂をヤって下さい、先代ぃい!!!」
「上等だテメェら、表に出ろゴルァ!」
「おい」

しゅぱん。
豊幸と脇坂の間を飛んでいった日本刀が、床の間の掛け軸に描かれていた鬼灯に突き刺さり、ぶらんぶらんと揺れた。

「私の息子が怖い思いをしている時に、何を騒いでいる?貴様ら一人残らず、腐りきったタマ咬み潰して去勢してやろうか…?」
「「「す…スんません」」」

一撃で酔いが吹っ飛んだらしい高坂向日葵以下、日本中の極道が恐れるヤクザ三匹はビシッと背を正し、白装束の般若に土下座したそうだ。
気紛れな猫がにゃんと鳴いた。すりすりと白装束に擦り寄っていく姿は、そこらの極道よりずっと賢い様に思えた。


















悪魔。
悪魔だと、それは言った。

何を馬鹿な事を言うのかと笑った覚えがある。
自分が悪魔なら、お前は何だったのかと。


目の前に彼岸花が咲いていた。
誕生日を過ぎると庭に咲く花だ。
葉がある時には花がなく、花が咲く頃には葉がない、寂しい花だ。

それには毒があるのだと誰かが言っていた。

ああ、それは優しかった祖父だったか。
それとも、父だったか。
母だったか。
他の誰かだったか。



何でも良かった。
『それ』は生きている時の最期に、『悪魔が』と言った。



手の中には冷たい鉄の塊。
目の前には冷たい肉の塊。





「Do not be afraid.(怖くないよ)」

お前が繰り返した呪文が餞だ。
お前が繰り返した下らない遊びの最後に。

曼珠沙華。
赤い紅い罪の花。
仏の花。



「Don't be、」





ああ、頭が真っ白だ














スニーカー、イン、ダークネス。
一寸先の闇から忍び寄るそれは、常に音もなく現れる。何の前触れもなく。

「誕生日を祝ってやらんかった事を、詫びておく」
「良いよ、別に」
「そなたの怪我は私より酷いものだと聞いていたが、動けるのか」
「平気。包帯、外さない?」

皮膚を張り替えた、と。
それは何の感慨もなく英語で囁いた。それも母や二葉が使う英語とは違う、いつか聞いた英語だ。

「下らねぇ。グレアムの嫡男がその様か」
「そなたの英語はいつ聞いても面映ゆい。猫を被ると言う言葉があるが、何処で覚えたものか、実に興味がある」
「糞みてぇな地獄でだよ。何か文句あんのか」
「いや。とみに、死んだアーノルド=ヴィーゼンバーグの死因が刀創ではなく銃創だった事については、些か興味がなきにしもあらずだが」

成程。
狂った獅子の家が揃いも揃って『悪魔』と謗るだけはある。爵位で数段劣る男爵家を、一家総出で潰したと言う話は、作り話ではなさそうだ。

「彼岸花が咲いてる。見えねぇかも知れねぇが、真っ赤な花だ」
「そうか」
「あの時は足元に咲いた」
「アーノルドの体から」
「ざまぁねぇ。テメェよりずっと小さい餓鬼に眉間撃ち抜かれて、怯えた面のまんま動かなくなった。だから言ってやったんだ、Don't be afraid。俺の体をまさぐりながら繰り返した、阿呆みてぇな台詞をな」

唇が勝手に吊り上がる。
面白くもないのに笑えてならない。

例えばあの日、咲き綻ぶ真っ赤な花畑に乗り込んできた父親は目を見開いて、その地獄の様な部屋の中で真っ直ぐ、息子を見つけたのだ。
例えばあの日、白一色だった母親は顔色すら白く、とうとう一言も喋らなかった。悪魔を嫌う公爵家の娘だから、息子の悪魔の様な所業を許せなかったのだろうか。

例えばあの日、真っ青な着流しに日本刀を抱えていた祖父だけは、表情一つ変えなかった。再会の挨拶は一言、『元気か』だったけれど、それに返事をしなかったのは単に、言葉の意味が判らなかったからだ。

「初めは言葉が判らなかった」
「ああ」
「一週間で大体理解した」
「ああ」
「8日目には逃げる方法を考えた」
「ああ」
「9日目には殺す方が早いと思った」
「そうか」

全てを捨てたのだろうか。あの時。
初めて抱いた殺意を実行に移すまでの数ヶ月で、日本で暮らしたたった二年間の全てをあの日、削ぎ落としたのかも知れない。

「手っ取り早く殺す方法を考えた。出来れば恐怖を刻みつけて殺す術はないか」
「己が受けた以上の」
「例えば、『逆らうとは思わなかった従順な子供に裏切られた場合』」
「飼い犬に手を噛まれると言う言葉がある」
「恐怖なんざない。あったのは達成感だけだ」
「そうか」
「最後の台詞は『You are devil』、笑えるだろう」
「私には聞き慣れた賛辞でしかない」
「ババアはなかった事にした。2歳11ヶ月の餓鬼に従甥を殺されたとあっちゃ、家名に傷がつくからだ」
「高坂豊幸はアーノルドの血で汚れた刀を手に、セシルの玉座へ乗り込んだそうだ」
「祖父さんはヴィーゼンバーグを庇ったんだよ。俺が奴らを一人残らず殺す前に、逃がしてやった」

あの日。
目の前は真っ赤だった。果てしなく。床も壁もくまなく真っ赤に染まっていた、まるで薔薇の如く。

「そなたは2歳11ヶ月で悪魔の如き叔父を殺した。だが、私は一歳9ヶ月で悪魔を殺している」
「んだと?」
「何度も何度も、頭の中で繰り返し殺し続けた。けれど現実はどうだ。謁見するにも許可が要る。手を伸ばす前に淘汰されるのが目に見えている。そなたが抱いた殺意を実行するまでに5ヶ月を要した様に、私は5年経て尚、抱いた殺意を昇華しきれてはいない」
「誰を殺したい」
「ノア」
「ノア?」
「悪魔の全てを私は淘汰する」
「何の為に」
「理由などとうに忘れた」

白。
いつか母親が纏っていた白装束の如く、目の前のそれは真っ白だ。顔中に巻き付けた包帯に違和感を覚えない程、髪も肌も白い。悉くが、例外なく。

「そなたが悪魔であれば、私達の間に何ら違いはない」
「…」
「そなたの身に流れる血が語ったろう。アーノルドの内なる欲の全てを語り聞かせ、殺される前に殺せと命じた。明神は五感の全てで他者を解き明かす、読み手の一族だ」
「…空から」
「空?」
「花が落ちてきたと、思った」
「曼珠沙華」
「真っ赤だった。瞳以外の全てが、夕陽に照らされて、真っ赤だった」
「瞳以外、か。…成程」
「汚ぇもんは足元に咲く。悪魔は地獄に落ちる。空から降りてくるものは綺麗なものばかりだ。だからあれは、天使だった」
「黄昏に舞う天使とは、些か詩的な表現だ」
「兄様を探してるらしい」
「想像通りの様だが、ならばそれは天使などではない。私と何ら変わらない、悪魔の眷属だ」
「俺にとっては天使だ」
「意思は揺るがんか。哀れな」
「解放しろ」

ああ。
真っ赤だ。包帯から覗く右目が、血に濡れている。庭に咲き綻ぶ彼岸花の如く、毒々しい色で。

「俺の血をくれてやる。天使だろうが悪魔だろうが、ヴィーゼンバーグの血を入れたらグレアムには居られねぇんだろう?」
「キングの母親はヴィーゼンバーグの娘だ。今更、その程度では何ら変わらない」
「悪魔の考える事は判らねぇな。テメェらを迫害した家の血を入れたのか」
「政治とはそう言うものだ。いつの世の政も、腐りきっている」
「…ふん」
「だがまぁ、あれが望むのであれば解放しても良い」
「そうかよ」
「あれの身一つであれば、元老院も深く追いはしまい。但し、引き換えにあれの母親は拘束されるだろうが」
「だったらそれも解放しろ」
「…無理難題を言う。私は一介のバイスタンダーに過ぎん、それほどの権力はない」
「いずれ手に入るんだろうが」
「その予定だ」
「だったら、その時に」
「見返りは?」
「俺」

悪魔が笑った様な気がした。
けれど向こうからしてみても恐らく、自分もまた悪魔に違いない。悉く、だから一つの例外なく。

「良かろう。悪魔と呼ぶに相応しいそなたに、ヨーロッパをくれてやる。手始めに公爵の地位を得るか?」
「ババアは二葉に目をつけた。俺じゃ手に余るらしい」
「一人殺しただけで怯むとは、セカンドでは益々持て余すだろうに。あれは既に数万人を葬った悪魔だ」
「身内を殺した訳じゃねぇ。罪悪感なんざあるか」
「そなたはどうだ?」
「罪悪感?」
「ああ」
「微塵もねぇな。ンな事より、公爵の…いや、英国の全財産が欲しい」
「金か」
「金で買えねぇのは、神の慈悲と天使の心だけだ」
「詩人の様な事を言う」
「落ちてくる天使が傷つかねぇ様に、札束の絨毯を用意しておく」
「成程」
「とっとと権力を手に入れろ。…登り詰めたテメェから、全権を奪ってやるよノア=グレアム」
「餓えた獅子らしいではないか。人に従わぬ猫は、飼い主の首をも狙うか」

黄昏時に人は人ならぬ何かと出会うらしい。
逢魔ヶ時と言うのだと、白い悪魔は囁いた。何の感慨もなく。



間もなく、アメリカから一人の子供が日本へと飛び立ったと聞いた。
流石は天使だ。やはり翼が生えていたに違いない。

「楽しそうですねぇ、ベルハーツ殿下」
「殺すぞ」
「胸元にピストルを忍ばせて図書館に籠るなんて、勤勉な従兄の姿に私は感動を禁じ得ませんよ」
「正月早々何処へ消えたかと思えば、何を逆ギレしてやがる。変態にナンパでもされたか」
「その程度の日常茶飯事、ちょっと路地裏に誘い込んで技術班特製の『コロリ一撃痴漢退治』を嗅がせれば、猛牛だろうとたちまち天国に逝けます」
「人殺しをゲーム感覚でやるな」
「この世には死んだ方が良い人間は居るんです」

確かに、従弟の無邪気な台詞は説得力がある。
何を考えているのか、指先でトントンとテーブルを叩きながら窓の外を眺めている男の片目は眼帯で覆われているが、晒された蒼い瞳は夕焼けに染まっていた。もうこんな時間かと、そこで日向は本を閉じたのだ。

「日本へ行ってきました」
「京都か」
「首都に」
「あ?」
「日が昇る国の首都には太陽が住んでいるんですよ」
「何を阿呆な事をほざいてやがる」
「けれど私の事は忘れてしまった様です」
「あ?」
「酷いですよねぇ。私は忘れたくても忘れられないままなのに…」

例えばあの時の台詞を借りるなら、『何を詩的な事を』と笑い飛ばせば良かった。

「ファーストを覚えてますか。君が女の子と間違えた赤毛の」
「…それが?」
「日本で暮らし始めた様です。あれには腹違いの兄が居ますが、気不味いでしょうねぇ」
「心配してんのか」
「いえ、良い気味だと思って。所で高坂君、来月の枢機卿暗殺計画ですが、こないだのは中々良い線行ったので期待しています。また良いアイデアを下さい」
「ああ、とっとと殺して財産乗っ取れ。俺様の取り分は半分で良い」
「元老院が知ったら君をこう呼ぶでしょうねぇ、高坂君」

悪魔は何処まで行っても悪魔だ。
どう足掻いても、天国にも地獄にも行けはしない。



「『ディアブロ』、と。」

現実以上の地獄など存在しない事を知っているからだ。























「何だこれ」

見上げるほど巨大な木が立っている。
大木と言うより大樹と呼ぶ方がしっくり来る様な気がしたが、個人的な感想でしかない。

「何か刺さってる」

酷く眩しいものが、大樹の木々の隙間からはみ出していた。
まるで遥か彼方上の方から落下してきたかの如く、枝葉の隙間から幾らか眩しさを覗かせたまま、沈黙している。じりりと思わず後退ったのは、今にも落下してきそうな気がしたからだ。

「ハヤトさんとシロ、何処行ったんだろ。イーストもウエストも居なくなってるし、…そうだ、カナメさんも」

目に痛いほど白く光を放つそれは、けれど太陽の様に直視出来ない程でもない。
そよそよと静かにそよいでいる緑を何となく眺めて、苔むした太い幹へと視線を滑らせた。

「訳判んないけど、良いや。とにかく皆の所に…」

柔らかな風と微かな葉擦れの音以外には何の音もない孤独な世界は、こんなにも光に満たされていて、けれど酷く寂しい。
出口を求めて踵を返した川南北緯は然し、珍しく破顔する。背中を向けた筈の大樹が、振り返った先にもあったからだ。

「んな、馬鹿な事…」

真上には無言の光の塊、目の前には聳える大樹。
恐る恐る顔だけ振り返れば、先程まであった筈の大樹は存在していない。代わりに、ぽっかりと口を開けた漆黒に塗り潰された『穴』があるだけだ。

「ブラックホール…?」

ごくりと息を呑んだ北緯は軋む首を大樹へと戻し、詰めていた息を吐いた。そして意を決し、再びくるりと振り返れば、先程の黒い穴の代わりに、やはり大樹が聳えている。

「振り向いたらなくなった。つまり、」

もう一度、目だけ振り返れば、背後はやはり漆黒の穴が口を開いていた。
このまま振り返ったどうなるのかと思ったが、試すのは余りにも恐ろしい。北緯は目を閉じると、頭を元へと戻した。

「何処なの、此処」
「例えば天国」
 「例えば地獄」


声の様だった。
けれど音の様でもあった。
重なった自分のものではない声に目を見開いた北緯は辺りを見回し、漸く、大樹の根本に何かが絡まっているのを見たのだ。

「何?」
「例えば龍」
 「例えば蛇」


誰かの声に良く似ていた。
そう思った瞬間、北緯は何ら悩まずに何かが埋まっている太い根が絡むそれを覗き込んだのだ。

「ユウさん?」
「おう。オメーが真っ先に見つけるとは思わなかったぜ、ナミオ」
「何、どうなってんの?!えっ、何これ、鱗?!」
「何つーか、ドラゴンだろ?多分」
「何でそんな危機感ないんだよ!どうなったらこんな絡みついて…っ」
「無駄だ無駄。俺が総長を疑っちまった瞬間に、『体』って奴が喰われたらしい」
「は?!」

深くしっかりと巻きついた苔むす根っこは、キラキラと不思議な色合いで煌めく蛇の様な何かを抱き締めて、地面に張り付いていた。北緯の細腕では到底太刀打ち出来そうにない、まるで墓標の様だ。
深い深い、黄昏の東の空の様な、ともすれば夜明け前の明星煌めく明けの空の様な、深い群青が見えた。蛇の如く鱗まみれの龍のそれは、瞳の様だ。

「糞程やべぇぞ。俺と山田が呑まれた。残るのは一人だ」
「何言ってんだよ!ほんと、冗談きついって…!今すぐ出してやるから、そっちも手伝ってよ!」
「無理だよ。業に弄ばれた魂っつーのは、理性の塊らしい。俺にゃ、本能っつーもんがなかったんだろうな」
「だから何言ってんのか判んないって!」
「川南」

背中の向こうに真っ暗な暗闇があると知っている癖に、恐怖などなかった。

「健吾を止めてこい。アイツが歌った瞬間、『虚無』が目覚めちまう」
「虚無?」
「時間は終わりへと進むしかねぇんだ。総長はそれを知ってて、俺らを縛りつけた」
「何、」
「虚と無。招くのは破滅だけ」

かさりと。
頭上で泣いたのは、ただの光か、それとも。



「総長の正体は文字通り、『虚(そら)』なんだ。」

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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