八丁堀もしもなお話集
一郎太・桜編F
定廻りに衝撃が走ったあの日から一カ月。
非番の佐々岡は午前中に自身の家の用事を済ませ、午後は一郎太の役宅であれこれ家事をこなしていた。
男のわりにしっかり者で役宅自体は綺麗なのだが、食事や着物の直しなど細かいことまではこなせていないようだった。
奉公人はいるが、優しい性格故最低限のことだけやってもらっているという。
だから毎日佐々岡はここへ来ては細かなことをこなしていた。
「やってるわねー」
そう言いながら勝手口から入ってきたのは弥生だった。
「弥生さん。往診の帰り?」
「そ。佐々岡様に渡すものがあったから、ちょっと寄ってみたの」
「渡すもの?ていうか私がここにいるってよくわかったわね」
「そりゃわかるわよ。非番なら惚れた男の為に心底尽くすのが恋する女ってもんよ」
「弥生さんたら……」
「いいのいいの!若い二人なんだからおもいっきり恋をして、楽しんでから幸せになればいいのよ」
そう言うと往診用の道具箱から袋を取り出した。
「はいこれ。手荒れや湿疹によく効くのよ」
「手荒れ?弥生さんなんでそのこと知ってるの?」
「一郎太さんが毎日家事で手荒れがひどくて可哀想だから何かないかって言いに来たのよ」
「一郎太が?」
「本当に大事に思ってるのねー。他の男どもじゃあ気づかなかったわよ、きっと」
そう言うと弥生はくすっと笑ってみせた。
「優しい佐々岡様に優しい一郎太さん、お似合いね。じゃあねー」
言いながら弥生は勝手口からさっさと出て行った。
「慌ただしいんだから弥生さんは」
佐々岡は弥生から貰った袋から小さな入れ物に入った軟膏を二つ出した。
「一郎太ったら……」
一郎太の優しい心遣いに気持ちが暖かくなる。
「人のことばかり……自分も大事にしてほしいのに……しょうがないわね」
そう言って軟膏を袋に戻すと奥の部屋にしまいにいった。
同心のお役目は基本夜の八時までである。
勿論仕事内容によっては夜中になったり徹夜になったりすることもある。
今日はどうやら帰りが遅いようだ。
食事の用意をして、佐々岡は一郎太が帰ってくるまで新しくこしらえている一郎太の着物を縫って待つことにした。
しばらくすると戸口の開く音とただいまという声が聞こえた。
「お帰りなさい」
一郎太の声に答えながら佐々岡が迎えに行く。
「ずいぶん遅かったわね。張り込み?」
「ああ。ほら呉服屋に入った押し込み強盗の件、源吾さんが目星がついたって言うからそいつをずっと張ってたんだ」
「なるほどね。まだ動きないんだ?」
「うん。特に目立った動きはなくて、そのまま八兵衛さん達と交代してきたよ」
「そっか。じゃあ八兵衛達は徹夜になるわね」
「そうかもしれないなぁ」
そう話しながら二人は部屋へ歩いていく。
一郎太の支度部屋に着くと佐々岡が羽織を脱がせ鴨居の引っ掛けにかける。
一郎太は隣の自室の刀掛けに刀を収める。
「あっこの匂い……もしかして茄子の煮浸し?」
「せいかーい!よくわかったわね」
「大好物だもん!やったね!」
「今用意するから待っててね」
そういうと佐々岡は台所へと消えていった。
こうやって勤めから帰ってからの佐々岡との何気ない会話に一郎太は幸せを感じていた。
しばらくして、食事の時間になる。
今まで食べ物なんて細かく気にしてなかった一郎太には、栄養満点で奉行所でも評判の佐々岡の手料理を独り占め出来ることが嬉しくて仕方なかった。
だから遅くなっても外で済ますことはまずない。
「あっ里芋の煮っ転がし!懐かしいなぁ。昔よく食べたっけ」
「それ、お父様のと同じ味付けよ」
「え?」
言われて一郎太は驚いた。
「今日買い出しに出掛けたらお父様に声をかけられて。少しお話させてもらったの。その時に教えて頂いたのよ」
「そうだったんだ」
父さんが……きっと下っ端の俺なんかでいいのか聞きにいったんだ。
心配性だからな、父さんは。
変なこと話してなきゃいいけど……。
そう思いながら芋を一つ口に含んだ。
「どう?」
「……うまい!同じ味だよ!桜凄いな!」
「本当!?良かったぁ」
嬉しそうに佐々岡が笑う。
俺のためにわざわざ味付け聞いてくるなんて……。
一郎太も嬉しくていつもよりさらに食が進んだ。
楽しく食事を済ませ片付けや風呂なども済み、一郎太は報告書のまとめを、佐々岡は裁縫を始めた。
いつもゆっくり過ごしてから佐々岡は自分の役宅へ戻る。
佐々岡は一郎太の羽織のほつれを直し終えると今度は着物に取りかかった。
「あれ?俺そんな柄の着物持ってたっけ」
「これは新しく作ってるやつよ。あなたあまり持ってないから、今日買い出しの時反物屋へ行っていくつか生地買ってきたのよ」
「え!?作ってくれてるの?」
「うん。どんなに頑張っていてもやっぱり古着ばかりじゃ箔がつかないもの」
「嬉しいなぁ!ここ最近着物なんて気にしてる余裕なかったからさ。ありがとう」
本当に嬉しそうに言う一郎太を見て佐々岡も同じように嬉しくなった。
「いいえ。大事に着てね」
そう言ってまた縫い進める。
「あ……でももうこんな時間だ。そろそろ帰らないとご両親が心配するんじゃ……」
「大丈夫。与力やってれば、帰る時間なんてまちまちで気にしてなんかいられないでしょ?だから心配なんてしないのよ。それにいつも家の門まで送ってくれるから尚更心配してないの」
縫う手を休めずに佐々岡は言った。
「……ねえ桜。俺今度桜に合わせて非番とってご両親に挨拶に行くよ」
「え?」
突然の話に佐々岡はびっくりした。
「どうしたの?急に」
「本当ならすぐに行くべきなのに忙しくてずっと行けなかったろ?勿論お父上も与力をなさってたから理解はしてくれてるかもしれないけどやっぱりそれじゃ駄目だと思うんだ」
「真面目なんだから一郎太は」
「それに……やっぱりずっと一緒に居たいんだ。一緒に住みたい。だからきちんとお父上にお許しを頂きたいんだ」
「一郎太……」
「役宅の往復は桜にも負担だし、いくら送るといっても夜に歩かせるのは危険だ」
「本当に優しいのね。一郎太って」
そう言って昼間弥生に貰った薬を引き出しから出してきた。
「これ昼間に弥生さんが来て置いてったのよ。一郎太に頼まれたって」
「あっ!それ……。弥生さんここへ来たのかぁ……直接くれればいいのに」
恥ずかしそうにしながら一郎太が言う。
「弥生さんが一郎太だから気づいたんだって言ってた。手荒れ気にしてくれてたんだね」
「いつも痛そうで、桜は家事だけじゃなくて与力としての勤めもあるから大変だろうなって」
「ありがとう。こんなに優しい一郎太なら父もきっと許してくれるわ。話しておくわね」
「……桜。俺についてきてくれるか?」
「はい。ずっとお側に居させてください」
一郎太は桜をおもいっきり抱きしめた。
もう離したくないと思った。
心を堅く結んだ二人を飲み込み、夜は更けていく――。
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