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「旦那さま、一体どうなさったんでしょう」

 朝餉を囲み、また給仕している誰もが思い、しかし口にしていなかったこと。その口火を切ったのは、この家で働き始めたばかりの若い女中だった。ぽつりと呟かれたそれを切欠に、私と同年代の女中達を中心として密やかに会話が広がっていく。
 普段であれば聞き流しているけれど、今日ばかりは右から左へ流せなかった。
「――そうですよね。もう三十分も過ぎていますよ」
「どなたか起こしに行った方が宜しいでしょうか?」
「お体の具合が悪いのかもしれません」
「でも、朝早くの旦那さまって不機嫌ですし。少し怖くて……」
 囁きであるはずのそれは妙にはっきりと聞こえ、物言いたげに女中達がこちらを見やる。広い和室には幾つもの盆が置いてあるが、一番の上座にいるべき夫の姿だけが見えない。彼の妹夫婦も年の離れた弟も、母屋に住んでいる一族の皆が揃っていて。
 小さく息を吐いて、ぐるりと頭を巡らせる。彼がいないなら、この場を纏めなければいけないのは妻である私、だ。
「お黙りなさい」
 水を打ったように静かになり、一斉に目が私へ向く。

 立場を考えずにしゃしゃり出ている。他家から嫁いだお前に何が出来るのか、と言わんばかりだった。私は出来る限りのにこやかな笑みを作って顔に貼り付けると、正座を崩して立ち上がる。
「行ってきます。皆は先に食べていて頂戴、誠さまは私に任せて」
 当主よりも先に箸をつけられる訳がない――。そんな無言の反論は笑みで黙らせ、碁盤の目にも似た廊下へ出て行った。
 右へ、右へ、左へ。部屋の名前を確かめることも、道順を呟いたりすることもなく真っ直ぐに彼の部屋へ向かっていく。見慣れた襖越しに「入りますよ」と声をかけ、両手を使い襖を開けて。彼は、まだ眠っていた。

「……もう、誠さまったら」
 どれだけ寝ている気なのだろう。病気で一時的に仕事を休止しているけれど、普段ならとっくに食べていなければおかしい時間だ。
 ここまで来れば遠慮などしない。出来る限り大股で歩き、布団の横で膝をつく。布団は人の形に丸みを帯びていて、彼は頭から春用の掛け布団を被っていた。
「まだ寝ていらっしゃるんですねっ。早く起きて下さい! 朝餉が片付かないではないですか」

 返事がない。まさか彼の悪戯で、この布団をめくれば丸まった手拭いや縫い包みなどがぎゅうぎゅうに詰まっているのではないかと思ってしまう。
 人をからかうのが好きな彼だったらやりかねないけれど、でも、それにしてはこの薄さはなかった。縫い包みはもっと嵩がある。薄く、全体的に小さい。人が入っているのだったら、もっと布団が盛り上がっていても良いはずなのに。
「具合でも悪いのですか……?」
 近寄り、至近距離で問いかけたことで気付いた。呼吸がない。
 本来ならば耳に届くはずの吐息も、衣擦れの音も一切聞こえてこない。どう見ても不自然で、私は反射的に布団から手と耳を離した。……嘘だ、これは絶対に嘘。そうでなければ悪い夢。こんなもの、現実として認めない。
 硬く目をつむり、恐る恐る布団の端に手を伸ばす。寝ぼけた彼に抵抗される様子はなく、すんなりと布団は捲られていった。何かが焼けているような匂いがする。かと思えば、病院の消毒液のような鼻にツンとくる匂いもある。
 ゆっくりと開いた視界に、まず飛び込んできたのは白くて乾燥した粉だった。
 何だろう、これ。更に視線を移すと、二つの大きな空洞やすかすかの胸が目に入る。だらりと下ろされた腕らしきモノ、所々欠けた耳。

 ――横たわっていた骸骨を、もう彼とは言えない。


 朝から情緒不安定だった。話を聞きたがる大きな子供にせがまれるまま、その理由をこと細かく話すと――案の定、彼は面白そうに笑って私の頭を撫でる。悪夢を思い出して涙目になっていた私に、「あのね」と声をかけて、さらりと。
「それを人はね、考えすぎと言うんだよ」

 低く掠れた声で告げると、とたんに私と医師に背を向けて咳をする。
 お手玉をしてと彼が言った、あの雨の日から一週間以上が過ぎていた。私を迎えに来たせいで彼の風邪がぶり返し、ずっと咳が続いていて。
 ……彼は必死で隠しているけれども、苦しげな咳に血が混ざっている。それも分からないほど、私は鈍感な小娘でもなかった。
 私の隣で正座していた医師は、彼の額に手を当てて問答無用、言い放つ。
 ここ数日医師は母屋へ入り浸るようになっていて、段々、彼への態度がくだけたものへと変わっている。妻としては褒められたものではないが、昔に戻ったような気がして嬉しかった。
「誠さまは楽観的すぎですがね。……熱、あるじゃないですか。ただでさえ悪化させてるんです、何の役にも立たない病人はとっとと寝て下さい」


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