帝王院高等学校
めろっめろに溶けちゃいなよ!
我ながら、大層甘やかして育てられたのだと、今になって当時を振り返れば恥ずかしくなる。それもしょっちゅうだ。
気を抜けば過去の己の行動に悶え死にそうになった事が、果たして何億回あっただろう。

考えたくない時は考えなければ良い。
薄いラバー1枚、破って取り出した避妊具越し、体の最も敏感な部分が他人の肉で包まれる。射精した瞬間に苛まれる果てしない喪失感さえなければ、セックス以上に思考能力を奪う手段はない様にさえ思えた。

大人ぶった子供の生意気な考えだ。判っている。



例えばあの日。
誕生日を迎える前の、茹だる様な暑さの夏の日。

白一色の清潔な病院の特別室は、小児科にたった二つしかなかった。



「テメェの勝手な御託を並べてんじゃねぇぞ嵯峨崎!」
「っ」

激しい怒鳴り声に飛び起きれば、珍しく眉を吊り上げている父親ともう一人の男が、ドア一枚隔てた廊下で鬼の様な表情の女性に詰め寄られていた。

「立派な大人が、病院のそれも小児病棟で大声を出すとは何事ですか!お尻を叩かれる前に出ていきなさい、無礼者!」
「み、美沙先生、すみません…!っ、来い嵯峨崎、表に出やがれ糞が」
「…上等だ、餓鬼の下らねぇ言い分を聞いてやろうじゃねぇか。次第によっちゃ、光華会壊滅も覚悟しとけコラァ」

腹から絞り出す様なおどろおどろしい声で牙を剥く父親が、凍える様な笑みを浮かべた赤毛赤目の男を伴って遠ざかる。ぷりぷりと頬を膨らませていた、白衣を纏う年輩の女医は溜息を零すと、不安げな表情で彼女を窺っていた幼い患者らに微笑み掛けたのだ。

「もう大丈夫よ、皆。はいはい、朝ご飯の前に顔を洗って歯磨きしましょうね」
「はーい」
「はーい」

重症か重体でもない限り、子供達は基本的にベッドにはいない。
夜は九時に明かりが消える為、早寝早起きである意味体力があり余っている子供らは、己が入院患者である意味を把握していないのだ。

「あら、高坂日向君、おはようございます。グッモーニン、判るかな?」
「おはよ、ざます」
「まだ起きちゃ駄目よ、背中におっきな傷が出来てるって言ったでしょう?傷口が開いちゃったら、血がいっぱい出て、凄ぉく痛いのよ?」
「大丈夫です。痛いの、平気。我慢出来ます」
「男の子ねぇ。立派だけど、鬼の様に恐ぁい院長先生に叱られちゃうわよ?」
「う」
「ほらほら、ベッドに入りましょうね」

普段は優しい小児科のおばあちゃん先生は、院内の誰もが恐れる院長の奥さんらしい。夫婦の息子で、こちらはとても優しい医者だが小児科の担当ではない遠野直江医師は、外来で時々診察をしてくれるのだと子供達の噂になっている。
緊急搬送された日向は、痛みと失血の余り日本語で会話する事が出来ず、急遽英語が話せる直江医師が治療に加わった時に会っていた。

同時に搬送された赤毛の子供は、助けを求める為に声の限り叫び続けたらしく、喉が潰れており、搬送された後に高熱を出して生死の境を彷徨っていた様だ。
集中治療室に似た監察室から出てきたのはつい先日だが、それを聞いて部屋を飛び出した日向は真っ先に隣の特別室を尋ねた。然し日向より幾らか大きい子供と、それにそっくりな父親らしき男から、面会は出来ないと強く突っぱねられたばかりだ。

「さっきの、大人、髪がレッドでした」

横顔しか見えなかったが、父親と睨み合っていた先程の長身は、間違いなくあの時の男だろう。それならば今、隣の部屋にはあの子しか居ないのではないか。
思いついた瞬間、日向は悩まずに廊下側ではなく部屋の中の窓を豪快に開けた。背が足りなかったので、枕と布団を足場代わりに積み上げ、それを上ってから殆ど開かない窓の向こうへ顔を無理矢理突っ込んでみる。

「おーい」

病院の窓が何故家の窓の様にガバッと開かないのか、その時その理由を知らなかった日向は、5階の高さにある窓から懸命に顔を突き出させたまま、こそっと隣へ呼び掛けた。
然し声が小さすぎた様だ。余り良く見えないが、隣の窓も日向の部屋と同じく開いている様に思える。医者や他の患者にバレない程度の声で呼び掛ければ、気づいて貰える様な気がした。子供の浅知恵だ。

「おーい。おはよです。えっと、何だっけ………うーん、判んない。Hallo, can anyone hear me?(おーい、聞こえませんか?)」
「何」
「うほっ」

尻をとんとんとつつかれる感覚に、日向は叫びながら顔を部屋の中へ戻した。
慌てて振り向けば、顔がぱんぱんに浮腫んでいる赤毛が立っている。

「か、顔、丸い?」
「解熱薬の副作用で腫れた。これだから後先を考えねぇカスは嫌だっつんてんだ、俺は早く兄様の所に行かなきゃなんねぇのに…」
「にーさまに会いたい?」
「会いたい。もうずっと会えてねぇのに、ンな所で熱なんか出してる場合じゃねぇ。でも糞共が俺を見張ってやがるんだ」
「見張ってる?どこ?」
「病院の外とか。丁度アビスが居なくなって清々してたんだ、プリンねぇの?」

何とした事だ。
天使の日本語は、今まで聞いた誰の日本語とも違う気がする。スラングだろうかと思ったが、知らない名詞が多すぎるだけかも知れない。
笑い話の様な本当の話だが、日向はそれまでプリンと言うものを食べた事がなかった。母親はどの角度から見ても外国人だが、近所の奥様友達が料理を教えてくれと言ってくるほど和食好きで、毎朝早くから出汁を取っている様な女だ。

「しゃばしゃばな粥しか出さねぇんだよ、この病院。日本人はあんなんで満腹になんのか?ハンバーガーもペラペラしてやがったし、…セカンドが大怪我したっつーのは、マジウケたけど」
「ま、まじうけ…た?」
「熱が42℃もあるのに爆笑させんなっつー話だろ?」

引き換えに、浮気性の旦那に見切りをつけて、母親が家事を放棄した高坂向日葵は腹が減ったらスナック菓子で誤魔化す環境下で育ってしまった所為で、未だに食事中にスナックを食べなければ腹が膨れた気がしないと宣い、ポテチをおかずに白飯を食べている。
それもまた個性だと容認しているアリアドネのおおらかさもあって、日向も近頃はジャーキーが主食になりつつある。

「つーか、何もねぇ部屋だな。レコード…CDもない、つーかテレビカードも差してねぇとか、退屈じゃねぇのか?」
「う?…うん、平気。8時に寝てる」
「8時?!かーっ、考えらんねぇ。兄様はいつ寝てるか判んねぇくらいだぞ」

この様な事情から、日向は洋菓子を食べた事がない。
父親が好んでストックさせるのは、ポテトチップスとチョコレートばかりで、日向はチョコレートは邪道だと思っていた。チョコレートをご飯に乗せると、熱で溶けてしまうからだ。
引き換えに塩っぽいスナックは良いおかずになる。子供にはハードルが高い鯛の塩焼きや豆腐の揚げ出し、はたまた出汁巻き卵も好物だった。

組員曰く『若は酒豪になる』らしいが、確かに、日向は甘いものがそれほど好きではない。


「プリン…ブリン………ブリ…?鰤の煮付け?」

プリンとは何だと無言で考えてみたが、答えは出ないままだ。
沈黙している日向を待たず、勝手に日向のベッドサイドのテーブルを弄り倒している赤毛は、アンティーク調のブリキの缶を手に取ると、何故かしゃかしゃかと振った。

「つーかお前、ベッドに名前書いてあっけど、5歳って俺と一緒じゃん」
「5歳?」
「おー。つーか喉乾いた、ひゅーが、何か飲み物くれ」

ひゅーが、と言うのは何だろう。
日向は首を傾げたが、二葉に『下手に喋ると嫌われる』と言われていたので、赤毛がしゃかしゃか振っている缶をそっと奪った。
日向の日本人より僅かに白い程度の肌と、赤毛の肌が重なった瞬間のコントラストが鮮やかだ。とても恥ずかしいものを見てしまった様な気になったが、ひょいっとベッドに上った赤毛はいそいそと布団のないシーツの上に横たわり、寛いでいる。

ふーっと、長い溜息が聞こえた。

「毎日毎日、アビスの奴が来るんだ。俺はあんな奴、ぜってー認めねぇ」
「ぜってー認めねぇ?」
「おう。大体、会った事もない父親がいきなり出没したら、殺意しか湧かねぇっつーの。セントラルじゃ奴は犯罪者扱いらしい。そんな奴に父親面されて、万一兄様の怒りを買ったら俺は死ぬ」
「死ぬ、駄目」
「ひゅーが、これ何」
「これ?あ、それ、冷えピタ。貼るとひんやりします」

カップを並べ、急騰電子ポットのスイッチを入れてから缶の蓋を開けて、ティーポットに茶葉を落としていると、ベッドから質問が飛んでくる。ただでさえ早口の赤毛は話題が二転三転し、日向の翻訳は少しも間に合わない。

「顔を濡らすなって言われたんだ。でも氷入れた枕?あれすぐ溶けて温くなるんだよ」
「冷えピタ、ずっとひんやりします。貼る?」
「貼ってみる」

疑問を解決する前に新たな疑問が増えるばかりだが、浮腫んでいる顔を日向の枕元に置いてあった冷えピタで冷やしている光景は、中々に愛らしい。
ぺたりぺたりと頬に一枚ずつ張った赤毛は、ダークサファイアの瞳を細め、うっとりと息を吐く。

「はー。Feel so good、薬なんか飲まなきゃ良かった…」
「お熱、座薬で下がります」
「ざやく?」
「宮田の『ぢ』も治ります」
「ぢ?」
「ぢ」
「何だそれ、何か判んねぇがすごそうだな。ざやくっつーの、今度使ってみるわ。今回は熱でぼーっとしてる時に飲めって言われて、油断してた。薬なんか飲んだ事なかったのに、日本の医者マジムカつく」
「ムカつく…お医者さん、嫌い?」
「べたべた触ってくる奴は嫌いだ。兄様も言ってた、『気安く触るな』って」
「ふーん」

赤毛は『にーさま』と言う存在が、とても好きな様だ。
そう言えば、いつかの夕暮れに会った時も『にーさま』を探していた様な気がする。その人はどんな素晴らしい人なのだろうか、こんなに愛らしい天使にこれほど好かれているのだから、きっと素晴らしい人だ。

「何か良い匂いすんな」
「アッサム、好き?」
「アッサム?何だぁ、ただの紅茶だろ?こんな良い匂いしたか?」
「えっと、ミルクないけど、蜂蜜入れる?」
「紅茶に蜂蜜なんか入れて良いのかよ。シスターが言ってたぞ、蜂蜜は貴重なものだから勝手に触ったら駄目なんだ」
「脇坂の仕事、えっと、養蜂で、蜂が沢山。平気です?」
「養蜂って、蜂を育ててんのか。刺されたりしねぇの?」
「脇坂、強い。女の人には良く刺されてますけど、元気です」
「何だそいつ、女に刺されるってダサ過ぎんだろ」

十年後に女から鋏で刺されそうになる子供は、そんな事を露知らず鼻で笑った。
ふんふんと紅茶の香りを嗅いでいる内に待ちきれなくなったらしく、転がっていたベッドの上で器用に胡座を掻いている。

「まだ?」
「もうちょっと…。紅茶はゆっくり淹れないと、美味しくない」
「かーっ、面倒臭ぇ。コーヒーならお湯を注いだだけで飲めるのに」
「コーヒー、眠れなくなります。牛乳入れないと駄目です」
「コーヒー牛乳、うまいよな。でもセカンドの奴が『あ、コーヒー牛乳色の子供が共食いしてる』っつったんだ。アイツは油断してる時にぶっ殺す」
「セカンド、嫌い?」
「嫌い。アイツが嘘を教えた所為で、俺は算数が判らなくなったんだ。兄様と同じ物理学部に入りたかったのに、文学部以外無理だった…」
「嘘、いけません。僕もセカンド、嫌いです。…あ、出来ました」

ゆったりと、芳醇な湯気を立てるカップを一つ、そわそわと落ち着きのない赤毛の褐色の手に渡してやる。気安く触らない様に気をつけたつもりだったが、ほんの少し触れてしまった。

「熱いけど、うまいなこれ。折角クーラー入ってんだから、窓閉めろよ」

けれど、赤毛が怒る事はない。
冷たいものを淹れてやるには氷が必要だと廊下から一歩外に出れば、廊下の向こう側から歩いてくる赤毛の子供が見えた。

「あ。えっと、にーさま、来たかも?」
「えっ、マジかよ!…げ、あれは違ぇ。糞ゼロだ」

日向が廊下から部屋の中へ顔を戻せば、ベッドから転がる様に降りてきた赤毛はそっと廊下を覗き込み、すっと素早く部屋に戻った。どうやらあれは、兄様ではない様だ。

「夏休みだか何だか知らねぇけど、毎日毎日来やがって」
「クソゼロも嫌い?」
「アイツは…うざい」
「うざい。嫌いって事?」
「イタリア語も判んねぇ様な格下、わざわざ嫌う必要もねぇな。…おい、ひゅーが、お代わりくれ」
「氷貰ってきます」
「ああ、良いって。ポットに残ってる奴で良い、残したら勿体ないだろうが」
「ぬるいの、飲む?美味しくないかも…」
「ぬるくてもうまいだろ。俺さ、」


だから言っただろう。



「ひゅーがが淹れた紅茶、好きだな」

昔を思い出す度に、全身を掻き毟りたくなるのだと。
年々、その時最も印象に残った台詞が勝手に変換されて、幻聴が繰り返される度に何億回死にたくなったか、誰に理解して貰えるのか。


ああ。
苛々する。苛々する苛々する苛々する苛々する苛々する苛々する苛々する苛々する苛々する苛々する苛々する苛々する苛々する苛々する苛々する苛々する苛々する苛々する、何年経っても変わらない世界の秩序に、



『日向が淹れた紅茶、好きだな』


泣きたくなる様な儚い思い出だけを抱えて続けて。頭痛が止まらない事に、苛立つばかり。



セックスで溶けた脳は、けれど次の瞬間に壮絶な喪失感に苛まれた。
決して触れられない唯一の代わりに何人の人間を抱いたのか、最早覚えてはいない。覚える必要性を感じなかったからだ。






ああ。
猫になりたい。

誰の許可も必要とせず自由気儘に飼い主の膝に乗る様な、傲慢で我儘な猫に。












さすれば気高い天の子よ。
狼の自尊心とおおらかな心を以て、私を抱き締めてくれないか。



(この体に宿る血液を全て捧げても構わないから)


















「お前の祖母に当たる私の母には、スペインの血が流れている」

ああ。
これはいつの記憶だろう。
大きな腕に抱かれ、不思議な子守唄で全身を撫でられている気がした。その時はただただ、意味も判らず笑っていた様な気がする。

そんな優しい記憶が徐々に色褪せていき、とうとう消え去ったのはいつだっただろうか。改めて顧みれば、人は色々な記憶を削ぎ落としながら生きているのかも知れない。

「彼女は、母親である私の祖母を心から愛していた。失った瞬間に心を失ってしまう程には、とても愛していたのだよ」

いつか大切だったものだとしても、何ら躊躇わずに。
零れ落ちる一握の砂の様にそれは、誰にも止められない宿命なのだろう。膨大な記憶を完全に保管している人間が、果たして何人存在しているのか。

「祖母は孤児院で育てられた天涯孤独の身の上だったが、そこの神父と愛し合い…周囲の反対を押し切って、娘を生んだ」
「本当、ロマンティックな話じゃねーかよ。何回聞いても胸が熱くなるます、それ」
「今日は常になく日本語がお粗末だね、スズメ」

小鳥が鳴いているのか。
それともケトルが発てる湯気の音なのか。
遠くから聞こえてくるそれらの音は、平和の象徴の様だ。

「おそまつ?」
「下手くそと言う事だね」
「カミューの歌より?」
「ほう、それはどう言う意味だね?」
「ぷ。傷ついた?傷ついた?悲しい?悲しい?!」

とても暖かい、日溜まりの中だった。
甘い甘い、花の香りに満たされている。そよそよと頬を撫でる風は穏やかに、そよそよと花を擽る香りはとめどなく。

「…嬉しそうな顔をするものではないよ。全く、私を苛めてそんなに楽しいのかね」
「Yes, I am so happy! 感情は大切なのよ、ママみたいに我慢するのは体に得だぜ?」
「『得』なら良いのではないのかね?『毒』なら宜しくはないが」
「Oh my god。…本当だ、オレ日本語が下手くそになってる」
「俺はよしなさい、私を使いなさいと言ったろう。全く、私が一人称を変えた意味がないじゃないか」
「カミュー、無理良くない。ワタシやめる、オレにする?」
「…俺が何の為に日本語を日常的に使っているのか、君は判っていない様だね」

男女の穏やかな口論こそが、世界の全てだった日。

「そんな事では、リヒトとの日本旅行はいつになるのか判らないのだよ」
「通訳が居るから平気だよ、ねー、リヒト。あ、大変だぜ、ボイルドウォーターがボイルドし過ぎて消滅しそう」
「ローズティーを淹れてくれるなら、昨夜のトマトソースの余りをパイに包んでくれるかね。昨夜のソースは上手に出来ていたよ」
「お任せあれ〜♪ママは家事が出来ないママだったけど、オレは良妻賢母になるますよ〜♪」
「ほう、難しい言葉を覚えたね。使い所も悪くなかったが、先は長そうだ」

慌ただしい足音が少しばかり長閑さを掻き消したが、大きな手が頭を撫でる感触は、けれど優しいままだった。

「シスターの身でありながら妊娠してしまった私の祖母は、捨て子だった彼女を育ててくれた義父でもある神父の立場を考えて、身籠って間もなく教会を後にした。女手一つの生活では、ありとあらゆる苦労があっただろう。彼女は娘を育てる為に必死で働き、母の愛を以て成長した娘は、その美貌と歌唱力を見込まれ、大劇場の専属歌手として舞台に上がる様になった」

音の外れた子守唄の代わりに、不思議なお伽噺が日溜まりの庭に零れる。
ささやかな風では消せない声音はゆったりと、平和な午後を楽しんでいるかの様だった。

「物心つく前からシスターとして育てられながら、娼婦の真似事をしていた母を楽にさせたい一身だった娘は、満足に学校へ通う間もなく歌姫として人々の喝采に迎えられ、それから数年後。偶々公演を見ていた富豪に養子として迎え入れられた」
「え?それは知らない、どうして?」
「おや、パイの支度は終わったのかね?」
「後はオーブンにお願いしますた」
「お願いしますた、か。成程、タイマーは?」
「ばっちり。今日は忘れてないぜ!」
「成長したものだね。焦げていないパイが待ち遠しいのだよ」
「で、カミューのママはどうして養子に行ったの?グランマと引き離されるの、可哀想」
「その頃、祖母は病床にあったのだよ。無理が祟りすぎたのだろうね、30歳を待たずに亡くなってしまった」
「Oh…」
「母親の為に歌っていたにも関わらず、忙しすぎて母親の臨終に間に合わなかった事を、母は大層悔やんで…とうとう、心が病んでしまったのだよ。彼女がまだ16歳の頃だった」

男の声音はその時、微かに痛ましさを滲ませた。
同情なのかはたまた単なる演出だったのかは、それこそ定かではない。柔らかく抱かれた腕の中で、何度も眠りに落ちかけては、賑やかな女の声で目が覚める。その繰り返しだ。

「養子先では何不自由なく暮らし、劇場で喉が嗄れるまで歌わずとも困らなかった。けれど彼女は度々家を抜け出しては、母親の客だった劇場のオーナーを訪ねた。流石に貴族の娘を雇う訳にはいかず、首を振り続けたオーナーに対して、母は恐ろしい提案を持ち掛けたそうだ」
「恐ろしい提案って?」
「『私を一晩買ってくれ』」
「What?」
「まるで彼女の母親の様に、それはおよそ16・17歳の醸し出す色気ではなかったらしい。オーナーは随分な好事家で、幼さの残る少女の色気の前に目が眩んだのだろう。貴族の養子だと知りながら手を出そうとした所を、以前から彼を見張っていた連邦警察に取り押さえられた」
「悪だね、そいつ。連邦警察が逮捕するなんて、とんでもない」
「あれこれ悪さをしていた様だった。因果応報だが、お陰で母が汚される事は未然で防がれたのだよ。その事件を切っ掛けに、里親夫婦は母を外に出さなくなった。子供が出来ず苦労していた二人だったから、初めて招いた里子が愛しかったのだろう」
「判るけど、閉じ込めるのは可哀想」
「そう長い間ではなかったのだよ。それから間もなく、私の父、つまり将来的に母と結婚する伯爵が、商売の関係で里親夫婦と知り合った」
「へぇ…」

ふわりと、香ばしい香りが風に誘われてくる。
微かなアラーム音に女は立ち上がり、男は花壇の縁から腰を上げると、庭先のベンチへと歩いていった。

「母は祖母から聞いた昔話を、まるで自分の経験の様に語り聞かせた。頭の狂った女だと知りながら、滅多にない来訪者に子供の様に喜ぶ少女を前に、あの男は絆されたのだろうか。君はどう思うかね、リヒト」
「ん…んんー、ばーう」
「ふ。話が長いか、おやおや、目が潰れてしまっているのだよ。子供は寝るのが仕事と言うが、私の息子は些か寝過ぎではないかね?」
「んぁー」
「おっと。父親の指を噛むとは、末恐ろしい子だね。まだ歯が生えていない割りに、地味に痛いのだよ。裕也、パパをもう少し労って欲しいのだがね?」
「焼けたー!カミューカミュー、見てこれ、凄いのではないのかね?!何か、普通に食べれそうな気配だぜ?」
「普通に食べられないミートパイとは、どんなパイなのか。ほらほら、ドアを足で開けるレディーが何処に居るのかね」
「此処に居ましたー」

ああ。良い匂いがする。
ミートパイとミルクの匂い。

「言うと思った。君のお母さんは性別を誤魔化しているのかも知れないよ、裕也」
「何それ、差別?もしかして日本のことわざ?カミューだけ狡い、ドイツ人の癖に日本語喋ってる!」
「君は今、差別がどうのと言ったばかりだが、その口で私の国籍を差別するのかね。全く、舌の根が乾かない内と言うのは正に君の事なのだよ」
「あ、リヒトが喋ってる。ばばー、ばばー?喧嘩売ってんのかオメー、八つ裂きにすんぞ」
「…覚束ない赤子が喋る言葉に意味を求めないでくれるか。どうしてそんな物騒な日本語ばかり流暢なのだろうね、私の妻は」
「カミュー、口煩くなった。おっさん臭い」
「な」
「やれやれ、もうすぐ50歳だから仕方ない。おじさんは放っておいて、ママとミルク飲みまちょーねぇぇ、ひろにゃり君」
「また発音が間違っているよ、涼女。自分の息子の名前が呼べないのは、頂けないね」
「何だこのパイ、うまさ神級。ガチやばい」
「変な造語ばかり覚えてくる。暫く日本のバラエティーを見るのはやめなさい、そもそも、時代劇が見たいと言うからデジタルチャンネルを契約した筈だが?」
「うめー、庭で採れたパプリカをトマトとソーセージで溶けるまで煮込んだだけで、マジ卍〜」
「君のお母さんは都合が悪くなると日本語が通じなくなる様だよ、リヒト」

妻を迎えた時、ただでさえ寡黙だった父が言った言葉を思い出したと、父親は呟いた。赤子を妻に手渡し、花の香りが漂う茶を一口含んでから、カリカリに焼けたパイへと手を伸ばす。

「パイは素晴らしく美味だね。ただ残念な事に、これはローズティーではなくローズマリーだ」
「あ、ばれた?葉っぱ間違えた様な気がしたんで候、すまんでござる」
「侍世界では切腹ものなのだよ」
「ハラキリ〜!カンシャクするでこざる、いざ!」
「癇癪を起こすのは勘弁して貰いたいね。介錯なら必要ない、私はまだまだ30年は死なないのだよ。年寄り扱いするのはやめたまえ」
「パパが言った言葉って何だったの?カミュー、さっき思い出したって言ってた」
「ああ。『親子二世代に渡って、手が懸かる女を選ぶとはな』と言われた事を思い出してね、つい」

男が笑えば、女も笑う。
終わらない平穏な庭にあるのは、美味しい匂いと暖かな陽光だけだった。

「それだったら、じーちゃんが一番ご苦労様だぜ?ばーちゃんはカラテの道場に殴り込みに行った所で、日本から武者修行に参られたじーちゃんと獅子唐を繰り広げたんだぜ?」
「何度聞いても凄いお祖母様だ、流石は姫様の娘だね。そんな事より、獅子唐を繰り広げるなんて言葉は聞いた事がないのだよ。獅子唐は小さいパプリカの様な野菜だからね、今の台詞だと『死闘』が正しい」
「Oh、獅子唐はじーちゃんの好きな天ぷらだった。ばーちゃんは獅子唐とグリーンチリペッパーを良く間違える」
「ほう?それは美味しそうな天ぷらだ、今度作ってくれるかね?青唐辛子と胡瓜は緑色の食べ物の中でも、特に好物なのだよ」
「今夜は天ぷらにすっかー。あ、カミュー仕事は?」
「夜中に出る予定ではあるが、夕食は一緒に食べさせて貰えるかね。子供が産まれたばかりなのに、暫く帰れなかったのは心苦しかった。来年のバレンタインは、必ず花束を手渡しするよ。不出来な夫を、許してくれるかね」
「バレンタインは夫婦の愛を確かめる日だよ。今度も帰ってこなかったら………怒るぜ?」
「ああ、怖い笑顔だね、二度としない。次からは毎年休暇を取るよ…」

飲み干した温いミルクはどんな味だったか。
そんな事は思い出せもしない癖に、あの時、二人が顔を寄せ合って忍び笑いを零した事だけは覚えている。


鮮やかに。
鮮やかな庭先で。



ああけれど、いつこの記憶は色褪せた?

←いやん(*)(#)ばかん→
[戻る]


あきゅろす。
無料HPエムペ!