帝王院高等学校
神々の争いは犬も食わないワン!
赤い唇だけが静寂の中で密やかに。静かに今、嗤っている。
音もなく。

「お前の銘は喰われた」

高坂日向の網膜は闇で塗り固められている。
左手に握り締めたルーターが、掌に熱を伝えてきた。ささやかに。

「お前は名無し。光でありながら地獄へ戻りたがっている。魂が。依存から離れられない」

酷い既視感だ。
夢物語のナレーションの様な一方的な語り口調を、今日だけで既に何度も聞いている様な気さえしている。起きているのに寝ているかの様な、真っ黒な視界に従って沈黙している思考回路は、正常に働いているのか。

「『俺』はお前に同情した。虚無から産まれた光。黒に落ちた白。お前は透明な世界に色を産んで、この世に初めて産まれた『赤』に依存した。星の命とも言える、その赤の名は、炎」
「炎…?」
「光は常に、炎から産み出される。炎は常に、光の元に産み出される。お前達は表裏一体。そしてお前達は、この世に影を産み出した。影の正体こそ、命の始まり。山田太陽と叶二葉だ」

脳裏に一瞬だけ、見慣れた男の顔が通り過ぎた。
名詞が与えてきた情報はただそれだけ、再び闇に埋め尽くされる。教えたいのか忘れさせたいのか判らない声音はただ、笑っているかの様に。ゆったりと。密やかに。強かに。何処までも、静かに。

「それを俺に聞かせて、どうしたい?お前の本当の目的は何だ、帝王院への復讐か」
「アダムとイブ。お前達は父と母。母は子を慈しんだ。大切に大切に育てた」

会話は一方的だ。だからまた、ナレーターの語りの様に錯覚する。

「遥か彼方空の上から、太陽を取り巻く炎として。けれど太陽を取り巻く光だったお前は嫉妬した。大切なものを奪った影を憎んだ。邪魔に感じた。そしてお前は、一匹の蛇へと姿を変える。黄金の、神の蛇へと」
「やめろ、もう良い」
「お前はアダムに囁いた。赤い赤い、毒々しい程に赤い林檎を食らえと。アダムは逆らえなかった。イブはやめろと嗜めたけれど、アダムは林檎へ手を伸ばしてしまう。好奇心旺盛な、光の楽園の王。彼は林檎を喰らい、堕落した。光が生まれる東の最果て、日本の大地に」
「…もう良い」
「アダムの名は、イザナギ。彼を追って林檎を喰らい、堕落したイブの名は、イザナミ。彼らは子供を産んだ。安部河桜、炎の神は父親によって殺されてしまう。地獄へ落ちたカグツチの魂を哀れんだ奈落の女王は、カグツチが転生すると同時に己の体を現世へ転生させた。一匹の、卑しい狸へと」

痛いほどの静寂だ。耳鳴りすら聞こえない気がしている。

「全部出鱈目、だったな…」
「それは誰の台詞だった?」
「それは…」
「『俺』が残した魔法は、お前を一時、王様にしたのか?」

蝉は何処へ行ったのか。先程までは耳が痛いほど鳴いていた筈だ。
ゆらゆらと、水面が揺れている。捉える様に張り付いたまま、ゆらゆらと。ゆらゆらと。とめどなく。

「狸は美しい猫へと化ける。前世で我が子を殺してしまったイザナギは、転生して人間嫌いになった。人間を信じない。彼は世界を恨んでいた。彼から妻を奪った全てを憎んだ。感情があるからだ。生きていたからだ。死ぬに死ねない王としての器が、軋んで悲鳴をあげている。イブを知らないまま、業に刻まれた誰かを呼んでいる。まるで、蝉の様に」
「…蝉の様に…」
「『俺』はお前に同情した。全てはお前が犯した罪の果て。人の子で唯一、アダムとイブの存在に気づいていた子は、嘆き悲しんだ神の光が狂い悶え堕落する光景を見ていた。蛇へと姿を変えた半身が我が子を騙した事に、気づいたからだ」
「俺が、騙した」
「お前は蛇。イチは龍。判るか、お前は明神の始まり。イチは雲隠の始まり。自分の所為でお前が罪を犯してしまった事を嘆いた龍は、己を108に分けた。全ての業を葬り去る為に。お前の罪を流し去る為に。けれどお前は、龍を殺した人間を恨み、大洪水を起こした。新たな罪だ」
「…」
「俺はお前に『同情』した。お前が起こした洪水で世界の半分が崩壊し、人間の半数が死んだが、お前の影が産んだ人間達の中に、異端が産まれた。彼らの名は、ノアの一族。…グレアムは影から産まれたのではなく、裁きから産まれた終焉の使者だ」

終わらせようと、それは囁いた。それは誰かに良く似ている。
黒い何かに。銀の何かに。サングラスの向こう側から目を細めて笑った、誰かの様に。まるで猫と遊ぶ様に柔らかく触れてきた、誰かの様に。

「虚無が怒っている。俺が長く物語に囚われたからだ。俺の興味を奪った世界を終わらせようとしている。俺は虚無の為だけの時計。俺は虚無の為に産まれた人形。なのに俺は、『俺』を産み出してしまった」
「…虚無?」
「始まりにして終わり」

ふわふわと、漂っているかの様だった。
ずぶずぶと、沈んでいくかの様だった。
此処は何処だったか。誰かを見失ってしまった様な気がする。燃える様に真っ赤な、何か大切なものを。

「『俺』は俺を消そうとしている。『俺』の名は、遠野俊」
「…遠野俊、それはお前の事じゃないのか?」
「俺は違う。俺は始まりの黒。俺の悲しみがグレアムを産み出してしまった。悲しみの連鎖を、終わらせる為に」
「何だと?」
「ノア、グレアムの銘は『クロノス』」
「待て、それだと可笑しいだろう。ルーク=フェインはクラウンで、クロノスは………まさ、か」
「銘とは業。俺とあの子の業が反転している。つまりそれは、新たな時計が世界の礎に刻み込んだ、新たな宿命。俺の知らない物語に、俺達はいつからか呑み込まれている」
「だとすれば、それは…」
「地平線に、エンジェルラダーが掛かった時。世界は恐らく貫かれているだろう?十字、クロスは神の証。裁きの証明。断罪の為の、十字架」
「誰を、断罪するんだ」
「俺を」
「…十字架」
「俺の銘はナイト=カオスノア=グレアム。俺は本来、キングから産まれる予定だった」
「だったら帝王院は何だ」
「鉄槌を与える者。天から地を穿つ楔、神の光」

足が勝手に後ずさった。
踵に何かが触れて、光を当てた瞬間見えたのは、赤い。そう、余りにも赤い、何か。毒々しい程に赤い、まるで炎の様な、揺らめくそれは。

「虚無の代弁者。針のない時計。秒針だけが回り続ける。終わらないまま。永久に。けれどあの子には業がない。業には魂が宿る筈だった。けれどあの子には体しかない。物語は狂った。俺は産まれる前にそれに気づいた。けれど死のうとしても、こうして生きている。それは何故だ?」
「さが、さき…!」
「時が狂ったからだ。俺の知らない時がこの世を支配しているからだ。俺を灰色の世界から色に満たされた世界に産み落とした新たな時計はきっと、俺を裁く日を待っている。それ以外、新たなクロノスには業はない」

水。黒い水の中に閉じ込められた真紅、それは、たった一つの。

「馬を持たない騎士は俺だけ。俺の馬は何処にある?何処にもない。馬は十字架を背負い、俺の業を呑み込んだのだろう。彼だけが時の支配者だ。俺はただのキャスト。恐らく主人公。遠野俊が望んだままに、十字架は俺の罪を裁いている。今。この瞬間にも」

たった一つしか存在しない、

「罪を贖おう。遠野俊はもう消した。俺には初めから何もない。俺にあるのは虚無だけ。俺の全ては虚無の為にだけ。
 だから俺は、無が産み出した時限が定めるままに、終焉の向こうへと還るだろう。復讐など考えた事もない。
 世界の始まりは黒と白だった。お前達が産まれる以前、俺が産まれた瞬間から、俺の半身は存在していたんだ。俺は時計。あれは時限。俺と表裏一体、俺は産み出す事しか出来ない。あれは終わらせる事しか出来ない。
 何故ならば俺達は、虚無の子」

大切な、宝物なのだ。






「ノアは一対の櫂で大洪水を泳いだ。櫂は双子。

 ノアは神の領域へと入る事が出来る、唯一無二の一族だった。
 けれど人に殺された。定められた宿命の様に。その瞬間こそが始まり。

 俺が産み落ちる予定だった一族は消え、キングに俺を産む事は出来なかった。神の意思に反したからだ。
 彼からは子を作る能力が消えていた。俺には消す力はない。俺に出来る事は常に、死ぬ為だけに産まれる存在を作り出す事だけ。永遠なものなど何処にも存在しない。だから、願ってしまった。



 けれどこの世界はあの子に、何と無慈悲な世界だろう」












Records an airfield.
One for Zero.







「俺は肉親には勝てない。
 あの子と同じ血を引く犬を見つけた。あの子を慕う寂しがりな犬を。俺は犬からは愛されている。猫からは憎まれたまま。



 …そうだろう?」



















「おまえをゆるさない」

大切なものは一つだけだった。
日本へ戻った理由ならばそれだけしかなかった。つまり、日本を離れた理由も。

目覚めた傷だらけのお姫様は家族に囲まれて、乱れた赤毛の下、宝石の様なダークサファイアを忙しなく瞬かせている。両腕に刺された点滴が痛々しく思えた。お姫様に良く似た赤毛の男が泣いている。それとは色味が違うもう一人の赤毛は、日向を見るなり『失せろ』と言っただろうか。

お姫様は誰からも愛されているらしい。
お姫様はアメリカの王子様だったらしい。
怪我が治れば帰ってしまうのだろう。お姫様はアメリカの大学へ通っているそうだ。小学校へ入学したばかりの自分とは、まるで別世界の住人。


「外部生、殴っただろ、テメーが」

もう一度。
例えばいつかの夕暮れ時に、黄昏に染まった欄干の上へ舞い降りたその姿を見た時の様に、ほんの少しだけ、声が聞きたかっただけだ。あの時手渡されたビーフジャーキーのお礼が言いたかっただけだ。それと同じ味のものを幾ら探しても見つけられなかったから、例えばメーカーは何処だとか、そんなたわいもない話だけで十分だった。
望みはただ、それだけなのだ。初めから。疚しい事など一つとして考えていない。背中に負った傷がいつまで経っても完治しなくとも、そんな事で恩に着せるつもりはなかった。

「おれは、おまえをゆるさない」

その低い声音に、心臓が跳ねたのを覚えているか。彼があれほど我を忘れて見つめてきたのは、きっとあれが初めてだっただろう?
凄まじい速さで脳裏を駆ける記憶に、酷く幼い言葉が鼓膜を震わせた。獰猛な狂犬を従えられるのは皇帝だけ。幾らプリンスと呼ばれようとも、所詮、公爵は王様にはなれなかった。背中の古傷を隠す様に彫り上げた阿修羅が、笑っている。

「おまえ、いじめた。おまえ、なかせた」
「テメェ、」
「I give you a funny.(意地悪してやる)」

触れた唇は熱かったか?
誰にも触れた事のない唇はその時、まるでエデンの林檎を貪った様な罪悪感を覚えなかったか?

「Good-bye, have a funny dream.(糞みてぇな夢でも観てろ)」

窓辺からやって来た天使はそして、窓の向こうに消えていく。

ああ。
外部生の正体に気づいてしまった。だからと言って、誰かに告げ口する様な真似はしない。嫌われたくないからだ。
愛しているのは一人だけ。カルマを統べる、羨ましいまでに気高い、漆黒の皇帝だけだと言い聞かせた。

人間はどれも同じだからだ。
本当に手に入れたいのは、一匹の犬だった。けれど昔から犬には嫌われる。ただただ従順なだけの、命令を待つ獣など必要ではなかった。



欲しいのはいつも睨み付けてくる、我儘にして傲慢な一匹の犬だけだ。























「そなた」

驚愕と狼狽が支配していた世界に、その声は落ちた。
凍りついた榊雅孝の傍ら、ゆったり振り向いた斎藤千明と、弾かれた様に振り返った高坂向日葵の眉が同時に跳ねる光景は、スローモーションの様だ。

「面白いものを着ているが、何処で手に入れた?」

きらきらと。
光を散らすそれは、金にも思えただろうか。

「ふぁ?」
「カルマと記されておるが、メンバーではあるまい?」

金にも優るハニーゴールドが、真っ直ぐに自分の背中を見ているのだろう。
永遠にも似たコマ送りの世界で、何故傍らの斎藤だけはいつも通り呑気な声音で、宣えたのだろうか。

「うわ、何だお前、イケメン極めすぎかよ…!」
「何を言っている?」
「顔が綺麗過ぎて気持ち悪、本当に人間っ?!」

賑やかしい叫び声は斎藤のものだ。
蜂蜜に月の光を落とした様な金の双眸は、榊のTシャツから離れ、傍らの斎藤へとスライドする。

「見たまま人間に相違ないが、質問に質問で返すか」
「銀髪で目が金とか、ゲームのキャラクターかよ!何なんだお前は、何で日本語喋ってんだ!」
「…俺の顔か。ああ、面を忘れていた」

あの日から何年経ったのか。
それでもほんの十数年で、人間は此処まで成長するのか。いつか見た兄に余りにもそっくりだった。声音が違う以外は、クローンの如く。

「マジでどちらのイケメン様ですか?!もしかしてカルマお好きなの?!」
「そうだ」
「意外とミーハーな奴だな。推しメンは?」
「推し麺?…然程食には興味がないが、今はラーメンの気分ではある」
「ラーメン?何それ日本語?麺じゃなくて、推してるメンバーいるかって聞いたつもりだったんだけど」

気の抜ける様な会話が、然し榊の耳には全く入ってこなかった。
弾みそうになる鼓動を必死で抑えたまま、口から悲鳴が飛び出そうになるのを耐えるばかり。ひたすら。

「成程。ならばシーザーだ」
「あー、それは考え直せ」

振り向く勇気などない。
悍しい程の威圧感だ。斎藤は気づかないのだろうか、世界が、例えば目に見えない大気すら跪かんばかりの、この恐怖に。

「シーザーは噂が先行してんだよ。親友の俺から言わせて貰えば、アイツはちょっと変な奴なんだ」
「…親友?そなたが俊の?」
「…は?何だよ、イケメンはすんこの友達なの?わざとらしいな、もう」

ああ。
天罰だ。これは恐らく、それしか考えられない。

「友達なら言えばくれるんじゃね?榊のTシャツは限定デザインで、カフェの従業員に配られた奴だから、後ろにロゴしか入ってないだろ?」
「どう違う」
「すんこのモデルは、背面にレッドスクリプトが入ってて、オークションで何万もするらしいかんな。確か、奴の箪笥に腐るほど入ってた筈だぞ。アイツ、あんまTシャツ着ないもん」
「俊を知っているのか」
「まぁ、長い付き合いだし」
「どんな関係だ」
「は?何で高校生から睨まれてるのかしら、俺…」
「どんな関係だ」
「た、ただの隣人です。…って、お前、確かこないだすんこの家に居なかった?ほら、宅配便の業者と話してた奴だろ!俺は俊の師匠だぞ、師匠と呼びなさい!お前こそ俊の何なんだよ!」
「彼氏だ」
「は?」
「冗談だ」
「…は?」
「後ろに悪魔がおるぞ、師匠」
「悪魔だと?!」

振り返る事も、見上げる事も出来ないまま、目を丸めている高坂と高野を見つめていた榊雅孝の瞳に、それは映り込んだ。
いつか怖れた男と共に、音もなく。

「シエが呼んでいた榊雅孝とは、そなただな」
「明神宗家の一人息子と聞いているのだよ。ようこそ帝王院学園へ」

最悪だ。
もし口を開けば、その一言しか出なかった。後ろも前も、空でさえ見る事が出来ない今、足元でも見つめれば良いのか。

「ひょえ!何だ?!金髪?!えっ、ちょ、双子?!色違いの双子なの?!」
「双子ではない。他人だ」
「えっ?でもお前、そっくりじゃん!榊もそう思うだろ?!」

何処まで能天気なのか。
怯えた斎藤が銀髪の後ろに隠れようとする光景を見つめたまま、榊は決して振り向かなかった。黄金にも似た双眸を細めて榊の背後を見据えているその顔と、曰く双子の様にそっくりな男が居るのだろう。気配で判る。

「随分賑やかなご友人が居られる様だが、悪目立ちしているのだよルーク=ノア。場を変えて頂けるかね」
「役職を解いた筈だが、そなたらは未だ俺の視界から消えておらんな。殺さねば理解出来んか、キング=ノヴァ」
「殺す?!」

冷ややかな声と共に、素頓狂にも程がある引っくり返った声が上がる。
忙しなく振り返った高坂と目があったが、彼にはどんな表情の自分が映っているのだろうか。
静かになった上空を見上げる勇気などない。いつか殺されても仕方ないと思った義弟の声はなく、引き換えに、いつか畏れた兄とその従者が視界の片隅に映り込んできたに。

「来客の前で中央委員会会長に相応しくない言動は、好ましくはない。そなたはいつから愚かしくなったか、カイルーク」

そして幾ら目を逸らそうとやはり、あの時の罪の証が。
振り返って確かめる事など絶対に出来ないだろう、あの時の子供が。高等部の制服を纏ったまま、佇んでいる限り。
最後に見た帝王院秀皇と同じ、白いブレザーを纏ったまま、存在する限り。

「言動を慎むのはどちらか老いた頭でも理解せよ」
「服装が乱れている様だが、中央委員会であるべき品行を忘れ遊び呆けていられては駿河の為にならん」
「いつまで男爵のつもりか知らんが、誰に宣っているナイン」
「我が眼前にそなた以外の誰がおろうか、イクス」
「ステルシリーノアオブアース・インスパイア」
『コード:マジェスティルークを確認、ご命令を』
「ステルシリーノヴァオブジエンド・オーバフロー」
『コード:マジェスティキングを確認、ご命令を』
「ノヴァの円卓を」
「ノアの円卓を」
「「潰せ」」
『『仰せのままに、陛下』』

蛇に睨まれた蛙とは、正にこの事だ。
先程までの賑やかさを忘れている斎藤は別人の如く大人しく、恐らくたった今、余りにも目立つ銀髪と金髪の正体に気づいた様だった。

「全く、顔を合わせば大人げない親子喧嘩をしてくれるものだよ。陛下、元老院の全てが我々側ではないのだがね?」
「知っている。聞いたかネルヴァ、カイルークがナインと言った」
「ナンバーで呼ばれた事に腹を立てたのかね?自分は何度もイクスと呼んだ癖に」
「何故カイルークは、可愛いげがないのだ」
「誰かにそっくりなのだよ」

流石に喋る事も出来なくなった悪友が、背中に張りついてくる気配と引き換えに、遠ざかる気配を感じていた。足音はない。
安堵の息を零す余裕なく、去っていく銀髪を盗み見た。それ以外に目線を向ける勇気はない。

「Lange nicht gesehen, Herr Fuzikura. Wie geht es Ihnen?(お久し振りです藤倉さん、お変わりないですか?)」

そんな中、やはり口を開ける豪胆さは高野省吾にしかなかったらしい。
彼の声がドイツ語を奏でた瞬間に、背中に張りついた斎藤の体がビクッと飛び上がる気配に気づいた。状況は一つとして良くはなっていないのに、迂闊にも笑えてくる。

「ああ、肉も魚もそれほど食べないからか、有り難い事に健康そのものだよ。君はいつ帰国したんだね、高野君」
「着きたてほやほやの今朝。アメリカは性懲りもなくテロ騒ぎですよ、お陰で飛行場閉鎖、機動隊総出で撃ち合い、ハッピーターンの粉舐めてたらドラッグ騒ぎで税関職員に取り押さえられる。いい加減、アンタら目を離し過ぎじゃない?」
「テロはともかく、ハッピーターンは自業自得じゃないのかね。何故その場で菓子を喰おうと思ったのか」
「空港に閉じ込められたら腹も減ります。こっちは無茶なスケジュールごり押ししてくるエージェント騙くらかして出国しようってのに、お陰様で航路変更だ。回り道でまともに寝てない」
「ファーストクラスだろう?」
「ビジネスですよ。自費の旅行でファーストクラス乗って堪るか」

気安い口調で話す高野に笑っている男は、エメラルドの瞳にも笑みを浮かべていた。何年も前に見たこの男は、にこりともしない鬼の様な男だった筈だ。事実、ドイツでは遥か昔から、伯爵家は吸血鬼の一族だと噂されている。

「健吾を探すついでに裕也君に挨拶しようと思ってたんですが、何か面白い事になってます?」
「…地獄耳だね。面白いかどうかはそれぞれの価値観なのだよ」
「榊雅孝」

静かな声が、近づいてきた。
ばくばくと跳ねそうになる左胸を無意識に抑えたまま、榊は眼鏡を押さえ、顔だけ振り返る。

「そなたに聞きたい事がある」
「何、でしょうか」
「ロードを知っておるな」

静かな。
凪いだ夜を思わせるダークサファイアが、断定的に尋ねてきた。ふるふると、辛うじて頭を振る事が出来たのは、奇跡だろうか。

「知りません」
「あ!やばい、見たがってた出し物の時間だぞ榊!急がなきゃ、間に合わない!」

やっとの思いで否定の台詞を吐き出した榊の腕を、唐突に手を叩いた斎藤ががしっと掴んだ。いつものヘラヘラした笑みを滲ませて、有無言わさぬスピードで『じゃあ』と宣うなり走り出す。
抵抗など出来る筈もなく、榊と斎藤はその場から逃げる様に離れたのだ。



「はぁ、はぁ、こ、此処まで来たら大丈夫か…?!」

土地勘など皆無に等しい斎藤に手を引かれるまま、榊が漸く足を止めたのは、ヴァルゴ庭園の何処かだった。密林の如く密集した雑木林の中、肩で息をしている男は忙しなく辺りを見回している。

「おい、大丈夫か榊!しっかりしろ!」
「声がデカい」
「ごめん。…なぁ、さっきのってもしかして、マジェスティ?」
「………兄様だ」
「…マジか、全然似てないじゃねぇかよ…」
「当然だろう。俺は、榊雅孝に似せて作り替えられてる」
「声まで似てるのは何だっつーの」
「声帯を似せた」
「マジか、徹底的過ぎて何も言えねぇ。この事、他に誰か知ってんの?」
「執刀医とファーザー以外は…」
「ちょっと俊を強めに叱りたい気分だよ、師匠としては。どんな理由があるにせよ、死人と成り代わるなんざ、犯罪だぞ犯罪…!」

ぶちぶちと文句を呟きながら座り込む男の旋毛が見えた。
至極尤もな台詞に返す言葉は見つからない。姿形を変えた所で、罪が消える訳ではないからだ。

「…さっきの、わざとらしかった?」
「いきなり出し物のがどうだの言い出したな。まぁ、わざとらしいと言えばわざとらしかったが、向こうはお前を知らない。恐らく、大丈夫だろう」
「恐らくって…。金髪の方が兄ちゃんで、銀髪の天然入ってた方が甥?」
「ルークはサラが産んだ子だ」
「お前が好きだったって子?」
「それはエアリアス。サラはエアリーの、妹の様なものだった。血の繋がりはなかったが」
「だったらそのルークは何なんだよ。お前の兄ちゃんに瓜二つだったぞ?」
「…ルークは私の子だ」
「はぁ?!」

弾かれた様に見上げてきた目から逃れる様に、顔を逸らす。ぱくぱくと喘いでいる気配を感じながら、ガリガリと頭を掻いた。

「サラは俺と兄様が同じ人間だと思っていたらしい。まだ幼い頃に離れた為、それも無理はないが、キング=ノアの妻になる為に日本へやって来た」
「サラと付き合ってたん?」
「いや、都合が良かっただけだ。暇潰しと大差ない」
「エッチを暇潰しでする男ね。何それ、死ねば?」
「怒っているのか」
「商店街のおばちゃん相手に茶ぁ啜りながらまったりしてるお前しか知らない、それ以外のお前なんかお前じゃないもん」
「ないもん、と言われても」
「いきなり子持ちとか言われて納得するわけねーだろ!何なのそれ、俺判んないんだけど!さっきのラーメン野郎がお前の息子だと?!俊の彼氏とかほざいてた、あれがか!」
「冗談が言える様になっているとは思わなかった」
「はぁあ?!言うに事欠いて、そこ?!」
「悪いな、これでも混乱してるんだ」

無様な笑みを浮かべた自覚はある。
今更、指先が震えてきた。カタカタと、寒くもないのに。

「………ああ、もう、判ったよ!腹括ったぞ俺は、洗いざらい吐いちまえ!」
「何?」
「嵯峨崎にも勿論他の誰にも言わねぇよ。お前は意地悪で勉強は出来るけど馬鹿で喧嘩強いけどヤクザに袋叩きにされるやっぱり馬鹿だから、せめて俺だけでも味方してやる」
「…」
「但し、千景に危険が迫りそうな時は逃げるかんな。俺の弟は天使だから」
「天使はお前の方じゃないのか」
「は?」
「馬鹿だな」

怪訝そうな猫毛を撫でる。
恥ずかしげに身悶えた男へ笑い掛けて、木々の隙間から差し込む木漏れ日を見上げたのだ。

「…人目がある所は不味い。スコーピオに行こう」
「へ?スコーピオン?」
「母上が居られる筈だ。キャノンにノヴァの姿があったと言う事は、間もなく学園はステルスの巣窟になる」
「幹部が気軽に日本に来たりするか?今んとこ嵯峨崎会長からの連絡はないぞ、ネクサスからも」
「元老院は円卓を介さず動いている。男爵が交替する時に、引退する円卓の役員は元老院へ移り変わる定めだ。新たな男爵を見定める為の監察として。この学園で例えるなら、左席委員会が元老院の様なものだろう」
「キング方が元老院で、ルーク方がセントラルの円卓っつー事だな。ルークの円卓にセカンドって男が入ってんの知ってるか?12柱の枢機卿の中で、多分最強の奴だ。ABSOLUTELYで幹事長やってる」
「ルークが渡米した後に引き抜かれた神童だとは聞いているが、正体は叶二葉だ」
「そう言う事ね…。こうなったら省兄も味方じゃねぇよな、お前の兄ちゃんの隣に居た奴と、仲良かったし」
「ネルヴァ、か。藤倉裕也の父親だ」
「嘘だろ…!似てねぇ!」

騒がしい声音に幾らか救われた気がする。
けれど近づく度に見えてくる真紅の外壁を直視する勇気は、ない。

←いやん(*)(#)ばかん→
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