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 五月。外はつつじの花が咲き乱れ、池に赤や薄い桃色を浮かべている。取っても取ってもきりのない花に稔も白旗を揚げ、今では紅く染められた池を風流だから良い、と放置するようになった。池の錦鯉も毎年のことに驚いた様子はなく、ゆったりと泳ぎ見る者を楽しませていて。
 私はといえば、体の自由を満喫していた。
 箪笥の奥から引っ張り出してきたワンピースは優しい色合いの白で、肌触りも柔らかく動きやすい。友人がこぞって洋服を着たがる理由がよく分かる。……問題は、着慣れていないことだけ。今まで和服ばかりを着ていたから、この服装が似合うのか似合わないのかの判断がつかない。

 どきどきしながら襖を開けると、夫は枕を頬の下に乗せて横向きに寝ていた。私の足から顔へと順に視線を巡らせ、緩く口角を吊り上げる。
「洋服? どんな心境の変化かな。あんなに着てと言っても、嫌だの一点張りだったのに」
「こちらの方が動きやすいんですもの。似合いませんか?」
 「いいや」と頭を左右に振った……と思う。枕で固定されているから動きが小さくなるのは仕方ない。
 去年のこの時期、彼から貰った白いワンピース。ある日いきなり服の入った小包を渡され、高そうだからと返品しようとすれば断られ、結局一年も箪笥の奥で眠らせていたのだけれど、おそらくこれが去年の贈り物だった。
 彼は頭まで布団を被って、辛そうに咳をしている。彼の病気は少しずつ、少しずつ悪化していた。篠崎医師に言われなくても分かるほど、確実に。

 咳が落ち着くと、彼は布団の端からそっと手を出して私を呼んだ。
 ぽん、ぽん。畳が優しく叩かれる。招かれるままに近寄って持っていた水差しを下ろす。正座の私を見上げてくる表情は上機嫌そのもの。
「似合ってる。女中達にも洋服を着て貰おうかな」
 目元を緩ませ、蕩けそうな笑みを浮かべて。……ああもう本当にこの人は。私の夫は。
「これだから、誠さまは」
 女心を分かってない。自分だけが似合っていると言われた方が嬉しいに決まってる。言わずに濁した言葉も推測がついたようで、軽く睨むように見つめると両手を合わせてくる。ごめんの動作だ。
 ふ、と真面目な顔つきになって、彼は私の袖を掴んだ。
「ねえ、綾子」
「はい」
「後悔してる?」
「しておりません」
 自分でも驚くほどにきっぱりと言い切れた。数週間前まではここまで明確に言えなかったと思う。
 彼と共に過ごしてきた時間を全く後悔していないとは思えなかった。もし出会っていなかったら――と考える瞬間がいつもあった。でも、今はまた違う。
 結婚してから、ことあるごとに何度も繰り返された質問。もう迷わない。
 彼は疑わしげに私を見やり、鋭く目を細めた。信じられなくて当然。今までずっとその質問に答えるのを避けていたのだから。
「本当に?」
 自信を持って頷く。
「はい」

 目を閉じれば、走馬灯のように思い出すことが出来る。彼と出会ったこと。遊んだり泣いたりからかわれたり、でも最後には笑って。稔と篠崎医師と四人、幼馴染みとして過ごした時間。
 体中の水分が抜けるんじゃないかと思うくらい泣いた、十六歳の春の日も――。
「今では良い思い出です。懐かしみこそすれ、後悔する必要なんてどこにありますか」
 両手を畳につき、真上から覆い被さるようにして彼を見た。長い黒髪が頬をすべって布団の上に落ち、天井の照明は私自身が遮って。柔らかく微笑んだ。
「私は、誠さまの妻ですから」
 少しでも幸せだと感じて貰えたら良い。一秒でも長く生きていて欲しい。何か願うことがあるならば、それを私が叶えたい。
 天が泣いたあの時から、はっきりそう思うようになった。――この思いは愛でも恋でもないけれど、確かに、彼を大切に思っている。目の前にいるこの人が、私の幸せを第一に考えてくれたように。
 コン、と表現するには鈍い音が響く。

 自分の存在を主張するそれに慌てて体を離すと、篠崎医師が縁側に座って襖に手をかけていた。その横にはいつも持ち歩いている四角い鞄。同じ大きさの封筒が無造作に乗せられている。
「良い雰囲気のところ恐縮ですが、時間です。……綾子さま、こちらを」
 手渡される封筒を受け取り、両腕で抱え持つ。
 彼に見えない角度で中身を確認すれば欲しかった情報がきちんと書かれていた。内密に手を回していても、屋敷の中にいる自分だけでは動ききれないことがある。
 やっぱり医師に頼んで良かった。
「ありがとう」
 笑ってお礼を言うのと同時に、不満げな声が聞こえてきて。子供っぽく唇を尖らせているのは当然ながら、彼。

「何、僕に内緒で手紙のやり取り? しかも堂々と?」
 医師と二人で顔を見合わせて笑った。彼も冗談で言っているのだろうが、間違ってもそんな甘やかなものではない。寧ろ殺伐や荒涼という言葉が似合う。なんせ、私は彼を裏切ろうとしているのだから。
「そうね」
「そんなものです」
 わざとらしく声を揃えて言い、『手紙』を見る振りをして彼の表情を盗み見た。
「へーえ……。綾子も良い度胸だね」
 剣呑に眇められた眼差しも、下から突きつけられるのでは効果減少。余裕とばかりに微笑んでみせる。
「このくらいでなくちゃ、やっていけませんわ」
 「私の雨」が誠さまとこの家だとするならば、大切な物とは何なのだろう。私は何を失うことになるのだろう。篠崎医師にそう言われてからずっと、考えてきた。
 何となくだけれど、その答えが見えてきた気がする。


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