ナイチンゲール【1】 『帰って来たら、私が撮ってきた写真全部見せてあげるよ。旅の途中であった話も聞かせてあげる』 あなたの代わりに、と幼い日の彼女は言った。 世界中を見せてあげるとも。 言葉が出なかった。 偶然か、もしくは必然か。 何気なく視線を移した一冊の本が、切なく、けれど甘く僕の心を締め付けた。 「椿」 本の左下に書かれたその著者名を見て、真っ先に呼んだのは彼女の呼び名だった。 月初めの本屋だ。足を踏み入れて直ぐにある、新刊がずらりと並べられた本棚。 平積みになり他のどこよりも目立っているその場所に、椿著『ナイチンゲール』はあった。 黒い地にひらりと舞い散る白い桜の花と、光を身に纏った、けして黒と同化しない灰色の小鳥が描かれた表紙。 美しい金文字がタイトルを縁取っている。 普段は本屋によりつきもしない、行ったとしても用事だけで済ませてしまうのに、僕はその時に限って立ち止まった。 どちらも僕にとって特別な名前だからだ。 もしや、と報われない期待を抱いてしまうほどの。 「――これこれ、椿の本。ナイチンゲールが代表作なんだけどね、こっちのぺルセも……」 「あー、はいはい。読めってんだろ。お前、俺を引きずり込もうとしたって無駄だぜ」 喧騒から逃れ、考えにふけっていた僕を現実に引き戻したのは高校生の二人組だった。 カップルらしい二人は後ろから覗き込んで、女の子は得意げに隣に積まれている本を手に取る。 二人の会話の内容からすると、どうやらナイチンゲールは新刊ではないようだった。 よく眺めると、平棚には椿の著作ばかりが並んでいる。 『絶対泣けます! 好きな人がいる方にオススメ』という、鮮やかに描かれたポップもついていた。 何となく、手に取る。 表紙を開くと見開きの部分に軽くあらすじが書かれていて、僕は目を丸くした。 使い古された陳腐な表現かもしれないが、これ以上の言葉がとっさには出てこない。 綴られていたのはどこか懐かしい、十年前の僕と『彼女』の物語だった。 目次は十の章で構成されている。 慌てて目を走らせると、作者については何も書かれていない。 年齢性別、本名も顔も全てが不明な新進気鋭の小説家。 仕事の合間に世界中を飛び回っている、と印刷された文字を見た所で、冷たい何かが頬を伝うのに気付いた。 「郁人は無理なんでしょ? 仕方ないなあっ。私が、世界中を見てきてあげる。美しいものを」 永遠に薄れない記憶の中で、彼女の言葉がリフレインする。 椿という名とは裏腹に子供っぽく。 またある時は、ぴったりと当てはまる気高さを持って。 砂漠化した大地に可憐な花を咲かせるような、真夏の向日葵のように鮮やかな笑み。 得意げに胸を張った彼女に、無理だよ、と言ったのを覚えている。 今思えば、彼女の行動力ならばそんなこと容易く成し遂げてしまうだろうに。 「そんなことないわよ。いつか、それを郁人にも聞かせてあげる」 幼い彼女の願いは、全てを僕抜きに進められていく。 「僕も行きたい」なんて。 その頃の僕は、それを言う勇気すらなかった。 『十二歳の夏。 小夜は見知らぬ家の庭園の奥に迷い込み、そこで孤独な若き独裁者、一臣と出会った。 ひたむきで苦しく、どこまでも切ない恋が幕を開ける。 ――結末は、童話「ナイチンゲール」にも似た。』 [次へ#] [戻る] |