小説
オフィスらぶ 第五話
「胸と股間が熱くなる!」
とある日曜日、久しぶりに秋葉原へと足を運んだ。
最近は忙しくてネット通販に頼りきりだったが、やはり生はいい。やはり生はいい!
大事なことなので二回言いました。
「帰ったらすぐに読もう」
右手の戦利品に意識を持っていかれたのが悪かったのかもしれない。前から来た人と、肩がぶつかってしまった。
「うおっ」
更に運の悪いことに、その人の服に、彼が持っていたコーヒーがかかっていた。
アロハシャツを着てグラサンをかけた、どう贔屓目に見ても紳士とは呼べない男は、顔を前に突き出し低い声で吠えた。
「おいおい、あんた、やってくれるじゃねぇか」
「すいませんっ」
「すいませんで済んだら、警察いらんのじゃボケェ!」
「ひっ」
何この人、超怖い。血管浮き出てるし、絶対堅気の人じゃないだろ。完全にヤの字だろ!
っていうか、息、めっちゃかかってるんですけど!?
「ちょっとついてこいや。このスーツの礼さしてもらおやないか」
「うわっ。ちょっ、離して下さい!」
手を振りほどこうとするが、相手の力が強過ぎて離れそうにない。
このまま連れて行かれたら、きっとぼろぼろにされて、一生奴隷にされるんだ。漫画でよくある展開だしっ!
男はこちらの腕を掴んだまま、路地に入っていこうとする。
連れ込まれたら、終わりだろう。そう直感的に悟り、必死に抵抗する。
「離して下さい、お金なら払いますから!」
「っるせぇ! そんなもんいらねぇな」
「そんな……」
ああ、もうだめなのか。どう言おうと変わりそうにないヤクザ男の態度に、絶望が心を支配し始める。
父さん、母さん。先立つ不幸をお許しください。
心の中で両親に別れを告げ、全てを諦めかけたとき、最後に思い浮かんだのは、あの人の顔だった。
いや、違う。
自室のクローゼットの奥に隠された大量の同人誌のことだった。
否、その更に下に厳重に封をして隠してある、魔法少女のコスプレセットのことだった。
主なき部屋を整理された時、手作りのあんなものが見つかれば、社会的にも抹殺されてしまうだろう。あれだけはなんとかしなければ!
引き摺られながら遺品整理に思いを馳せていると、不意に男が立ち止まった。
解放してくれるのかと期待して男の方を向くと、彼の前に見覚えのある人が立ちはだかっていた。
その人はヤクザ男を睨みつけると、指を突きつけ叫んだ。
「おい、そこのヤクザ、止まりやがれ!」
「既に止まってますよっ!」
「既に止まっとるわっ!」
「あ、あれ?」
しまった、思わずツッコんでしまった。しかもヤクザ野郎とハモってしまうなんて。仲が良いと思われるかもしれないじゃないか!
一方、二人に同時にツッコミを入れられた伏見さんは、戸惑った顔をしていた。
「あ、確かにそうですね。なんかすいません、指とか指してしまって」
なんか、謝っちゃってるし。
「お、おう。わかりゃいいんだよ。こっちこそ、いきなり大声出して悪かったな」
ヤクザ男の方も、つられて頭を下げる。
……え、何これ。何この空気。めっちゃ気まずいんですけど。ヤクザ男はひたすらポケットに右手を出し入れしてるし、伏見さんはアスファルトで靴底削ってるし。
三人が微妙な空気にそわそわしていると、救いの女神が舞い降りた。
「お前等何をやっているかっ!」
「誰だあなたはっ!」
声の主に、ヤクザ男は先ほどまでの空気を引き摺った、若干丁寧な怒声で返す。
「なんだかんだと聞かれたら、答えてあげるが世の情け」
突然現れた課長は、不適な笑みを浮かべると名乗りを上げかけたが、それを遮るようにヤクザ男は言葉を続ける。
「俺はやらなきゃならねぇことがあって忙しいんだ。用がないなら行かせてもらうぜ」
「スルーされたっ」
一人ショックを受けている課長を尻目に、ヤクザ男はこちらの腕を掴んだままさっさと歩き始めた。
「何やってんだよ、リョウコ! おい、おっさんも。話はまだ終わってねーぞっ」
始まってすらいないんですけどね。
小さな声でツッコミをいれつつ、しかし頭では別のことを考えていた。
リョウコとは誰のことだろう。状況的にみて課長のことだろう。しかしどうして伏見さんが課長を呼び捨てに?
冷静に考えよう。異性を名前で呼び捨てにするのは、二人が親しい間柄のときだろう。親しい間柄、つまりは家族、兄妹、または恋人同士か。
兄妹ということはないだろう。そもそも名字が違う。課長の名前は荒泉、伏見ではない。
ならば当然の帰結として、二人は恋人同士、ということになる。
伏見さんが、課長の、恋人。
なんて似合いの二人なのだろう。悔しいが、そう思ってしまう。
「覚えてやがれっ」
沈み込んでいた思考を引っ張り上げたのは、そんな捨て台詞と、現実に思い切り引っ張られたのであろう腕の痛み、そしてどうしようもない程の浮遊感だった。
「星野っ!」
ヤクザ男に投げ飛ばされた。その状況を把握したのは、眼前に迫るアスファルトの黒色を認めたときだった。
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