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「……怒っていません。どうして私でなきゃいけなかったのか、分かっていますから」
 私か彼の従姉のどちらかを婚約者にする。十六歳の春、彼もまた二者択一に迫られていたと後から聞いた。彼の一族は昔から親戚での婚姻を繰り返しており、これ以上血が濃くなるのを憂えて私を選んだのだ。……聞いたら、もう彼を責められなくなった。
 地面は雨で黒く染み、ここ数日で大きくなった水溜りは濁りきっている。足は後で拭えば良いだろう。差し出されるまま手を取ればふわりと体が浮き、同時に傘が下へ落ちた。

「ちょっ……誠さま! 濡れますから止めて下さい!」
「このくらい平気だから」
 矢張り分かってない。
「それより、暴れないで欲しいな。僕を濡らしたくないなら綾子がかばってよ」
 ね? と有無を言わさぬ笑顔で見上げられ、仕方なく私は肩を叩く行為を止める。おずおずと彼の肩に両手を置き、自分の体で彼を雨から守るようにすると、「それで良し」と笑って言われた。
 雨は、まだ降り続いている。

 抱きかかえられたまま母屋に戻れば、目くじらを立てた女中につかまった。偶然見つかったのか手の空いた女中達で捕獲作戦を実行していたのか知らないが、女中は眉を潜め、苛つきを抑えた声で言ってくる。
「目の毒です。仲が宜しいのもほどほどになさって下さい」
 二人で目を合わせ、ようやく彼は私の腰から手を離した。ゆっくりと畳の上へ着地し、自由の身となった瞬間に着物の袖を引っ張る。……重かったのに、負担だった筈なのに。夫は私の部屋に着くまで下ろしてくれなかった。
「あんなに下ろしてと申し上げましたっ。私は足が汚れても良かったんですよ」
「綾子が離れに行くから悪いんじゃないか」
「離れに行く原因を作ったのは誠さまでしょう? お互いさまですっ」

 本当に、『ああ言えばこう言う』という言葉を地で行く人だ。思わず目の前に女中がいるのを忘れて言い合っていると、彼はそろり、私の頬に手を伸ばす。
「普段からそのくらい、元気でいてくれないかな。おしとやかだと息が詰まらない?」
 ああ、そうかこれは。わざとだ。
「……っ」
 小さく息を呑んだのは私ではなく、喧しい口喧嘩から一部始終を見ていた女中で。出会ってから十年以上、この程度の軽い触れ合いでは何とも思わない。それを彼も知っているから、時と場合を選んでこういう行動をする。
 ……それもわざと。そうすると若くて初心な女中は、
「奥さま、言伝が届いておりますわ。旦那さまはすぐに部屋へお戻りになって下さい。絶対安静ですから、間違っても外に出ないで下さいね」
 ……大抵こうなる。

 頬を染めて走り去った女中にひらひらと手を振り、何てこともない表情で私と向き合う。女中に押し付けられた茶色の封筒を両手で抱え、ジト目で見上げると彼はにこっと笑って。
「だそうだよ、綾子」
 まるで他人事。
「それを、何で私に仰るんです?」
 今までの行動からして、漠然とした予想ならついていた。こめかみに手をやりながら尋ねると、矢張りというかここまでいくと当然とばかりに答えてくる。
「綾子と一緒じゃなければ部屋に戻らない。傍にいてお手玉の練習をして貰わないと」
「誠さまっ!」
「まあまあ、気にしないの」
 気にしないのじゃない。今すぐこの部屋で正座し、懇々と切々と、膝詰めで訴えたい気持ちにさせられた。彼の体が弱いこと、この家にとって彼の存在がとても大切であること、篠崎医師に告げられたこと。
「誠さまが気にしない分、私が気にしてるんですって……」
 出来ることなら、雨に濡れてまで私を抱き上げ、母屋に連れて行くのも止めて欲しかった。
 いや、何としてでも止めさせるべきだったのだと思う。彼の場合、何が命取りになるか分からないのだから。

 愚痴と心配が入り混じり、自分でも何を言いたいのか分からなくなった頃。しつこく続いていた呟きを彼は両手を叩くことで消し、襖を開く。
「暇なんだ、話し相手になってくれても良いだろう?」
『一人じゃつまらないよ、ここにいて』
 ――昔も。布団から顔を出して、私の着物の袖を引っ張りながらそう言っていた。
 口角を無理やり上げただけの、寂しげな笑みにつられるように踏み出す。再び縁側へ出ると、私は彼の着物の袖を摘んだ。今度は、自分から。
「ねえ、綾子」
 微かな声が雨に消されず、どうにか聞き取れたのは彼が首を捻り、後ろを向いていたからだった。私といえば周りに女中がいないのを良いことに、先ほど貰った封筒を開けようとしていて。部屋に戻れば上等なペーパーナイフがあるが、それまで待てなかったのが正直な所だ。
「な、なっ何ですか?」
 慌てて封筒を体の後ろに隠したのも気にせず、彼は申し訳なさそうに両手を合わせて告げる。
「誕生日の贈り物がもう決まったんだ。ごめんね、希望があっても受け付けられないな」
「ですから、要りませんってば」
 ……ここまでしゅんとされれば「すっかり忘れておりました」なんて口が裂けても言えない。小刻みに頭を左右に振ると、彼は「そう?」と小さく言って前を向く。
「嬉しく思ってくれれば良いんだけど」
 その割には悲しげな声で聞こえてきたのが、ひどく印象に残った。


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あきゅろす。
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