『続』八丁堀の七人
第一巻 サイドストーリー集
大切なこと ―若同心の恋模様A―
「あーもうなんでこんなに!」
久しぶりに体調を崩し三日も休んだ次の日、兵助はたまりに溜まった仕事を片っ端から片付けていた。
磯貝がしっかり兵助の仕事を分けもせず残しておいたのだ。
「これじゃ磯貝さんだって青山様のこと鬼与力なんて言えないじゃないか。鬼同心だよ。やっと治ったっていうのに……」
兵助が呟く。
……でも正直本当に辛かったかと言えばそうでもない。
体調を崩した日、佐々岡が兵助が来ないのを心配して兵助の役宅を訪ねていた。
そこで佐々岡が面倒を見てくれたのだが、情けないのを覚悟で兵助は佐々岡に側にいてくれるよう頼んだ。
それから昨日まで、佐々岡は仕事の合間にずっと兵助を看病していたのだ。
だから兵助は辛いとは思わなかった。
むしろ……。
兵助は佐々岡が北町に来た時から佐々岡のことが気になっていた。
しかしいくら女と言えど相手は与力。
しかも青山よりも格上の与力である。
同心の自分とは不釣り合いだ……。
兵助がそう思った矢先、さらなる問題が出てきた。
……青山の存在である。
昔からの顔見知りとは聞いているが、青山の態度はただの顔見知りへのそれとは違っていた。
――青山様は佐々岡様に惚れている。
兵助はそう感じていた。
青山様は佐々岡様に仕事以外で自分といる時は無理せず桜に戻れと言ったらしい。
それ以来、桜様の姿で青山様とよく一緒にいるのを八兵衛さん達も見かけている。
考えるだけで胸がきゅーっと締め付けられる。
自分が入る隙間はない、諦めよう。
そう思っていたのに……。
昨日までの三日間、一生懸命看病して側に居てくれた佐々岡に兵助は隠しきれない思いを抱いてしまった気がした。
「いけない、余計な事を考えてしまった。…でもこれ今日中に片付くかなぁ」
山積みの書類に嫌でも溜め息が出る。
他の同心はみな見回りに出ていていない。
孫さんに代わりを押し付けてしまったし、とにかく終わらせなくては……。
そう思いながら筆を走らせていると、廊下から誰かがやってくる。
あー磯貝さんだったら最悪だ。
また叱られるよ…。
兵助はそう思いながら報告書を書いていた。
「兵助、大変だな。」
体がびくっとなったのがわかった。
「……佐々岡様」
鼓動が早くなる。
「磯貝に兵助の分の仕事はみんなで分けるように言ったんだけどなぁ。青山がどうせ言ったって分けずに、来てそうそう兵助にやらせるよって言ってたのは本当だったな」
佐々岡の話に青山の名が出ると兵助は胸が締め付けられるような気がした。
「いつものことですよ。青山様のことあれだけ文句言っときながら自分だって同じことしてるんですから」
動揺を隠すように兵助は口早に喋る。
「後でしっかり言っておくよ。まったく、サボることは一流なんだよなぁ磯貝は」
そう言いながら兵助に近づく。
「私も手伝うよ」
そう言って積んである書類に手を伸ばす。
「大丈夫ですよ!今まで面倒見て頂いたのに仕事までやって頂くわけにはいきません!」
兵助も、慌てて書類に手を伸ばす。
伸ばしたお互いの手と手が触れる。
どきっとしながらも手を引っ込めようとすると佐々岡が兵助の手を握った。
「あ……」
「お前達を見張る為だけに私はいるんじゃない。お前達が仕事をしやすいように環境を整えていくのも私の仕事だよ」
兵助を真っ直ぐ見つめ言う。
その優しい瞳に兵助は釘付けになった。
佐々岡は手を握ったまましゃがみ込み兵助に言った。
「兵助、お前は真面目で突っ走りすぎる。悪いことではないがそれじゃあ体が持たない。もう少しゆっくり進みながらで構わないし、もっと私を頼って欲しい。……家柄はここでは関係ない」
言われて兵助ははっとした。
同心としてまだまだ若い自分が走り回るのは当たり前だと思ってる。
だからなんでも引き受けてきたつもりだ。
どうせ大身旗本のお坊っちゃんだから……そう言われたくなかった。
――佐々岡様にはそれを見抜かれていた。
「八兵衛が前に言ってた事があるんだ。兵助は心のどこかで家柄を気にしてる、だから走りすぎることがあるって」
「八兵衛さんが……」
八兵衛さんにまで見抜かれていたなんて……。
恥ずかしさがこみ上げてくる。
「みんなそれぞれ理由を抱えてる。でもここではみんな定廻りの同心であり、それ以外のなにものでもない。だから走る時は走る、頼る時は頼る。それでいいんだよ」
兵助へ優しく笑いかける。
「俺……馬鹿ですよね。一人で考えすぎて突っ走って。いつもそれでみんなに迷惑をかけてしまうんです」
あまり弱音を吐くのを見たことがない佐々岡はその表情に少し戸惑った。
「……みんなそういうのを乗り越えていくんだよ。大丈夫さ」
握っていた手を離しぽんぽんっと肩を叩いた。
「辛かったり苦しかったりしたら言ってくるといいよ。青山や他の同心には言いにくいだろうから」
その言葉を聞いて兵助が言う。
「……情けないですよね」
「私はそうは思わないよ。情けなさなんて誰でも持ってるんだから」
立ち上がり佐々岡がさらに続ける。
「私は兵助は正義感の強い頼れる男だと思ってる。与力としても、女としてもな」
そう言って山積みの書類を少し手に持ち自分の机に向かう。
「さぁ、片付けちゃおうか」
言って佐々岡は筆を取り出し、目を通し始めた。
「はい!」
高鳴る鼓動を隠すように兵助は仕事を再開した。
女として私を頼りにしてくれている……もうそれだけで十分だった。
佐々岡様……私はあなたをお守りします。
同心としてこの御恩に報いる為にも。
そして男として惚れた女を守る為にも。
心の中で兵助は決心したのだった。
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