帝王院高等学校
音のない世界で私は祈るのです!
「大人が居ない、国?」
「子供しか入れない」
「本当にあるの?」
「うん。ないなら作れば良いんだって、母ちゃんが言ってた」

秘密めいた話し声が聞こえてくる。
そよそよと、風に撫でられてそよぐ芝生と楓。北半球は何処も春だ。

「どうやって作るの?お金、沢山いる?」
「きっと、沢山いるかも」
「そっか…」
「一人じゃ作れないと思う」
「うん、僕も作れないと思う」
「二人なら出来るかも?」
「ほんと?!」

どちらも何処か奇妙だ。
子供特有の無知さからかと初めは考えたが、鼓膜を震わせる二人分の声音を暫く聞いている内、どちらもイントネーションがネイティブのものとは違う事に気づいた。ただでさえ、世界的に見ても語彙が多い日本語は同音異義語が多い為、発音一つで全く違う意味になってしまう事がある。

「でも、ジュチェは僕をノロマだって言ってた。僕、バイオリンはまだ下手なの。ピアノはね、お客様から誉めて貰えるんだよ。でもお父様は、耳障りだって…」
「楼月は脳味噌が詰まってないグリズリーだって、父ちゃんが言ってた」
「え?のーみそって、何?」
「判んない。母ちゃんより父ちゃんの方が、日本語がうまいんだ。オレ、父ちゃんとはあんま話した事ない」
「そっか。…僕と一緒だね」
「そっか」

ピアノ。
指が勝手に動いた。音はない。目を閉じていても弾む指は脳に五線譜を描いていく。
バイオリン。
肩が勝手に動いた。音はない。幹に背を預けたままでも、風の音に合わせて、音のない旋律を刻み続ける。

「僕、日本語が皆とちょっと違うんだって」
「僕も違うって言われた事あるぜ。自分じゃ良く判んない」
「ひろくん、僕って言った。初めての時も」
「挨拶は大事だって母ちゃんが」
「シスターも言ってた!ちゃんとご挨拶をすれば、皆、優しくしてくれるって」
「嘘臭ぇ」
「え?」
「何でもない」
「ひろくん、日本に行った事ある?」
「ない。日本は殿様の国だから、日本に行ったら逮捕されるって母ちゃんが言ってた」
「たいほ?捕まるってこと?」
「ん。母ちゃんの曾祖父ちゃんが、殿様の宝物を持ち逃げしたってよ」
「どんな宝物?」
「さー、知らね。だからオレも朱雀も、日本に行ったらやばいんだ」

内緒話なら、もっと注意深く周囲を窺うべきだ。何なら二人だけの合言葉でも作っておけば良い。
けれどそんな指摘は、言葉にしない方が良いのだろう。どの面下げて宣うのかと、激昂して顔を真っ赤に染めた大人は大抵、ヒステリックに叫び散らす。正論が全て正しい訳ではないと、笑いながら教えてくれたコンサートマスターはあれでいて、人望があるのだ。

「朱雀は馬鹿みたいだって言ったんだ、オレのこと」
「ジュチェ、意地悪」
「朱雀は賢いんだ。オレは母ちゃんが死んだ時、沢山泣いた。けど、朱雀は母ちゃんが死んだ時、泣かなかった」
「え?」
「きっと、オレより朱雀の方が悲しかったんだ」

昼寝のBGMには余りにも好奇心を刺激される語らいは、危なげな雰囲気を孕んでいた。一曲出来てしまったと他人事の様に考えて、暇になってしまった両手を頭の後ろに敷く。

「…僕も、泣かなかったよ?」
「悲しかったろ?」
「判らない。お母さんの事は、思い出したら駄目だって、ユエが…」
「カナちゃんの兄ちゃん、優しいんだろ?」
「ん…多分、優しい、かな?言ってる事がまだ良く判らないから、あんまり、お話出来ないの」
「そっか。兄ちゃんは広東語喋ってるんだっけ、朱雀は香港に行くと良く喋るんだ。標準語?は、堅苦しいって」
「ふーん。ドイツ語は、何だか不思議な感じがする」
「不思議?」
「うん。あのね、お歌を歌ってるみたいな感じ」

言い得て妙だと思った。
大人の集まりに同行している子供は少なくないが、日本語を喋る子供となると数は限られる。初日にステージで挨拶をした自分は、ベラベラと予定になかった英語の挨拶もこなし、仲間達の失笑を呼んだ覚えがある。

「歌?初めて言われた。やな感じ?」
「やじゃないよ。ひろくん、昨日オーケストラの大人の人と話してたでしょ。その時、歌ってたみたいだったから」
「ディナーの演奏会のプログラム見せて貰ってたら、父ちゃんに挨拶に来たんだ。今回のメンバーはドイツ人とフランス人が多いんだって」
「フランス語も歌ってるみたいに聞こえる。ドレミ〜ドレミファソラシド〜♪」
「カナちゃんは、音がドレミで聞こえるんだっけ。どんな感じ?」
「あのね、そんなの変だって、施設の子に言われたんだ。先生も、えっと、親に捨てられた癖に自慢してるつもりかって…」

大人とは身勝手な生き物だ。それは間違いない。否定もしない。
だからと言って子供が純粋無垢だと言うのは偽りだと、声を大にして言ってやる。生きる証拠が、自分だからだ。

「日本人は、意地悪?」
「…ううん、シスターと、お婆ちゃんは凄く優しくしてくれるよ。一番怖かったのは、施設長と、お父様かな…」
「カナちゃんを苛めるジジイかよ。ぶっ殺してやろうか?」
「え?ぶっこ、何?」
「…何でもない」

世界には音が溢れている。
けれど時々、何の音も奏でない突然変異が存在する。そんな事を宣った所で、だから何だと言われるだろう。無能な凡人共は、総じて他人の才能を否定するものだ。嫉妬からか、それとも、自分とは違う亜種への嫌悪感からか。

「カナちゃんの名前、錦織って綺麗な着物なんだぜ。見た事ある?」
「ううん、ない。錦織はお母さんの名前だから、もう言ったら駄目だって、ユエが…」
「青蘭より、要の方が似合ってると思う。カナちゃんの母ちゃんが、きっと一生懸命考えたんだ。オレのファーストネームは祖母ちゃんが考えて、ギブンネームは父ちゃんと同じ」
「?」
「あー、何だっけ、ミドルネーム?だっけ。リヒトは、父ちゃんの本当の名前なんだ。就職した時に、名乗らなくなったんだって」
「りひと」
「英語でライト、日本語で光。父ちゃんはリヒト=カミーユ=エテルバルドで、オレはヒロナリ=リヒト=エテルバルド。歌みたいに聞こえた?」
「うん、聴こえた!」
「にーはお」
「ぐーてんたーく!」

何が楽しいのか。忍び笑いが聞こえてくる。曲になりそうな笑い声だと思ったが、人に聞かせる予定のない金にならない音楽など何の価値もないと、性根の曲がった音楽家爺共が眉を潜めるかも知れない。
それはそれで見てみたいと思わない事もないが、性格がひん曲がっている自分大好き男とは違って、世間体を気にする女は小言に時間を割くだろう。自分が最も技術で劣っている事を自覚している女は、渡米前から切り詰めてピアノの練習を続けており、かなりナーバスだ。


「…つーか、親父がフォローしてやれよっつー話だよな。ありゃきっと、一杯一杯になってるババアを見て喜んでるっしょ。ったく、性格悪い親父ッ」

ぼそりとドイツ語で呟いてみたが、下の子供達には届かなかったらしい。楽しげに笑い転げて、目を見合わせては笑っている姿が、瞼を閉じたままでも判る。箸が転げても笑えると言う言葉を知っているが、正にその一言だろう。

「カナちゃん。グリズリーはユエと飯を食うんだろ?だったらカナちゃんは、オレの席に来なよ」
「良いの?」
「オレと仲良くしたら、グリズリーは喜ぶんだろ?」
「グリズリーって、何?」
「くま」
「あはは、ははははは!」

触れてしまえばすぐさま壊れてしまいそうな、とても繊細なそれを一目見てやろうと瞼を開けば、さわりさわりと、風に踊る緑の世界。

「あ。いけない、ひろくん、ご飯の時間だよ」
「ん、まだ良い。聞きたい奴は、5番目からだし」
「5番目?」

成程、お呼び出しの様だ。
何処に行ったあの馬鹿と言うドイツ語の怒鳴り声が、遠くから風に乗ってくる。

「4歳の癖に、メインサックスでジャズ演奏するんだって。えっと、何だっけ、たかのけんご?」
「たかのけんご?」

無垢と無知の違いは、頭に来るか来ないか。
飽きれ混じりに『コウヤだボケ』と呟いて、隣の木の幹へ飛び渡る。怒鳴り声に聞き慣れた女の声も混ざっていて、そろそろタイムオーバーだ。小言は5分以内でお願いしたい所だが、漸く木から飛び降りた高野健吾の鼓膜に、パーカッションの音と拍手喝采が届く。
どうやら遅刻した様だ。

「うへぇ、マジか。裏口どっちだっけ」
「裏口はあちらですよ」

ディナー会場の外には夥しい数の警備員、取り残された子供一人が顔パスで入っていくのは難しいだろう。仲間達が奏でる演奏が聞こえてくる今、警備員を煩わせて仲間に迎えを頼むのは、流石に気が引ける。
頭を掻きながら屋敷の裏手へ回ろうとした健吾に、果たして艶やかな黒髪を靡かせた人影は、賑やかな屋敷から離れた場所で黒い手袋をはめた右手を持ち上げたのだ。余りにも動かないからマネキンだと思ったが、生きていたらしい。

「あっちって、んな簡単に教えて良い訳?アンタ警備員じゃねーの?」
「私が警備員に見えますか?」
「いんや、見えねぇな。ダセェサングラス掛けた、変な奴にしか」
「おやおや、お褒め頂き有難うございます、パーフェクトミューズ」

楓ばかりの木々の中、数少ない桜の木に背を預けた男とも女とも知れないそれは、余りにも見事な日本語のイントネーションで微笑んだ。大振りのサングラスの下、真っ黒な手袋をはめた両手を組んでいる。

「それ、日本人に呼ばれたの初めてな感じ」
「Do I look like Japanese?(私は日本人に見えますか?)」

音がない。
いや、正確には遠くから仲間達が演奏する音は聞こえてくる。ただ、余りにも流暢な英語で首を傾げたそれが、有り得ない程に無音だっただけだ。

「貴方に一目お会いしておこうと思いまして、マサチューセッツから訪ねて来ました。傷跡が消えていないのでサングラスはまだ外せないんですが、ご無礼をお許し下さいますか」
「俺に何の用?」
「いえ、私には特に」
「はぁ?」
「貴方に興味を持たれたのは枢機卿です。あの方は時間を無駄にしない方なので、もうそろそろ到着する頃だと思いますが…ああ、噂をすれば何とやら」

人には様々な音がある。
仕草にも、声音にも、全てに生きている旋律が必ず備わっているものだ。

けれどどうだろう、ゆったりと上空を見上げた黒髪に促されるまま、黄昏に染まる空を見上げれば、ほんの僅かなエンジン音が聞こえてくる。歪むオレンジとバイオレットの空に、そこにある筈のない黒塗りの車を見た。

「な、んだ?!」
「枢機卿専用のシャドウウィングです。完全に紫外線をシャットアウトするフルUV車で、中央情報部だけのカスタムデザインなんですよ。天井に大きなお日様の絵が書いてありますが、此処からでは見えませんねぇ」

歌う様な声音が日本語を奏でている。ただ、それは曲に出来そうな声音ではなかった。
目の前にゆったりと降りてくる車をただただ見上げていた健吾は、スモーク張りの窓の向こうに、人影を見たのだ。真っ白な仮面を被った、確かに人の姿を。

「ご苦労様です枢機卿、無事ブライアンから逃げられましたか?」
「…鬱陶しい男だ。カリキュラムを捨ててサンフランシスコに行くと、随分騒いでおった」
「授業があるなら仕方ないですもんねぇ。枢機卿こそ、校長に懇願されて壇上に立たれたんでしょう?勇姿をカメラに収めてあげられず、申し訳ありませんでした」

それは人の言葉を喋っている。
大層美しい日本語を、白にも似た銀の仮面の下、眩いほどの銀髪にトワイライトを煌めかせ、音もなく車から降りてくる。まるで、映画のワンシーンの如く。

「ネルヴァと陛下の存在を確認しました。…どうなさいますか?」
「長居は無用だ。既に贈り物の準備は済んでいる」
「楽しい楽しいパーティーが、一層楽しくなるでしょうねぇ」

健吾の網膜には今、銀だけだった。
健吾の鼓膜は今、酷く静かだった。
それが本当に生きているのかと疑うほどには、余りにも。

「楼月の姿がありましたが、宜しいので?」
「想定内だ。捨て置け、所詮暇潰しに過ぎない。…この程度で死ぬ様な男であれば、神と呼ばれるまでもなかろう」
「うふふ。悪巧みが緻密でいらっしゃる。それより枢機卿、こちらの子供がご希望のパーフェクトミューズでいらっしゃいますよ。どうなさいますか、ディナーに紛れますか?」
「良い、ラスベガスへ行く」
「おや?」
「この程度の子供ならば、わざわざ聴くに値しない。カジノを一件潰す方が、余程退屈凌ぎになろう」
「おやおや、それは愉快ですねぇ。お供しますよ」

黄昏に染まる銀の面へ、笑い掛けるサングラスの下の唇は赤い。
無音の世界は一抹の恐怖を招いた。煩わしさを感じる事も少なくはない、けれどいつどの世界であれど鳴りやまない筈だった音の洪水が、完全に消えた日。


「お前、は。本当に人間、かよ」

問い掛けには振り返ってすら貰えなかった。
何かとても大事な事を聞いた様な気がする。何かとても大変な事を聞いた様な気がする。



「何処に行ってたんだ健吾!用意しろ、省吾はもう出てる!すぐに出番だぞっ」
「…へ?あ、うん、ごめん」

けれど何処をどうやって歩いたのか、楽器を手に出番を待っていた仲間の一人が、慌てた様子で駆け付けてきた時に、漸く、健吾は深く息を吐き出したのだ。
素直に謝られた事に目を丸めている仲間は、余りにも不細工な表情だった。

拍手と人のざわめきに支配されたステージから、揶揄めいた笑みを浮かべている父親が手招いてくる。お怒り気味の母親は、吊り上げた眉でメイクが崩れそうだ。
これこそ、世界の全て。音で満たされた真実の世界。宇宙でもあるまいに、無音など有り得る筈がないだろう。

「あ、シュナイダー。あそこの席に座ってる緑の目ぇした餓鬼、誰か知ってる?」
「はぁ?!言ってる場合か、早く出ろって!」
「はいはい、判ったよ」

持ち上げた、大人のものより大分小さな、けれどしっかりした重みを伝えてくるサックスの質感は、初めだけ冷ややかだ。
けれど息を吹き掛けてやれば、綺麗な綺麗な音を奏でてくれる。世界をほんの一時、幸せで満たす為に。大気を少しばかり、震わせる為に。

「…遅いぞ健吾、ギリギリじゃないか」
「間に合ったろ、結果オーライだべ?」
「こいつ」

ステージの上、拍手喝采に迎えられて笑みを浮かべたまま、父親の呟く声に肩を竦めた。どんなに騒がしい中であろうと、耳を澄ませばどんな音だろうと拾う事が出来る。
例えば顔も知らない子供が、音が音階で聞こえると言っていた。健吾にとってそれは日常の事で、わざわざ気にする必要すらないと思っていた事だ。

才能でも何でもない。
産まれたその瞬間からただ、寂しい思いをする人が居なくなる様にと、ただ、それだけ。



いつか。
とても寂しい所に行った様な気がする。
何処までも真っ暗な世界で、誰もいないそこに居たのはたった一人、真っ黒な何かだった。

『悲しいとは、どんなもの』
『痛くて、辛い』
『そうか』

こんな事を言えばきっと、唯一の味方と言っても良い父親ですら、目を丸めて笑い飛ばすに違いなかった。大人の大半はみっともない奴らばかりだが、時々ほんの一人握り、優しい人がいる。

『初めて会いに来てくれたお前に、もう一度、時間をあげよう。世界には三つの時が流れている。過去、現在、未来。お前には今一度、新たな現在を』

そんな大人の為の大人に支配された世界で爪弾きにされた子供達に、捧げる曲は楽しい方が良い筈だ。笑わせてやろう。芝生を転がっていた箸の様な二人の為に、例えば、今だけだとしても。

夢の中のその声は、静かな何処かからいつも、人の音を聴いていると言った。
だから楽しい歌だけを。せめて楽しい歌だけを。出来ればあの寂しい無音の世界に、ほんの一時だとしても。

「あ、マジだ。向こうに熊がいるっしょ」
「は?」
「親父、悪いけど曲変えさせて貰うわ。やっぱジャズってさ、俺の柄じゃねぇっしょ?」
「おいおい健吾、本気か?…ま、楽しそうだから良いけど、選曲は?」
「森のくまさん?」
「くっそ、指揮が判んねぇっつーの」
「そこは余裕で才能で乗りきれる感じで?」
「まぁな、何せ俺は天才な訳だ。…良し、お前に合わせてやるから何とかしろ」
「何とかしろって、丸投げかよ!うひゃひゃ、OK、コンマスに恥は掻かせねぇから安心しとけ♪」

父親が指揮棒を振り上げた瞬間、ざわめきが止まる。
この時の静寂は好きだった。とても。


ただ、サックスに息を吹き込んだ瞬間、父親以外の仲間達が咳き込んだ音だけは、何とも言えない。ピアノの前で肩を震わせている母親の背中は、見る勇気がなかった。


ああ。
子供が二人、ステージからすぐ近くの席で口を押さえて震えているのが見える。ミントキャンディーの様な瞳で隣の子供を覗き込んでいる小さな頭は、けれどあまりこちらを見なかった。

「んだよ、俺の演奏聴きに来たって言ってた癖に…」

けれどその隣の子供だけは、目を輝かせてじっとこちらを見ているではないか。サックスもバイオリンもオカリナも、全てで誰よりも拍手を送ってくれた。

そう言えば、ピアノを弾いていると言っていたのは、あの子供だろうか。
ピアノは余り好きではないが、アンコールでなら、口煩い母親も許してくれるだろう。


健吾は指揮棒を置いた父親に招かれるまま、拍手の渦へと飛び出した。
アンコールに対して予定していた曲はクラシックのアレンジだったが、ピアノパートはなかった。
ボーイズソプラノの健吾は歌えと指示されていたが、何よりそう命じたコンサートマスターその人が、予定通りに物事が進む事を嫌っている。誰よりも楽しい事を優先する男ならば、健吾がステージの中央ではなくピアノに真っ直ぐ歩いていこうと、止める筈がない。

「おっと、息子がまた暴走を始めてしまいました。天才とは常に凡人の想像を越えてくるから、堪らない」

MC宜しく場を笑わせた男は、必死で困った表情を作っていたが、観客に背を向けると耐えきれずに吹き出した。諦めムードの仲間達も、仕方ないとばかりに苦笑している。

白と黒。
鍵盤にはこれ以外の色はない。簡潔にして、清廉。88の鍵が、7オクターブの音を奏で、旋律を産むだろう。


ピアノは余り好きではない。
観客の表情が見えないからだ。途中からは指と音のコラボレーションに意識を奪われ、指揮棒すら見てはいなかった。だから弾き終えるまで、成功か失敗かも判らなかったのだ。

ああ、音が終わった。
肩で息をしている自分の鼓動だけが鼓膜を支配している。
拍手はまだかと顔をあげた刹那、割れんばかりの拍手が体を貫いたのだ。


「えっ、と」

あの子供は。また力一杯、手を叩いているだろうかと。
椅子から飛び降りて歓声に応えながら目を彷徨わせば、ただ一人、手を叩いていない子供を見つけた。

エメラルドの瞳を丸めて手を叩いている子供の隣、さっきまで誰よりも拍手を送ってくれた子供だけが何故か、悲しげな瞳で見上げてくる。
その表情の意味を、健吾は知らなかった。他人を羨ましく思った事など一度もない健吾には、それが絶望の表情だとは、最後の最後まで判らなかったのだ。

「…かなちゃん?」

目が合ったと思った瞬間、思い切り顔を背けられた。
ああ、大好きな筈のスタンディングオベーションが、とても乾いた音で聞こえる。

「俺、何か間違ったっけ…?」

どうしてあの子は、笑ってくれないのか。

























「っ、いた…」
「しおちゃん?!どうしたの、大丈夫?!」

初めは無駄に金が懸かっているな、などと呆れ半分、履き慣れているとは言っても踵の高い靴を選んだのは失敗だったと思ったものだ。

「あ、大丈夫大丈夫。ちょっと躓いただけ」
「あっ、大変、足首を怪我してるじゃない!」
「心配しなくて平気だよ、岳士君。ただの靴擦れ。新しいヒールに負けちゃった。エナメルだから」
「ぼ、僕が待ってる間、散歩しようとか言ったから…っ」
「はいはいはーい、ネガティブ君が出てるぞ?」

骨格がしっかりしているのか、背は低いが体格は良い、悪く言えばずんぐりむっくりな恋人の、出会った頃の評価はまず間違いなくマイナス評価だった。随分うじうじしている男だと密かに苛立ったものだが、時の流れとは恐ろしい。今では無駄に優しすぎるのだと、どうしても惚気が出てしまう。

「大体、隼人が部屋に居なかったのが悪い」
「ええっ?!隼人君は悪くないよっ?」
「いーや、悪いわね。完全に悪だよ。言っとくけど岳士君、見た目は全く似てないけど、隼人は私の子供なんだからね?私達が来てる事に気づいて、さっさと逃げたって事も有り得るし、居留守使ってる線も濃厚だし」
「え?えっ?」
「ってゆーか、寮にコンシェルジュが駐在してるなんて、どう考えても変」
「それは隼人君がSクラスだから…!凄い事なんだよ、しおちゃん!Sクラスのバッジはね、全校生徒の憧れなんだ!高等部のバッジはね、メッキじゃなくて本物の金で出来てて、」
「あは。元気になった?」

天才だと謳われた父親とも、自信に満ち溢れていた野心家の政治家とも、彼は全く違った。記憶してきたどの男とも、重ならない。

「ご、ごめん。僕、いつまで経ってもこんなで…」
「見て、緑がいっぱいだよ、岳士君」
「へ?あ、う、うん。桃の木と梅の木、あっちは桜の木だと思う。もう少し早く来たら、綺麗だったろうね」
「そうだね」

例えばそう、決して記憶力が良い訳でもないのに、木を見ただけですらすらと花の名を当てる様な、植物大好き系男性を草食系などと評価する今の世の中に、肉食男子ばかりが持て囃されたのは遥か昔の事。
若い頃はそんな男に引っ掛かるものなのよ、と。訳知り顔で言ったのはドラマの中での役を着たいつかの自分だったが、女優とは私生活の方が余程ドラマじみているのかも知れない。

「隼人が私に会いたくないのは、仕方ない。私だって本心は…あんま会いたくないもん」
「しおちゃん…」
「あの子はほんと、ムカつくくらいお父さんにそっくりだったんだ。顔だってきっと、若い頃のお父さんに似てると思う。私はお母さんに似たんだ。…垂れ目じゃないもん」
「しおちゃんさ、前に僕の事を恵比寿様みたいだって言ったよね?」
「うん、元々細目で普通にしてても笑い顔なのに、微笑むと目がなくなっちゃうんだもん。岳士君、可愛い」
「かっ、かわいい?!」
「いつも言ってるじゃん、You are very sweet.(超可愛いよ)」
「し、しおちゃんの英語は、いつも流暢だね…」
「可愛い岳士君、照れてる」

ぺいぺいっと行儀悪く靴を脱ぎ捨て、芝を素足で踏み締めた。
慌てるかと思った恥ずかしがり屋な恋人は、育ちが地方だからかこう言った行いを品がないなどとは、決して言わない。

「あの子、私なんかに会いたくないんだろうなー…」

呟けば、想像通りさっと青ざめた男は、頭がもげそうなほどぶんぶんと振り回した。そんな事はないと、口下手な唇より態度が先に物語っている。

「そそそんな事は絶対にないよっ。しおちゃんの子なんだもん、隼人君は良い子だよ!」
「岳士君だけだよ、そんな手放しで誉めてくれるの。この業界で15年も過ごしてるとねえ、目立つ子の噂はすーぐ入ってくるんだ。…岳士君とお付き合い始めた頃、あの子に連絡したって言ったでしょ?」
「うん」
「出てくれただけマシだったかもね、電話。ああ、ナンバー知らなかったからかも知れないけど、それでも最初の挨拶から舐めきってた。『今更何のご用ですかあ?』だって」

自業自得だ。判っている。
乳離れもしていない、言葉を覚える前に手放しておいて、成長の過程を何一つ見ていない癖に、母親振るなと言われるのは至極当然ではないか。

「ご…ごめん、ね。岳士君。やっぱ、私なんかと結婚なんてしない方がよいと思うんだ。だ、だって、籍、入れらんな…」
「ちょっと座ろっか、しおちゃん。ほらここ、日が当たって気持ち良いよ」

生物学者になる夢を家の為に諦めて、中学生の頃から働いて働いて、やっと楽になってから高校と大学へ入り直した苦労人は、童顔だが目元の皺が年齢を感じさせる。
判っている癖に、全てを話しても態度を変えなかった目の前の男を失った時、自分は耐えられるだろうか。一人目の男は絶望した。以降、彼からの連絡は全て無視している。

「岳士君」
「ん?何だい?」
「岳士君は…隼人の父親の事、何も聞かないね」
「どうして?」
「どうして、って。普通、気になるもんじゃない?」
「そうかなぁ。別に、気になんないよ?だって隼人君は僕の息子になるんだもん」
「っ」
「籍なんてね、入れても入れなくても神崎なんだから、気にする事なんて何にもないんだよ、しおちゃん」

ああ。
例えばあの日、初めて両親の故郷の空の下で、王子様の様な男と出会ったその日ですら、期待した事などなかった癖に。

「ねえ、岳士君。…自分の過去を消してしまいたいなんて、初めて思ったんだよ」
「勿体ないよ。どんな過去だって、今のしおちゃんを作った大切な思い出なんだから。要らないならさ、僕に頂戴」

今まで傷つけてきた全ての誰かへ。
全ての行いを懺悔したとすれば、例えば、隣で神様の如く微笑んでくれる何処までも優しい人と同じ所で、死んだ後も一緒に居られるだろうか。

「きっと大切にするから」

神よ。
他にはもう何も、望まないから。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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