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「ふふ……その通りかもしれません」
 でも、幼い頃の幸せな時間はもう戻らない。
 表情が陰ったのを心配してか、医師は両膝に手を添えて私と目線を合わせた。おどけるようにもう片手を胸に当て、にこりと笑う。
「ご安心下さい、奥様。篠崎の名に誓って、今度も必ず治してみせますよ」
 その言葉を、昔から何度も聞いてきた。
『大丈夫、綾子ちゃん。僕が誠を治すから』
 泣きじゃくる私を安心させ、不安げに彼を見つめる私を元気付け、弱音を吐く私を叱咤してくれた。繰り返された発言は彼の病が治るたびに信憑性を増し、今は絶対と信じられるほどにまでなっている。
「宜しくお願い致します」
 私は体の前で三つ指をつき、深く頭を下げた。ゆっくりと顔を上げていくと、医師は僅かに眉間に皺を寄せていた。

 意外だった。そのまま、微笑んでいてくれるかと思っていたのに。
「……ただ」
「ただ?」
「これ以上悪化させたら、最後です。覚悟をしておいて下さい」
 躊躇いがちに、けれどはっきりと告げられる。覚悟はしていた、はずだった。出会った時から彼は体が弱くて、ことあるごとに熱を出したり流行病にかかったり。妻として彼を支えられるように、いつだって考えて行動してきた。
 考えていただけで、実感はしていなかったのだと思い知らされる。こうやって言われることの、衝撃がこれほどに大きいなんて。
「……はい」
 きつく唇を噛み締めて、頷いた。

 篠崎医師のお見送りをするため門まで出ると、医師は幾つかの連絡を述べた後――声音を低くさせ。
「それと、奥様」
 静かな気迫と真剣さを感じる。緊張が走り、背筋はいつの間にか伸ばされていた。
「今から言うことは私の戯言です。深く意味を考えず、必要であれば忘れても構いません」
「はい?」
「奥様の大事な物と引き換えに、雨は止むでしょう」
 まあるい雨粒が傘の外側をとめどなく濡らし、ぽたぽたと続けざまに落ちていく。目の前の傘から水滴が飛び、私は反射的に背中を向ける医師を呼び止めていた。
「どういう意味ですか?」
 返事は、ない。


 鬱々とした感情を持て余していた。医師の言っていることが分からなくて、そのくせ螺旋のようにぐるぐると頭に残り続ける。
 おそらくは比喩なのだろうが、雨とは、大事な物とは何を例えているのだろう。無理をしてでも追いかけ、引き止めて聞いておけば良かった。
 夫の私室は母屋の角にある。一向に止む様子のない雨だれの音を聞きながら縁側を歩き、襖を開くと、彼は起き上がって本を読んでいた。
 かけていた布団は邪魔そうに脇へ追いやられ、水の張ったたらいには白い手拭いが浮かんでいる。
「もう、行った?」
 息をするのさえ忘れていたと思う。
「起きたのですか?」
 語尾がみっともなく震えた。そうであって欲しいと強く願った。もし私と医師が話している時に起きていて、彼が寝ている振りをしていたのであれば、どうすれば良いのか分からない。

 彼は襖を開いて棒立ちになっている私に手招きをし、布団の隣まで座らせた。読みかけの本は枕もとに閉じて放られている。
「駄目だったかな。邪魔だと思ったから、寝ている振りをしていたんだけれど」
「……では、聞いて」
「余命のこと? うん」
 「そろそろ危ないらしいね」とまるで他人事のように言って、上気した頬のままにこにこ笑って。刹那、私は彼を押し倒していた。
「どうして、そんなに平然としていらっしゃるのですかっ。ご自分のことなのですよ!」

 沸々と怒りがわいてくる。病人だったら雨の中、傘を使ってまで私に会いに来ないで欲しい。もっと自分を優先すべきなのに、何でそう笑って後回しに出来るのか。私には、彼が自分の命を軽んじているとしか思えなかった。
 見下ろした先にある漆黒の瞳は一度大きく見開かれ、それから眩しげに細められる。
「生きてみなきゃ分からないよ。それに、この風邪をこじらせなければ良いんだろう? 簡単じゃないか」
 伸ばされた熱い指先が、涙に濡れた頬を滑る。
「そうですけど、でも」
 彼の肩の横でついていた手を外し、ゆっくりと身を起こした。ふと冷静になってみれば、自分がしたことへの羞恥に頬が火照ってくる。
 いくら衝動のままに行動したとはいえ、もっと別の方法もあったのではないか。幼馴染みで夫とはいえ、自分から男性を押し倒してしまうなんて。

「病気を持っていた方が長生き出来るって言葉もあるじゃないか。きっと、よぼよぼの老人になっても君に心配されながら暮らしているよ。体を大切にしろって言われてさ」
 色んな意味で、彼を見るのがひどく恥ずかしかった。
「そんなに心配していては、私の寿命が縮んでしまいます。誠さまは私を早死にさせたいのですか」
 ぷいと視線を逸らしたまま言う私は、彼の目には可愛くない奴だと映っているだろう。
「ああ、そうかもしれない。ごめんね」
「本当ですっ……」
 目から勝手に流れてくる水を袖で拭う。体ごと壁を向いた私から彼の表情は見えなくて、微かな衣擦れの音と、優しく髪を梳く感触が伝わってくるだけ。
「綾子」
 声は、耳元から直接響いてくる。
「……」
「綾子」
「……はい」
 呟くように返事をすると、後ろから柔らかく抱きしめられた。高い体温と、じんわりとした汗。体臭と白檀が混じった彼特有の香り。恋情も愛情も感じない抱擁には、ただ優しさだけが込められていた。

「あと五年は死なないよ。……いや約束する、君を置いて逝ったりしない。この広すぎる屋敷に君だけを残したりしないから」
「どうして」
 振り向けば、いつものように微笑む彼がいた。
「どうして、そんなに笑っていられるのですか……?」
 これは雛鳥の刷り込みだ、と思う。幼馴染みはもちろん、保護者も兄も友人も配偶者としての役割も兼任してきた彼だからこそなせる技だ、と思う。
 私がどれだけあがいても反抗しても、彼には絶対に勝てない。
「それはね、綾子」

 育花雨の降る音が遠くの世界のものに聞こえる。
 太陽の光は厚い雲に閉ざされ、僅かに開いた襖から差し込んではこなかった。


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あきゅろす。
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