帝王院高等学校
狂犬の牙は岩をも砕くか折れちゃうか
ざぶん、と言う音を聞いた気がした。
まるで風呂にでも入っているかの如く、体に力が入らない。

ゆらゆらと、まるで、沈んでいく様だ。



「おい」
「何だよ」

さっきまで、何に苛立っていたのだろう。
ゆらゆら、ゆらゆら、乱反射する水面を内側から見ている様な錯覚。光で満ちた万華鏡の世界には、色があるのかないのかさえ、定かではない。

「唇、尖らせんな」
「尖らせてねぇ、普通だ」
「分厚過ぎんだろうが、舐めてんのか」
「あ?テメーが舐めたいだけじゃねぇのか、欲求不満野郎。テメーなんざダンボールの翼でスカイツリーから飛び降りろ、イカロス」

きらきら。
きらきら。
ゆらゆら。
遠ざかる水面、あれは本当に水面だったか?
背中から落ちていく自分は何一つ抵抗など出来ないまま、物理に従って沈みゆくばかり。
同じ速度で、今度は頭から落ちてくる男はキラキラと、光の世界で何よりも輝いて見えた。

「おい」
「…んだよ」
「泣いてんのか」
「泣いてねぇ」
「笑ってんのか」
「笑うかよ、面白くもねぇのに」

ゆらり。
沈む度に記憶が消えていく気がする。一つ、また一つ、花びらがめくれて落ちる様に、剥げていく記憶は何処へ消えていくのだろうか。

「大切だったものは」
「一つだけ」
「それは今、お前の手にあるか」
「…知らねぇよ、そんな事」

世界はこんなにも輝いている。光で満たされている。
なのに何故、いつか大切だったものを一つとして思い出せないのだろう。いつか欲しかったものが何故、思い出せないのだろう。頭の中が色褪せていく。引き換えに、世界はそんな自分を嘲笑うかの様に、目映かった。笑えるほどに。

「甘やかされたいのか」
「あ?」
「誰かから手放しで、何の見返りもなく心から、必要とされたかった」
「…だったら、何だよ」

そんな記憶もあっただろうか。
光に掻き消されそうな誰かの台詞に、否定する気力はない。全てを素直に受け入れる事はこんなにも楽だったのだと、今、初めて知った。

「誰だって、寂しいのは嫌だろ」
「個人的な意見でしかない。例外はある」
「そう、俺が嫌だった。いつも起きたら真っ先にベッドサイドの揺りかごに座るシスターが、その日はいつまで経っても起きなかった。ババアは何処かに行ってしまって、どれだけ待っても帰ってこない」

痛んだ林檎は半分腐っていて、いつもは音楽で満たされている小さな教会はその日から、音を失った。
母親が湖へ捨てたレコード盤が、澄み切った地下水のずっと奥に見えている。手を伸ばしても届かなかった。眠ろうと思ったが、数時間置きに取り替えないと消えてしまう松明が気になって、眠れない。

「石榴の皮が固かった。いつもはシスターが切ってくれる。細いフルーツナイフは所々錆び付いていたのに、目が見えないあの人は器用に剥くんだ。見様見真似で何度か練習したけど、出来なかった」
「幼かったからだ」
「あの時は、そうは思わなかった。俺の世界には、あの時まで三人しか存在しなかったんだ」
「例外はある」
「…オリオン」

ベッドにはいつまでも眠っている年老いたシスターだけ。
物言わぬシスターの横顔を見つめていた。起きたら手を貸してあげなければ、彼女は目が見えないのだから。

「歌うしかなかった。話し相手が居ない、食べるものもない、最後に食べた固いパンと固いチーズの味を思い出しながら、石榴を皮ごと齧った」
「口元が真っ赤に染まった」
「見てきたみてぇな事ほざくな、バーカ」

笑っているのだろうか、目の前の誰かは。
(誰だった?)
(この男はこんなにも柔らかく笑う男だった?)

「赤」
「…何だよ」
「この世で最も美しい色だ」
「本気かよ」
「お姫様に捧げるワインの色」

ああ、折角。
このまま眠れそうだと思ったのに、腹の底に黒い何かが渦巻いたのが判る。

「嫌そうな顔だな」
「してない」
「してんだろうが」
「してねぇ」
「何が不満なんだ」
「…何でテメーがついてきやがる、あっちの優しい方が良かったのに」

明るいのか。いや、暗いのか。
白なのか黒なのか判らない無色の世界を、真っ直ぐに落ちていく。何の抵抗も出来ないまま。
目の前にはキラキラと、透明な世界で唯一輝いている、金色。

「大体、何で俺とお前なんかと付き合ってる夢なんざ見なきゃなんねぇんだよ、馬鹿か。馬鹿を極めてんのか。何でこの俺が、よりによってお前なんか…」
「何回お前なんかっつーつもりだ、馬鹿犬が」

金色の名前は忘れた。
さっきまで覚えていた筈なのに、目の前の顔以外は何も思い出せない。例えば、体温だとか、酷く耳に馴染む歌声だとか、他にも、何か。沢山の、何かが。(消えていく)(剥げ落ちていく)(掬い取ろうにも)(目映い世界に目が眩んで、何も)

「お前なんかお前なんかで上等だろうが!ひ、人を馬鹿にしやがって…!」

何も見えないのだ

「まさか泣いてんのかテメェ」
「煩ぇ!こっちは初めから褒めてやってんのに、テメーと言う淫乱は顔合わす度に喧嘩吹っ掛けて来やがって!もうお前なんか知らん、あっちいけ!」
「何にキレてんのか判んねぇが、顔合わす度に喧嘩吹っ掛けて来やがったのはそっちだろうが」
「お前が悪いんだろうが!」
「何?」

ゆらゆら、ゆらゆら、際限なく何処まで落ちていくのか。底は本当にあるのだろうか。

「人の顔を見る度に舌打ちばっかしやがって!そんな俺が嫌なら何で店に来るんだよ!帰れっつっても閉店まで粘りやがって、無駄なんだよ全部が!テメーなんかに総長が落とせると思ってんのか、クソが!」

ふつふつと、腹から怒りが湧いてくる。何に対して怒っているのかと聞かれても、自分がその質問をしたい様な今、答えられる筈がなかった。

「甘いもんが嫌いだの何だの、ンな事はもっと早く言えば良いだろうが!蜂蜜みてぇな面してる癖に、今まで無理して飲み食いしてましたってか?!はぁ?!そりゃすいませんでしたね、代金貰ってる身で無理させて!」

図らずも饒舌な舌は淀みなく発声しているが、言葉を吐けば吐くほど、自分が何を言っているか判らなくなってくる。何だか酷く情けない台詞を叫んでいるのではないだろうか。
こんな、きらびやかな世界で。自分だけが醜いのではないだろうか。今。とても。

「大体、テメーと言う淫乱ホモは細っこい男にばっかヘラヘラしやがって!そんなにハーレムが作りたけりゃ、ジャングルの奥地の更に秘境の何なら異次元の向こうで、テメーによるテメーだけのキモいホモ村でも作れば良いだろうが!そんで帰ってくんな!二度と戻ってくんな!」
「おい、」
「何がユズだカボスだハゲ!気色悪い女顔侍らしてニヤニヤしやがって好き者が!テメーなんざ性病で死ね!股間からハゲろ、淫乱猫野郎!」
「嵯峨崎!」

ぺちんと、頬から音がした。
何か凄まじい台詞を叫んだ様な気がすると、濃紺の瞳を瞬かせた嵯峨崎佑壱は、嫌に暗い天井を背景に、きらびやかな金色を見たのだ。



「意識はあるか!嵯峨崎!」

ああ、万華鏡の様だ。
けれど何故か、先程の様に痛いほどの目映さはない。大層綺麗なものが目の前にあって、緊迫したその表情は、何処となく泣きそうにも思えた。

「…は?何?あ?…泣いてんのか、高坂?」
「寝惚けてんじゃねぇ、溺れ死ぬつもりか馬鹿が!」
「は?え?」

ざぶり。
水を掻き分ける音と同時に、暗い水の中から体を引き抜いたずぶ濡れの男が、鋭く舌打ちする声を聞いた。苛立った様に放り投げられたルーターが跳ねて、からからと滑っていく。

「何、何が、何だぁ?何でずぶ濡れなんだ、俺」
「水の中でグースカ寝てりゃ、無理もねぇ」
「あ?あれ?お前、トイレから出てきたよな?」
「あ?トイレだ?」
「だって俺のマンションで寛いでて、便器からにゅっと出てきたろうが」
「何を寝惚けてやがる。テメェのマンションなんざ一度しか行った事ねぇだろうが」
「あ?ああ、あれ、そうだっけ?」
「どうなってんだ、テメェらカルマは…」

濡れたシャツが気持ち悪かったのか、躊躇わず脱ぎ捨てた高坂日向は呟きながら座り込んだ。日向が放り投げたルーターはか細い光を放っており、時々点滅している。

「そこに居るのって、総長?」
「気づいたら二人共沈んでやがったんだよ。先に俊を引っ張り上げりゃ、いつまで経ってもテメェは出てきやがらねぇ…」
「マジか」
「まさか、寝てたとはな」

ぱちぱちと点滅していたルーターの光が、一瞬長く消えてから、再び光を灯し始めた。流石は技術班の叡知の結晶、少々の事では壊れない。
半裸の日向の横顔が見えた。真っ直ぐ見つめている先には、恐らく俊の姿があるだろう。佑壱からは、その足しか見えない。

「えっと、何つーか、スいません、あざっす」
「感謝してんならちゃんと言え、何があざっすだ糞が」
「…有難うございまス」

何があったのか思い出そうとしてみるものの、整理がつかなかった。こんがらがった頭でも判るのは、日向が助けてくれなければ、溺死していたと言う事だけだ。
スースーと言う健やかな寝息を発てている俊の表情を確かめようとは思うものの、体が重い。余す所なく濡れているからか、それとも、単に疲れているからか。

「そのままじゃ風邪引くんじゃねぇか」
「テメェと一緒くたにするんじゃねぇ。放っとけ」
「えーっと、それ、何度見ても凄ぇな。なんつーか、芸術っつーか、匠の技っつーか」

現状は変わらず、地下の中に落ちたままだと言う事だ。
助けて貰った側の何とも言えない肩身の狭さから、無駄話ばかりが口を衝く。親衛隊相手に腰を振っている時でさえ、服を着たままだと噂されている男が、校内で肌を晒している所など見た事はあっただろうか?

「俺のは3日くらい懸かったんだけど、それ何日くらい懸かった?日本のタトゥーはアレだろ、何回も色を入れて重ねてったりするんだろ?」
「…」
「やっぱ、ファッションタトゥーとは一味違うっつーか、Vシネに出てくる俳優の刺青は専門のメイクアーティストが毎回描いてるっつーんだから、大変だと思わねぇ?つーか、ああ言う映画を撮る時は、やっぱ本職に取材してんのか?お前ん所にも、」
「おい」
「はい」
「静かにしろ」

少なくとも、何度か見掛けた情事の最中ですら、日向はネクタイをきっちり絞めていた様な気がする。
髪を金に染めている生徒は他に幾らでも見掛けるが、その誰もが、日向とは比べるべくもなく劣って見えるのは多分、服装が原因なのだ。
衣服の乱れは心の乱れ、常々佑壱は舎弟に言い聞かせてきた。
流行りだか何だか知った事ではないが、スラックスを下げたりシャツのボタンを弛めてお洒落だと宣う様な男に、品性など感じない。

「静かにって、別に騒いでねぇだろうが。ちょっと質問しただけで、何イライラしてんだよテメーは」
「何を焦ってんのか知らんが、大人しくしろ。テメェの尻拭いで、こっちは疲れてんだよ」

そっぽ向いたままの日向の台詞は、かなりの刺を含んでいた。
確かに迷惑を掛けた事は認めよう。そもそも一年Sクラスの教室がこんな目に遭ったのは、モードチェンジの権限はあっても使い方を理解していなかった佑壱に非がある。中央委員会役員の癖に後輩を守れもせず、挙げ句には副会長自ら救助に来て下さるまで拗れてしまった。

「…俺が次期会長じゃなかったら、来なかった癖に」
「あ?」
「一々反応すんな、独り言だっつーの!」
「うぜぇ」

カチン、と。頭の何処かで音がした。
耐えろと己に言い聞かせ、濡れて張り付いた髪を意味もなく整えてみる。ドライヤーが欲しいなどと考えてみたが、湧き上がってくる苛立ちは、どうにも止まってくれそうにない。

「セントラルライン」
「…」
「ちっ。クラウンガーデン」
「…」

佑壱の台詞に従っているのか、単に相手にするのが面倒になったのか、足元に転がったルーターの光が今にも消えそうな事に目を細めた日向は、幾つか呟いて深い息を吐いた。
不機嫌げな横顔を盗み見ては目を逸らし、佑壱は手持ち無沙汰から膝を抱えてみる。

「ステルシリー、オプトアウト」

諦めた様な声音に、佑壱は瞬いた。
今のはセキュリティを全て解除し、あらゆる電波に一斉送信する為の命令式だ。回線を開く事を最重要とし、引き換えに、傍受される可能性を孕んだ、緊急時専用コードでもある。
ランクA以上の役員だけが使えるもので、回線こそ開かなかったが、充電切れ間近らしいルーターが一瞬反応したのは判った。

「…打つ手なし、か。糞程面倒臭ぇ」

ああ、そうか。
酷く近い所に、同じ様な台詞を度々口にする男がいる。何に対しても覇気がなく、けれど昔はまだ、今ほど『面倒臭い』を口にしなかったのではないだろうか。

「テメー、いつから裕也と会ってたんだ高坂」
「…あ?さぁな、藤倉本人に聞け」
「居るのか居ねぇのか判らねぇほど無口だった裕也が、自分から俺に話し掛けてくる様になったのは、カルマに入った後だ。あの頃は何とも思わなかったが、誰かの影響を受けてたっつーなら、説明がつく」
「…」
「月に何回、下手したら週に何回会ってたか知らねぇが、テメーらABSOLUTELYのバイスタンダーが未だに三人だったのは、要か裕也がそうなんだろうと思ってた。…とんだ見当違いだったがな」
「デケェ独り言だな、他所でやれ」

小6だったか。
酷く痩せた子供が話し掛けてきた。筋肉や脂肪は愚か、骨すらあるのかと疑ってしまう程に痩せている黒髪の子供は、焦げ茶の瞳だけギラギラと輝かせていて。世界の全てを憎んでいるかの様な、世界の全てを諦めているかの様な、酷く哀れに思えたものだ。

「腹違いの兄貴は毛並みも艶々で、上等の刺繍が入ったチャイナをいつも着てるっつーのに、一年の頃から同じ制服を着てるそいつは、服に体のサイズを合わせようとしてるんじゃねぇかって、思った。無理があるだろ、7歳から11歳までずっと同じサイズの服なんざ、普通は着れたもんじゃねぇ」

日向は振り向かない。表情一つ変えない。
可哀想だと思わないのだろうか。例えば、夢の中の日向は言った。野良犬は可哀想で、野良猫は連れて帰ると。

「コーヒーを飲ませた。匂いは気に入ったみてぇだが、飲んだ瞬間、凄ぇ顔をしたんだ。口に合わなかったんだろうが、ちびちび、最後まで飲み干した。残すのが勿体なかったからだそうだ。健気だと思わねぇか」
「さぁな。俺様には関係ない」

ぱちぱちと、瞬く様に光が点滅した。
技術班が開発したものでも、こう何度も落ちたり濡れたりすれば、壊れても仕方ない。こんな簡単に充電が切れる様な代物ではない筈だが、こんなささやかなLEDでも、なくなればどれほど心細いだろうか。

「ドーナツを喰わせた。3日前に揚げた、粉を変えてみた奴だったが、俺的には失敗作だ。捨てようと思って忘れてたのが冷蔵庫に入ってた。言い方を変えりゃ、単なる残飯処理だ」
「…」
「そっちは気に入ったらしい。3つあったのを、3つとも食べた。きっちり手を合わせて、自分が使った皿とカップを洗いやがった。その時点で、他の餓鬼とは違う事は判る。大河の末家でしかない祭の、妾にも迎えられなかった女が産んだ子供だ。噂くらいは入学した頃から知ってた」

それとも、真っ暗で何も見えないくらいの方が、安心するのだろうか。
幾つかの松明と、それから火を取ったランプだけが光源だった忘れ去られた教会で産まれ、育ててくれた人の死と引き換えに自由を得た様な自分には、闇の中が似合いだと。

「少し調べれば、情報は幾らでも出てくる。大河白燕の嫁と、ネルヴァの嫁、つまり裕也の母親が死んだのはほぼ同時だった。ネルヴァの方が先だったか。何にせよ、アジア系の人間が関与していた事で、主犯は大河に恨みを持つ奴だと思われた。怒り狂ったネルヴァが首謀者を探し当てる前に、大河朱花が殺された。誘拐されそうだった息子を庇ったらしい」
「…そのつまんねぇ話は、最後まで聞いてやる必要があるのか」
「結局、ネルヴァと大河、どちらの犯人も別の組織だった訳だ。怒り狂ったネルヴァは大河朱花を殺した組織を、同じく怒り狂った大河白燕は、大河に従わない中国マフィアを壊滅に追い込んだ。ネルヴァの妻を殺した件に荷担したと思われる組織は、祭楼月と繋がりがあった。運良くネルヴァはそこまで制裁しなかったが、大河に知られれば祭は一族そのものが消されるだろう」
「…」
「大河白燕が組織の一本化を図っている間に、祭楼月は計画を立てた。いつ大河に見限られるか判らないままでは、生きた心地がしないだろうからな。偶然にも、中国マフィアの残党がカリフォルニアに拠点を置いている事を探り当てたネルヴァは、ステルシリー最下層傘下の富豪が集まるパーティーに狙いをつけた。集まるのはランクDの名無しらと、ステルシリーの存在すら知らねぇ様な、中小企業の社長達だ」

日向は黙っている。
響くのは自分の声と、健やかな寝息だけ。そう言えば、あの女は何処へ行ったのだろうかと今更、そんな事に気づいた。

「ネルヴァはこのパーティーに、キング=ノアのスケジュールを合わせた。ホシがネルヴァ狙いなのかステルシリー狙いなのか、それとも大河狙いだったのか。そのパーティーで明らかにするのが狙いだ」

日向は気づいているのだろうか。それとも、わざと逃がしたのだろうか。叶を名乗る娘を。従姉かも知れない、女を。

「初めからそのパーティーは、死人が出る可能性があった。知っていたのはネルヴァとキング=ノア、それ以外の名無し共には知らされていない。国を離れられない大河ファミリーの代表として出席する事になった祭楼月も当然、そのパーティーが地獄になる事なんざ知らされてなかった」

寂しいのは辛い。
そんな事を、夢の中で言った覚えがある。けれど誰かと一緒に寝るのは怖い。家族以外の他人と同じ布団で寝るのは、抵抗がある。だからと言って静かな部屋で一人きりはもっと怖い。

「キング=ノアと繋ぎが取れれば、大河白燕に頭を下げる必要がなくなるとでも考えたんだろう。馬鹿の浅知恵だ、浮かれて女房子供まで連れ出した」

アメリカを飛び出し日本へやってきたのは5歳、嶺一の家で暮らしたのはほんの数ヶ月、アメリカでは屋敷一つを与えられていた佑壱にとって、他人との同居は苦痛でしかなく、街中のマンションを与えられるまでの話だ。
当時既に帝王院学園にて寮暮らしだった零人は、休みの度に帰宅した。律儀に、迎えの車に乗って帰ってくる。毎回。毎回。嫌そうな顔を隠しもせず、一言目には『まだ居やがったか居候』だ。

「とは言え、男爵に会える機会はないに等しい。時間は限られてる。たった三日間で、せめて自分の名前だけでも売り込んでおくにはどうすれば良いか。祭楼月の焦りがピークに達する頃、奇跡が起きた。ネルヴァの息子が、同世代の祭の息子に興味を示したんだ。それも本妻の子じゃなく、母親から引き離された日本人の混血、祭青蘭に」

会話らしい会話など殆どなかった。要因は何を置いても、佑壱に零人と会話する意思がなかったからだろう。

「裕也の母親は日本人とアメリカ人のハーフだった。母親を亡くしたばかりの裕也が、要に興味を示したのも無理はねぇ。祭楼月は狂喜しただろう、可愛い跡取り息子の美月に危険な事をさせるより、例えネルヴァの怒りを買って処分されてしまおうが、青蘭は仕方なく引き取った愛人ですらない女の餓鬼だ」

英語は話せた零人もまた、佑壱に対しては日本語でしか話さない。頑固な兄弟だと笑われるだろうか。仲良くしたくない訳ではなかったのに、5歳も離れていると会話の糸口が見つからないのだ。少しも。

「そして、それぞれの思惑が乱れる中、事件は起きた。死者は奇跡的に0、最重傷患者はたった一人。パーティーに招かれた楽団の、オーケストラマスターだった男の子供で、当時ヨーロッパを中心に神童と持て囃された、パーフェクトミューズ」
「高野健吾。それがどうした」
「確実に死んでた程の怪我だったらしいが、心停止したにも関わらず、数日後にニュースが飛び交った。一命を取りとめたってな」
「何が言いたい」

初等部までは良かった。ルームメートが居たからだ。けれどそれも、6年になって部屋割りが変わるまでだった。当時ルームメートになった東條清志郎は、一学年年下の幼馴染みの元に入り浸りで、優等生で教師からの覚えも良かった為、まさか東條が後輩の部屋に泊まり込んで自室に帰ってこないなど、誰も知らなかったに違いない。安部河桜と喧嘩をした時だけ肩を落として帰ってきたが、ルームメートとしての信頼関係など築ける訳もなく、佑壱と東條の間に会話などほぼなかった。

「例えば、それが俺だったら」
「…んだと?」
「胃が半分吹っ飛ぼうが、折れた肋骨が肺に突き刺さろうが、長く見積もって2ヶ月あれば回復してるだろう。但しそれは、俺に限った話だ」
「…」
「突っ込まねぇ所を見るに、テメーはそれも知ってやがったな。何でもかんでも知ってる癖に知らねぇ振りをすんのは疲れねぇか、ベルハーツ=ヴィーゼンバーグ」
「黙れ」
「イギリス人の美徳ってか?」

誰も寄ってこない。
誰も話し掛けてこない。
他人を受け入れようとしない相手など、誰が受け入れてくれると言うのか。今なら判るのに、どうして、あの頃は判らなかったのだろうか。今、この状態の自分のまま、例えば産まれる瞬間まで時を戻す事が出来たなら。少しは大人になった17歳の自分のままで、赤子の頃からやり直せたなら。

「あの一件で、狙われたのはネルヴァでもキングでもなかった。表向きは無差別テロって事になってるが、実際、命を狙われたのは大河だ。まさか大河白燕の代わりに祭楼月がサンフランシスコに来てるとは、相手も思ってなかったんだろう。怒り狂ったネルヴァと大河が潰した組織の残党が、腹癒せに大河白燕を狙った」
「証拠はねぇ。どいつもこいつも、この世から消えた奴らだ」
「あの当時、大河朱雀は地獄と化した上海から遠ざけられて、シアトルに送られたっつー話だ。裕也の母親と朱雀の母親は、腹違いの姉妹だった。愛人の娘が大河朱花だが、母親の元で生まれ育って、父親だったアメリカ空軍大佐から認知はされてねぇ」
「パソコンすら満足に触れねぇ癖に、きっちり調べてんじゃねぇか」
「対外実働部の権限を活用すりゃ、屁でもねぇ。…何にせよ、裕也と要の接点はあの一件で闇に葬られた。引き換えに、要を庇って死の淵を彷徨った健吾と同じ病院に入院していた裕也は、以降、健吾と同時に帝王院学園に入学する」

知っていた。自分は全て、初めから。
けれど知らない振りをし続けた。要がスパイだろうが、裕也がスパイだろうが、興味がない振りをしたのだ。他人の事情など、所詮、他人事だと思っていた。きっと、理由はそれだけだろう。

「テメェは餓鬼共に同情してやったって言いてぇのか、エアフィールド=グレアム」
「は?」
「下らねぇ話を聞かせて、テメェのお綺麗さを評価させたいっつー事だろう。生憎、その程度の話で揺さぶられる様な価値観は持ち合わせねぇ」

ちらりと、向けられた琥珀色の瞳は、乾いている様に思えた。今にも消えそうな光に照らされた、濡れたブロンドはそれでも尚、美しく。

「優しくない…」
「ふん、それも独り言か。性格の暗さを露見してねぇで、衛星回線でも開いてみろマスターファースト。俺様の権限じゃこれ以上、」
「俺のケツを掘った方のお前は優しかった!」

ぷつん。
再び光が消えたのと同時に、世界は沈黙した。

自分が何を叫んだのかイマイチ理解していない嵯峨崎佑壱は暗闇の中で瞬き、ややあってから口を塞ぐ。
今更塞いでも遅すぎる事は、明らかだ。

「…何だと?」
「何でもない」
「何でもない訳あるか、テメェ、今なんてほざいた?あ?」
「何でもない」
「…」

疑わしげな日向の目を見られず、佑壱は顔を背けた。
ごそごそと全身をまさぐってみるが、先程の違和感など欠片もない。背中と爪先が強く痛む以外には、腰が痛いだの怠いだの、微塵程も感じなかった。

「…なんつー夢を、俺と言う奴は…」
「ちっ」
「!」

鋭い舌打ちに肩を跳ねれば、上半身裸の日向が立ち上がるのが見える。
無意識に手を伸ばしてしまい、日向の濡れて張りついたスラックスを掴んで、目を見開く。

「な、何しちゃってんの俺?!」
「はぁ?知るか、馬鹿に磨き掛けてんじゃねぇ」
「煩ぇ!俺は帝君だぞ?!三番の癖に人を馬鹿にす、」
「テメェ!その面ァ80年前から見忘れてねェぞ、雲隠陽炎ォオオオ!!!」

凄まじい絶叫と共に、闇を貫く白が落ちてきた。
ドポン、と言う音と同時に巻き上がった迸る水飛沫が、キラキラと。

「な」
「何だぁ?!」

まるで、万華鏡の様に。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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