帝王院高等学校
無常な世の摂理は犬も食ワン!
暗い水の底に沈んでいる赤を半狂乱で引きずり上げ、ずぶ濡れの状態で水面から顔を出した男は、真っ先に血の気が失せた頬を叩いた。

「嵯峨崎!おい、嵯峨崎…!」

ただでさえ体脂肪率の低そうな体躯は、元来の骨太さと併せて、見た目より重さを感じる。余す所なく濡れそぼっている今は、常以上だ。

「起きろ嵯峨崎!嵯峨崎!」

褐色の肌は氷の如く冷たかった。
閉じられた唇を指で抉じ開け、水を飲み込んでいないか確かめるが、片手にルーターを握ったままの水中では、余りにも心許ない。

「糞が…!」

目で近い足場を探せば、水深がほんの数センチしかない瓦礫の上が最も安全そうだ。大口を開けてモバイルルーターを咥え、片手に嵯峨崎佑壱を抱えたまま、聞き手の左腕で水を掻いた。途中躓きそうになったが、この暗さで足元など確かめている余裕はない。
片足がもげようが背中の傷が開いてしまおうが、佑壱を寝かせる事が出来れば、それで良い。考えている事などそれだけだ。他には何も考えられない。何も。

「手を貸しましょうか」
「っ」
「それとも、何もせず見守りましょうか」

もうすぐだ。
すぐ目の前に、斜めに傾いたコンクリートの残骸が道を作っている。暗く心許ない足元に注意を払う余裕なく足を踏み出した高坂日向の鼓膜に、その笑い声は聞こえてきた。
闇の中から手が伸びてくる。異様に白く見えたのは、暗さの所為だろう。反射的にルーターの光を当てれば、濡れた髪から水滴を垂らす男の肌が、光に照らされた。

「テ、メェ…」
「手を貸して欲しくば取引を。己の足で進むなら、」
「退きやがれ!俺も嵯峨崎も、テメェの玩具じゃねぇぞ、人格崩壊者が…!」

濡れた黒髪が、微かに揺れる。
俯いていた頭が顔を上げようとするのを待たず、日向はコンクリートの架け橋を踏み締める。水から上がる度に体は重みを増して、抱えた佑壱諸共、今にも崩れ落ちそうだ。
何度舌打ちを噛み殺したか。ほんの数歩、まるで永遠の様なほんの数メートル。いつもなら瞬きをする間に歩けそうな距離が、叫び出しそうなほど長く感じる。

ああ、もう、


「正解だ、ピナタ」

視界が霞み、足が縺れた。
その瞬間、肌に張り付いていたシャツを凄まじい力に掴まれた気がする。ほんの数秒、有無を言わさぬ力に持ち上げられて、体から重力が消えた。

どさりと、転がる様に落ちた瞬間、微かに水が跳ねる。
どくどくと忙しない肩は打ち付けた時に幾らか痛めたらしいが、起き上がる為に手をついた日向は、水位が掌程しかない事に気づいて、弾かれた様に振り返った。

「…俊?」

くたりと、倒れている背中が見える。
今の今まで起きていた筈の男は倒れたまま微動だにしなかったが、助けて貰った事に礼を言う余裕なと、やはりない。

あれほど、いつか。
尊敬し、憧れすら感じた男が倒れているのに、人間は欲張りだ。抱えたままの赤毛を仰向けに転がして、躊躇わず息を吸い込む。

冷えた唇を指で抉じ開け、吸い込んだ空気を何度か送り込めば、咳き込みながら吸い込んだ水を吐いた唇の下、空気を取り込む為に上下する喉仏を見たのだ。

「良かっ、た」

眼球が熱い。
感極まっている場合ではないと、濡れた袖口で目元を拭う。そんな事をしなくとも、誰にも気づかれないだろうに、条件反射だ。

「嵯峨崎!寝るな、起きろ嵯峨崎!」
「う…」
「俺が判るか、嵯峨崎!」
「…ひ………と、の…」
「気づいたか?!おい、嵯峨崎!」
「人の顔を見る度に、舌打ちばっか………しやがって…」

聞こえてきた台詞に、日向は瞬いた。
前髪から滴る水滴が音を発てて、離れた所に転がっているルーターを無意識で探し、手を伸ばす。

「甘いもんが嫌いだの何だの、ンな事はもっと早く言えば良いだろうが…」

囁く様な台詞が、徐々に明確な声に変わっていく事に気づいた。
寝言なのか意識があるのか、どちらにせよ、佑壱のそれは日向に対する文句だろう。

「…早くっつったって、いつ言うんだよ、ンな話。大体、テメェは俺に興味なんざねぇだろうが」
「蜂蜜みてぇな面してる癖に、今まで無理して飲み食いしてましたってか…」
「別にそんな事は、」
「すいませんでしたね、代金貰ってる身で無理させて」

濡れた髪が頬に張りついている。
恐る恐る持ち上げた左手で、張りついている赤を剥がしてやった。閉じられた瞼はそのまま、開かれる気配はない。声はしっかりしているが、どうやら意識はなさそうだ。

「起きたら低血圧発動すんのか、いつも通り。いきなり殴り掛かってくるのも、寝惚けて女と間違われるのも、いい加減慣れて来たがな…」
「テメーと言う淫乱ホモは細っこい男にばっかヘラヘラしやがって…」
「細い男になんざ興味ねぇよ。変な勘違いすんな」

むにゃむにゃと文句ばかり吐き出す唇が、ツンと尖った。
不貞腐れた子供の様な仕草に瞬いて、頬を撫でていた手を止める。ぺちぺちと叩いてみたが、起きる気配はない。
尖った唇はそのままだ。まるで、誘う様に。


少しばかり離れた所には俊が居て、寝ているのか起きているのかも判らない。貴葉を名乗る女の姿を探す事も放棄して、丸めた背中はきっと、無防備だ。
胡座をかいた足は濡れたスラックスが張り付いて、嫌に気持ちが悪い。髪から絶えず滴る水滴も、今すぐドライヤーで乾かしたい程だった。

そもそも、潔癖性の自分が下水にまみれ、果てはこんな訳の判らない穴ぐらの中に落とされて、いつもなら怒鳴り散らしている筈だ。発狂して出口を探す事を最優先にしただろう。
大人しく助けを待つなど、考えもせずに。


「…」

尖った唇を舐めた。
触れるだけの口づけで満足する様な紳士ではない事は、とうの昔に認めている。紳士の国には酷く不似合いな、欲深い獅子の家紋が公爵の証だった。獰猛に肉を探す、狂った猫だ。

「…んなにハーレムが作りたけりゃ、ジャングルの奥地の更に秘境の何なら異次元の向こうで、テメーによるテメーだけのキモいホモ村でも作れば…」

意識のない所で、キスをされている事にも気づかない呑気な寝顔は到底呑気な表情ではなかった。眉間には深い皺が刻まれ、どう見ても不機嫌だ。

「何でこれが可愛く見えるのか、全く判らねぇ。見えるもんは見える、どうしようもねぇか…」
「何がユズだカボスだハゲ、気色悪い女顔侍らしてニヤニヤしやがって好き者が…」

だから、頭が可笑しいと言われればまずもってその通りだろうし、否定する気力はなかった。ぶちぶちと寝言を宣いながら、寝返りを打とうとしている肩を無意識に掴んでから震える口元を押さえても、状況は何一つ変わらない。

「お、い」
「テメーなんざ性病で死ね」

その寝言が嫉妬の様に聞こえるなどと、余りにもとち狂った事を口にして、もし自分の事ではなかったら赤っ恥だ。惚れた弱味で頭が狂っている哀れな男と、自ら認めるのは余りにも悲しすぎる。

「…テメェ、本当は起きてやがるだろ、嵯峨崎!」
「股間からハゲろ、淫乱猫野郎」
「っ。寝てる時すら人を振り回しやがって…!加害者意識はあるか、嵯峨崎!」

ぺちん、と。
多大なる怒りを込めた平手打ちは、蚊すら殺せないほど弱々しい音を放った。

「…は?何?」

漸く、目を開けた男は酷くあどけない表情で瞬くと、覗き込んだままの日向を見上げ、泣いているのかなどと宣ったのだ。
否定する気力など、だから欠片もなかった。それでは肯定するだけだといつもの冷静な自分が嘲笑う幻聴を聞いたが、抱き締めそうになる腕を耐えただけでも、褒めて欲しいくらいだ。


当然、そんな事を言う予定はない。


























螺旋階段を駆け降りる小柄な生徒が、つるっと足を滑らせた。
顔に黒布を巻いていた金髪はカッと目を見開いたが、素早く伸ばした手が届く前に、下から響いてきた凄まじい足音の主が、しゅばっと両腕を広げたのだ。

「シエ!」
「あふん」

体重が軽すぎるからか、滞空時間が長かったチビをガシッとキャッチした男は、乱れた黒髪の下で安堵の息を吐く。スポッと胸元に収まり、しっかりお姫様抱っこされているチビはぱちぱちと瞬いてから、ぱちぱちと手を叩いた。

「ナイスキャッチ、パパ」
「心臓が止まるかと思ったぞママ…!良いか、二度と俺から離れたら駄目だぞ」
「シューちゃん、ちょっと降ろしてくれる?」
「嫌だ」
「離せっつってんだろうが秀隆ァ」

パシン。
オタク母の平手打ちが、オタク父に決まった。

「隠してる事が、どォも一つ二つじゃねェよなァ」
「と…俊江さんに隠してる事、なん…て…」
「はァ」
「!」
「秀隆。イイから降ろせ、俺が優しーく言ってる内に…」
「は、い」

三年Fクラス李上香は、何も悪くないのに背を正す。
青ざめた帝王院秀皇がロボットの様な動きで遠野俊江を下ろすのを見守りながら、無駄にバクバク煩い左胸を押さえれば、オレンジの作業着がタンタンと階段を登ってくる。

「姐さんの声がした様な気がしたんスけど、何スかこの状況」
「あらん?誰かと思ったら、チャラ三郎じゃない」
「えー、チャラ三郎じゃなくて梅森っスよー。…って、その声、もしかして姐さんっスか?昔ワラショクで会ったの覚えてます?ほらほら、鶏肉のタイムセールの時に!」
「覚えてるわょ〜!チャラ太郎とチャーリーはどうしたの?いつも三人一緒なんでしょ?」
「どっちがどっちか良く判んないスよー。竹林さんと松木なら、多分まだ4階かも」
「まァ、大変ねィ。階段で上がってきたの?若いわねィ」

キャピキャピ、黄色い声でキャッキャしている高等部ブレザーとオレンジの作業着は、頬を押さえたまま凍る様な眼差しを注いでくる男には気づいていないらしい。ハラハラと成り行きを見守っていた忍者は密かに胃を押さえ、長身をくたりと丸めた。

「ママ上、パパ上、この場に長く留まるのは宜しくないのではないかと、僭越ながら進言致します。直ちに大河社長の元へ」
「…何だ、白燕さんが来ているのか?流石に来ないと思っていたんだが」
「あのオッサン、あたしのおっぱい見たのよねィ」

ゴオッ。
遠野家が全く誇らない大黒柱から、恐ろしいオーラが燃え盛った。最早帝王院財閥の後継者とは思えない凄まじい表情で、困った様にぺったんこな胸元を撫でている妻を見つめ、「何だと」と呟く声はドスが効いている。

「俺以外の男に、触らせたのか?」
「あらやだ、妻に隠し事をする様な旦那様を持った覚えはないわょ」

然し、にこりと微笑んだ男子高校生のコスプレをしているオタク母の眼差しは、そんなものではなかった。闇に呑み込まれそうだったサラリーマンの凍る様な眼差しを更に凍らせる般若の形相で、EクラスとFクラスの三年生は背を正す。

「はっきりさせようじゃねェかァ」
「なっ、何を…」
「どっちが俊の親権を取るか以外に、何があるっつーんだ?あ?」

ゴキリと拳を鳴らした女は、明らかに女ではなかった。

「親権は二人の共有財産だろう?!駄目だ、俺は絶対に別れない…!」
「次の男は年上かしら?あ、童貞君もイイわねィ」
「シエェエエエ!!!」

発狂した遠野秀隆が涙ながらに廊下を転がる光景は、某一年帝君が萌えすぎて転がっている時と良く似ていたらしい。

「つーかお前、Fクラスの李だろ?お前、金髪だったん?」
「王に仕えるに相応しい男になる為には、黒髪ではいけない事に俺は気づいた。美しい黒髪は美月にこそ相応しい」
「やー、全然似合わねぇな、何か。李なのに金髪って。竹林さんに染め直して貰ったら?」

全く関係ない世間話で現実逃避している三年生らは、泣きながら縋りついているワラショク課長の完全敗北を見守り続けた。泣き顔の亭主を満面の笑みで眺めている鬼がドSである事は、わざわざ確認し合う必要もないだろう。

「総長はドMなのに、両親はドSかー。しょっぺーなぁ…」

確かに、しょっぱい。





























「卒業おめでとうございました、高坂君」

やる気が尽きた中等部時代の、そうだ、あれは卒業式典の後。
執務室のソファに転がっていた。上にはいつから居たのか親衛隊の誰かが乗っていて、微動だにしない男の上で腰を振り続けている。健気と思わなくもなかっただろうか。

「そして卒業おめでとうございました私。ご覧になりましたか、壇上から送辞を送る美しい私に突き刺さる、羨望と恍惚が入り乱れた、生徒、教職員、保護者、来賓の間抜けな表情を。ふぅ。美しいとは何と言う罪なのでしょう…」
「…人様のセックスなんざ鑑賞して、楽しいのか?」
「おや、寝転がっている貴方の上で火照った生徒がマスターベーションしている様にしか見えませんよ?高坂君の股間が、一生徒の欲求を解消する為のディルド代わりに使われた様にしかねぇ、ええ」
「ちっ」

ネイビーグレーのブレザーは、全てのボタンがなかった。
気力と言う気力が消失している間に、親衛隊の誰かが持っていったのだろうか。そう言えば、ネクタイもない。ベルトも、スラックスのボタンすらなかった。高坂日向は今、シャツとブレザーを辛うじて纏っているだけの半裸だ。

「ゼロは?」
「何を仰ってるんですか、サブマジェスティ。烈火の君は二ヶ月前から、最上学部自治会長でしょう?」
「ああ、忘れてた…」
「祭美月がFクラスへの降格を申し出ました。流石に同点とは言え、Sクラスの席次は昇校生優先ですからねぇ。陛下の後ろの席になる事は、耐え難い屈辱の様ですよ」
「13科目満点の祭と、20科目フルスコアの帝王院じゃ、誰の目で見ても違う。幾ら祭が優秀だろうが、所詮日本規模の話だ」
「大学院を出ている陛下と比べる方が哀れですねぇ」

二葉に鑑賞されながらも気丈に腰を振っていた生徒は、然し日向が萎えた事に気づくと、涙を浮かべて走り去ってしまう。呆けていた時は与えられる刺激に反応していた様だが、従弟の見慣れた顔を見つけて継続する程の強かさは、残念ながら日向にはなかった。

「酷くお疲れの様ですが、何かありましたか?」
「見られた」
「おや?」
「式典の後、庭園で」
「ヴァルゴ庭園ですか?何を?」
「何だろうなぁ」

答える気力などない。
晒したままの萎えた半身は、熱が冷めてひやりと冷えていく。濡れた避妊具の中で持ち主と同じくやる気をなくし、笑顔の二葉から汚いものを見る目でティッシュを被された。

「ああ、ナニですか。相変わらずおモテになりますねぇ、今日だけで二人目ですか。因みに私は、保護者の数名に誘われましたが、結局理事夫人に連れ込まれて教職員トイレで済ませて来ました」
「マジかよ」
「恐いですねぇ。どう見ても妊娠する様な年齢ではないのに、中に出せ中に出せと豚の如く叫ぶんですよ。二枚つけとけば良かった」
「俺様よりマシじゃねぇか。豚との交尾を誰かに見られた訳じゃねぇんだろう?」
「見られたら死にますよ。ま、死にませんがねぇ」
「例えば山田太陽に見られたら?」
「止めないで下さい、飛び降ります」
「止めやしねぇが、何処から?」
「スカイツリー」
「確実に死ねるだろう、良かったな。お前の葬式の喪主は山田に頼んでやるよ」

ああ、怠くてならない。
乱れたブレザーを脱ぎ、スラックスも放り投げて、下着だけずりあげる。辛うじて人前に在っても見られなくはない装いを整え、丸めたティッシュごと避妊具をダストへ放れば、ソファに除菌剤を撒き散らす二葉の後ろ姿を見た。相変わらず、失礼な男だ。

「本人の目の前でファブリーズ振り撒いてんじゃねぇ」
「イカ臭いんですよねぇ、何だか」
「そりゃ悪かったな。出しちゃいねぇ様だが、カウパー撒き散らしてやがったからだろう」
「呆けている間に乗っかられるとは、中央委員会副会長にあるまじき失態ですねぇ、ベルハーツ殿下」
「煩ぇ、呼ぶな殺すぞ」
「で、ファーストに青姦を見られたと言う今のご気分は?」
「………最悪…」
「うふふ、お察しします」
「せんで良い。放っとけ」

日向が此処まで脱力する理由など、語らずとも二葉には理解出来たらしい。
明確な単語を出されて力なく呟けば、二葉が連絡したのか、庶務が新しい制服を手にやって来た。

「丁度良いので、高等部ブレザーの採寸をしましょうか。私は小腹が空いたので、フレンチトーストをとりあえず21枚。飲み物はそうですねぇ、ロイヤルミルクティーでお願いします」
「畏まりました、閣下」
「イギリスに居た頃は、毎度『ロイヤルグリーンティー』っつってた癖に、国が変われば変わるもんだ」
「ふぅ。抹茶はですねぇ、色々思い出してしまうんですよ」
「主に山田太陽だろうが」
「酷い勘違いですよ高坂君。私がいつ、中等部一年Sクラスの降格圏内の平凡な生徒の事ばかり考えていると言うのですか?」
「考えてないっつーんだな?」
「嫌ですねぇ、そんな事は一言も言ってません」

にこにことソファに座った二葉は、長い足を優雅に組んだ。
除菌剤を撒き散らした側のソファではなく、向かいに座ったのは流石だと言えるだろう。後程業者を呼んで取り返させるかと溜息一つ、日向は短い金髪を掻いた。

「柚子が、外で抱けっつったんだ」
「卒業式典のムードにやられましたか。あれはもう少し賢い男だと思っていましたがねぇ、ただの露出狂だったとは」
「…マジで最悪だろうが、糞が」
「何か言われたんですか?」

きょとんとあざとく首を傾げた男の眼差しが笑っている。
笑いたいなら笑えと憎悪を込めて睨み付け、高坂日向は息を吸い込んだ。

「『ホモきも』っつー目で、さっさとどっか行った」
「罵られた方がマシでしたねぇ」
「ちっ」

不貞寝したい気分だ。
例え卒業式典当日だろうと、明日も在校生は授業がある。つまり学園は休まない。中央委員会もまた、休まない。卒業に思いを馳せる暇など皆無だ。三年生は月末までのほんのささやかな休暇を経て、ネイビーグレーからオフホワイトに変わるだけ。
進学科のメッキバッジが純金に変わり、少しばかりその重さを実感するだろう。満開の桜に見守られ、散ればゴミでしかない花弁に祝福されながら、ああ。

「光姫…ごほっ、光炎閣下、採寸を始めさせて頂いても宜しいでしょうか」
「…ああ」

どいつもこいつも随分な扱いをしてくれるものだ。
見た目だけで襲い掛かってくる雄共を悉く返り討ちにし、穴と言う穴を採掘した結果、考古学者ならば一つや二つ、遺跡や過去の遺産を見つけて表彰されているのではないだろうか。
比べて自分は誉められる所か、痛烈に冷たい赤い双眸の上、なけなしの眉を跳ねた赤毛に見て見ぬ振りをされた。後輩に気を使わせた訳だ。屋外で盛る発情期の猫を見下す様な目で。明らかに人間扱いしていない、冷ややかな目で。

「死にてぇ…」
「ああ、高坂君は少し働き過ぎてノイローゼになっているだけなので、勝手に脱がせて測って差し上げなさい。私の採寸は明日以降で構いません、フレンチトーストを食べる前と後では、腰回りに差が出ますからねぇ、ほんの数センチ」
「嘘抜かせ、化物胃袋が。喰っても喰っても満腹になりはしねぇだろうが、テメェは」
「そうなんですよ。満腹中枢を母の胎内に置き忘れて来たみたいでしてねぇ、吐くまで食べてしまう癖が抜けなくて。まぁ、食べなければ食べずとも構わないんですが…」
「そんで餓死寸前に何度陥った?あ?テメェが倒れる度にこっちは良い迷惑なんだっつーの、糞眼鏡が」
「体脂肪をギリギリまで絞っているので、体重が変わらないのが悪いんですよ。何処かの誰かの様な無駄な筋肉は美しくないのでねぇ、『二葉様、脱いだら凄い』を維持しなくては」
「商品としてのプライドか。テメェも見られろカスが」
「そんな失態、この私がするとでも?」

優雅に運ばれてきたフレンチトーストを頬張っているマイペースは、にっこりと美しい微笑を浮かべた。見事な愛想笑いだ。役員らから感嘆の息が漏れたのが判る。
日向から漏れたのは単に、溜息だけだ。

「肩幅45cm、腰回り59cmですね。身長は…158.2」
「…んな訳あるか、もっかい計り直せ」
「ひゃっ、159cm!ご試着をどうぞっ」

成長期はいつ来るのだろう。
日向の父親は180cmを越えており、母親は180にこそ届かないが、170cmを遥かに越えている。二葉も近頃は伸びていない様だが、それでも180cmはある様だ。
去年から5ミリしか増えていない身長に舌打ちした所で、細胞が慌てて動き始める訳ではない。

「大器晩成」
「何か仰いましたか、高坂君」

敵は地獄耳だ。
その細い体の何処に入るのか、次から次へとフレンチトーストが消えていく。ミルクティーは湯気を発てたまま、アイスティーの如く飲み干された。痛覚が麻痺している男は化物と変わらない。人間ではないと言う一点で、明らかに。

「お疲れ様です、計測が終わりました。去年より肩幅が広くなられましたので、ジャケットはMサイズのものをお召し頂く方が宜しいかと。違和感は?」
「悪くねぇ、丁度良い」
「へぇ?まっっったく気づきませんでしたが、君にも成長期があるんですねぇ」
「あ?何かほざいたか、会計」

近頃、チクチクと全身が痛む。これを成長痛だと言い聞かせても、やる気のない細胞は眠ったまま、目覚める気配はない。

「私は無駄な事はしない主義なんです。ねぇ、高坂君。己への過度な期待は疲れませんか」
「何が言いたい」
「我々が生きる現実とは、このフレンチトーストの様に甘くないのですよ。何年も寝かせたビネガーより苦く、幾ら偽ろうと海に流れ出たタールの様に、弾かれたまま混ざる事はない」
「…」
「無駄な足掻きは首を絞めるでしょう。有りのままを受け入れる方が、ずっと幸せになれると思いませんか?」

哀れ、高等部三年の庶務は魂が抜けており、マネキンの如く動かない。
中等部より早く卒業式典を終えた筈の高校生は最上学部への進級が決まっていたが、白百合親衛隊のメンバーである事を理由に、卒業しても毎日執務室に軟禁中だ。何故軟禁かと言えば、二葉の命令=庶務の喜びだからだと言えるだろう。
魔王を慕う哀れな雄は、決して報われない事を初めから知っている。

「誰も、自分が一番可愛いんです。私も君も」
「…さぁな。俺様とテメェは四親等ってだけの、所詮は他人だろうが。寧ろ一生他人」
「Yes!その通りですよダーリン、残念でしたねぇ!庶務、フレンチトーストのお代わりを下さい。とりあえず145cm」
「145cmですか?!」

何故山田太陽の身長を知っているのだなどとほざけば、逆に同じ質問で返されるだろう。
ああ、面倒臭い。

「帰って寝る。仕事は明日やっから、置いとけ」
「判りました。寮室の移動がない我々は楽ですねぇ、高坂君」

在校生は授業がある。
だからと言って、同じ進学科でも中等部と高等部は活動範囲がまるで違うのだ。余程綿密に待ち合わせ時間を決めておかねば、すれ違う事もない。そもそも中央委員会役員は任命された日から、北寮四階にあるセントラルエリアに移住しなければならない。
同じSクラスのクラスメートは、アンダーライン内部の中等部エリアから、始業式典までに北寮高等部進学科エリアに引っ越さなければならなかった。今頃帰省ラッシュと引っ越しラッシュで、外は酷く賑わっているだろう。

人目を避ける様にモードチェンジしたエレベーターで、地下を伝い寮へと入る。
中央委員会役員以外は使えない権限だ。煩わしい親衛隊に捕まる事もなく部屋に入れば、どっと全身から力が抜けた。一歩部屋に入った状態で、情けなくへたり込みそうだ。


「…阿呆程疲れた」

牛乳とプロテインとタンパク質、成長に必要な全て。
ああ、面倒臭い。総合栄養食の卵は世界が産んだ革命的な食料だと思わないか。鶏は尊い。雄がいなくとも雌は卵を産むそうだ。挿入しなくても子供が作れると言うのは、何と美しい種の保存方法だろう。

「天使に見られただけだ。死にてぇ。死ぬか。無理だ。俺の血がなきゃ嵯峨崎が死ぬ。でも死にてぇ。…いや駄目だ、立つ気力もねぇ。…勃つのは勃つらしいが、じゃ、つまんねぇ下ネタかよ糞が…」

気力がないのは今だけだ。
酷い脱力感に立つのも億劫だが、床に転がって目を閉じても眠りは訪れない。じわじわと真綿で首を絞められている様だ。気づいた時にはきっと、まるで棘の様に抜けなくなっているだろう。


麻薬の様に。(愛と絶望の境で)
決して報われない希望を抱いたまま(死ぬ事も出来ずに)声を上げる事も出来ずに(指を咥えて見ているだけで)中毒患者は死んだ様に生きていく。



「糞弛い穴はマジ楽で良い」
「っ、あ!す、好きです、光王子…っ!」

好意を告げられる度に、引き潮の様に凪ぐ欲望を繋ぎ止めていた。

「あっそ。俺様は普通だけど?」
「ひっ、ぁ!」

一つ誰かに毒を吐く度に、もう戻れない気がする。何処に?
きっと、何処へも。

「無様なもんだ。雄の前で股開いて雌みてぇに喘いでやがる、自分の性別を忘れたとしか思えねぇな」
「っ、あっ、好…っ」
「…でもまぁ、大人しくしとけば嫌う事はねぇ。…かもな」

他人は自分を映す鏡だった。
哀れな雄の本性を見る度に、まるで自分を見ている様な気がする。

疚しいからか?(羨ましいからか?)
愛しているのは一人だけ。(けれどそれは決して言ってはならない破滅の呪文だと知っていた)
触れられないのは一人だけ。(守る為に)

(汚さない為に)
(楽園から人の世界へと降りてきた炎の翼を持つ天使)
(何を引き換えにしても構わない)
(守るんだ)
(不条理から)
(不平等から)
(穢れた世界の全てから)



「好きになる事だけは、絶対ないだろうがな」

自分から。

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