帝王院高等学校
恋とは女も男もラララ狂わせますか?!
かぽん。
気が抜ける様な音と共に、庭の鹿威しが弾けた。

「…」
「…」
「王手」
「待った」

凄まじい早さの三味線が、庭とは反対側の障子の向こうから聞こえてくる。
とは言え、母屋の中央にある小さな建物は、部屋一面が障子で覆われていた。何処を開いても母屋の中庭が広がるだけで、その向こうは母屋の長廊下が見えるばかりだ。
坪庭にしては広く、巨大な正方形のドーナツ型である母屋は、360度全方向から中心を覆い隠している。
青龍の彫りが入ったうだつの上、張り巡らされた瓦は一見すると黒に見えなくもないが、近くから目を凝らせば、深い夜の群青だと気づくだろう。

「駄目です、もう2回待ちましたー」
「ぐ。…い、今の手は、少し間違えた。つまり貴様は紛れで勝っただけだ、勘違いするな…」
「お父さん、昨日も同じ事を言ってましたね。僕に負けを認めるのは、そんなに嫌なんですか?ん?」
「う、煩い!」
「入っても宜しいでしょうか、お父さん。お茶が入りましたよ」

母屋に囲われた中心に佇む小さな建物は、龍の宮と呼ばれている。
この屋敷の主は叶不忠だが、彼の許しがなければ、例え身内であろうと敷居を跨ぐ事は許されない。

「な、まさか桔梗か?!き、貴様、何故起きている!茶など他の者にやらせれば良い、すぐに部屋へ戻りなさい!」
「お父さん、怒る前に桔梗ちゃんを入れてあげましょうよ。寒いのに外で待たせるのは、可哀想です」
「あ、ああ、…貴様に言われんでも判っている!障子を開けてやれ、居候!」
「もー、イソーローじゃなくてアレックスですよ、お父さん。覚えて下さいよさこい、アレクセイでオデッセイ」
「黙れ殺されたいのか」

目にも止まらぬ早さで飛んできた将棋の駒が、さらさらの金髪を掠めた。
プスッと障子を突き破り、庭の坪池に落ちていったらしい駒が、ちゃぷんと音を発てる。
立て続けにカポンと鳴いた鹿威し。するすると障子を滑らせれば、艶めいた黒髪を一つに纏めた、桃色の着物を纏う美女が廊下で正座していた。

「Oh、何処のエデンから迷い込んできたフェアリーエンジェルだと思えば、僕の命より大切な桔梗ちゃんではありませんか。今日の着物もとても良くお似合いでーす、今すぐ脱がせたくなるでござる」
「おやおや、困ったお方やこと」

お盆を廊下に置いた人は、鈴を転がす様に微笑むと、白い手に一つ湯飲みを取り、微笑んだまま熱々のお茶をぶっ掛けてくる。

「アウチ!」
「お父さんの前で何を宣うんどす、こん人は。ふふ、おくどさんにくべて、今夜の夕餉の煮物の種火にしおすえ?」

ころころ、ころり。
股間に熱湯をぶっ掛けられた男は金髪を振り乱しながら畳の上を転がったが、大層美しい微笑を湛えたままの女は、湯飲みと茶菓子を乗せたお盆を持ち上げると、しゃなりしゃなりと中へ入った。
じったんばったんと転がっている外国人になど目も向けず、唖然としている将棋盤の前の男の元へ近寄り、音もなく腰を下ろす。

「また遊んでらしたんどすか、お父さん。今日は茶の湯の生徒さんが見えはる日どすえ?先週の様に、お弟子さんが呼びに来るまで時間を忘れていたとあっては、十口流の名に傷がつきます」
「わ、判っている。今終わった所だ…」
「そうどすか」
「うっうっ、酷いや桔梗ちゃん、僕のジュニアが使い物にならなくなったらどうするの?!誰が桔梗ちゃんを喜ばせるって言うんだい?!」
「何かほざいたか、メリケン人」

湯飲みと茶菓子の器を下ろした女は、空いたお盆で恨みがましく睨んでくる金髪の顔面を、麗しい笑顔のまま叩いた。

カポンと言う鹿威しと、バコンと言う音が重なる。

「メ、メリケン人って、それアメリケンから出来たアメリカの別名でしょう?僕はロンドン人だよぅ、桔梗ちゃん…!」
「おや、そうどしたか?ふふ、アメリカもイギリスも同じ様なもんと違います?」
「全然違うよ、麦茶と緑茶くらい違うよハニー…」
「あてはハニワではありません。叶桔梗と言う名前がちゃぁんとあるんどす。奇妙な名前つけんとっておくれやす、…タマ潰されたいんかワレ」
「ヒィ!」

果てしなく笑顔な人の、けれど背後にゴゴゴと言うBGMを聞いた男は、冷めてきた濡れた股間を押さえて転がり、部屋の片隅で小刻みに震えた。
そそくさと逃げようとしていた龍の宮の主と言えば、お父さんと囁いた娘の声に声もなく飛び上がったが、必死で恐怖を飲み込もうとしている様に見えなくもない。

「小林様から、正式に縁切りの旨、連絡があったそうどす」
「…放っておけ。刹那殿の孫とは言え、娘の子だ。小林を名乗っているのは婿に迎えたからに過ぎん」
「外戚と言って、明神の傍系は変わりませんえ。榊様は鳳凰様の命に従って、真っ先に灰皇院から離脱なさったそうですけど、明神宗家の名を捨てたからには、小林様が明神の当主である事は紛れもない事実」
「何が言いたい」
「守矢の早すぎる結婚、何故お許しになったんどす?」

ふんわりと、優しげな微笑のまま吐き出された娘の台詞には、多分に刺が含まれている。叶不忠は形の良い眉を潜めたが、ついぞ返事をする事はなく、母屋へと去っていった。

「…相変わらずやねぇ、孫が出来ても、お父さんは何も変わってへん」
「モーリーの所は男の子だったっけ?」
「アレックスさん、お父さんから苛められたんと違う?将棋に誘われても、相手したらあかんて言ったでしょう?」
「ハレルヤさんが亡くなって、遊ぶ相手が居なくなってしまったんだよ?可哀想じゃないか、お父さん、友達居ないんだから」
「ハレルヤやのうて、晴空様どすえ?」
「Oh、日本人の名前は難しいドッセイ」

しょんぼり肩を落とした男に目元だけで微笑み、叶桔梗は緩めの帯を巻いた腹を撫でた。胸元辺りで巻いているとは言え、そろそろ難しくなるだろう。

「次は女の子かな、それとも男の子かな。桔梗ちゃんに似て賢い冬臣が将棋を覚えたら、お父さんから毎日呼ばれそうだ」
「ふふ、冬臣はまだ一歳どすえ?」
「モーリーは帰ってこないのかい?」
「…意地っ張りな子やさかい、お父さんの方から折れてくれればええんや」
「いやぁ、ちょっと無理じゃないかな。だって、あのお父さんが桔梗ちゃんを押し倒してると勘違いしたまま、出てったんでしょう?」
「ほんま何処まで阿呆の子やろか、過呼吸を起こして意識が飛んでいた私を、介抱してただけやのに…」

呆れ混じりの台詞は、笑みを消した唇から零れた。
実の父親の前でも微笑を消せない、気遣い屋の人が本当の自分を出せるのは、自分の前だけだと。
アレクセイ=マチルダ=ヴィーゼンバーグは微かに笑みを浮かべ、濡れた着物を脱いだ。どうせこの場所には誰も来ない。屋敷の主は仕事で母屋に行ってしまった為、数時間は戻らないだろう。

「おや?着流しの下にパンツ履いてたんどすか?」
「エッチ」
「見られたくないなら脱がなければええんどす」

にっこり。
揶揄めいた笑みに一つ息を吐くと、擦り寄ってくる妻を両手を広げて迎え入れた。

「僕もお茶のお勉強しないと、お父さんに叱られちゃうよ。この間なんか、山葵の粉末を間違えて茶碗に点てちゃって、二時間も叱られたんだ」
「正座で足が痺れて大変どしたなぁ」
「死ぬかと思ったよ。それで、アンケーキに入ったお祝い、何が良いかな?」
「餡ケーキ、なんて言わせんどいて。アンケーキやのうて安定期、プリーズアフターミー、安定期」
「Sure, that's all right.(良し、判った) 安定期だね、安定期」
「アレクさんはとっても賢い殿方」
「桔梗ちゃんに選んで貰った男だもん、当然」
「ヴィーゼンバーグが私の愛しい人を取り戻しに来はったら、イギリス人全員殺して良いんでしょう?」

可愛い妻が産んだ可愛い息子と、これから産まれてくる新しい子供。
何だかんだ悪態つきながらも、毎日将棋に誘ってくれる義父と、緑茶と甘い香りを漂わせた色とりどりの着物を纏う、可愛らしい弟子達。

「うん、いいよ。僕と一緒に、バッキンガム宮殿に攻め込もう」

花が綻ぶ様に笑った妻の、何と愛らしい事か。
惜しむらくは、やると言ったら必ず実行するだろう豪快な妻の、病弱な体が壊れてしまう畏れがある事だろう。

カポン、と。鹿威しが鳴いた。
畳に散る艶やかな黒と、曝け出された白い肌に息を呑んだ。


「綺麗だね、僕の桔梗ちゃん」

これ以上に美しいものなど見た事がない。
例え女王陛下が住まう宮殿であろうと、敵わないだろう。








初めてそれを目にした瞬間、それまでの世界が無色だった事を思い知った。

あれが血の通う人間だと知ったのは、どの花すらも霞む美しい人をこの手で抱いた瞬間だっただろうか。けれどそれでも尚、彼女の美しさは何一つ変わらなかった。汚されても、子供を産んでも、例えば、私が彼女を残して逝こうとする瞬間まで。

泣かないで、と。
言ってしまったからだろうか。

家族の前ですら愛想笑いを崩す事が出来なかった不器用な妻は、別れが近い事を知ったその時から一時も、笑顔を消す事がなくなった。せめて最期の最後まで彼女の美しい笑みを見たまま死にたいなどと、自分本意な事を願ってしまったからだ。


ああ、神よ。
花の名を持つ、花よりずっと美しい彼女が、せめて幸せでありますように。
ああ、神よ。
愛しい三人もの我が子に看取られて、私の人生は何と幸せだったのでしょうか。

貴方に愛され、最後まで幸せだった男の最後の願いを、どうか。どうか。例えば、私がこの世から去った後に、彼女が涙を零す事があったなら。


どうか泣かないで。
君にはこれから先もずっと、幸せが続くのだから・と。



それ以外には何も、望んでいない。














「佑壱様、佑壱様っ、聞こえますか、佑壱様ぁ!」

喉が張り裂けんばかりに叫び続けるその声は、天井が崩落し大部分の床が崩壊した部活棟の一階、夥しい瓦礫が積み重なる隙間から響いてくる。
ガタンガタンとドミノ宜しく倒れていく瓦礫は、次から次へと粉塵を撒き散らせた。絶えず、今も。

「けほっ、ゆ、ゆぅ…ごほっ、佑壱様…ぁ!」

咳き込む女の声は、酷くガラガラだ。
一体いつから叫んでいるのか、その声だけで彼女の苦労を物語っている。

「おい、出てこい」
「!」

一際大きな瓦礫が重なる中央、絶妙なバランスでぽっかりと空いている空間に、果たしてその声の主であろう姿はあった。今にも崩れそうな瓦礫の、動かせそうな部分へ手を伸ばし、崩さない様に細心の注意を払って、潜り込んだ人間の頭を露にさせる。
傷だらけの少女が、整った顔立ちに焦りを滲ませている姿が漸く、網膜へ映り込んだ。

「だ、誰よ!」
「部外者の立ち入りは禁じられている。出ていけ、下手に怪我でもされたら迷惑なんだよ」
「私の勝手でしょう!怪我なんか問題じゃないのよ、佑壱様が大変なんだから!私なんてどうなっても良いの、助けなきゃならないんだから!」
「だから邪魔だと言ってるんだ、糞餓鬼」

例えば、女子供に手をあげる事を、自分は決して許さないだろう。
けれどそれは今の自分ではない。今の自分にとって最重要なのは、何よりも、もう一人の自分にとっての幸福だけだ。

「ぐ!」
「退かないなら寝てろ」

下手に鍛えられている人間は躱すのが上手く、簡単に気絶させる事は出来ない。時間にしてほんの一分程度だっただろうが、それでも気丈な少女が崩れ落ちた瞬間、無意識に舌打ちを零してしまったのだ。

「その子を離して貰えませんかねぇ、東雲先生」

品のない真似をした、と。
己の口元を押さえた東雲村崎の双眸が、細められた。気を失った少女を片腕で抱えたまま、振り返った村崎の視界に映り込んだのは、想定外の男だ。

「そんな出来損ないでも一応、可愛い甥の娘でしてねぇ」

分が悪いのかどうなのか、完璧な愛想笑いを張り付けた男を前に、曖昧な算段をつけた。叶一族の手強さは、例え雲隠であろうと思い知っている。立場が違っただけで、やっていた事は同じだ。

「どうやら大層宜しくない事を考えてらっしゃる様ですが、私も人の事を言えた義理ではないので、出来れば見逃したいんですがねぇ」

帝王院の当主を、間近で守るのか、遠くから守るのか。
己の命を軽んじている所も、手段を選ばない所も、『狗』である事さえも、雲隠と叶は共通している。叶が京都に残った本当の意味を知っている者ならば、誰もが。

「見逃して下さるなら、どうぞ。部外者に割り込まれるのは困るんで」
「おやおや、部外者ですか。成程、東雲のお坊っちゃまは仰る事が高尚でらっしゃる」
「どうも」
「ただねぇ、見えるんですよ。微かですが」

にこにこと、何処までも崩れない笑みを浮かべている男へ、抱えていた少女を手渡そうとした瞬間、耳元で囁かれた言葉に眉を跳ねた。

「私の妻は小林那波と言いまして、明神の宗家を名乗ってはいますが、榊刹那の孫娘です。そして私の母親は、昭和初期に離散した宰庄司の分家に産まれた、錦織葉月と言います」
「…十口に紛れた明神か」
「血が覚えていましてねぇ、私は幼い頃から人の感情に聡い方で。例えば、妻を失った父の、娘を見る目に僅かな欲が滲んでいた事も、叶など穢らわしいと罵った年上の女が、私に対して恋心を抱いている事も、判ってしまったんです」

どうやら、人質になりえた少女を簡単に手放してしまったのは、失敗だったらしい。
嵯峨崎財閥の最高秘書は、何処までも笑顔を浮かべたままだ。薄い眼鏡越し、静かな眼差しに射抜かれて、恐らく頭の中を覗かれようとしている。

「貴方からは、私に対する敵意が見えます。はてさて、東雲財閥のご子息に睨まれる様な覚えは、残念ながらないんですが」
「勘違いだった、と言う事では?」
「私に恨みがないのであれば叶だと仮定しても、それならこの子を簡単に引き渡すのは、どう考えても変ですよねぇ」

叶。
ああ、確かに憎らしいと思わない事もない。叶。帝王院の屋敷を譲り渡された、京都の守護役。いつか帝王院の当主が京へ戻る日まで、天神の名代をしている、狗の一族。
けれど彼らは、化けているだけだ。所詮、狸が人を欺く為に姿を変える様に、空っぽになった屋敷に取り残されただけ。空蝉。二度と主人を守る事が出来ない、裏切り者の一族。雲雀を奪った、鳥籠の一族。

「だとすれば、残るのは嵯峨崎だけ。けれど嵯峨崎航空創始者、嵯峨崎可憐様は最後まで高森糸遊様と共に帝王院舞子様に尽くした、東雲の同志と言っても良い。現に、東雲栄子様は今でも毎年、可憐様の命日に名古屋の墓を訪ねて下さっています」
「…それで?」
「親と子では事情が違いますよねぇ、そりゃあ」

面倒事は少ないに限るが、手遅れらしい。
目下考えるのは、目の前の男と嵯峨崎佑壱、どちらが強いか、それだけだ。明神と雲隠で比較するなら圧倒的に雲隠の方が恵まれているだろうが、目の前の男には、叶の血が流れている。どの家よりも血が混ざった、雑種犬の血が。

「教え子を助けに来ただけですよ」
「実は、うちの坊っちゃんが紛れている様でして。私も先程知ったばかりで、あちらこちらで事情を聞いてから、駆けつけてきたんですよ」
「そんな筈はないですよ、何かの間違いじゃないですか、小林さん。部活棟の地下に取り残されているのは一年Sクラスの生徒だけで、掘削したアンダースクエアから、一人ずつ救出されてます」
「いえ、確かに居るんです。間違いない様ですよ、現に、私の甥がバイクに乗って飛び込んでいったと言う目撃情報がありましてねぇ」

叶二葉。
あの男を見間違える生徒や職員は、確かにこの学園には居ない。中央委員会役員が駆けつける事態。進学科生徒と言う事だけで二葉が駆けつけるには、理由が薄すぎた。
中央委員会役員が自ら動くには、それなりの理由がある。中央委員会会長だった東雲には勿論、在学時代、風紀委員長の経験がある目の前の男にも、それは判っている筈だ。

「一年帝君は遠野俊です。彼は左席委員会会長なので、白百合が助けに来てくれるのは可笑しな話ではないでしょう?」
「いいえ、可笑しな話です。あの子は家族にすら依存していない、一匹狼ですからねぇ。何事にも関心がないんですよ。今じゃ、ルーク=フェイン陛下の命令でもない限り、自ら動く様な真似はしないと思います」
「何が言いたいのか良く判らないんですが」
「姉にね、そっくりな子なんですよ。私も人の事を言えた義理ではないんですがねぇ」
「さっきもその台詞聞きましたけど?」
「雲隠は二重人格が取り柄でしたか。以前その話を二葉にしたんですがねぇ、あの子は単純な子なので、どうもちゃんと理解している様ではなかった。ただ、私は明確に理解していますよ、東雲先生」

笑顔のまま、腕に抱えていた子供を手離した男の足元で、どさりと音がした。からからと背後の瓦礫が滑る音、それと同時にまた、何処かが崩落したらしい。小刻みな振動が地面越しに足へ届く。

「12年前、うちの坊っちゃんがある事件に巻き込まれました。ただ残念な事に、その記憶を覚えていなかったんです。5歳でしたから無理もないんですがねぇ、以降、別人の様に口数が減ってしまって」
「…」
「それまで気に食わない相手には、何処の国の言葉か判らない言葉で返事をする様な、それはそれはひねくれた子だったんです。それがどうでしょう、実の父親すら満足に会話が出来なかった様な子が、その事件を切っ掛けに、日本語を話してくれる様になりました」
「そうですか。すいませんが、この辺りも崩れそうなんで離れた方が良いですよ」
「雲隠の二重人格には一つ欠点があるのをご存じですか。可憐様の夫であった嵯峨崎陽炎様が、嶺一会長に話していたそうです。決して、人格を分けてはいけないと」

まわりくどい世間話を最後まで待つ気はない。
つまり交渉決裂と言う事だ。此処まで来て面倒な相手に邪魔をされたと舌打ちしたい気分だが、救出されてしまう前に、どうしても嵯峨崎佑壱を見つけなければならない理由がある。


「小林さん」

円卓だ。
塗り替えられるだろう黒の円卓に滑り込む為に。神の領域に届いたと謳われるグレアムが、滅ばなければならなかった真の理由を知る為に。どうしても、柱になる必要がある。

「死んだ人間が生き返る事なんて、あると思いますか?」

左胸の奥。
東雲村崎はずっと泣いている。この凄まじい状況で、教え子達がどんな目に遭っているのか想像しては、最悪の光景を思い浮かべて叫んでいる。見たくなければ見なければ良いのに。

「夢物語の様な事を仰る。そんな方法があるなら、是非とも伺いたいものですが」
「死人は生き返ったりしませんよ〜。ねっ、ヤト殿」
「馬鹿、シリアスな雰囲気だろうが!お前は黙っとれ、馬鹿アラレ!」

しゅん、と。
凄まじい早さで駆け抜けていった何かが、小林守矢の足元に倒れていた少女を奪っていった。
弾かれた様に振り向いた東雲と小林の目には、にこにこと微笑んでいる女と、その女に怒鳴っている車椅子の老人が映り込んだのだ。

「今度は誰?」
「おやおや、随分機敏なご老人ですねぇ」
「貴様ァ!この俺を老人とは何だ、ご老人とは!全く、上から見掛けて危ないから助けてやろうと思ったら、お年寄りに気を使わせる様な雰囲気を醸し出しやがって!」
「ヤト殿、ヤト殿、自分で年寄りって言っちゃってます」
「喧しァ!大体、そっちの眼鏡!貴様、嵯峨崎陽炎と言っただろう!」

しゅばっと指を突きつけてきた年寄りに、鬼畜秘書は瞬いた。確かに言ったが、小林には目の前の男に見覚えはない。何処の企業のご隠居だろうかと記憶を捲ったが、やはり思い出せなかった。

「あのウンコより女の扱いが下手だった腐れヤリチン野郎を知っとるとは、貴様は何歳だコラ!」
「違いますよヤト殿、その前に二葉ですよ、二葉。僕の息子を知ってるみたいだって言ったじゃないですか、廊下の窓から見掛けた時」
「喧しいアラレ!俺は読唇術なんぞ使えん、ただの天才外科医だぞ!」
「天才って自分で言っちゃって良いんですか?」
「良いに決まってる!遠野夜刀様に限ってはなァ!」
「…遠野?」

東雲が目を丸め、小林は瞬いた。
そう言えば、随分雰囲気が違うので気づくのが遅れたが、年寄りの傍らで叶鱗を抱いている女には見覚えがある。

「む?そうとも、俺は遠野夜刀様だ。何だ貴様は、ダサいジャージなんぞ着やがって」
「君、まさか、キハですか?」
「え?眼鏡さん、貴葉を知ってるんですか?」

東雲と小林、それぞれに騒がしい二人組が一人ずつ食いついてきた。
遠野最年長の107歳は『おうおう、やんのかコラ』と言わんばかりの目付きで東雲に詰め寄り、少女を両手で抱いている『アラレ』は、サファイアの瞳をぱっちり見開いて、餌を見つけた野犬の様な表情だ。

「眼鏡さんって、君はキハでしょう?!こんな所で何をしてるんですか、ランが待ってますよ?!」
「らん?え?そう言われても、僕はキハじゃないです、アレクセイです」
「はぁ?」
「ああ、自己紹介が遅れてすみません。初めまして、叶アレックスと申します。和の心京都へお越しやす」

ぺこりと頭を下げたアラレの前で、嵯峨崎財閥会長秘書は全ての動きを止めた。
片や、107歳にジャージのダメ出しを受けた一年Sクラス担任は、突然の事態にどうして良いか判らないと言った表情だ。

「何?お前は俊の担任の先生だと?何でそれをもっと早く言わんのか、そうと知っていたら土産の煎餅とかアラレとか持ってきたのに…。いつも曾孫がお世話になってます、シュンシュンのひーじっちゃんの遠野夜刀と申します。時に東雲先生、俊は苛められたりしてませんか?ごほごほ、この通り老い先短い年寄りの大事な大事な宝物なんじゃァ…!俊は、俊は大丈夫なんですかのぅ、東雲先生や…!」
「あ、ヤト殿、お年寄りの振りをしてますね?病気の振りをしても駄目ですよ、ヤト殿はぎっくり腰以外、特別何処も悪くないんですからねぇ?」

マネキンの如く動かない眼鏡を横目に、東雲村崎は額に手を当てた。
本当のラスボスは、小林などではなかったらしい。






















「昨夜倒れた帝王院駿河が、現在危篤状態であると囁かれております」

無人の円卓を意味もなく眺める為に、漆黒のコートを纏う男は閉じていた瞼を開いた。
いつもの通り、一つとして滞りなく終わった議事堂に残っている物好きは、玉座に甘んじて優秀な社員の報告を聞くだけの、自分だけだ。

「…どう言う意味だ。昨夜運び出された駿河を病院まで見届けたそなたは、『意識はある』と言った様に記憶しているが、聞き違いだったとでも?」
「いえ、部下に携帯させている衛星カメラを見る限り、帝王院会長の容態は心配する程ではないと見受けられました。恐らくは肉体的な疲労が重なったか、精神的なものだろうと」
「ならば火種は何処にある」
「人の噂とは身勝手なものです。矛先がなくとも、誰かが気紛れに火を点ければ、瞬く間に炎上する事がないとは言い切れません」
「ネルヴァ、そなたともあろう男が確かな証拠もなく私に人の噂を聞かせるか」

闇に熔けた男の声に目を向ければ、円卓の空席だった所に灰色の髪の男が座っている気配。視力はそこまで良くはないので、照明が消されている今、声だけが明確に届くばかりだ。

「丁度日本に居たシリウスに監視を任せていますが、遠野総合病院の中に無許可で部下を潜らせる訳には行かないと、陛下にお伺いを」
「…夜人の実家か」
「現在は立花病院から婿養子に入った男が院長を継いでいる様ですが、前院長の遠野夜刀は、恐らくクイーン=ナイト=メアの実の兄だと思われます。戦時中の混乱で住民票などが紛失、焼失されています。遠野夜人は、死後に夜刀がそれを知って死亡届けが出すまで、日本国籍から消えていた様でした」
「そうか」
「どう致しますか?」

何年。
両親を失ってから、一体、何年経ったのだろう。思い返す事が最近までなかったと言えば、最期の最後まで一緒だった二人は、怒るだろうか。

「何年」
「陛下?」
「一体、何年。私はこの椅子に座ってきただろう」

ナイン、と。いつか呼ばれた子供が、無惨にも紫外線で焼け爛れた白い肌を見たのは、いつだったか。

「父上の最後のお言葉は、『黒に幸福を』だった」
「…そう、でしたか」
「夜人の望みを、龍一郎の望みを、私は全て肯定してきたつもりだ」

黒。
そう、ノア。
けれど神よ、黒でなければ、幸せにしてはいけないのだろうか?亡き父よ、母よ、最期の最後まで抱かれた記憶のない、産みの母よ。貴方の腹から産まれる事が出来なかった子供を、貴方が愛せなかったのは無理もない。

「私にはリヒト=ノア伯父様を殺した、ヴィーゼンバーグの血が流れている」
「陛下!」
「父上が私を番号で呼んだのは、愛せなかったからだ」
「それは違います陛下、子を愛せぬ親など…!」
「私は一人のまま死ぬに相応しい、穢れた身だ。私が穢し続けたこの椅子は、白を黒く塗り替えるだろうか」
「…え?」

何年。
一体、何年が経っただろう。
可哀想な子供を地下へと連れて、アメリカ大陸に縛り付けてから何年経った?

あの子は光の国で生まれたのだ。
あの子は太陽に嫌われながらも、太陽に誰よりも焦がれている子だ。


「…玉座を譲る旨、中央情報部部長へ申し伝えよ」
「な、なりません陛下!枢機卿は9歳になられたばかりです!」
「少し疲れた」
「っ」
「そろそろ休んではならんか、カミュー。私も70になった。最期は光の元でありたいと思っている。父上の如く、肌を焼かれようとも」

白い、白い、黒羊。
あの子は何処からやってきた子供だろうと、時折、考える。運命を素直に受け入れて、今も尚、虎視眈々と悪魔を殺す日を待ち望んでいるのだろうか。

「2位枢機卿、中央情報部コード:イクスを此処へ」
「っ。…畏まりました、マジェスティ=キング=ノア」

あの子を汚すのはこれが最後だ。
この感情を親心などと宣ってはならない。8人の兄姉を犠牲に生き残った9番目の悪魔は、気高いノアになれなかったのだから。

「新たなるノアの誕生に祝福を」
「それ即ち、唯一神の冥府揺るがす威光を、須く知らしめんが為に…」

何と見窄らしい、カオスだろう。

←いやん(*)(#)ばかん→
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