[携帯モード] [URL送信]

グループ企画
白雪姫――トーコ
 真っ赤に染まった親指を、私は呆然と見ていた。

 大した傷ではないが、傷口からはぷくりと楕円の形に血が出てきている。

 ぼうっと見ている場合じゃない、バンドエイドを貼らなければ。頭では妙に冷静に考えられた。

 でも、どうしても体を動かすことが出来なかった。

 こういう意味で自分の血を見るのは久し振りだった。

 考えごとをしながら剥いていたから、矢張り注意力不足か。

 ぽたりと赤い鮮血がリンゴの上に落ちたのを見て、ようやく私の体が動き出した。

 のろのろと、怠惰にゆっくりと包丁をシンクへ置く。
 まずは消毒しなければと思うものの、水で指先を濡らすのは躊躇われた。

 お湯にしようか、赤い印のついた蛇口を捻る。

「――ちょっ、お前何やってんだ!」

 温かくなったか確認しようとしたところで、カウンターキッチンの向こう側にいたはずの彼が声を上げる。

 リビングと対面式のそれを彼は、「ユキが何をしてるか分かるから良い」と言って選んだ。

 実際、私が料理をしている時は必ず、彼はリビングのソファに座って読書をしている。
 今日もそうしていた、はずだった。

「何って。リンゴ切ってたら、スパッと」

 これは本当だ。

 リンゴの皮を剥く音が途切れたのに気付いたのだろうか。
 このくらい大丈夫なのに……そう思っていても、彼はそうではないようだった。

 カウンター越しに私の手首を掴み、応急処置とばかりに血のついた指先を口に含む。

 お湯の方が良いと思うけど。
 思ったけれど、言わない。

 彼は軽いリップノイズを立てて私の指を離すと、ぽんと頭の上に片手を置いた。

 ついでと流れたままのお湯を蛇口を捻って止め、まっすぐに視線を合わせる。

 彼の目には私しか映っていなかった。

「これだから目が離せないんだ。待ってろよ、そこから動くな」

「……はぁい」

 そうする、と言葉を紡ぐ前に大きな手の平は離れていってしまった。
 私は自分の体をどこか客観的に眺めた。

 最近、一週間に一度は何らかの怪我をしている。

 この前は段差で転んだんだった、確かその前は靴擦れをして。
 怪我ばかりする私のせいか、この家は救急箱を使う頻度がとても高かった。

 彼は軟膏とバンドエイドを持って、客間――ほぼ私の部屋と化している――から戻ってきた。

 軟膏の蓋を取る動作は随分と手馴れていて、中心から円を描くように磨り減った柔らかな色のクリームが姿を現す。

 私はリンゴを塩水の入ったボウルにつけながら、彼の様子をちらちらと目で追っていた。

「ほら、指出せ」

「うん」

 血はとっくに止まっていたが、彼はそんなことは気にしないようだった。

 軟膏を傷口に塗り、バンドエイドを袋から出してくるりと指に巻きつける。

 瞬く間にそれは終わって、彼は気遣わしげに私の顔を覗き込んだ。

「無理するなよ」

「はい、先生?」

 わざとそう言ってからかえば、彼は嫌そうに顔を歪めた。

 そう呼ばれる職業についているくせに、出会った時は既に先生だったくせに、私にそう呼ばれるのが苦痛で仕方ないらしい。

 私限定だというのも妙に面白かった。

「大人をからかうんじゃない」

「本当のことだよ」

「俺は嫌なんだ」

 見目の整った完璧な人形が傷つけられるのは、ね。


 バンドエイドの巻かれた指に視線を落として溜息をつくと、彼はボウルを取り上げてカウンターの上に置き、「リンゴはもう良いから」と言った。

 今日はもうきっと、刃物を持たせては貰えないだろう。

 明日の外出さえ許して貰えるか分からない。

 ……ああ、そうだ。
 外出といえば。

「明日、友達と会う約束だから。ご飯は適当に食べて」

「誰、何時から何時まで」

「志保と深森、十一時から五時。――多分、そのまま家に帰る。ここには戻らないよ」

 リンゴを剥かないのならば、ずっとキッチンにいる必要はない。

 幸い、時間は午後三時を過ぎたところだった。

 夕飯の準備をするのはまだ早いし、空調が利いているとはいえリビングの方が断然に暖かい。

 私はキッチンから出て、リビングへと戻った。

「……へえ」

 土曜日のこの時間帯、テレビはバラエティー番組の再放送を映している。

 彼は見もしないのにこうして、テレビをつけたままにする癖があった。

 沈黙に押し潰されそうになっている今、画面が騒がしいのが唯一の助けだ。

 私はソファに座って、テレビを見る振りをする。

 このくらいの演技、彼にはすぐに見破られてしまうだろうけれど。

「俺より友達の方が大事なんだ」

「そう言ったらどうする?」

 拗ねたような声音が耳の後ろで響き、彼の影が薄っすらとソファに落ちる。

 全く、良い大人が何をやっているんだ。

 私は体の前に回された手をわざと見ないようにして、テレビに集中した。

 お笑いが延々と繰り返されるのは面白くないが、何もないよりかはマシだった。

「キャンセルしろって言っても聞いてくれないんだろうな」

「ヤだよ。大丈夫、転ばないし怪我しないし、危ないことは絶対にしないから」

 恨み言めいた言葉に、私はテレビを見たまま答える。

 少しでも顎を斜め上にして、彼の顔を視界に入れてしまったら。
 それだけでもう、高く積み上げた何かがガラガラと音を立てて崩れていってしまうような気がした。

 暫くすると、彼の影がふっとなくなる。

「――来週は土日、両方空けておくように」

「りょーかい」

 そうして、土曜日はいつものように過ぎていった。



 白雪姫に出てくる王子は死体愛好家だったらしい。

 志保が冗談交じりに言ったそれを、私はすんなりと納得してしまった。

 なるほど、そうでなければ幾ら美少女でも死体なんて引き取らないか。

「志保、イメージ壊れるから止めようよ」

「良いじゃん、そう考えた方が面白いし」

 ファミレスにて私の向かいに座る二人は何というか、それぞれ対照的だ。

 志保をはつらつとした明るさを持った、ビタミンカラーが似合う女の子とするのなら、深森はそのままパステルのふわふわしたイメージとなる。

 それなら私は、と考えて止めた。
 モノクロにしかならない。

 頼んだ飲み物まで、彼女達の性格を表していると思う。

 志保はソーダを、深森はホットの紅茶を頼んでいる。
 志保は手持ち無沙汰なのかグラスの中の氷をストローでつつき、「でもさ」と続けた。

「王子が死体愛好家だとすると。その後、白雪姫は絶対殺されてるよね」

「……まぁ、死んでいるからこそ欲しがったんだものね?」

 私は二人の会話を聞きながら、黙々と一口大に切られたピザを摘んでいた。

 食べている為、あえて志保も私に意見を聞こうとはしない。
 深森は深森で、私の表情だけで気持ちを察したのだろう。

 二人の心遣いが嬉しかった。

「っていうことは、白雪姫も幸せにはなれないと。で、眠り姫の旦那は強姦魔」

「ねぇ、ここファミレス」

 深森が志保の肩を軽く叩いて窘める。

 確かに通路を挟んで向こうのテーブルに座る男二人組は、驚いたようにこちらを見ていた。
 男の一人とはばっちりと視線が合ってしまい、気まずそうに目を逸らしている。

 それほど私達が騒いでいたということか。

「まーまー。あ! 雪が降ってる!」

「ユキ?」

「違う違う、外。ほら」

 志保が指差した先を見てみると、目を凝らさないと分からない程度の粉雪がちらちらと舞っていた。

 ロマンティストの深森は窓に両手をついて、うっとりと眺めている。


 ――髪は黒檀のように黒く、肌は雪のように白く。
 唇は血のように赤い、そんな子供が欲しい。


 白雪姫の一節に、こんな言葉があった。
 子供が出来ない王妃が血に染まった雪、黒檀を見てそう願い、その通りの子供が生まれてくるんだったか。

 王妃の執念も素晴らしいとは思うが、実際にそんな女性がいたらいっそ、気味が悪い。
 唇は血を啜ったように赤く、肌は病人のように白いなんて。

 ああ、でも。
 それならば、死体愛好家の王子と気味の悪い白雪姫でお似合いなのかもしれないな。


 緩く口角を吊り上げ、三日月の形を作る。
 小さく笑みが零れたところで、私はバッグの中の携帯が鳴っていることに気付いた。

 メール着信用の短いメロディ、誂えたかのようにこれも白雪姫のものだ。

「メール?」

「うん。ちょっとごめんね」

 訝しげな顔つきの志保におざなりな返事を返して、私はバッグから携帯を取り出した。

 サブ画面は『翔』とだけ表示されている。
 メールは彼からだった。

『熱い飲み物を引っくり返したりとか、してないよな。お前のことだから凄く心配してるんだけど。……なんて、ゴメン。単に話したかっただけ』

 ふふ、と自然に笑みが漏れ出た。

 知らないのだろう。
 どうしてこんなにも、私は怪我をしてばかりなのか。

 彼は知らないだろう。
 怪我をした私を心配してくれる度に……見捨てないでいてくれることを、とても嬉しく思っていることなど。

 いつか彼も気付く時が来る。

 あまりにもおかしいと、感付く時がきっと来る。


 その時は言って見せよう、にこやかに笑って、胸すら張って堂々と言い切ろう。
 何故ならば、全ての元凶は彼に違いないのだから。

 それは二年前のこと。
 ちょうどこんな雪が降った日曜日の、日も昇っていない朝早くだった。

 彼はカメラを持って野原へ出かけ、たまたま散歩に来ていた私を見つけた。

 視界を覆い尽くす一面の雪に、一人の人間がぽつりと立っている。
 後に話を聞くと、彼にはその様子がまるで妖精のように見えていたらしい。

 彼からの告白の言葉を、私は今でも覚えている。

『ユキは俺が求める、完璧な被写体なんだ。だから傍にいて欲しい』


第一話――白雪姫【完】


[次へ#]

1/6ページ

[戻る]


あきゅろす。
[小説ナビ|小説大賞]
無料HPエムペ!