残心【6】 ぼんやりと夏夜が去っていった外を眺めながら、日生は小さく釘を刺した。 目の前の男が選んだのはあの従妹ではない。 「行っちゃダメ。後で慰めるのもダメだから」 この言い方だとまるで自分が独占欲の強い彼女であるかのように聞こえる、面白い。 日生は小さく唇の端を歪め、手を伸ばして夏夜が残していったレモンチーズケーキを一欠けら頂いた。 茶の湯で食べる和菓子ならともかく、一成はもともとケーキ類が得意でないのである。 夏夜の頼むケーキを躊躇いなく食べるのは長年の習慣と愛の成せる業だ。 (初恋の味ってこんな感じかな) もぐもぐ咀嚼しながら考える。爽やかに甘く、くどくなくてさっぱりしている。 もう一口分フォークを突き刺した。 美味しいし羨ましい。 日生の初恋はもっと酸っぱくて常習性があって服に染み付いたら洗濯が面倒な、血の色をしたざくろ味だった。 「……分かってる」 同じく窓に視線をやっていた一成は虚ろな目をしながら頷いた。 あの従妹は知らない。 一成が何を見聞きし、どれほど考えてこの決断を下したのか。 日生に会いに来た時の一成は目に隈が出来ていて可哀想なほどだった。 「辛いのは今だけだよ。十年二十年経ったら、きっと笑って思い出せる時がくるんだから」 「そうだな」 奴が馬鹿みたいに一生懸命で、傍で守ってあげたくなって。 だから日生は何よりも先に一成の味方をすることにしたのだ。 日生はおもむろに立ち上がって、先ほどまで夏夜が座っていたスペースに移動した。 椅子に丸く残った跡は目に入れないことにして、ポンポンと自らの肩を叩いてみる。 凭れろという合図だ。 「泣いていーよ。どうせなっちゃんの前ではカッコいいお兄ちゃん気取って、弱くなんかいられないんでしょう……っ?」 一成は泣き笑いのような表情になった。 「日生、お前」 「イイ女だって? 嫌だなァ一成、そんな前から分かりきってたこと今更」 「悪いが違う。夏夜と全然似てないってこと言おうとした」 日生はフッと鼻であざ笑うように返した。 それこそ今更なことだ。 日生は自分が美しいことを否定しないが、それは一度壊れてしまった者特有の享楽と倒錯と怠惰が入り混じったような美。 健康的でまっすぐな可愛さなど爪の先ほどもない、そっちはあの従妹だけの領分なのである。 「……そりゃ、そうだよ。なっちゃんとわたしの美しさは間逆もいいとこだもん。でも、だからこそ心地いいはずだよ。なっちゃんを思い出さなくて済むんだし」 「ああ」 呟くと、日生の肩に凭れかかってくる。 全体重をかけるのではなく、頭だけをそっと乗せるような穏やかな重みで。 「お前が横にいれば、楽に生きられるんだろうな」 前に一成が言っていた。 自分にとって夏夜は守るべき対象で胸を焦がす存在で、目の届く範囲にいないだけで呼吸が苦しくなるのだと。 確かにいちいち感情を揺さぶられていては楽に生きることなど到底無理だろう。 「でもね、一成」 ――本当の望みが叶わないのだから、適応規制は一時的なものでしかないんだよ―― 日生は言いかけて口を閉ざした。 自分にも十分、当てはまることだった。 ◇ 「かやあぁっ!」 夏夜は小さく身じろぎして、それから『私は夏夜ではありません』とでも言うように、スタスタと早い足取りで駅に向かい歩き出した。 後ろから追いかけるのは広報委員の一人から夏夜が学園近辺にいるとの情報をもらい、不審に思っていたメグ。 メグは仕事を終えて帰宅する途中、喫茶店『べーた』から続く石階段を力なく下りてきた夏夜を発見したのだ。 そんなことは露ほども知らない夏夜は親友に惨めな姿を見せたくない一心で逃げ出したのだが、メグの方が足は遥かに早い。 捕まるのも時間の問題で、一分も経たないうちにメグは夏夜の前に周り込んだ。 「どうして」 と、夏夜は呆然とメグを見つめながら言った。 何でここにいるのの『どうして』であり、何で声をかけたのの『どうして』であり、何で夏夜だって分かったのの『どうして』でもある。 メグは呼吸を落ち着かせ、夏夜をキッと見据えた。 「どうしてはこっちよ! 何でここにいるの……そんなに、泣いて」 強かった調子はだんだんと弱くなっていく。 メグの冷たい指先が爪の当たらぬよう頬に添えられ、夏夜は機嫌の良い黒猫みたいに目を細めた。 このまま全てを委ねてしまえたら、と思う。 温かな、自分を絶対に傷つけない誰かの腕の中でまどろんでいられたらどんなに楽だろう。 けれど夏夜は、どうしたの、と首をかしげた。 「泣いてないよ? ほら涙なんか出てないし」 「私には泣いてるようにしか見えない」 メグはきっぱりと言い切った。 そう言われれば肩を竦める他なく、くすりと口の端だけを吊り上げて微笑みの形を作り上げる。 泣いている? まさか。 このくらいで泣くような弱い子は一成も夏夜も望んでいないし、仁科家次期当主の従妹として立っていられるわけないじゃないか。 そんなの絶対認めない。 「鋭いね。……でも違うよ」 今度はメグの方が泣きそうな顔になった。 「違わない。夏夜、アンタ今どんな顔してるか自分で分かってる?」 「どんな顔って?」 「こんな顔よ。ちょっと待って鏡出すから」 逃げないでよ、と前置きして学園指定の手持ち鞄を探り出す。 その間、改めて夏夜はメグの格好を眺めた。 紫苑のエンブレムがついた学園指定のコートに制服と同じ色のスカート、手持ち鞄とくれば今まで学園にいたことは明らかだ。 そういえば質問に答えてもらってないと気付いた時、メグは「これよ」と言ってりんごの描かれているコンパクトミラーを掲げ、鏡の部分をこちらに向けた。 一瞬目を向けて、すぐに目をそらす。 真実を写すものは見たくなかった。 「ねぇねぇメグ、水戸黄門の印籠みたいだね」 「茶化すんじゃないの! それ以上ぐだぐだ言ったら怒るからね!」 口の中でもごもごと返事し、夏夜は再び鏡を見た。 一成の彼女と同じ肌の色と唇の赤み、ストレートの黒髪は美しいかどうかは分からないがよく褒められるし夏夜も頑張って手入れしている。 でも、どんなに努力したってあの人にはなれない。 ふ、と唇が自然に薄い三日月の形になり、夏夜はハッとして鏡の中の自分を見つめた。 前に一成が見せた表情にそっくりなこれは。 自分で自分をあざけるようなこれは。 「……自嘲って言うんだね」 それから半年、夏夜は一度も一成と会わなかった。 [*前へ][次へ#] [戻る] |